第196回配信です。
一、前回配信の補足
もともと後醍醐天皇の皇太子は後二条皇子の邦良親王だった。
しかし、嘉暦元年(1326)三月二十日、邦良親王死去。
春宮候補者は四人。
持明院統側は量仁親王(光厳天皇)一人、大覚寺統側は三人。
恒明親王(亀山院皇子、1303ー51)
尊良親王(後醍醐皇子、?‐1337)
邦省親王(後二条皇子、邦良弟、1302‐75)
選定は難航し、四カ月後の七月二十四日、量仁親王立太子の節会。
p69
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神器なき践祚
九月二十日、それはまだ六波羅勢が笠置を包囲していた最中であるが、量仁親王は践祚した。十八日に鎌倉から秋田城介安達高景と二階堂貞藤が幕府の使者として上京し、関東申次の西園寺公宗に量仁親王の践祚を申し入れた。二十日、親王は六波羅から土御門東洞院殿(「正親町殿」とも称す)に行啓し、践祚。後伏見・花園両院は常磐井殿に御幸し、ここを仙洞御所とした(『増鏡』ほか)。後醍醐天皇が剣璽を携えて笠置に籠っていたから、先帝が不在で剣璽もないままの践祚ということになる。安徳天皇が三種の神器を帯同して平家一門と共に西下した際に、後白河院の院宣(「譲国詔〔じょうこくのみことのり〕」によって後鳥羽天皇が践祚した先例に倣って、後伏見院の詔を以て践祚が行われた(『践祚部類抄』)。剣は「昼〔ひ〕の御座〔おまし〕の御剣」を代用した(『竹向きが記』)。【中略】
三種の神器が揃わない中で践祚した光厳天皇にとって、宝剣と神璽を取り戻すことは最優先事項であった。先帝後醍醐を捕らえた直後から、後伏見院は、剣璽の引き渡しを重ねて求めている。しかし先帝は手放すことを渋っていた。『宸記』別記十月四日条には「今日剣璽を渡し奉るべきの由を武家に御仰せらる。猶御悋惜〔りんしゃく〕有るの間、難治の由を申す」とある。しかし、結局、翌五日には引き渡すことを承諾した。
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後醍醐は元弘元年(1331)九月以降の、光厳天皇の在位自体を全否定。
従って、光厳院(量仁親王)は皇太子に戻ってしまった。
しかし、それは後醍醐にとっても望ましい事態ではない。
そこで元弘三年(1333)十二月十日、小一条院(994‐1051)を先例として、後醍醐から特別に「太上天皇」の尊号を贈られる。
小一条院(敦明親王、994‐1051)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
光厳院は後醍醐による懐柔策を受け入れ、少なくとも建武新政期には自らの「太上天皇」の処遇に納得していた。
その後、建武三年(1336)二月、九州に落ちた尊氏に与えた「院宣」の文面は不明だが、天皇として「綸旨」を出したのではなく、「太上天皇」として「院宣」を与えたことは確実。
そして、尊氏が京都に戻ってから、同年六月七日、水無瀬宮の後鳥羽院御影堂に願文を納めるに際しても「太上天皇」として署名。
資料:深津睦夫氏『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』(その1)〔2024-10-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b935ddc503dfd51dcf338adccef2efaa
二、光厳院が「治天の君」として政務を執ることを正当化する論理
(1)「廃位」の否定
後醍醐にならって、元弘三年(1333)六月以降の、後醍醐天皇の在位自体を全否定。
自分は「廃位」されておらず、天皇として継続的に地位に就いている。
しかし、これは建武新政期の自身の行動に矛盾する。
また、建武新政期に、後醍醐が尊氏・直義等に与えた凡ての地位・所領等も否定することになる。
→実際上、「廃位」の否定は無理。
(2)後醍醐から与えられた「太上天皇」の地位は、決して「小一条院」のような名目的なものではない。
→しかし、仮に名目的な地位でないとしても、なぜ「治天の君」になれるかは後醍醐との関係では説明できず。
後醍醐が「治天の君」の地位を光厳に譲った、などという説明はおよそ不可能。
(3)革命論
光厳院が「治天の君」になれたのは、後醍醐とは無関係。
後醍醐から見れば、光厳院は「治天の君」を僭称しているだけ。
しかし、尊氏が戦争に勝利して「支配の正統性」を新たに確立。
光厳院は尊氏に推戴されて、後醍醐とは無関係に、新たに「治天の君」となった。
尊氏による「革命」があった。
実態としては(3)が正しいのではないか。
『太平記』第十九巻「光厳院殿重祚の御事」の「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」は、理論的にも正しい認識を示しているのではないか。
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光厳院殿重祚の御事
建武四年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ賜ふ。この君は、故相模入道崇鑑が亡びし時、御位に即けまゐらせたりしが、三年の内に天下反覆して、関東亡びはてしかば、その例いかがあるべからんと、諸人異儀多かりけれども、この将軍尊氏卿筑紫より攻め上り給ひし時、院宣をなされしもこの君なり。今また東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしもこの御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さぬ事なかるべきとて、尊氏卿平〔ひら〕に計らひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
されば、その比〔ころ〕、物にも覚えぬ田舎者ども、茶の会、酒宴の砌にては、そぞろごとなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」と、申し沙汰しけるこそ、をかしけれ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2844b23d43cf195bd74cfe1357212ac
もともと後醍醐天皇の皇太子は後二条皇子の邦良親王だった。
しかし、嘉暦元年(1326)三月二十日、邦良親王死去。
