学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0194 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その8)

2024-10-15 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第194回配信です。


一、前回配信の補足

『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p136以下
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 かゝるところに、越前の国金崎は翌年建武四年三月六日没落す。義貞は先立て囲みを出で、子息越後守自害しければ、一宮も御自害あり。春宮をば武士むかへとりたてまつりて、洛中へ入進〔いれまゐ〕らせけり。見たてまつる上下、むかしもいまも、いまだかゝる御事はなしとて、涙をながさぬ者ぞなかりける。此城に兵糧尽て後は、馬を害して食し、廿日あまり堪忍しけるとぞうけ給はる。いきながら鬼類の身となりける後生、をしはかられて哀なり。
 かゝりし間、東西南北の御敵、将軍の御旗のむかふ所に、誅罰くびすをめぐらさず、日月を追てぞ静謐しける。

【中略】(夢窓疎石の尊氏・直義評)

 去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
 或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899

光明天皇(1321-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

史実としては、光明天皇践祚は建武三年(1336)八月十五日。
しかし、践祚の時点では後醍醐は叡山にいて、十月十日になってようやく叡山を下り、花山院に入る。
十一月二日に花山院の後醍醐から東寺の光明天皇に剣璽渡御。
十二月二十一日、後醍醐は花山院を抜け出し、吉野に向かう。
吉野に赴いた後醍醐は、自らの皇位と年号「延元」の回復を宣言。
北朝に渡した三種の神器は「偽器」と主張。
そして、建武四年(延元二年、1337)十二月二十八日、太政官庁にて光明天皇の即位式。
践祚から一年四カ月以上経って、ようやく実現。
更に建武五年(暦応元年、1338)十一月十九日に大嘗会が行われ、光明天皇の皇位継承に関する儀式は完了。

仮に「春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて」が、光厳院の猶子である光明天皇の践祚・即位であるならば、践祚は建武四年三月の金ヶ崎落城の前であるが、即位は落城後となる。


二、「廿余年ノ夢」の問題

『太平記・梅松論の研究』p349以下
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 つぎに、上巻の後醍醐天皇が隠岐に流されるときの叙述をとりあげる。ここでは天皇の配流について、語り手の法印が以下のような感想を吐露しているところが注目されてきた。

光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ、見置事共ヲ思出テモ千行ノ涙袂ヲウルヲシ、筆海詞ノ林ヲ尽ス共、其時ノ悲ニハ可及、(上・十五ウ)

