学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その63)─「北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『吾妻鏡』では、北陸道軍の合戦については六月八日条にごく僅かな記述があるだけです。
慈光寺本には記事が一切存在せず、比較的記事の分量が多い流布本でも、

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(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛し懸んと用意したり。人々、「如何が可為」とて、各区の議を申ける所に、式部丞の謀に、浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵の寄るは」とて、石弓の有限り外し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄の若者共、汀に添て、馬強なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
 (又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b

という程度なので、市河文書の承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は本当に貴重な史料ですね。
地名・人名等、流布本とも相当に重なります。
さて、前回引用した部分の①~④には傍線があります。
即ち、

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①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし
 申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。

②いかにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
 しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑち
 せん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、

③うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす。

④又おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたき
 をもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、
-------

の部分に傍線があります。
そして、続きです。(p244以下)

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 傍線①から、市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたことがわかる。そして傍線②に見るごとく、越中・加賀・能登・越前の中小規模の在地領主は日和見状態であり、初期段階の軍事的制圧が雪達磨式に彼等の動向を決することを、義時は理解していた。そのためには傍線③のごとく、市河らの上洛を止めて、京方たることの明確な者を確実に討たせる必要があった。しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
 なお、義時が市河らの上洛を止めようとしたことにつき、浅香年木氏は、東国御家人に対する北陸道の地元群小領主層の抵抗が根強かったことから、この機に彼らを掃討せんとしたと解する。しかし、六月初頭段階の鎌倉では乱の勝敗の行方自体が不透明だったに違いない。義時は、長期的政策よりも、越中以下の者が「しかしながら御かたへこそまい」ることによる、乱の勝利そのものを意図していたと考えるべきである。
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うーむ。
いくつか疑問が生じるのですが、最大の疑問は長村氏が市河六郎の行動を「司令官の指揮からの逸脱」の代表例とされている点です。
「市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたこと」は間違いないでしょうが、果たして市河六郎は北条朝時の指揮に反して勝手に「軍事行動を開始」したのか。
市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます。
そして、いわば自動的に北陸道軍の先遣隊のような形になったものと思われますが、そうした立場に置かれた市河は、別に勝手に「軍事行動を開始」したのではなく、北条朝時と連絡を取った上で「軍事行動を開始」したと考える方が自然ですね。
五月三十日の子刻に市河が発した書状が六月六日の申刻に鎌倉に到達するくらいの連絡網が出来ているのですから、市河が蒲原・宮崎を攻撃する前に、進軍中の北条朝時に「蒲原・宮崎を攻撃していいですか」と連絡して、「いいよ」という返事をもらうまでさほど時間がかかったとも思えません。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その62)─「司令官の指揮からの逸脱」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に、

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『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。
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とあるので、長村氏は野口実・坂井孝一氏と同じく、武田信光と小笠原長清の密談エピソードに加え、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとの話も史実とされる立場のようですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f8b69695f82ad48a840c818343941ca
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6de74a2adca331d2c2d08e1e3659a7
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その42)─「当時の武士の天皇観をよく示したエピソード」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abff121a8a617f1805adb1ee94c7d761

従って、長村氏はメルクマールの三番目、

 (3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

をクリアーされていますが、興味深いのは、長村氏が武田信光の「二位殿ノ御方人ト思食セ」という発言と「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ」云々の発言を対比させておられる点です。
これは大津雄一氏が「慈光寺本『承久記』は嘆かない」(『挑発する軍記』所収、勉誠出版、2020)で、

