学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

流布本も読んでみる。(その5)─徳大寺公継の諫言

2023-03-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p56以下)

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 一院、弥〔いよいよ〕不安〔やすからず〕思召ければ、関東を可被亡由定めて、国々の兵〔つはもの〕共、事によせて被召ける。関東に志深き輩も力不及、召に随ひて伺候しけり。其比、関東の武士下総前司守縄も伺候してけり。平九郎判官胤義、大番の次〔つい〕で在京して候ければ、院、此由被聞召て、能登守秀安を被召て、「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と被仰ければ、秀安承て、雨ふり閑〔しづか〕なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固〔さしかため〕て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴し遊けり、夜更〔ふけ〕て後、秀安申けるは、「関東御奉公の御身にて、御在京は如何なる御所存にて候やらん。内々尋承り候へと御気色にて候」。胤義、「別〔べち〕の儀不候。当時、胤義が相具して候者(は)、故大将殿の切者〔きりもの〕、意法坊生観が娘にて候。故左衛門督殿に被思参せて、男子一人まうけ奉りしを、権大夫に無故被失て、『憂き者に朝夕姿を見する事よ』と、余に泣嘆候間、さて力不及、角〔かく〕て候なり」と申。秀安、「地体〔ぢたい〕義時は、院中の御気色よからぬ者にて候。如何にして義時打せ可給御計〔はかりこと〕は候べき」と申ければ、胤義、「一天の君の思召〔おぼしめし〕立せ給はんに、何条叶はぬ様の候はんぞ。日本国重代の侍共、仰を承りて、如何でか背き進〔まゐ〕らせ候べき。中にも兄にて候三浦の駿河守、きはめて鳴呼〔をこ〕の者にて候へば、『日本国の惣追捕使にも被成ん』と仰候はゞ、よも辞申候はじ。さ候ば、胤義も内々申遣し候はん」とて帰りにけり。秀安、賀陽院〔かやのゐん〕殿の御所に参りて、「胤義、角こそ申候つれ」と申ければ、一院、ゑつぼに入せ給て、胤義を召て御尋有。秀安が申つるに少も不違、同じ言葉に申ければ、今は角〔かく〕と被思召て、鳥羽の城南寺の流鏑馬汰〔そろ〕へと披露して、近国の兵共を被召けり。大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬、十四箇国、是等の兵〔つはもの〕参りけり。内蔵権頭清範、承て著到を付。宗徒の兵一千七百人とぞ註したる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29c0c7bbf10b299d004770ef6c020b2a

慈光寺本では、藤原秀康と三浦胤義の密談に際して、胤義の空想的な義時追討計画が語られますが、流布本にはそんな変な記述はありません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

続きです。(p57以下)

