学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0192 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その6)

2024-10-14 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第192回配信です。


一、前回配信の補足

田中義成(たなかよしなり、1860‐1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E6%88%90

緇問(しもん)
緇(し)黒、黒い衣装
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0002824300

『行誉編『壒嚢鈔』の研究』p7
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 『壒嚢鈔』を始めから通読してみると、他の辞書的編纂物と違い、編者行誉の個性や主張が随所に見られることに気づく。もちろん同時代の他の古辞書にも自ずから編者の個性は出ているのであろう。だが、『壒嚢鈔』の場合は行誉自身の言葉が随所に見られる点で、他の辞書的編纂物とは一線を画すのである。しかも、古辞書として研究する場合、『壒嚢鈔』は非常に扱いにくい書物である。なぜならば、『壒嚢鈔』は巻一から四までの素問(一般的な質問)と巻五から七までの緇問(仏教に関する質問)の二部に大別されるよりほか、辞書あるいは類書としての分類を持たないからである。
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胎卵湿化(たいらんしっけ)
四生(ししょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%94%9F


二、天理本の内容と特色

0191 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その5)〔2024-10-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a21cdf70502f690c1ad9e04cb9cfec6f

資料:小助川元太氏「天理図書館本『梅松論』考」〔2024-10-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/373bcd05730053c69b8f97254216a49f

(1)天理本の登場人物

「御室の御所より、某の法印」(齢ひ鳩杖に及へる老僧の誠に貴気)
「年の程三五、二八と覚しき少人二人」(共に容顔美麗也、芙蓉の皃せ声花かに……)
「晩出家と覚敷て、月代見る禅僧」
「出世両人」
「其外侍法師、遁世者なんとあまたそ候ひける」

(2)発言内容

・「遁世者」(粗忽気なる声)
  「鎌倉建長寺の仏殿に地蔵千体、毘盧宝閣に釈迦千体、円通閣に観音千体」   
  「関東様には古めきたる事を先代様と申也」
・「青侍法師」
  「地蔵観音の二菩薩は闡提の悲願御座して…」
  「此二菩薩を闡提と申様に、世間に其期無き奔走を致し、或は宿習に依て
   貧なる人の過分の福徳を願、加様の事を闡提様と申」   
・「若き侍法師」
  「只何事も過にし方を先代と申」
・「出世」(窈窕〔なまめい〕たる声)
  三人の見解を否定。特に「過行事を皆強ち先代と可申に非す」
・「此入道=禅僧」(少し訛〔なま〕れる老声)
  「元弘年中に滅亡せし関東の事にてそ候覧」
・「最初に尋給し少童」
  「さて其主をは誰とか申候」
・「入道=禅僧」
  「答て云く、此御尋こそ大事に侍れ。代の主と申さは、……」

この後、「入道=禅僧」の話が続き、下巻末尾で「法印」が全体を纏める批評を行う。


三、京大本・天理本の主たる異同

京大本・天理本とも御室(仁和寺)から来た法印を中心とする人々が登場。
天理本では「晩出家と覚敷て、月代見る禅僧」が参加。
→下巻終わり近くで夢窓疎石の発言が極めて重要視されることへの違和感が若干減少。

京大本は法印が語り手。
しかし、天理本では禅僧が主たる語り手であり、法印は最後に批評を述べるのみ。

聞き手は京大本では「古尼比丘尼一二人」。
天理本は「予」。


四、京大本・天理本における「先代」論議の意味

京大本では稚児の「当世何事も誠しく穏便なる事をば先代様と申て貴賤口遊候、何なる謂ぞや承度候」という質問はいささか唐突。
これに対し、天理本では「先代様の人なんめりと申す声して」誰かが通り過ぎたところ、稚児が「只今申つる先代様とは何事にて侍るぞ」と質問しており、話の流れは自然。

京大本では論議の始めに「少児の片口にてかね黒に打笑て」とあり、「少人打笑て、面々田舎人などに対して、識者立し給人者、仏千体二闡提は、さては御誤にて御渡候けるとて」ともあって、稚児を狂言回しとした笑い話の雰囲気が漂っている。
天理本では、僅かに遁世者が「粗忽気」とある以外は笑い話の雰囲気はない。
特に「観音地蔵の二菩薩は闡提の悲願…」と語る「青侍法師」は生真面目な仏教話を長々と述べる。

「先代様」は「先代」の敬語か、それとも「先代」の様式か。
「只今申つる先代様とは何事にて侍るぞ。若し先代と申所の侍て、彼こに住む人の風情の世に替て有やらん」、「関東様には古めきたる事を先代様と申也」、「加様の事を闡提様と申と承り侍る」という表現を見ると、「先代」の様式であろう。

「先代」と「先代様」には若干のずれがある。
京大本は「先代様と申て貴賤口遊」とあり、「先代」の一般的な意味・用法はともかくとして、「先代様」は当時の流行語として特別な意味があったのではないか。
「先代様」は関東に関連していて、京都の人が、「先代」の古臭さと過剰性をからかっていたのではないか。

ものすごく強大だと思われていた鎌倉幕府は、本当に僅か一カ月足らずで滅亡してしまった。
圧倒的な存在感を誇り、人々に息苦しさを押し付けていた鎌倉幕府が、あっという間に雲散霧消してしまった。

もしも名越高家が久我縄手で死ななかったら(その2)〔2021-07-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5b71084d1cef3bc93d1516d1b3c1fd2

抑圧がなくなった解放感と、あれはいったい何だったのかという驚き、そして、あの程度のものをみんな恐れていたのだなあ、という滑稽感。

天理本では改変者行誉の個性が反映して仏教臭く、説教臭い話になっているが、京大本には「先代」「先代様」への滑稽感と軽侮の雰囲気が残っているのではないか。

京大本の先代論議は、討幕から間もない時期の雰囲気を直接感じていた人が、一般に考えられているよりも相当早い段階で書いたのではないか。
そして、「光厳天皇重祚」の奇妙な話も、当時の不正確な情報環境、朝廷を軽侮する雰囲気を反映していて、これも京大本が(夢窓疎石の尊氏・直義評の部分を除き)相当早い時期に成立したことを示しているのではないか。

鈴木由美氏の「先代・中先代・当御代」(『日本歴史』790号、吉川弘文館、2014)は、一般論としての「先代」の用法は丁寧かつ網羅的に検討されているが、建武の新政とその崩壊直後の時期の、特別な流行語としての「先代」「先代様」を捉えていないのではないか。

「廿日先代」に明らかに軽侮の意味が込められているように、「先代」「中先代」にも軽侮の意味が込められているのではないか。
コメント
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