元弘二年(一三三二)の後醍醐天皇配流を「廿余年ノ夢」というからには、法印の語りはその二十年後、即ち文和元年(一三五二)頃になされているという設定なのだろう。そもそも菅は貞和五年成立説を提示するにあたり、本条を「廿余年ハ、十余年ヲ後ニ写シヒガメタルニヤアラン」と推測した。この点については五十嵐梅三郎氏や小川信氏によって周到に否定され、以後『梅松論』の成立時期は貞和五年より引き下げる方向で検討されてきた。しかし、五十嵐氏はこの記事をもとに、『梅松論』の成立を正平七年(文和元年)以後数年間と推定する一方で、小川氏は「廿余年」というのは物語上の仮託に過ぎないもので、作品の成立時期を特定する材料にはならないという見解を示した。確かにこの一節は、物語内で法印が語りを行っている時期を示していても、作品の執筆時を示すものではない。とはいえ、語りの時期を執筆時期と別に設定する必然性は、いまのところ見出しがたいのも事実である。とりあえず筆者は、右の一節を『梅松論』の成立時期を特定する材料の列に加えることに異を唱えない。ただし、五十嵐氏のように、成立時期を文和元年より数年の間に限定することには、慎重でありたい。というのも、「廿余年」という言い回しは極めて曖昧で、成立時期を文和元年から数年の内に限定できるほど厳密に用いられているとは考えにくいからである。仮にこの記事を論拠の一つに利用するにしても、少なくとも文和元年という起点は前後の幅をもって解釈されるべきだろう。
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『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p49以下
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凡、普天〔ふてん〕の下何〔いづ〕くも君の民にあらずといふことなけれども、御身に替てとゞめ奉る者もなし。蒼天霞覆〔おほひ〕ひて夕月顕を隠し、紅〔くれなゐ〕錦繍の地色を失ふ。花物いはざれども愁の顔〔かん〕ばせ顕しければ、浅ましなどもいふばかりなし。翌日八日一の宮は讃岐国へ、妙法院の宮は土佐国へ遷〔うつし〕奉るべきよし定りけるほどに、彼国の守護人各〔おのおの〕請取奉て都を出させ給ひける事の体〔てい〕ども、日月地に落ると申も、此時にやとぞおぼえし。光陰すでに移り来て、廿余年に成ぬれば、見をきし事ども思ひ遣るにつけても、千行の涙袖を潤し、筆のうみ詞の林しを尽しても、争〔いかで〕か其時の悲には及ぶべき。むかしより上として下を賞罰する事こそあれ、一人御遠行の例は未承〔いまだうけたまはらず〕。おそろしとぞ人申ける。
 保元には、崇徳院を讃岐国へ移し奉る。是は今度の事には不可准、其故は御兄弟御位諍給ひしかば、御弟後白川院の御計らひとして其沙汰に及びしなり。承久には後鳥羽院を隠岐国へ遷〔うつし〕奉り、是又、今度に比すべからず。其故は忠有て科〔とが〕なき関東三代将軍家の遺跡を可被亡天気有に依て、下を責給ひしかば天道のあたへざる理に帰して、遂に仙洞を隠岐国へ移し奉る。然といへども猶〔なほ〕武家は天命を恐て御孫の後堀川天皇を御位に付奉る。神妙の沙汰なりとぞ皆人申ける。今度は後嵯峨院の御遺勅を破て、如此の儀に及〔およぶ〕条、天命も計りがたし。いかゞあるべからんとおぼえし。此君御科なくして遠島に移され給ふ、叡慮のほど図り奉りて、御警固の武士ども皆涙をながさぬはなかりけり。
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資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680

「光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ」は隠岐配流から未来に向かっての二十余年ではなく、過去に遡っての二十余年なのではないか。
後醍醐が皇太子となったのは延慶元年(1308)九月。
元弘二年(1332)の隠岐配流の二十四年前。
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0193 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その7)

2024-10-15 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第193回配信です。


一、前回配信の補足

小助川元太氏は、天理本は「『梅松論』研究の本流からは外されてきた感がある」とされる。
しかし、やはり天理本は相当に変な本であり、軽視されるのは仕方ないのではないか。

資料:小助川元太氏「天理図書館本『梅松論』考」〔2024-10-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/373bcd05730053c69b8f97254216a49f

『梅松論』の偏見について〔2021-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568
0179 「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較(その1)〔2024-09-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03ec35968e6c1f7e1e5a372f8858bb72
資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680

延宝本(流布本)『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p45
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爰に後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻、遺勅に宣く、一の御子後深草院御即位あるべし。おりゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として御子孫永く在位の望をやめらるべし。次に二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代〔るいだい〕敢不可有断絶。子細有に依てなりと御遺命あり。是に依りて後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至るまで也。次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年より弘安十年に至る迄なり。後嵯峨院崩御以後、此三代は御譲にまかせて御治世相違なきところに、後深草院の御子伏見院は一の御子の御子孫なるに御即位ありて正応元年より永仁六年に至る。次に伏見院の御子持明院、正安元年より同三年に至〔いたる〕。此二代は関東のはからひよこしまなる沙汰あり。

史実では文永九年(1272)崩御の後嵯峨院が、流布本では「寛元年中に崩御の刻」とある。
古本系の京大本も「寛元年中崩御ノキサミ違勅ニ宣ク」と同じ。
(なお、古本系の寛正本は下巻のみなので対応する箇所なし)
天理本では「寛元々年より御在位四年、文永九年に崩御の刻み」と、当該部分に限れば正確。
しかし、続く文章は支離滅裂。