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 一院、弥〔いよいよ〕御心武く成せ給て、「先〔まづ〕、巴〔ともゑ〕の大将を打ばや」と被仰ければ、公卿・殿上人閉口して物も不被申。徳大寺の大臣被申けるは、「大将うたれて候はゞ、思召立せ給ふ御大事軽く、若〔もし〕打れ候はずは御大事の重く成せ可給にて候。させる弓矢取者にても候はず。子細候はゞ、閑に御計ひ候へかしと(覚候)。大形〔おほかた〕、今度の御謀叛、於公継は、可然〔しかるべし〕とも不覚候〔おぼえさうらはず〕。其故は、故法皇の御時、木曽義仲、勅命を背て振舞けるを、頼朝に被仰付〔おほせつけらるれ〕ば、可被亡を、壱岐判官知康と申いくぢなしが勧めに付せ給ひて、院中に兵を被召、合戦候しかば、浅猿き事共出来りき。大形、日本国を蘆原の国と申は、葦の葉に似たる故にて候。其袋は東国に相当り、武士本より多くして、随へさせ給はん事不定の次第に候。御方の兵、千が一にも難及候。能々〔よくよく〕御思惟可有候はん」と被申ければ、一院、以外〔もつてのほか〕の御気色なりけれ共、後に定て思召被合けんとぞ覚し。巴の大将忽〔たちま〕ちに被失べかりしを、徳大寺の被申候によりて、思召被宥て、「さらば召籠よ」とて被召ける。大将、賀陽院殿へ被参ける(が)主税頭長衡を使にて、伊賀判官の許へ仰せられけるは、「賀陽院殿へ被召程に参候。城南寺の流鏑馬汰へと聞へしが、其儀無て、寺の大衆可被静とも聞ゆ。如何様にも世中穏かなるべし共不覚候。御辺〔ごへん〕、被召共無左右〔さうなく〕参り給ふべからず。子細を重て被仰候はんずらん」とて、賀陽院殿へ被参たれば、小舅の二位法印尊長、大将の直衣の袖を引て、馬場殿に奉押籠。子息の新中納言、同く被召籠ぬ。
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「巴の大将」とは西園寺公経(1171-1244)のことです。
後鳥羽は最初に親幕派の公経を殺そうと言い出したので、公卿・殿上人は驚きますが、後鳥羽が怖いので皆押し黙っていると、徳大寺公継(1175-1227)が、「巴の大将をお討ちになったら、御決意なさった討幕の大事も(個人的な感情と受け取られ)軽いものになってしまいます。討たれなければ(そのような誤解を招かず)大事が重いものと扱われるでしょう。巴の大将は別に弓矢を取るものではないのです。もし、どうしてもお討ちになりたい事情があるのであれば、公然とではなく、秘密にそうされるべきです。そもそも、今度の「御謀叛」、公継は納得はできかねます。何故なら、今は亡き後白河法皇の時代、木曽義仲が勅命に背いて振舞った際、頼朝にご命令になれば退治することができたのに、壱岐判官・平知康のような意気地なしの意見に従って御所に兵を召し、合戦となったために、御所が焼かれるような浅ましい事態となってしまいました。(今度もそのような事態になりかねません。)大体、日本国を「蘆原の国」と申すのは、葦の葉に似た形をしているからで、その袋(一番幅の広い部分?)は東国に当り、武士は非常に多く、ご命令に従わせられるかははっきりしません。お味方の兵を集めても、その数は敵の千に対して一にも及ばないでしょう。よくよくお考え直してください」と大胆な諫言をします。
この話は慈光寺本や前田家本には出てきませんが、仮に事実だとしても、公継が後鳥羽に対して「御謀叛」という表現を使ったはずはなく、これは流布本作者の思想的立場を示す表現ですね。
後鳥羽は立腹しますが、「後に定て思召被合けんとぞ覚し」(きっと後になって思い当たられたことでしょう)というのも、流布本作者の予想です。
結局、公経は殺されることはなく、高陽院(賀陽院)に参上すると、息子の実氏とともに二位法印尊長によって馬場殿に監禁されるだけで済みます。
また、後鳥羽の動向を怪しく感じた公経は、高陽院に行く前に家司の三善長衡を伊賀光季の許に派遣して、光季に警告をする訳ですね。

徳大寺公継(1175-1227)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B6%99

なお、慈光寺本では、伊賀光季追討に関する長大なエピソードの後、公経・実氏父子が監禁された事実だけが、

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 去程ニ、右大将公経・子息中納言実氏召籠ラセサセ給フ。其謂〔そのいはれ〕ハ、関東ニ心カハス御疑トゾ承ル。朝〔あした〕ニ恩ヲ蒙、夕〔ゆふべ〕ニ死ヲ給ケン唐人ノ様也。
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という具合いに簡単に記されます。(岩波新大系、p323)

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流布本も読んでみる。(その4)─仁科盛遠エピソードと亀菊エピソード

2023-03-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p53以下)

