『吾妻鏡』では、北陸道軍の合戦については六月八日条にごく僅かな記述があるだけです。
慈光寺本には記事が一切存在せず、比較的記事の分量が多い流布本でも、
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(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛し懸んと用意したり。人々、「如何が可為」とて、各区の議を申ける所に、式部丞の謀に、浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵の寄るは」とて、石弓の有限り外し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄の若者共、汀に添て、馬強なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
(又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b
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(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛し懸んと用意したり。人々、「如何が可為」とて、各区の議を申ける所に、式部丞の謀に、浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵の寄るは」とて、石弓の有限り外し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄の若者共、汀に添て、馬強なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
(又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b
という程度なので、市河文書の承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は本当に貴重な史料ですね。
地名・人名等、流布本とも相当に重なります。
さて、前回引用した部分の①~④には傍線があります。
即ち、
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①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし
申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。
②いかにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑち
せん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、
③うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす。
④又おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたき
をもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、
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の部分に傍線があります。
そして、続きです。(p244以下)
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傍線①から、市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたことがわかる。そして傍線②に見るごとく、越中・加賀・能登・越前の中小規模の在地領主は日和見状態であり、初期段階の軍事的制圧が雪達磨式に彼等の動向を決することを、義時は理解していた。そのためには傍線③のごとく、市河らの上洛を止めて、京方たることの明確な者を確実に討たせる必要があった。しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
なお、義時が市河らの上洛を止めようとしたことにつき、浅香年木氏は、東国御家人に対する北陸道の地元群小領主層の抵抗が根強かったことから、この機に彼らを掃討せんとしたと解する。しかし、六月初頭段階の鎌倉では乱の勝敗の行方自体が不透明だったに違いない。義時は、長期的政策よりも、越中以下の者が「しかしながら御かたへこそまい」ることによる、乱の勝利そのものを意図していたと考えるべきである。
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うーむ。
いくつか疑問が生じるのですが、最大の疑問は長村氏が市河六郎の行動を「司令官の指揮からの逸脱」の代表例とされている点です。
「市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたこと」は間違いないでしょうが、果たして市河六郎は北条朝時の指揮に反して勝手に「軍事行動を開始」したのか。
市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます。
そして、いわば自動的に北陸道軍の先遣隊のような形になったものと思われますが、そうした立場に置かれた市河は、別に勝手に「軍事行動を開始」したのではなく、北条朝時と連絡を取った上で「軍事行動を開始」したと考える方が自然ですね。
五月三十日の子刻に市河が発した書状が六月六日の申刻に鎌倉に到達するくらいの連絡網が出来ているのですから、市河が蒲原・宮崎を攻撃する前に、進軍中の北条朝時に「蒲原・宮崎を攻撃していいですか」と連絡して、「いいよ」という返事をもらうまでさほど時間がかかったとも思えません。
さて、前回引用した部分の①~④には傍線があります。
即ち、
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①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし
申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。
②いかにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑち
せん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、
③うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす。
④又おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたき
をもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、
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の部分に傍線があります。
そして、続きです。(p244以下)
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傍線①から、市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたことがわかる。そして傍線②に見るごとく、越中・加賀・能登・越前の中小規模の在地領主は日和見状態であり、初期段階の軍事的制圧が雪達磨式に彼等の動向を決することを、義時は理解していた。そのためには傍線③のごとく、市河らの上洛を止めて、京方たることの明確な者を確実に討たせる必要があった。しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
なお、義時が市河らの上洛を止めようとしたことにつき、浅香年木氏は、東国御家人に対する北陸道の地元群小領主層の抵抗が根強かったことから、この機に彼らを掃討せんとしたと解する。しかし、六月初頭段階の鎌倉では乱の勝敗の行方自体が不透明だったに違いない。義時は、長期的政策よりも、越中以下の者が「しかしながら御かたへこそまい」ることによる、乱の勝利そのものを意図していたと考えるべきである。
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うーむ。
いくつか疑問が生じるのですが、最大の疑問は長村氏が市河六郎の行動を「司令官の指揮からの逸脱」の代表例とされている点です。
「市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたこと」は間違いないでしょうが、果たして市河六郎は北条朝時の指揮に反して勝手に「軍事行動を開始」したのか。
市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます。
そして、いわば自動的に北陸道軍の先遣隊のような形になったものと思われますが、そうした立場に置かれた市河は、別に勝手に「軍事行動を開始」したのではなく、北条朝時と連絡を取った上で「軍事行動を開始」したと考える方が自然ですね。
五月三十日の子刻に市河が発した書状が六月六日の申刻に鎌倉に到達するくらいの連絡網が出来ているのですから、市河が蒲原・宮崎を攻撃する前に、進軍中の北条朝時に「蒲原・宮崎を攻撃していいですか」と連絡して、「いいよ」という返事をもらうまでさほど時間がかかったとも思えません。