第194回配信です。
一、前回配信の補足
『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p136以下
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かゝるところに、越前の国金崎は翌年建武四年三月六日没落す。義貞は先立て囲みを出で、子息越後守自害しければ、一宮も御自害あり。春宮をば武士むかへとりたてまつりて、洛中へ入進〔いれまゐ〕らせけり。見たてまつる上下、むかしもいまも、いまだかゝる御事はなしとて、涙をながさぬ者ぞなかりける。此城に兵糧尽て後は、馬を害して食し、廿日あまり堪忍しけるとぞうけ給はる。いきながら鬼類の身となりける後生、をしはかられて哀なり。
かゝりし間、東西南北の御敵、将軍の御旗のむかふ所に、誅罰くびすをめぐらさず、日月を追てぞ静謐しける。
【中略】(夢窓疎石の尊氏・直義評)
去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
光明天皇(1321-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p136以下
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かゝるところに、越前の国金崎は翌年建武四年三月六日没落す。義貞は先立て囲みを出で、子息越後守自害しければ、一宮も御自害あり。春宮をば武士むかへとりたてまつりて、洛中へ入進〔いれまゐ〕らせけり。見たてまつる上下、むかしもいまも、いまだかゝる御事はなしとて、涙をながさぬ者ぞなかりける。此城に兵糧尽て後は、馬を害して食し、廿日あまり堪忍しけるとぞうけ給はる。いきながら鬼類の身となりける後生、をしはかられて哀なり。
かゝりし間、東西南北の御敵、将軍の御旗のむかふ所に、誅罰くびすをめぐらさず、日月を追てぞ静謐しける。
【中略】(夢窓疎石の尊氏・直義評)
去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
光明天皇(1321-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
史実としては、光明天皇践祚は建武三年(1336)八月十五日。
しかし、践祚の時点では後醍醐は叡山にいて、十月十日になってようやく叡山を下り、花山院に入る。
十一月二日に花山院の後醍醐から東寺の光明天皇に剣璽渡御。
十二月二十一日、後醍醐は花山院を抜け出し、吉野に向かう。
吉野に赴いた後醍醐は、自らの皇位と年号「延元」の回復を宣言。
北朝に渡した三種の神器は「偽器」と主張。
そして、建武四年(延元二年、1337)十二月二十八日、太政官庁にて光明天皇の即位式。
践祚から一年四カ月以上経って、ようやく実現。
更に建武五年(暦応元年、1338)十一月十九日に大嘗会が行われ、光明天皇の皇位継承に関する儀式は完了。
仮に「春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて」が、光厳院の猶子である光明天皇の践祚・即位であるならば、践祚は建武四年三月の金ヶ崎落城の前であるが、即位は落城後となる。
二、「廿余年ノ夢」の問題
『太平記・梅松論の研究』p349以下
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つぎに、上巻の後醍醐天皇が隠岐に流されるときの叙述をとりあげる。ここでは天皇の配流について、語り手の法印が以下のような感想を吐露しているところが注目されてきた。
光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ、見置事共ヲ思出テモ千行ノ涙袂ヲウルヲシ、筆海詞ノ林ヲ尽ス共、其時ノ悲ニハ可及、(上・十五ウ)
元弘二年(一三三二)の後醍醐天皇配流を「廿余年ノ夢」というからには、法印の語りはその二十年後、即ち文和元年(一三五二)頃になされているという設定なのだろう。そもそも菅は貞和五年成立説を提示するにあたり、本条を「廿余年ハ、十余年ヲ後ニ写シヒガメタルニヤアラン」と推測した。この点については五十嵐梅三郎氏や小川信氏によって周到に否定され、以後『梅松論』の成立時期は貞和五年より引き下げる方向で検討されてきた。しかし、五十嵐氏はこの記事をもとに、『梅松論』の成立を正平七年(文和元年)以後数年間と推定する一方で、小川氏は「廿余年」というのは物語上の仮託に過ぎないもので、作品の成立時期を特定する材料にはならないという見解を示した。確かにこの一節は、物語内で法印が語りを行っている時期を示していても、作品の執筆時を示すものではない。とはいえ、語りの時期を執筆時期と別に設定する必然性は、いまのところ見出しがたいのも事実である。とりあえず筆者は、右の一節を『梅松論』の成立時期を特定する材料の列に加えることに異を唱えない。ただし、五十嵐氏のように、成立時期を文和元年より数年の間に限定することには、慎重でありたい。というのも、「廿余年」という言い回しは極めて曖昧で、成立時期を文和元年から数年の内に限定できるほど厳密に用いられているとは考えにくいからである。仮にこの記事を論拠の一つに利用するにしても、少なくとも文和元年という起点は前後の幅をもって解釈されるべきだろう。
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『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p49以下
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凡、普天〔ふてん〕の下何〔いづ〕くも君の民にあらずといふことなけれども、御身に替てとゞめ奉る者もなし。蒼天霞覆〔おほひ〕ひて夕月顕を隠し、紅〔くれなゐ〕錦繍の地色を失ふ。花物いはざれども愁の顔〔かん〕ばせ顕しければ、浅ましなどもいふばかりなし。翌日八日一の宮は讃岐国へ、妙法院の宮は土佐国へ遷〔うつし〕奉るべきよし定りけるほどに、彼国の守護人各〔おのおの〕請取奉て都を出させ給ひける事の体〔てい〕ども、日月地に落ると申も、此時にやとぞおぼえし。光陰すでに移り来て、廿余年に成ぬれば、見をきし事ども思ひ遣るにつけても、千行の涙袖を潤し、筆のうみ詞の林しを尽しても、争〔いかで〕か其時の悲には及ぶべき。むかしより上として下を賞罰する事こそあれ、一人御遠行の例は未承〔いまだうけたまはらず〕。おそろしとぞ人申ける。
保元には、崇徳院を讃岐国へ移し奉る。是は今度の事には不可准、其故は御兄弟御位諍給ひしかば、御弟後白川院の御計らひとして其沙汰に及びしなり。承久には後鳥羽院を隠岐国へ遷〔うつし〕奉り、是又、今度に比すべからず。其故は忠有て科〔とが〕なき関東三代将軍家の遺跡を可被亡天気有に依て、下を責給ひしかば天道のあたへざる理に帰して、遂に仙洞を隠岐国へ移し奉る。然といへども猶〔なほ〕武家は天命を恐て御孫の後堀川天皇を御位に付奉る。神妙の沙汰なりとぞ皆人申ける。今度は後嵯峨院の御遺勅を破て、如此の儀に及〔およぶ〕条、天命も計りがたし。いかゞあるべからんとおぼえし。此君御科なくして遠島に移され給ふ、叡慮のほど図り奉りて、御警固の武士ども皆涙をながさぬはなかりけり。
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資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680
「光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ」は隠岐配流から未来に向かっての二十余年ではなく、過去に遡っての二十余年なのではないか。
後醍醐が皇太子となったのは延慶元年(1308)九月。
元弘二年(1332)の隠岐配流の二十四年前。