続きです。(p133)
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八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した。上皇らは勢多・宇治での防禦を決め、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇、雅成・頼仁の両皇子、ついで天皇が比叡山麓の坂本(滋賀県大津市)に避難した。上皇は比叡山延暦寺の軍事力に期待を寄せたが、幕府の大軍を恐れた延暦寺は上皇の要請を拒んだので、上皇らは京都に戻った(『吾妻鏡』)。
十三日、時房は勢多に進み、義村・季光は淀・手上に向かった。泰村は栗子山(所在地不明)に陣したが、足利義氏・三浦泰村が泰時に触れずに宇治橋を渡って合戦を始めてしまった。官軍の攻勢に多くの兵が死傷した。合戦の始まりに驚いた泰時は宇治に駆けつけ、雨で水かさのました宇治川の渡河点を調べさせた。多くの武士が矢に当たり、水に流されるなか、泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた。時氏は六騎を従えて川を渡り、泰村も主従五騎で渡り切った。泰時も筏に乗って川を渡り、幕府軍は辛くも宇治を制圧して、官軍を敗走させた。泰時は深草(京都市)に陣し、淀・芋洗の要衝を破った義村・季光も合流した(『吾妻鏡』)。
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「八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した」とありますが、『吾妻鏡』同日条では、
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寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】
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八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した。上皇らは勢多・宇治での防禦を決め、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇、雅成・頼仁の両皇子、ついで天皇が比叡山麓の坂本(滋賀県大津市)に避難した。上皇は比叡山延暦寺の軍事力に期待を寄せたが、幕府の大軍を恐れた延暦寺は上皇の要請を拒んだので、上皇らは京都に戻った(『吾妻鏡』)。
十三日、時房は勢多に進み、義村・季光は淀・手上に向かった。泰村は栗子山(所在地不明)に陣したが、足利義氏・三浦泰村が泰時に触れずに宇治橋を渡って合戦を始めてしまった。官軍の攻勢に多くの兵が死傷した。合戦の始まりに驚いた泰時は宇治に駆けつけ、雨で水かさのました宇治川の渡河点を調べさせた。多くの武士が矢に当たり、水に流されるなか、泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた。時氏は六騎を従えて川を渡り、泰村も主従五騎で渡り切った。泰時も筏に乗って川を渡り、幕府軍は辛くも宇治を制圧して、官軍を敗走させた。泰時は深草(京都市)に陣し、淀・芋洗の要衝を破った義村・季光も合流した(『吾妻鏡』)。
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「八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した」とありますが、『吾妻鏡』同日条では、
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寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】
とあって、「摩免戸合戦」の敗北を奏聞したのは藤原秀康と五条有長(有仲)ですね。
この報告者は諸史料で異なり、
『六代勝事記』:「糟屋の左衛門尉久季」(糟屋久季)と「筑後左衛門尉有永」(五条有長)
慈光寺本:「員矢四郎左衛門久季」(糟屋久季)と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)
流布本:「山田次郎重忠」
となっていて、三浦胤義の名前はどの史料にも見あたりません。
流布本と『吾妻鏡』における山田重忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff907bc44ef950c1da8300fab2f9e02e
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928
もっとも、藤原秀康と三浦胤義は一緒に活動していることが多いようなので、「胤義ら」が間違いと決めつけることもできません。
ま、そんな細かなことはさておき、後鳥羽院の叡山御幸は『吾妻鏡』六月八日条、叡山説得の失敗は九日条、帰洛は十日条、宇治川合戦は十三・十四日条の抜粋であり、ここは極めてオーソドックスな記述です。
ただ、高橋氏は「はしがき」で、
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これまでの多くの研究が『吾妻鏡』の叙述をなぞってきたのに対して、最近の高橋の研究は、『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別し、さらに公家日記や『愚管抄』などの情報と照合した上で、鎌倉時代の政治史を再構築する方法をとっている。
この方法を用いた叙述には、しばしば史料批判や考証が必要になってしまうため、本書は既存の人物叢書よりも叙述がやや煩雑かもしれない。その点をお詫びしないといけないが、読者には、史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像をぜひ確かめていただきたい。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e65d402b8378fc67dea71931228cd1fb
と豪語されているので、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」いるだけの記述はどうにも物足りないですね。
私には『吾妻鏡』の承久の乱の記事には泰時美化の傾向が強く、宇治川合戦についても怪しい記述が多いように思われるのですが、高橋氏は「信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述」をどのような基準で「区別」されているのか。
例えば、「泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた」云々は『吾妻鏡』六月十四日条の、
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「武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久満太郎。南条七郎以下六騎進渡。【後略】
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を受けていますが、高橋氏は泰時が時氏に、「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を阿渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」と命じたとする戦場美談的な部分まで含めて史実と考えておられるのか。
それとも、泰時の発言は『吾妻鏡』編者の文飾であって、渡河を命じた部分だけを史実と考えておられるのか。
まあ、高橋氏としては、「『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判」しようとしても、宇治川合戦については信頼できる「原史料」は存在せず、「最古態本」の慈光寺本には宇治川合戦の記事がなく、「後続」諸本も信頼できないということで、結局、「これまでの多くの研究」と同じく、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」済ませる以外ないということなのかもしれません。
さて、ここまでは『吾妻鏡』一色でしたが、この後、慈光寺本への若干の言及があるので、次の投稿で検討します。