学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その35)─「幕府の作戦は、このように意気軒昂かつ気宇壮大なものであった」(by 野口実氏)

2023-11-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
宇治河合戦の不存在は慈光寺本の重要な特徴として多くの研究者が注目されていますが、慈光寺本には北陸道の合戦も全く存在しておらず、これもずいぶん奇妙な話ですね。
義時のもとでの「軍ノ僉議」で「北陸道ノ大将軍ハ、式部丞朝時ヲ始トシテ、七万騎ニテ上ルベシ」(岩波新大系、p330)とあった後、朝時と北陸道軍の動向は全く不明です。
そして、山田重忠の鎌倉攻撃案とそれに対する藤原秀澄の返答に朝時の名前が出て来る(p338)のを除くと、次に朝時が登場するのは宇治河合戦の決着がついた後の京都です。
即ち、

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 去程ニ、六月十五日巳時ニハ、武蔵守六波羅ヘ著〔つき〕給フ。同十七日午時ニ、式部丞モ六波羅ヘ著給フ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f705bd01bdbdbc98721ab5c17cb3963d

とありますが、北陸道の合戦の様子を振り返ったり従軍者の説明をしたりすることもなく、本当にあっさりしています。(p351)
この後も朝時については「甲斐宰相中将」藤原範茂を護送し、その処刑(水死)に立ち会った程度の記事しかなく(p360)、慈光寺本における朝時の存在感は希薄ですね。
なお、慈光寺本には朝時の到着は十七日とありますが、実際には落武者狩りも殆ど終わったであろう二十日に到着したようで(『百錬抄』。『吾妻鏡』、流布本には記載なし)、どうにも間の抜けた感じは否めないですね。
さて、野口論文に戻ると、野口氏は慈光寺本に従って東海道軍が七万騎、東山道軍が五万騎、北陸道軍が七万騎、三道の総勢十九万騎と記された後、

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 三道を西に向かう幕府軍は、院方の待ち受けるであろう要所を撃破した後、一体となって宇治・瀬田から都に入り、五条以南に火を懸けて敵軍を掃討する。兵力が不足したならば、重時(義時の三男)を大将軍とする援軍を派遣し、さらには義時自らが十万騎を率いて打ちのぼる。それでも、もし敗れたならば、東国に下り、足柄・清見の関に堀を設け、鎌倉の由比ヶ浜で決戦を挑もう。さらに、そこでも敗れたならば鎌倉に火を懸けて陸奥に下ってなお抵抗を続けよう。幕府の作戦は、このように意気軒昂かつ気宇壮大なものであった。
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と書かれています。(『承久の乱の構造と展開』、p14)
この部分、原文は、

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義時ハ此〔ここ〕ニ居ナガラ、手際〔てのきは〕ノ軍場〔いくさば〕ハ兼テ知タリ。北陸道ハ、礪浪〔となみ〕山・宮崎・塩山・黒坂也。山道ニハ、大井戸・板橋・筵田・杭瀬川。海道ニハ、大御子・一瀬〔いちのせ〕・大豆戸〔まめど〕・食渡〔じきのわたり〕・高桑・洲俣〔すのまた〕コソ、手ノ際〔きは〕ノ軍場ヨ。此等ニテ討勝〔うちかつ〕ホドナラバ、馬ノ腹帯ヲ強クシメテ、敵ハハヤルトモ我ハハヤラズシテ、シラマンニハ手ヲコシテ、手ノ際ノ戦シ給ヘ、殿原。海道ノ殿原ハ、美濃国不破関ヲ打過〔うちすぎ〕、北陸道ノ殿原ハ、越前ノツルガノ津・アラチノ山ヲ打過テ、三ノ手一ツニ成テ、宇治・勢田攻落〔せめおと〕シテ都ニ上リ、五条ヨリ下〔しも〕ニ火ヲ懸テ、謀反ノ衆ヲ責出〔せめいだし〕々々、首ヲ切、十善ノ君ノ見参ニ入〔いれ〕ヨ。武蔵・相模等ノ勢スクハクハ、脚力〔きやくりき〕ヲ以テ示シ玉ヘ。三郎冠者重時ニ一陣打〔うた〕セテ、義時モ十万騎ニテ打テ上リ、手ノ際ノ戦シテ、十善ノ君ノ見参ニ入〔いら〕ン。戦〔たたかひ〕負ヌルモノナラバ、打下リ、足柄・清見ガ関ヲ堀切〔ほりきり〕テ、由比浜ヲ軍場ト誘〔いざなひ〕テ、手際〔てのきは〕戦セン。ソレニ戦負ヌルモノナラバ、昔、衆井太郎ガ、七度マデ宣旨ヲ蒙リ、門司関ヲ打塞〔うちふさぎ〕、筑紫九国〔くこく〕、七年ガ間、掠〔かすめ〕テ有ケン様ニ、義時モ谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上〔やきあげ〕、陸奥ニ落下リ、数ノ染物巻八丈〔まきはちぢやう〕、夷ガ隠羽〔かくしば〕、一度モ都ヘ上セズシテ、一期ガ間知ランニ、サテモ有ナン。和殿原、海道ノ先陣、相模守急〔いそぎ〕玉ヘ。去〔さり〕トモ義時、日取〔ひどり〕セン。五月廿一日<甲辰>開日ゾ、猶々急玉ヘ」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

となっていて(岩波新大系、p330以下)、前半の京都攻撃までは良いとしても、負けたら鎌倉を焼いて陸奥に逃げようという後半部分は、およそ「意気軒昂かつ気宇壮大」とは言い難い話ですね。
『吾妻鏡』や流布本では、義時は負けた後の心配など一切していません。
そして、この中の「谷七郷ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上」という表現は、後に山田重忠の鎌倉攻撃案にも、

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【前略】「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一〔ひとつ〕ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡〔うちわたし〕テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取〔うちとり〕、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過〔うちすぎ〕テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并〔ならびに〕相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄〔おしよせ〕、義時討取テ、谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

と出てきます。
私は、義時が鎌倉焼亡の可能性を語ったのは山田重忠の鎌倉攻撃案の伏線であって、慈光寺本作者は後者のリアリティを出すために前者も創作したのだろうと思っています。
なお、山本みなみ氏は、慈光寺本の北条政子の演説に「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」という表現があるのに特別な注意を払われています。
こちらには鎌倉を焼払うといった文言はないので、私は政子の演説と「谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕」云々との山田重忠の鎌倉攻撃案を結び付けてはいませんでしたが、山本氏が慈光寺本に鎌倉潰滅のヴィジョンが繰り返し描かれていることに注目された点は、まことに慧眼と言うべきですね。
そして、私の立場からすると、

(1)政子の演説の「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」
(2)義時の演説の「義時モ谷七郷ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上、陸奥ニ落下リ」
(3)山田重忠の鎌倉攻撃案の「鎌倉ヘ押寄、義時討取テ、谷七郷ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上」

の三つは密接に関連していて、(1)(2)は(3)が名案であり、実現可能性が高いことを読者に印象付けるための伏線のように思われます。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)(続々)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ed6221126b54b6d6cc04b1e731e43a0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f25e804b9632846bf3b25419a1518c6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b
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