『行誉編『壒嚢鈔』の研究』p253
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 爰後嵯峨院<邦仁>寛元々年より御在位四年、文永九年に崩御の刻み、違勅有て云く、一の御子久仁<後深草院>、先御受禅あるへし。下位〔をりい〕の後は長講堂領百八十箇所を以て当流の御領としてご子孫は長く御在位の望を止らるへし。次に二の御子恒仁<亀山院>御即位、御治世は長く当御流にあるへし。是に依て、後深草院御即位あり。御治世、宝治元年より正元々年まて十三年也。次に亀山院、御在位十五年、文応元年より文衛十一年に至る。次に亀山の御子後宇多院<世仁>、御在位十三年、建治元年より弘安十年に至る。此三代は御譲に任て御治世相違なし。然に、文永十年二月十七日に後嵯峨院崩御の後、関東の計として伏見院<熈仁>を御位に即奉。後深草院太子にて御座す也。正応元年より永仁六年まで御治世十一年也。次に後伏見院<胤仁号持明院とも>、伏見院太子、後深草の御孫也。御治世、正安元年より同き三年に至る。この二代の御治世は、関東の沙汰、横しまなる者也。
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天理本は最古本でありながら、恣意的な改竄が多く信頼性に欠ける。
やはり京大本が一番信頼できる。
冒頭の「先代様」の議論も、笑い話の雰囲気がきちんと残っていて、「原梅松論」に一番近いのではないか。
天理本が「禅僧」を「筑紫人」に設定した点は極めて興味深い。
「原梅松論」が「筑紫人」(少弐氏関係者)によって作られた可能性は排除できない。


二、「光厳院重祚」以外の解釈の可能性

小秋元段氏は京大本に基づいて『太平記』の「光厳院重祚」記事との関連性を指摘。

0187 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その1)(その2)〔2024-10-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc186b4179abe2ffad92c33120b3dc6c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b942d75fd1df93f0dca1b8077d6496e9

(1)京大本
下巻冒頭:「九州より御帰洛以後、光厳院重祚ありて」
下巻末尾:「サル程ニ春宮<本景仁、光厳院>受禅アルヘシトテ」

(2)寛正本
下巻冒頭:「九州より御帰洛以後、光厳院重祚ありて」
下巻末尾:「去程ニ春宮景仁ノ御子受禅アルヘシトテ」

(3)天理本
下巻冒頭:「将軍都ニ責入給テ…」で下巻が始まっており、京大本・寛正本に対応する部分なし。
下巻末尾:「去程ニ春宮、光厳院ノ御子受禅アルヘシトテ」

(4)延宝本(流布本)
下巻冒頭:「建武三年正月十一日午刻に、将軍都にせめ入給て」で下巻が始まっており、京大本・寛正本に対応する部分なし。
下巻末尾:「去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて」

下巻冒頭は建武三年(1336)正月、尊氏が新田義貞軍を追って関東から京都に攻め上った時期。
他方、下巻末尾の「去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて」云々は、建武四年(1337)三月、越前金崎城落城で合戦記事が終わってから、夢窓疎石の尊氏・直義評を挟んだ後に出てくる話。

資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
どんなに少なく見積もっても、二つの記事の間には一年二カ月以上の隔たりがある。
そして、金崎城落城場面で、

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 かゝるところに、越前国金崎は翌年建武四年三月六日没落す。義貞は先立て囲みを出で、子息越後守〔新田義顕〕自害しければ、一宮〔尊良親王〕も御自害あり。春宮〔恒良親王〕をば武士むかへとりたてまつりて、洛中へ入進らせけり。
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と、恒良親王が「春宮」と記された後、夢窓疎石の尊氏・直義評を挟んだ後に「去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて」云々として、新しい「春宮」が登場する。
小秋元氏は下巻冒頭と下巻末尾の記事を一緒にして議論しているように思われるが、ここは区別すべきではないか。
下巻冒頭が「光厳院重祚」記事だったとしても、下巻末尾は別ではないか。
即ち、下巻末尾は光厳院の実弟であり、光厳院の猶子として践祚した光明天皇のことを語っている可能性があるのではないか。
史実としては光明天皇の践祚は建武三年(1336)八月十五日ではあり、翌年三月の金崎城落城より先行するが、この時期の時間の流れは『梅松論』も『太平記』も相当に不正確。
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