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 廷〔さて〕も鎌倉殿に誰をか可奉成〔なしたてまつるべき〕と云ふに、都には冷泉宮・六条宮、此間にて可御座すといへば、京・田舎に御兄弟の御門にて双び給はん事、如何が有べからんとて留られぬ。其比、一条二位入道と申は、故右大将頼朝の妹聟、世の覚、時のきら、肩を双る人もなし。其御娘、巴の大将の御台所、(其)の御娘、九条禅定殿の北政所にて御座〔おはしま〕す。其御腹の三男の若君、二歳にならせ給ふ。是ぞ母方の源氏なればとて、所縁〔ゆか〕りの草の馴敷〔なつかし〕さにや、関東の将軍に備り給ふ。即〔すなはち〕鎌倉殿とぞ申ける。
 去程に、関東より御迎に参〔まゐる〕輩、三浦太郎兵衛尉、同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐原次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介、以上十二人ぞ参りける。先陣、三浦太郎兵衛尉友村、後陣、千葉介胤綱とぞ聞し。忽に一の人の家を出て、武士の大将となり給ぞ珍敷〔めずらし〕き。
 角〔かく〕て承久元年六月廿六日、都を立せ給ひて御下向あり。路次〔ろし〕の間、旅宿の有様珍敷、我劣らじとぞ色めきける。相模国国村に五日御逗留、七月十九日、鎌倉へ下著あり。又、近く御迎に参る輩、嶋津左衛門尉、伊藤左衛門尉、小笠原六郎、是等を始として十人の随兵也。時の花、何れの世に劣べし共見へ給はず。
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「一条二位入道」は一条能保(1147-97)で、その娘が「巴の大将」西園寺公経(1171-1244)と結婚し、二人の間に生まれた娘(倫子)が「九条禅定殿」九条道家(1193-1252)と結婚して、「三男の若君、二歳にならせ給ふ」頼経(幼名・三寅、1218-56)を産んだ、という関係ですね。
三寅の関東下向に随行した武士の交名は『吾妻鏡』七月十九日条に出ていて、これと流布本を比較すると若干の異同がありますが、細かい話になるので省略します。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-07.htm

さて、続きです。(p54以下)

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 其比、鎌倉に右京権大夫兼陸奥守平義時と云ふ人あり。上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然〔しかりといへども〕、不計〔はからざる〕に勅命に背き朝敵となる。其起〔おこり〕を尋れば、信濃国の住人、仁科二郎平盛遠と云ふ男あり。十四・十五の子ども、未〔いまだ〕元服もせさせず、宿願有に依て、熊野へ参りける。折節、一院、御熊野詣で有けるに、道にて参合ぬるに、「誰ぞ」と御尋有しかば、「然々〔しかじか〕」と申。「清気なる童なれば、召仕れん」とて、西面にぞ被成ける。子共が召るゝ間、面目の思をなして、盛遠もゝう参りけり。権大夫、此事伝承りて、「関東御恩の者、被免〔ゆるされ〕も無て、院中の奉公不心得」とて、関東御恩二箇所、没収〔もつしゆ〕せられぬ。盛遠、嘆き申間、院中に此事聞召〔きこしめ〕されて、盛遠が所領を返し被付べき由、院宣を被下〔くださる〕といへ共、権大夫更に不奉用。
 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1d5f99d668d0f60dca6f9724b11de8e

北条義時は実朝暗殺場面で「前駆廿人」の十九番目に「右京権大夫義時」と名前だけ出て来て(p50)、次いで阿野時元誅殺を指示した「権大夫」(p53)として登場済ですが、きちんとした紹介はここが初めてです。
慈光寺本では義時の方が後鳥羽院に先行していますが、流布本では冒頭で後鳥羽院が登場し、それから義時の本格的登場までがずいぶん長いですね。
さて、慈光寺本では後鳥羽院と義時の対立の直接の原因として亀菊エピソードのみが挙げられていますが、流布本では亀菊エピソードの前に仁科盛遠エピソードが出て来て、この二つのエピソードの分量はほぼ同じです。
仁科盛遠は『朝日日本歴史人物事典』での本郷和人氏の解説によれば、

