前回投稿では、以前、市河氏について少し調べたときの曖昧な記憶で、「市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます」などと書いてしまいましたが、長野県立歴史館サイトには、
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市河氏は、甲斐国(山梨県)の出といわれる。鎌倉時代中期には信濃国に進出し、地元の中野氏と婚姻関係を結び、同氏の所領である高井郡志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)を自らのものとしていった。
https://www.npmh.net/ichikawa/
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市河氏は、甲斐国(山梨県)の出といわれる。鎌倉時代中期には信濃国に進出し、地元の中野氏と婚姻関係を結び、同氏の所領である高井郡志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)を自らのものとしていった。
https://www.npmh.net/ichikawa/
とあり、承久の乱の時点で信濃国に市河氏の拠点があったとはいえないようですね。
この点、もう少し調べたいと思いますが、いずれにせよ、市河六郎は北条朝時率いる北陸道軍の先遣隊的な位置づけであったこと、そして朝時と連絡を取り合って行動していたことは間違いないと思います。
五月三十日付の書状を持って鎌倉を目指した市河六郎の使者も、途中で進軍中の朝時に出会い、朝時宛ての書状を渡すとともに、最前線の状況を朝時に報告した後、改めて鎌倉に向かったのではないですかね。
市河六郎が義時宛てに書状を送ったということは、別に市河が朝時をないがしろにして勝手に行動していたことを意味する訳ではないと私は考えます。
さて、市河六郎に関する長村氏の見解には他にも疑問がありますが、長村説をもう少し見てから改めて論じたいと思います。
ということで、続きです。(p244以下)
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また、ここで予想された義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動は、実際に『吾妻鏡』から多くの事例を挙げることができる。
① 五月二十五日条:安東忠家が「此間有背右京兆〔義時〕之命事、籠居当国。聞武州〔泰時〕上洛、廻駕
来加」。
② 五月二十六日条:春日貞幸が「信濃国来会于此所。可相具武田〔信光〕・小笠原〔長清〕之旨、雖有其
命、称有契約、属武州云々」。
③ 六月十二日条:幸島行時が「相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処、運志於武州年尚、於所々令傷
死之条、称日者本懐、離一門衆、先立自杜山馳付野路駅、加武州之陣」。
④ 六月十三日条:足利義氏と三浦泰村が「不相触武州、向宇治橋辺始合戦。(注、足利義氏が)相待暁天、
可遂合戦由存之処、壮士等進先登之余、已始矢合戦」。
これらの逸脱行動に対して義時や各司令官が処罰を下した形跡はない。それどころか『吾妻鏡』は、①②③の記事につき、各人と泰時との主従関係を称賛するかのごとく叙述する。確かに彼らの主従関係は他に比して強固だったかもしれないが、むしろ各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得にあり、泰時が最も早く進軍し京近郊では主戦場たる宇治を攻めることとなったために、泰時軍に属したというのが実態と考えられる。④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ、軍功を挙げんと逸る武士の思考と行動が窺えるのである。
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うーむ。
私には長村氏の言われることが全く理解できないのですが、各事例をひとつずつ確認してみたいと思います。
まず、①については、引用部分だけだと事情が分かりにくいので前後を含めて原文を見ると、
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今日及黄昏。武州至駿河国。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居当国。聞武州上洛。廻駕来加。武州云。客者勘発人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無為時事也。為棄命於軍旅。進発上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈従云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
という話です。
正確を期すために『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、
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今日の夕方になって、泰時は駿河国に到着した。その時、安東兵衛尉忠家はこのところ義時の命令に背く事があって駿河国で謹慎していたが、泰時の上洛を聞くと、馬に乗ってやってきて(軍勢に)加わった。泰時が言った。「お前は譴責を受けている者である。同道するのはよくない」。忠家が言った。「手順を踏むのは平穏な時のことです。命を戦いで捨てるために出発した以上、鎌倉に申されずとも何事かありましょうか」。とうとう付き従ったという。
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となりますが、確かに形式的には安東忠家は義時の謹慎命令に反していますね。
しかし、義時も承久の乱のような大事件が勃発することを想定した上で、そのような場合であっても絶対に謹慎しておれ、と命じたはずもありません。
即ち、義時の謹慎命令はあくまで平時を前提としており、戦時となった以上、安東忠家の参加は歓迎すべき出来事です。
平時と戦時は違うのだという安東忠家の論理は理にかなったものであり、それを泰時が認めただけの話であって、これは別に「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」ではないですね。
まあ、義時の承認を得てから安東忠家の参加を認めれば形式的にも謹慎命令違反とならず、手続きとしては完璧でしょうが、そんなことは言ってられないのが戦争ですね。