『行誉編『壒嚢鈔』の研究』
https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/ainousyou.htm
小助川元太
https://yoran.office.ehime-u.ac.jp/Profiles/2/0000180/profile.html
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小助川元太
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第一章 天理図書館本『梅松論』考
はじめに
一 「入道」の語りと「法印」の批評
二 「情欲」の戒め・「無欲」の勧め
三 尊氏批判と直義賛美
四 『神皇正統記』による増補
五 『神皇正統記』の受容と思想的背景
おわりに
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p213以下
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はじめに
天理図書館本『梅松論』(以下天理本とする)は『梅松論』諸本の中でも、室町時代の数少ない古写本の一つであり、しかも最も古い書写本であるにもかかわらず、行誉による改作の跡が甚だしいことにより、特殊な写本として『梅松論』研究の本流から外されてきた感がある。詳細な調査・分析によって『梅松論』諸本研究を大きく前進させた小川信氏は、天理本独自の記事内容を分析され、天理本の書写者行誉は『壒嚢鈔』編者行誉と同一人物であることを論証されたうえで、
【以下、二字下げ】
この改作には、流布本の場合のような明確な目的があったのではなく、原作に仏説・史論・軍記などの雑多な要素を付加えて、自分の趣味に適合する書物に仕立てようとする動機から行われたに過ぎないと思われる。だが正にそれは、雑多な知識の集積である『壒嚢鈔』の著者行誉に相応しい作業であったというべきであろう。
との見方をされている。だが、流布本のような、特定の氏族に偏った増補記事の有無を主たる基準として、行誉が「明確な目的」もなく「趣味」的改作を行ったと断じてしまうのは問題があろう。むしろ、改作が行われるには何らかの「明確な目的」があったと見るほうが自然ではないだろうか。
筆者はすでに、『壒嚢鈔』の中で行誉がしばしば政道論を述べること、そして、その政道論には一貫性があり、当時の政治的、思想的状況と無関係ではないことを指摘してきた。その行誉が、足利政権を言祝ぐ『梅松論』を書写しただけでなく、改作にまで及んだことは、『壒嚢鈔』の政道論の方向性を考えるうえで重要な意味を持つであろう。また、『壒嚢鈔』研究の立場からすれば、天理本『梅松論』の「特殊」な改作の内実を明らかにすることは、『梅松論』の享受史を考えるうえでも必要な作業であろう。
本章は天理本『梅松論』独自の構成、記事の分析を通して天理本の改作の実態を明らかにし、当時の政治的・思想史的状況の中での位置づけを試みるものである。
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p214以下
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一、「入道」の語りと「法印」の批評
『梅松論』の諸本は大きく分けると古写本と流布本の二系統に分けられる。
1、京都大学史学研究室蔵本(京大本)…文明二年(一四七〇)奥書
2、天理大学附属天理図書館蔵本(天理本)…嘉吉二年(一四四二)行誉による奥書
3、彰考館寛正七年書写本(寛正本)…下巻のみ。寛正七年(一四六六)奥書
4、流布本…現在残るのは江戸時代以降のもの。延宝本・紅葉山本・早大本・国会本・前田家本のグループと書陵部本・昌平本・類従本のグループの二系列がある。
【中略】
京大本では稚児による「先代様」の質問に対して、遁世者・侍法師・覚弁の三名が答え、法印によって覚弁の答えが支持されるが、詳しいことを知りたがる稚児の願いによって、翌晩に法印が書物を引きながらの語りをすることになる。つまり、京大本における法印は、識者としてその場を取り仕切る立場であると同時に、人々を啓蒙するために歴史を語る知的な語り手として設定されているのである。ところが、天理本では遁世者・青侍法師・若き侍法師が答えを述べたあと、三人の答えに納得しない出世が尋ねると、「サリヌベキ人」と思われる「禅僧」が「滅亡セシ関東ノ事ニテコソ候覧」と応え、稚児がせがむのに任せて語り始めるという設定になっているのである。
次に、先代問答と将軍・執権次第が語られた後の展開にも同様の特徴が確認される。<表1>の2にあたる本文を見ると、先代としての鎌倉幕府(北条氏)が滅び、当代に移った次第の語りをせがむ児に対して、京大本では「サラバ次ニ語テ聞セマイラセン」と法印自らが語り始める。ところが、天理本の法印は「然此ノ少童ノ問ヲ濫觴トシテ、当御代ノ事細カニ説給ヘシ」として、語り手である入道に当代(足利幕府)についても語ることを促す。この入道(禅僧)の語りは結局最後まで続き、すべてを語り終えた入道は、
【以下、二字下げ】
サテモ少人ノ仰セ背難ニ依リ、鎮西御没落マテ申侍ヌ。筑紫人ノ物語リナランカラニ空言シケリトハ不可思食ス。殊更当社ノ御前ニテ争テカ虚言ヲ申ヘキ。只耳目ニ触ルゝ所ヲ私無ク有ノ侭ニ申侍也。詞コソ拙ク侍レ共、偽リナキ軍サ物語ニテ候。
と結ぶ。つまり、入道の正体は戦を実際に体験してきた「筑紫人」であることがここで明らかになる。天理本の語り手が京大本とは違い、書物を引かずにその場で語ることができたのは、このような設定の違いによるものであった。
一方、最初に指摘したように、自らは語らずに入道に語らせた天理本の法印は、入道の語りが終わるのを受ける形で、戦乱の責任者たる後醍醐天皇と足利尊氏への批判を述べ、入道の語りを機縁とした仏道への帰依を呼びかけてその場を締め括る(<表1>の6)。つまり、天理本における法印はこの歴史語りの場を取り仕切り批評をおベル、いわばコーディネーターに徹しているのである。
そして、このように語り手と評者が異なることは、京大本や寛正本には見られない天理本独特の個性を表出させる。それは、一つのテキストの中に語り手の歴史観と評者の歴史観とを並置することで、いわば語りの相対化を図っているということである。
つまり、天理本は体験者による歴史語りに、その場を取り仕切る徳の高い僧が一段高いところからの批評を加え、語りの相対化を図るという独特の構想を持っていることがわかるのである。
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