学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その54)─「それらしくみえる手が加えられたのだろう」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用した「上皇の使者押松丸」以下の記述に対応する慈光寺本の記事を見ると、前半は次の通りです。(岩波新大系、p326以下)

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 去程ニ、平判官ノ下人モ、同十九日酉ノ時計ニ、駿河守ノ許ヘゾ付ニケル。弟ノ使見付テ、「何事ゾ」と問ハレケレバ、「御文候」トテ奉ル。開見テ云レケルハ、「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ。加様ノ事ハ二目共見ジ」トテ、文カキ巻、平九郎ガ使ニ、「己計カ」ト問レケレバ、使申ケルハ、「院ノ御下部押松、権大夫殿打ンズル宣旨持テ下リ候ツルガ、鎌倉ヘ入候トテ、放テ候」トゾ申ケル。駿河守、重テ云ハレケルハ、「関々ノキビシケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞ツト計云ヘヨ」トテ、弟ノ使ヲ上ラル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21a9dd0aae9f78d209bd0a3cd8161afa

高橋氏は三浦胤義の書状をみた義村が「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ。加様ノ事ハ二目共見ジ」と感想を述べたことは省略されていますね。
そして後半は、

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 駿河守ハ文巻持テ、大夫殿ヘ参リ、申サレケルハ、「平判官胤義ガ、今年三年京住シテ下タル状、御覧ゼヨ。一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ、若ヨリ「互ニ変改アラジ」ト約束申テ候ヘバ、角モ申候ナリ。院下部押松、和殿討ンズル宣旨ヲ持テ下リケルガ、鎌倉入ニ放テ候ト申ツルゾ、此ヨリ奥ノ大名・高家ハ、披露有ツル者ナラバ、和殿ト義村トヲ敵ト思ハヌ者ハヨモアラジ。奥ノ人共ニ披露セヌ先ニ、鎌倉中ニテ押松尋テ御覧ゼヨ、大夫殿」トゾ申サレケル。「可然」トテ、鬼王ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ尋ラル。壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出シテ、天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ参リタリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40ec3ffc4871505a18e67054a033a7e1

というもので、高橋氏は「一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ」は省略した上で、「互ニ変改アラジ」(お互いに心変わりしない)を紹介されていますね。
さて、『人物叢書 三浦義村』で私にとって一番刺激的だったのは和田合戦に関する記述です。
高橋氏は『吾妻鏡』の和田合戦記事の虚構性を解明されており、その分析はそれ自体が極めて興味深いのはもちろんですが、慈光寺本における三浦胤義の義村評に影響しそうな点も面白いですね。
即ち、慈光寺本では、敗戦後の残党狩りの場面に、

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 其次ニ、黄村紺ノ旗十五流ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度申合文一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人ニテ、和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」ト思ヒ、四墓ヘコソ帰ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあり(p350以下)、胤義は義村を「和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人」と非難しています。
これと義村の北条義時に対する発言、「一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ」を比較すると、胤義は義村を「誹謗」した「余所」の筆頭となりそうです。
これは『吾妻鏡』建暦三年(1213)五月二日条で、

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【前略】次三浦平六左衛門尉義村。同九郎右衛門尉胤義等。始者与義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改変之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎為継。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩禄也。今就内親之勧。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則参入相州御亭。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-05.htm

と、胤義も義村と一緒に和田義盛を裏切っていることを知っている者にとっては些か当惑させられてしまう話ですね。
高橋氏は『明月記』の記事により、

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 日頃より険悪な関係にあった義村兄弟と義盛とが挙兵前に内通していたはずがなく、義村は義盛隣家の「又左衛門尉」(『吾妻鏡』では八田知重とする)同様に義盛の動きを知り、実朝御所に一報を入れたことになる。
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とされますが(p98)、とすると、慈光寺本で胤義が義村を「誹謗」している点をどう考えたらよいのか。
この問題は和田合戦に関する高橋説を詳しく見た上で、改めて検討したいと思います。
さて、続きです。(p131)

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 義村が義時に異心なきことを誓った際、前田本は三浦氏の氏神である三浦十二天に誓う形をとり、古活字本・『承久軍物語』は三浦十二天と栗浜明神(神奈川県横須賀市)・森山神社(神奈川県葉山町)という三浦半島所在の神社を含む相模・伊豆の神社に誓う形をとっている。それらしくみえる手が加えられたのだろう。
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流布本では、

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 院宣の御使には、推松とて究めて足早き者有ける、是を撰てぞ被下ける。平九郎判官、私の使を相添て、承久三年五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負じと下ける程に、同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。平九郎判官の使は案内者にて、先に鎌倉へ走入て、駿河守に文を付たれば、披見して、「返事申べけれ共、道の程も如何敷間、態と申さぬ成」とて追出しぬ。
 駿河守、此文をかい巻て、権大夫の許へ持向へ、「已に世中こそ乱て候へ。去十五日、光季被討ぬ。胤義が私の文、御覧候へ」とて、権大夫義時、折節諸人対面の前に、引披ひて置たり。権大夫、「さては御辺の手に社懸り進らせ候はんずらめ」。三浦駿河守、打退て袖引繕ひ、「是こそ恐存候へども、平家追討より以来、度々の戦に忠節を致し、一度も不忠の儀候はず。自今以後も又、疎略を不可存、若偽申事候はゞ、遠くは熊野の嶽、近くは伊豆・筥根、別しては若宮三所・足柄・松童、殊更奉頼三浦十二天・栗濱・森山、惣じては日本国中の大小の神祇・冥道、知見し給へ。御後ろめたなき事不候」とぞ申ける。権大夫打笑て、「偖〔さて〕は心安候。今迄此事の出来候はぬ社、不思議に候へ。是は兼てより存たる事也。今は推松も鎌倉へ入んずらん。尋よ」とて被尋けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、「遠くは熊野の嶽、近くは伊豆・筥根、別しては若宮三所・足柄・松童、殊更奉頼三浦十二天・栗濱・森山、惣じては日本国中の大小の神祇・冥道」ですから、「相模・伊豆の神社」に限定されている訳ではないですね。
ま、そんな細かなことはともかく、「それらしくみえる手が加えられたのだろう」から、高橋氏が現在も慈光寺本が「最古態本」で、流布本(と前田本)は慈光寺本を加工した後続本であると考えておられることが分かります。
コメント
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