学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その56)─「泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p133)

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 八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した。上皇らは勢多・宇治での防禦を決め、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇、雅成・頼仁の両皇子、ついで天皇が比叡山麓の坂本(滋賀県大津市)に避難した。上皇は比叡山延暦寺の軍事力に期待を寄せたが、幕府の大軍を恐れた延暦寺は上皇の要請を拒んだので、上皇らは京都に戻った(『吾妻鏡』)。
 十三日、時房は勢多に進み、義村・季光は淀・手上に向かった。泰村は栗子山(所在地不明)に陣したが、足利義氏・三浦泰村が泰時に触れずに宇治橋を渡って合戦を始めてしまった。官軍の攻勢に多くの兵が死傷した。合戦の始まりに驚いた泰時は宇治に駆けつけ、雨で水かさのました宇治川の渡河点を調べさせた。多くの武士が矢に当たり、水に流されるなか、泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた。時氏は六騎を従えて川を渡り、泰村も主従五騎で渡り切った。泰時も筏に乗って川を渡り、幕府軍は辛くも宇治を制圧して、官軍を敗走させた。泰時は深草(京都市)に陣し、淀・芋洗の要衝を破った義村・季光も合流した(『吾妻鏡』)。
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「八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した」とありますが、『吾妻鏡』同日条では、

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寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】


とあって、「摩免戸合戦」の敗北を奏聞したのは藤原秀康と五条有長(有仲)ですね。
この報告者は諸史料で異なり、

 『六代勝事記』:「糟屋の左衛門尉久季」(糟屋久季)と「筑後左衛門尉有永」(五条有長)
 慈光寺本:「員矢四郎左衛門久季」(糟屋久季)と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)
 流布本:「山田次郎重忠」

となっていて、三浦胤義の名前はどの史料にも見あたりません。

流布本と『吾妻鏡』における山田重忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff907bc44ef950c1da8300fab2f9e02e
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928

もっとも、藤原秀康と三浦胤義は一緒に活動していることが多いようなので、「胤義ら」が間違いと決めつけることもできません。
ま、そんな細かなことはさておき、後鳥羽院の叡山御幸は『吾妻鏡』六月八日条、叡山説得の失敗は九日条、帰洛は十日条、宇治川合戦は十三・十四日条の抜粋であり、ここは極めてオーソドックスな記述です。
ただ、高橋氏は「はしがき」で、

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 これまでの多くの研究が『吾妻鏡』の叙述をなぞってきたのに対して、最近の高橋の研究は、『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別し、さらに公家日記や『愚管抄』などの情報と照合した上で、鎌倉時代の政治史を再構築する方法をとっている。
 この方法を用いた叙述には、しばしば史料批判や考証が必要になってしまうため、本書は既存の人物叢書よりも叙述がやや煩雑かもしれない。その点をお詫びしないといけないが、読者には、史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像をぜひ確かめていただきたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e65d402b8378fc67dea71931228cd1fb

と豪語されているので、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」いるだけの記述はどうにも物足りないですね。
私には『吾妻鏡』の承久の乱の記事には泰時美化の傾向が強く、宇治川合戦についても怪しい記述が多いように思われるのですが、高橋氏は「信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述」をどのような基準で「区別」されているのか。
例えば、「泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた」云々は『吾妻鏡』六月十四日条の、

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「武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久満太郎。南条七郎以下六騎進渡。【後略】
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を受けていますが、高橋氏は泰時が時氏に、「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を阿渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」と命じたとする戦場美談的な部分まで含めて史実と考えておられるのか。
それとも、泰時の発言は『吾妻鏡』編者の文飾であって、渡河を命じた部分だけを史実と考えておられるのか。
まあ、高橋氏としては、「『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判」しようとしても、宇治川合戦については信頼できる「原史料」は存在せず、「最古態本」の慈光寺本には宇治川合戦の記事がなく、「後続」諸本も信頼できないということで、結局、「これまでの多くの研究」と同じく、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」済ませる以外ないということなのかもしれません。
さて、ここまでは『吾妻鏡』一色でしたが、この後、慈光寺本への若干の言及があるので、次の投稿で検討します。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その55)─「上皇方には味方しないという保証」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に「義村が義時に異心なきことを誓った際、前田本は三浦氏の氏神である三浦十二天に誓う形をとり」とありますが、前田本を見たところ、

