野口氏は「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、初出2005)において、「紀内殿・千葉次郎」について七ページ弱、「佐野左衛門政景・二田四郎」について一ページ半を費やして考証されており、「紀内殿・千葉次郎」と「佐野左衛門政景」の説明は一応説得的です。
しかし、「二田四郎」の場合、
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もう一人の「二田四郎」は、当時の諸陣編成が一族ないし国単位で行われていたことを考えると、天野氏同様、伊豆を本貫とする御家人をまず候補にあげるべきであろう。伊豆にもニッタ=仁田氏があるからである。伊豆の仁田氏といえば建仁三年(一二〇三)の比企氏の乱に関係して討たれた仁田四郎忠常が有名であるが、この事件で仁田氏の勢力は失墜したものと見られる。したがって、慈光寺本に見える仁田四郎が伊豆御家人であるとしても、とても大将軍の職務を担当するような存在ではない。四陣を構成する武士は佐野(天野)左衛門政景と仁田四郎しかあげられていないから、仁田四郎は指揮官として考える必要はあるまい。なお、『吾妻鏡』承久三年六月十八日条に収める「六月十四日宇治合戦討敵人々」の交名に、天野平内次郎と並んで仁田次郎太郎の名が見え、伊豆御家人仁田氏の従軍だけは明らかなことである。
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とされていて(p175)、「二田四郎」を「大将軍の職務を担当する」「指揮官」から外されており、なかなか大胆な議論ですね。
ただ、この論理では、慈光寺本では五陣を構成する武士も「紀内殿・千葉次郎」だけなので、「紀内殿」は「指揮官」だが、「千葉次郎」はそうではない、という奇妙な話にもなりそうです。
そして、このような奇妙な帰結となるのは、もともと北条義時が主導する「軍ノ僉議」に列挙された鎌倉勢の全体像が極めて奇妙で、バランスが悪いからですね。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3
「軍ノ僉議」の人名リストを整理すると、
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※義時が三つの関を「預ケ玉フ」た人
海道清見ガ関…【湯山小子郎】
山道三坂関…【三坂三郎】
北陸道塩山・黒坂…【山城大郎】
Ⅰ、東海道 七万騎
(1)「海道ノ先陣」 相模守時房
「此手ニ可付人数ニハ」
城入道・森入道・【石戸入道】・本間左衛門・伊藤左衛門・【加持井】・〔丹内〕・【野路八郎】・
河原五郎・【強田左近】・〔大河殿〕・大見左衛門・宇佐美左衛門・〔内田五郎〕・久下三郎・
勾当時盛
「ヲ始トシテ」其勢二万騎
(2)「二陣」 武蔵守泰時
「此手ニ可付人々ニハ」
関左衛門・〔新井田殿〕・【森五郎】・小山左衛門・新左衛門・善左衛門・宇津宮入道・中間五郎・
【藤内左衛門】・安藤兵衛・【高橋与一】・【印田右近】・【同刑部】・阿夫刑部・【大森弥二郎
兄弟】・〔保威左衛門〕・【峰川殿】・讃岐右衛門・【□<欠字>五郎】・〔駄手入道〕・〔同平次〕・
〔金子平次〕・伊佐三郎・【固共六郎】・丹党・小玉党・【井野田党】・金子党・【棤二郎】・
【有田党】・【弥二郎兵衛】・駿河二郎康村・武蔵太郎時氏
「ヲ始トシテ」其勢可為二万騎
(3)「三陣」 足利殿
(4)「四陣」 〔佐野左衛門政景〕・【二田四郎】
(5)「五陣」 紀内殿・千葉次郎
Ⅱ、東山道 五万騎
「山道大将軍」 武田・小笠原
「此手ニ可付人々ニハ」
南部太郎・秋山四郎・【三坂三郎】・二宮殿・【智度六郎】・武田六郎
Ⅲ、北陸道 七万騎
「北陸道ノ大将軍」 式部丞朝時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f0771e5f272c883b9d8e016f52826d14