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生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。盛朝とする史料もある。父は信濃国住人仁科中方。後鳥羽上皇は熊野参詣の途次,盛遠の2児を召して北面においた。その縁で盛遠も院の北面武士となった。しかし院への臣従が鎌倉幕府に無断でなされたために,所領2カ所を没収された。この例でわかるように,後鳥羽上皇の熊野参詣には,地方武士との接触をはかる狙いがあったとおもわれる。承久の乱(1221)では京方につき,北陸道に派遣される。越中,加賀国境礪波山に布陣するが,北条朝時率いる幕府軍に敗れる。こののちの動静は不明であるが,近江国勢多で戦死したともいう。

https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%9B%9B%E9%81%A0-591687

という人物ですが、流布本等、『承久記』の記事以外にはたいした史料はなさそうです。
私も少しだけ調べてみたのですが、長野県の郷土史関係の事典や書籍類には多少の記述があるものの、結局は『承久記』の焼き直しみたいな記述が多いですね。
さて、慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較は既に行っていますが、慈光寺本では義時は野心満々の極悪人として描かれているのに対し、流布本では「権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然、不計に勅命に背き朝敵となる」という立派な人物として描かれています。
また、慈光寺本での亀菊エピソードの分量は岩波新日本古典文学大系本で16行、約530字ほどですが、流布本では『新訂承久記』で8行、230字ほどで、流布本に比べると慈光寺本は本当に詳細ですね。
そして、慈光寺本では、長江荘は「右大将家ヨリ大夫殿【義時】ノ給テマシマス所」という設定なので、義時は「長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」とのことで、自分自身が頼朝からの御恩として得た所領だから絶対拒否、という態度なのに対し、流布本では義時はあくまで頼朝が「勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無」という幕府側の原理原則論を主張しているだけです。
即ち、慈光寺本では義時自身の私利私欲を主張しているのに、流布本では御家人一般の利益を代表して主張しているだけですね。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1d5f99d668d0f60dca6f9724b11de8e

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流布本も読んでみる。(その3)─「官打」と「関東調伏の堂」

2023-03-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本では、実朝暗殺は、

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舎弟千万若子〔わかご〕、果報ヤマサリ玉ヒケン、十三ニテ元服有テ、実朝トゾ名ノリ給ケル。次第ノ昇進不滞〔とどこほらず〕、四位、三位、左近ノ中将ヲヘテ、程ナク右大臣ニ成玉フ。徳ヲ四海ニ施シ、栄ヲ七道耀〔かかやか〕シ、去〔さんぬる〕建保七年<己卯>正月廿日、右大臣ノ拝賀ニ勅使下向有テ、鎌倉ノ若宮ニヲキ拝賀申サレケル時、舎兄〔しやきやう〕頼家ノ子息若宮別当悪禅師〔あくぜんじ〕ノ手ニカゝリ、アヘナク被誅〔ちうせられ〕給ケリ。凡〔およそ〕三界ノ果報ハ風前ノ灯、一期〔いちご〕ノ運命ハ春ノ夜ノ夢也。日影ヲマタヌ朝顔、水ニ宿レル草葉ノ露、蜉蝣〔かげらふ〕ノ体ニ不異〔ことならず〕。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a1031fce50f664d8ae8a9c21359b332

で済んでしまうので、「三浦平六左衛門尉子息、若宮の児」である駒若丸(三浦光村)も登場する余地がありません。
ま、私見のように藤原能茂が慈光寺本の作者で、その娘聟の三浦光村が読者であると考えるなら、光村は実朝暗殺の事情について熟知していますから、書く必要もないことになりますが。
さて、流布本では、実朝暗殺を目撃した公卿・殿上人が帰京する際、西園寺実氏が詠んだ和歌エピソードが続きます。(p52)