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 山道の大将軍であった武田信光と小笠原長清は尾張川に至る。川を前にして、小笠原が武田に、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」と尋ねる。武田は、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ、小笠原殿」と答える。そこへ、北条時房から、両人が渡したならば美濃以下六か国を与えようとの書状が届くと、それならば渡せと川を渡す。まことに功利的である。しかも、鎌倉で北条政子が三代将軍の恩を訴え、「京方ニ付テ鎌倉ヲ責ン共、鎌倉方ニ付テ京方ヲ責ン共、有ノマゝニ被仰ヨ、殿原」と武士たちに迫ったさい、真っ先に進み出て、「昔ヨリ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデ守ラント契リ申シテ候ケレバ、今更、誰カハ変改申候ベキ。四十八人ノ大名・高家ヲバ、二位殿ノ御方人ト思食セ」と頼もしく言ったのは、ほかならぬ武田である。建前と本音とをしたたかに使い分けている。そして、武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

と書かれていることと発想が共通していますね。
大津氏はずいぶん前から慈光寺本に関して「したたか」を連発されているので、あるいは長村氏も大津氏の悪影響を受けておられるのかもしれません。
さて、長村氏は「武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった」と言われますが、もう少し分かりやすく、格調の低い表現にすると、

 勝者随従の論理=「長い物には巻かれろ」の論理
 所領獲得の論理=「世の中、ゼニやで」の論理

ということかと思います。
私には、これらは「論理」というより、むしろ単純な欲望の全面肯定に過ぎないように思われますが、果たして本当にこれらの「論理」を「東国武士が最も重視した」のか。
もしかすると、これらは長村氏の人間観・世界観を反映しているだけで、東国武士の人間観・世界観とは殆ど関係がないのかもしれませんが、そう決めつける前に、もう少し長村氏の「勝者随従・所領獲得の論理」の内実を見ておきたいと思います。(p242以下)

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 2 司令官の指揮からの逸脱

 ここで想起されるのは、戦争状態の中で、鎌倉方武士勢力が独自の判断で謀叛人所領の発見即没収を遂行し、それが平時に地頭職として追認されたことである。東国武士は、治承・寿永の内乱や頼朝没後の比企・梶原・畠山・和田等の大規模御家人の度重なる没落を通じて、戦争という特殊な状況下においてこそ所領・諸職が獲得できることを知っていたのであろう。かかる理解を踏まえて、鎌倉方の軍事動員の実態を確認したい。

 史料3 (承久三年)六月六日「北条義時袖判御教書」
             (花押)
  五月卅日ねのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日さるのときにたうらい。五月つこもりの日、かん
  はら〔蒲原〕をせめおとして、おなしきさるのときに、みやさき〔宮崎〕をゝいおとされたるよし、き
  こしめし候ぬ。①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたき
  おひおとしたるよし申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。又にしなの二らう〔仁科盛朝〕むかひた
  りとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき。又しきふとの〔北条朝時〕も、いま
  はおひつかせ給候ぬらん。ほくろくたう〔北陸道〕のてにむかひたるよし、きこえ候は、みやさきのさ
  ゑもん〔宮崎定範〕・にしなの二郎〔仁科盛朝〕・かすやのありいしさゑもん〔糟屋有石左衛門〕・く
  わさのゐんのとうさゑもん〔花山院藤左衛門〕、またしなのけんし〔信濃源氏〕一人候ときゝ候。②い
  かにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
  しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑ
  ちせん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、大凡山のあんないを
  もしりて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候。おひおとしたれはとて、③うちすてゝ
  なましひにて京へいそきのほる事あるへからす。又ちうをぬきいてゝ、さやうに御けんにん〔御家人〕
  をもすゝめて、たゝかひして、かたきをゝいおとされたる事、返々しむへうにきこしめし候。しんたの
  おとゝの四らうさゑもん六らうなと、あひともにちうをつくしたるよし、返々しむへうに候。④又おの
  /\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきを
  もうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、そのよしをふれらるへく候。あな
  かしこ。
       〔承久三年〕
        六月六日<さるのとき>  藤原兼佐<奉>
    いちかはの六郎刑部殿<御返事>

 この文書は信濃の御家人である市河六郎からの軍功の報告に対する義時の返書である。この文書を発した義時の立場は、信濃守護ではなく幕府の最高権力者とみるべきであろう(宮田A論文)
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長くなったので、いったんここで切ります。
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