となりますが、【 】は岩波新大系で久保田淳氏が「未詳」とされ、〔 〕は一応の説明はあるものの確定できない人です。
このリストを見ると、東海道の第一陣・第二陣のみ異様に詳しく、第一陣は「此手ニ可付人数ニハ」として十六名が列挙され、第二陣は「此手ニ可付人々ニハ」として(「兄弟」「党」があるので)三十三項目が列挙されています。
しかし、第三陣以下は「此手ニ可付人数ニハ」・「此手ニ可付人々ニハ」は存在しません。
東山道については「山道大将軍」が「武田・小笠原」、「此手ニ可付人々ニハ」六名で相当簡略ですが、北陸道に至っては「北陸道ノ大将軍」として「式部丞朝時」の名前があるのみです。
このように、慈光寺本での鎌倉方の軍勢は
東海道:「大将軍」に相当する人 七名
「此手ニ可付人数ニハ」「此手ニ可付人々ニハ」 四十九(項目)
東山道:「大将軍」 二名
「此手ニ可付人々ニハ」 六名
北陸道:「大将軍」 一名
となっており、人名(項目)だけみると、
東海道:東山道:北陸道=56:8:1
という極めていびつな割合となっています。
特に慈光寺本では東海道と北陸道が等しく七万騎なので、北陸道の扱いの軽さが際立っていますね。
いったい、慈光寺本作者のバランス感覚はどうなっているのか。
東海道の第一陣と第二陣を書いたら、後は面倒くさくなって適当に書き流したのか。
まあ、慈光寺本作者は妙に数字にこだわる数字マニア的なところがありながら、「国王ノ兵乱十二度」としながら実際には九度の兵乱しか挙げず、「十二ノ木戸」と書きながら十箇所しか挙げないような人なので、元々きちんと調べていなかった可能性は極めて高く、調べたけれども書いている途中で面倒くさくなって流した可能性も皆無ではないですね。
「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed
さて、野口氏は「四陣を構成する武士は佐野(天野)左衛門政景と仁田四郎しかあげられていないから、仁田四郎は指揮官として考える必要はあるまい」とされますが、これは四陣に「此手ニ可付人数ニハ」「此手ニ可付人々ニハ」という文言がないので、慈光寺本の解釈としては誤りです。
慈光寺本では、「二田四郎」は明らかに「大将軍」クラスとして位置づけられていますね。
しかし、「二田四郎」の場合、
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もう一人の「二田四郎」は、当時の諸陣編成が一族ないし国単位で行われていたことを考えると、天野氏同様、伊豆を本貫とする御家人をまず候補にあげるべきであろう。伊豆にもニッタ=仁田氏があるからである。伊豆の仁田氏といえば建仁三年(一二〇三)の比企氏の乱に関係して討たれた仁田四郎忠常が有名であるが、この事件で仁田氏の勢力は失墜したものと見られる。したがって、慈光寺本に見える仁田四郎が伊豆御家人であるとしても、とても大将軍の職務を担当するような存在ではない。四陣を構成する武士は佐野(天野)左衛門政景と仁田四郎しかあげられていないから、仁田四郎は指揮官として考える必要はあるまい。なお、『吾妻鏡』承久三年六月十八日条に収める「六月十四日宇治合戦討敵人々」の交名に、天野平内次郎と並んで仁田次郎太郎の名が見え、伊豆御家人仁田氏の従軍だけは明らかなことである。
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とされていて(p175)、「二田四郎」を「大将軍の職務を担当する」「指揮官」から外されており、なかなか大胆な議論ですね。
ただ、この論理では、慈光寺本では五陣を構成する武士も「紀内殿・千葉次郎」だけなので、「紀内殿」は「指揮官」だが、「千葉次郎」はそうではない、という奇妙な話にもなりそうです。
そして、このような奇妙な帰結となるのは、もともと北条義時が主導する「軍ノ僉議」に列挙された鎌倉勢の全体像が極めて奇妙で、バランスが悪いからですね。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3