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義村二心を存ぜは日本国中大小ノ神祇別而ハ三浦十二天神の神罰をかうふり月日の光ニあたらぬ身と罷成べしと誓言を立られければ【後略】
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とあって(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p236)、「日本国中大小ノ神祇別而ハ三浦十二天神」ですから、「三浦十二天」だけに誓った訳ではないですね。
ま、これも細かなことですが。
さて、『人物叢書 三浦義村』の「第三 宿老への道」「五 承久の乱」(p124~p135)は、冒頭から中盤までは『吾妻鏡』の他、『承久記』の慈光寺本・前田本・古活字本(流布本)・『承久軍物語』に万遍なく言及がありますが、合戦が始まってしまうと殆ど『吾妻鏡』一色ですね。
従って、ある意味、従来通りの平凡な記述に終始します。(p131以下)

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 義時邸で、義時・時房・泰時・覚阿(大江広元)・三浦義村・安達景盛による軍議が行われ、東海道の足柄・箱根の関(ともに神奈川県)を固めて官軍を迎え討つ案と、京都に攻め上るという広元の案の二つが政子に諮られて、上洛案に決した。二十二日、泰時・時房・義村らの東海道軍、義時の子朝時率いる北陸道軍が進発した。後発の東山道軍を含めて、約二十万騎に及ぶ大軍であった。二十五日、義時が定めた三道の大将軍が公表された。義村は、時房・泰時・時氏・足利義氏・千葉胤綱とともに、東海道の大将軍と位置づけられた(『吾妻鏡』)。
 六月三日、官軍は美濃・尾張で幕府軍を迎え討つべく進発した。幕府方東海道軍は五日に尾張一宮に到着して軍議を行い、木曽川の要衝である鵜沼渡・摩免戸(岐阜県各務原市)、長良川の要衝墨俣(岐阜県大垣市)などに諸将を派遣することになった。義村は泰時とともに摩免戸に向かった。摩免戸を守るのは藤原秀康・佐々木広綱・同高重・三浦胤義らの官軍の主力部隊だった。この日の夜、木曽川の大井戸(岐阜県可児市)で、武田・小笠原・小山らの東山道軍と官軍大内惟信らとの間から両軍の戦いがはじまったが、官軍は各所で敗れ、京都に逃げ帰った(『吾妻鏡』)。
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いったん、ここで切ります。
「約二十万騎」とありますが、『吾妻鏡』五月二十五日条によれば「軍士惣十九万騎」であり、流布本・慈光寺本でも数字は同じです。
高橋氏が何故に四捨五入するのか、私には理由が分かりません。
また、「二十五日、義時が定めた三道の大将軍が公表された」とありますが、『吾妻鏡』には「自去廿二日。至今暁。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也」とあって、交名が記されただけであり、「公表」された訳ではないですね。
そもそも誰に対して「公表」するのか。
ま、そんな細かな点には若干の疑問はありますが、全体的には『吾妻鏡』に依拠された非常にオーソドックスな叙述ですね。
そして高橋氏は慈光寺本を一顧だにされないので、メルクマール(3)(武田信光と小笠原長清の密談エピソード)を論ずる余地はありません。
また、高橋氏は慈光寺本のみならず、『吾妻鏡』六月六日条に僅かに記された「山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電」、「官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢」にも言及されないので、メルクマール(5)(宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソード)を論ずる余地もありません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

さて、続きです。(p132以下)

