学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その39)─「三浦筑井四郎太郎」と「玄蕃太郎」の比較

2023-11-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本では、東海道軍の「先陣」北条時房が橋本宿(現、静岡県湖西市)に着いた時点で、「三浦筑井四郎太郎」は「高志山」(現、愛知県豊橋市高師。『東関紀行』に「三河・遠江のさかいひに、高師の山ときこゆるあり」)におり、その旨を「遠江国住人内田四郎」が時房に報告すると、時房は事情を探って、敵ならば討てと「内田四郎」に命じます。
しかし、慈光寺本では、「玄蕃太郎」一行十九騎は橋本宿まで時房軍の「御供」をしており、橋本宿で「夜立」し、「相模守ノ前ヲ下馬モセズ、ヘリモオカズシテ通」ると、何故か時房がそれに気づいて、「打田党」を召し寄せ、「何ナル者ゾ、時房ガ宿ノ前ヲ、下馬モセズシテ通条コソ奇怪ナレ。立出テ見ヨ」と命令すると、「打田三郎」が様子を見に行き、戻ってから「下野殿ノ郎等玄蕃太郎ニテ候ナリ」と報告します。
すると、時房は「軍ノ尤ハ天ヨリ下、地ヨリ湧ケルモノカナ。坂東武者ハ馬足クルシキニ、遠江ノ侍カケヨ」と時房は「打田党」に命じて追いかけさせます。
「打田党」は百騎で出発し、「三河国高瀬・宮道・本野原・音和原」を過ぎ、「石墓」で追いつきます。
そして「打田三郎」が「玄蕃太郎」と問答した後、戦闘となり、十一騎は討たれ、八騎は近くの「宿太郎」の家に逃げた後、その家に放火して「自害」します。
ラストは、

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十一騎ガ頸ヲ取〔とり〕、本野原ニ竿〔さを〕ヲ結テゾ、カケテ帰〔かへる〕。相模殿ノ被居〔ゐられ〕ケル橋下ノ宿ニ帰参シテ、此由申ケレバ、守殿申サレケルハ、「時房、今度ノ軍〔いくさ〕ニハヤ打勝タリ」トテ、上差〔うはざし〕抜テ軍神〔いくさがみ〕ニゾ奉ラレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e9741e43ebc317ce16dbbe742207dbc

ということで、話の流れは一応は理解できますが、「鎌倉ヘ官物漕テ上リケル」とか「ヘリモオカズシテ」とか「軍ノ尤〔いう〕ハ天ヨリ下〔くだり〕、地ヨリ湧ケルモノカナ」とか分かりにくい表現が散見され、また、「打田三郎」と「玄蕃太郎」のやり取りもどこかチグハグです。
戦闘・自害の場面の分量は流布本より遥かに少なく、死を覚悟した武士に相応しい感情表現もありません。
「十一騎ハ打物取、八騎ハ弓取」といった具合に、妙に正確な数字に拘るところも、数字マニアというか、どこか無機的な気味の悪さを感じさせます。
そして、ラストも、流布本では、

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次日、相模守被通けるが、是を見て、「十九騎と聞へつるが一人も不落けるや。哀れ能〔よ〕かりける者共哉、御大事にも値〔あひ〕ぬべかりける物を。惜ひ者共を」とて、各歎惜み、「阿弥陀仏」と申て通りけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

と、武士としての意地を貫いた十九騎に時房が同情と共感を寄せており、戦場美談となっていますが、慈光寺本の時房は冷ややかですね。
まあ、だからといって、慈光寺本が全面的に嘘くさい訳でもなく、『吾妻鏡』の記述とも骨格の部分は一致していることから、私も「5.北条時房による小野盛綱配下・玄蕃太郎追討 25行」は「A」評価(流布本や『吾妻鏡』その他史料との整合性があり、信頼性が高い)と判定しました。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その4)─「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1

さて、では、このエピソードに関し、慈光寺本・流布本と『吾妻鏡』の関係をどのように考えたらよいのか。
野口実氏は杉山次子氏の見解を立論の基礎とされているので、流布本は慈光寺本と『吾妻鏡』を「主材料」として『吾妻鏡』に遅れて成立したものと考えておられるはずです。
しかし、流布本の「三浦筑井四郎太郎」エピソードが、慈光寺本の「玄蕃三郎」エピソードと『吾妻鏡』五月三十日条を「主材料」として成立したと考えるのは不自然ではなかろうかと私は考えます。
その点は次の投稿で書きます。
コメント
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