「軍ノ僉議」の人名リストを整理すると、
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※義時が三つの関を「預ケ玉フ」た人
海道清見ガ関…【湯山小子郎】
山道三坂関…【三坂三郎】
北陸道塩山・黒坂…【山城大郎】
Ⅰ、東海道 七万騎
(1)「海道ノ先陣」 相模守時房
「此手ニ可付人数ニハ」
城入道・森入道・【石戸入道】・本間左衛門・伊藤左衛門・【加持井】・〔丹内〕・【野路八郎】・
河原五郎・【強田左近】・〔大河殿〕・大見左衛門・宇佐美左衛門・〔内田五郎〕・久下三郎・
勾当時盛
「ヲ始トシテ」其勢二万騎
(2)「二陣」 武蔵守泰時
「此手ニ可付人々ニハ」
関左衛門・〔新井田殿〕・【森五郎】・小山左衛門・新左衛門・善左衛門・宇津宮入道・中間五郎・
【藤内左衛門】・安藤兵衛・【高橋与一】・【印田右近】・【同刑部】・阿夫刑部・【大森弥二郎
兄弟】・〔保威左衛門〕・【峰川殿】・讃岐右衛門・【□<欠字>五郎】・〔駄手入道〕・〔同平次〕・
〔金子平次〕・伊佐三郎・【固共六郎】・丹党・小玉党・【井野田党】・金子党・【棤二郎】・
【有田党】・【弥二郎兵衛】・駿河二郎康村・武蔵太郎時氏
「ヲ始トシテ」其勢可為二万騎
(3)「三陣」 足利殿
(4)「四陣」 〔佐野左衛門政景〕・【二田四郎】
(5)「五陣」 紀内殿・千葉次郎
Ⅱ、東山道 五万騎
「山道大将軍」 武田・小笠原
「此手ニ可付人々ニハ」
南部太郎・秋山四郎・【三坂三郎】・二宮殿・【智度六郎】・武田六郎
Ⅲ、北陸道 七万騎
「北陸道ノ大将軍」 式部丞朝時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f0771e5f272c883b9d8e016f52826d14
となりますが、【 】は岩波新大系で久保田淳氏が「未詳」とされ、〔 〕は一応の説明はあるものの確定できない人です。
このリストを見ると、東海道の第一陣・第二陣のみ異様に詳しく、第一陣は「此手ニ可付人数ニハ」として十六名が列挙され、第二陣は「此手ニ可付人々ニハ」として(「兄弟」「党」があるので)三十三項目が列挙されています。
しかし、第三陣以下は「此手ニ可付人数ニハ」・「此手ニ可付人々ニハ」は存在しません。
東山道については「山道大将軍」が「武田・小笠原」、「此手ニ可付人々ニハ」六名で相当簡略ですが、北陸道に至っては「北陸道ノ大将軍」として「式部丞朝時」の名前があるのみです。
このように、慈光寺本での鎌倉方の軍勢は
東海道:「大将軍」に相当する人 七名
「此手ニ可付人数ニハ」「此手ニ可付人々ニハ」 四十九(項目)
東山道:「大将軍」 二名
「此手ニ可付人々ニハ」 六名
北陸道:「大将軍」 一名
となっており、人名(項目)だけみると、
東海道:東山道:北陸道=56:8:1
という極めていびつな割合となっています。
特に慈光寺本では東海道と北陸道が等しく七万騎なので、北陸道の扱いの軽さが際立っていますね。
いったい、慈光寺本作者のバランス感覚はどうなっているのか。
東海道の第一陣と第二陣を書いたら、後は面倒くさくなって適当に書き流したのか。
まあ、慈光寺本作者は妙に数字にこだわる数字マニア的なところがありながら、「国王ノ兵乱十二度」としながら実際には九度の兵乱しか挙げず、「十二ノ木戸」と書きながら十箇所しか挙げないような人なので、元々きちんと調べていなかった可能性は極めて高く、調べたけれども書いている途中で面倒くさくなって流した可能性も皆無ではないですね。
「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed
さて、野口氏は「四陣を構成する武士は佐野(天野)左衛門政景と仁田四郎しかあげられていないから、仁田四郎は指揮官として考える必要はあるまい」とされますが、これは四陣に「此手ニ可付人数ニハ」「此手ニ可付人々ニハ」という文言がないので、慈光寺本の解釈としては誤りです。
慈光寺本では、「二田四郎」は明らかに「大将軍」クラスとして位置づけられていますね。