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 西上した幕府軍は、七日、野上(岐阜県関ケ原町)・垂井(岐阜県垂井町)に陣して軍議を行った。そこで義村は、北陸道の幕府軍が上洛する前に進軍し、勢多(滋賀県大津市)に時房、手上(所在地未詳)に安達景盛ら、宇治に泰時、芋洗(京都府久御山町)に毛利季光、淀渡に結城朝光・義村が向かって京都を守備する要衝を破ることを提案した。総大将である泰時らもこの案を承諾した。このとき義村の子息泰村は、父と離れ、泰時の陣に加わった(『吾妻鏡』)。義村は後鳥羽上皇に乞われたほどの存在だったから、上皇方には味方しないという保証のために、子息の身柄を泰時に預けたのだろう。
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うーむ。
「上皇方には味方しないという保証のために、子息の身柄を泰時に預けた」には史料的根拠はありませんが、高橋氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)でも、

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義村の子泰村は父の麾下を離れ、泰時軍に加わることとなった。義村が胤義に与することはないという保証のために、子息を泰時に委ねたのであろう。北条氏と三浦氏はあくまでも一体であることが示された。【後略】
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とされています。(p104)
しかし、『吾妻鏡』六月七日条によれば、義村は北陸道軍の合流を待たずに京都を攻めるという最重要の戦略を提案し、それに泰時・時房以下が同意するような、ある意味、義村の方が実質的な「総大将」ではなかろうかと思われるほどの立場ですから、「上皇方には味方しないという保証」だとか「義村が胤義に与することはないという保証」というのはいかにも奇妙です。
『吾妻鏡』には「駿河次郎泰村従父義村。雖可向淀手。為相具武州。加彼陣云々」(泰村は父義村に従い、淀の方面に向かうべきであるが、泰時に同行するためその陣に加わったという)」とあるだけですが、流布本には、

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 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。足利武蔵前司義氏・三浦駿河守義村、是等は「遠く向候ヘば」とて、暇申て打通る。義氏は宇治の手に向んずれ共、栗籠山に陣を取。駿河次郎、同陣を双べ取たりけるが、父駿河守に申けるは、「御供仕べう候へ共、権大夫殿の御前にて、『武蔵守殿御供仕候はん』と申て候へ(ば)、暇給りて留らんずる」と申。駿河守、「如何に親の供をせじと云ふぞ」。駿河二郎、「さん候。尤泰村もさこそ存候へども、大夫殿の御前にて申て候事の空事に成候はんずるは、家の為身の為悪く候なん。御供には三郎光村も候へば、心安存候」と申ければ、「廷は力不及」とて、高所に打上て、駿河二郎を招て、「軍には兎こそあれ、角こそすれ。若党共、余はやりて過まちすな。河端へは兎向へ、角向へ」など能々教へて、郎等五十人分付て、被通けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4a24d6b60603e0b9524e3ca7ed53ebe0

とあって、泰村自身が泰時との同行を強く希望したことが記されています。
そして、その後、泰村は泰時の指示に反して、更に足利義氏をも出し抜く形で「早軍」を始めてしまいます。

流布本も読んでみる。(その34)─「相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

要は、父と一緒に淀に行ってもつまらない、宇治橋こそが手柄を立てるために絶好の場所だと判断した「生年十八歳」の泰村が、自らの意志で泰時との同行を願い、実際に功をあせって「早軍」を始めてしまった、というのが流布本のストーリーです。
そして足利義氏と泰村が泰時の許可を得ず、勝手に合戦を始めてしまったことは『吾妻鏡』六月十三日条にも記されているので、流布本のストーリーは事実を相当に反映しているように思われます。
「上皇方には味方しないという保証」だとか「義村が胤義に与することはないという保証」を云々する高橋説は、史料的根拠がないばかりか、合戦に臨む武将の心理としてはちょっと莫迦っぽい感じがします。
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