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 廷〔さて〕も都より下り給ひし公卿・殿上人、不計〔はからざる〕に眼前の無常に、目を驚し、空しく帰り上り給ふ。駿河国浮嶋原を通給ふに、霞める空、長閑〔のどか〕なりけるに、翅〔つばさ〕も見へぬ雁の音づれ過しを、左衛門督実氏卿、かく思ひつゞけ給ひける。
   春の雁の人に別れぬならひだに帰る空には啼〔なき〕てこそゆけ
聴人、袖を(ぞ)絞りける。各〔おのおの〕都を出し時は、伝聞し富士の高峯の烟〔けぶり〕よりして、珍敷〔めずらしき〕名所共を見ん事よと、思続けて被下しに、思はざる無常に興を失ひ、なげきの色を含みて、被上けるぞ哀れなる。
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この和歌エピソードについては、渡邊裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」に即して検討済みです。

渡邊裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/440dee9893f138a3d2b407fc3e466abe

さて、続きです。(p53)

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 其比、駿河国に、河野次郎冠者と云ふ人有けり。故右大将の舎弟、阿野の禅師の次男也。手次ぎ能〔よき〕源氏なれば、是こそ鎌倉殿にも成給はんずらめと咍〔ののし〕りあへり。権大夫、此事伝聞て、「何条去〔さる〕事の可有」とて討手を遣はし、伊豆・駿河の勢を以て被攻けり。身に誤る事なけれ共、陳ずるに及ばねば、散々に戦ひて自害して失ぬ。
 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を差遣し、被攻しかば、是も難遁〔のがれがたし〕とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は眼前なり。故大臣〔おとど〕殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名〔なづけらる〕。されば大臣殿、無程被打しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊〔こぼされ〕にけり。
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阿野時元(全成次男、母は時政娘・阿波局)の誅殺は実朝暗殺の翌月の事件ですが、流布本ではこれを命じたのが「権大夫」(北条義時)であるのに対し、『吾妻鏡』承久元年(1219)二月十九日条では「依禪定二品之仰。右京兆被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河國。是爲誅戮阿野冠者也」となっていて、政子の命を「右京兆」義時が執行した、としていますね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-02a.htm

また、後鳥羽院が大内守護・源頼茂を討ったのは同年七月十三日で、『吾妻鏡』には七月二十五日条に関連記事があります。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-07.htm

流布本では「院の関東を亡さんと被思召ける事は眼前なり」とあり、また、「最勝四天王院」は「関東調伏の堂」ですから、後鳥羽院が「関東」を滅ぼそうと意図していたことは、流布本の作者にとっては自明だったことになります。
そして、ここでいう「関東」は、北条政子や義時等の個人ではなく、組織としての幕府であることは明らかなので、後鳥羽院の意図について、従来は倒幕説が当たり前だった訳ですね。
この点、近時の義時追討説にとっては、流布本の実朝「官打」(不相応に高い官職を与えて、かえって不幸な目にあわせること)や「最勝四天王院」が「関東調伏の堂」であったことは不都合な話なので、様々な理由を付して否定する人が多いですね。
ま、倒幕説であっても、「官打」や「関東調伏の堂」云々は流布本作者の牽強付会だと位置づけることは十分可能だと思いますが。
ちなみに、渡邊裕美子氏には『最勝四天王院障子和歌全釈』(風間書房、2007)という大著がありますね。
国文学者で最勝四天王院の建立の目的が「関東調伏」だと考える人は殆どいないのではないかと思います。

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『歌合・定数歌全釈叢書10 最勝四天王院障子和歌全釈』
後鳥羽院の御願寺の名所障子のため、院・定家をはじめ新古今時代の精鋭歌人10人が競作した460首の全釈。成立過程・和歌表現・享受について詳細な解説を付す。

https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=88

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