春宮候補者は四人。
持明院統側は量仁親王(光厳天皇)一人、大覚寺統側は三人。
恒明親王(亀山院皇子、1303ー51)
尊良親王(後醍醐皇子、?‐1337)
邦省親王(後二条皇子、邦良弟、1302‐75)
選定は難航し、四カ月後の七月二十四日、量仁親王立太子の節会。
p69
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神器なき践祚
九月二十日、それはまだ六波羅勢が笠置を包囲していた最中であるが、量仁親王は践祚した。十八日に鎌倉から秋田城介安達高景と二階堂貞藤が幕府の使者として上京し、関東申次の西園寺公宗に量仁親王の践祚を申し入れた。二十日、親王は六波羅から土御門東洞院殿(「正親町殿」とも称す)に行啓し、践祚。後伏見・花園両院は常磐井殿に御幸し、ここを仙洞御所とした(『増鏡』ほか)。後醍醐天皇が剣璽を携えて笠置に籠っていたから、先帝が不在で剣璽もないままの践祚ということになる。安徳天皇が三種の神器を帯同して平家一門と共に西下した際に、後白河院の院宣(「譲国詔〔じょうこくのみことのり〕」によって後鳥羽天皇が践祚した先例に倣って、後伏見院の詔を以て践祚が行われた(『践祚部類抄』)。剣は「昼〔ひ〕の御座〔おまし〕の御剣」を代用した(『竹向きが記』)。【中略】
三種の神器が揃わない中で践祚した光厳天皇にとって、宝剣と神璽を取り戻すことは最優先事項であった。先帝後醍醐を捕らえた直後から、後伏見院は、剣璽の引き渡しを重ねて求めている。しかし先帝は手放すことを渋っていた。『宸記』別記十月四日条には「今日剣璽を渡し奉るべきの由を武家に御仰せらる。猶御悋惜〔りんしゃく〕有るの間、難治の由を申す」とある。しかし、結局、翌五日には引き渡すことを承諾した。
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後醍醐は元弘元年(1331)九月以降の、光厳天皇の在位自体を全否定。
従って、光厳院(量仁親王)は皇太子に戻ってしまった。
しかし、それは後醍醐にとっても望ましい事態ではない。
そこで元弘三年(1333)十二月十日、小一条院(994‐1051)を先例として、後醍醐から特別に「太上天皇」の尊号を贈られる。
小一条院(敦明親王、994‐1051)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
光厳院は後醍醐による懐柔策を受け入れ、少なくとも建武新政期には自らの「太上天皇」の処遇に納得していた。
その後、建武三年(1336)二月、九州に落ちた尊氏に与えた「院宣」の文面は不明だが、天皇として「綸旨」を出したのではなく、「太上天皇」として「院宣」を与えたことは確実。
そして、尊氏が京都に戻ってから、同年六月七日、水無瀬宮の後鳥羽院御影堂に願文を納めるに際しても「太上天皇」として署名。
資料:深津睦夫氏『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』(その1)〔2024-10-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b935ddc503dfd51dcf338adccef2efaa
二、光厳院が「治天の君」として政務を執ることを正当化する論理
(1)「廃位」の否定
後醍醐にならって、元弘三年(1333)六月以降の、後醍醐天皇の在位自体を全否定。
自分は「廃位」されておらず、天皇として継続的に地位に就いている。
しかし、これは建武新政期の自身の行動に矛盾する。
また、建武新政期に、後醍醐が尊氏・直義等に与えた凡ての地位・所領等も否定することになる。
→実際上、「廃位」の否定は無理。
(2)後醍醐から与えられた「太上天皇」の地位は、決して「小一条院」のような名目的なものではない。
→しかし、仮に名目的な地位でないとしても、なぜ「治天の君」になれるかは後醍醐との関係では説明できず。
後醍醐が「治天の君」の地位を光厳に譲った、などという説明はおよそ不可能。
(3)革命論
光厳院が「治天の君」になれたのは、後醍醐とは無関係。
後醍醐から見れば、光厳院は「治天の君」を僭称しているだけ。
しかし、尊氏が戦争に勝利して「支配の正統性」を新たに確立。
光厳院は尊氏に推戴されて、後醍醐とは無関係に、新たに「治天の君」となった。
尊氏による「革命」があった。
実態としては(3)が正しいのではないか。
『太平記』第十九巻「光厳院殿重祚の御事」の「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」は、理論的にも正しい認識を示しているのではないか。
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光厳院殿重祚の御事
建武四年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ賜ふ。この君は、故相模入道崇鑑が亡びし時、御位に即けまゐらせたりしが、三年の内に天下反覆して、関東亡びはてしかば、その例いかがあるべからんと、諸人異儀多かりけれども、この将軍尊氏卿筑紫より攻め上り給ひし時、院宣をなされしもこの君なり。今また東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしもこの御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さぬ事なかるべきとて、尊氏卿平〔ひら〕に計らひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
されば、その比〔ころ〕、物にも覚えぬ田舎者ども、茶の会、酒宴の砌にては、そぞろごとなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」と、申し沙汰しけるこそ、をかしけれ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2844b23d43cf195bd74cfe1357212ac
「治天の君」である光厳院が、尊氏に「支配の正統性」を与えたのではなく、戦争に奇跡的に勝利した尊氏のカリスマ性が尊氏に「支配の正統性」を与え、その尊氏に推戴された光厳院が「治天の君」となった。
理論的にはすっきりするが、もちろん政治的には使えない論理。