学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その4)

2024-10-30 | 鈴木小太郎チャンネル2024
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e

『日本史籍論集 下巻』p151以下
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 一〇回以上記載されている諸氏が、足利一門では細川、足利被官では高の各一氏、外様では赤松・少弐・大友の三氏のみであることは諸本に共通する現象である。但し流布本では細川・少弐氏が相匹敵し、次には高・赤松両氏が相拮抗しているのに対して、京大本と天理本は、少弐・細川・高・赤松の順であるのが異なり、ことに京大本では少弐氏が際立って多く、細川氏は少弐氏の三分の二程度の頻度を示すに過ぎない。なお寛正本は下巻のみの数値であるが、他の三本でも少弐氏ほか数氏の記事は下巻に限られるので、寛正本における少弐氏の頻度は流布本と同様で、京大本と天理本の間にあることが知られる。かくて主に寛正本と京大本から判断すると、原本でもおそらく細川氏関係よりも少弐氏関係の記事の比率がかなり大であったことを推察しうるのである。
 さらに寛正本・京大本および天理本に現れる細川関係記事と少弐関係記事の内容を検討すると、細川氏は主として「細川ノ人々」として一族単位で叙述されており、個人名としては室津における諸将分遣記事に従兄弟七人が列挙されている外は、頼春と定禅・直俊兄弟の活動がそれぞれ数ヵ所に記されているに過ぎない。ところが少弐氏の活動は、大部分が妙恵と頼尚の個人名で記され、この父子の言動が多くの感懐を交えて頗る詳細に叙述されている。細川一族を賞揚した記事は、僅かに建武三年正月廿七日の一族の奮戦を、「相残ル敵ヲ追払ケレハ御感再三也キ其比卿定禅ヲハ鬼神ノ様ニソ申セシ」(寛正本)とした一個所のみである。しかるに少弐父子については、九州に奔った尊氏・直義が少弐氏の協力によって危機を脱したのは事実にせよ、『梅松論』は妙恵の討死を口を極めて称賛し、尊氏・直義がその死を悼んだことを縷述し、頼尚の勇武を讃え、その尊氏に対する進言を数ヵ所に詳述するなど、過褒ともいうべき内容で満たされている。
『梅松論』の細川氏および少弐氏関係の記事を『太平記』のそれらと比較すれば、『梅松論』の叙述の不均衡は一層明らかである。『太平記』は定禅の勇猛振りのごときは『梅松論』に劣らず活写しているが、少弐父子の活動については『梅松論』よりも遥かに簡単に述べているに過ぎない。一方『太平記』が妙恵自刃の件りに、少弐一族の大半が菊池方に内応した旨を伝えているのに対して、『梅松論』は全くそのことに触れず、一族家人五百余人が妙恵とともに討死自害したとしているのである。要するに『梅松論』の「溢美」という潜鋒の評価は、正に少弐氏関係の記事に対して向けられるべきものといわなければならない。
 もちろん、だからといって、『梅松論』原本の作者を少弐氏の直接関係者とするのは速断であろう。本書の記述が上巻では全く少弐氏の動向に触れず、また足利一門の中では細川氏に著しく片寄っているのは事実であるし、外様諸将の中では少弐父子に次ぐ比重を以て赤松円心の言動を詳述していることも認めなければならない。それゆえ、原作者は幕府関係者に相違ないとしても、必ずしも特定の一氏の行動のみを記述しようと意図したわけではなく、偶々少弐氏、次いで細川氏、さらに赤松・高などの諸氏の所伝を利用し易い立場にあったとみることは不当でない。しかしながらこの原作者に、少弐氏に格別の親近感を抱く何等かの事情が存在したことだけは否定しえまい。諸本に、少弐頼尚の旗に綾藺笠を付けてあることを特記し、さらに京大本は「是ハ天神眷属御霊ノ影向アテ蝉口ニ御座ノ故ニ昔ヨリ当家庭訓也」とし、天理本、流布本にも同様の語句がある。また諸本とも、尊氏勢の奇瑞を述べて「此合戦ノ度ゴトニ天神ノ使者御霊宮影向アテ光ヲ輝カシ給」(寛正本)という如き記述を載せている。そもそも本書が北野の神宮寺毘沙門堂における物語という設定をとり、飛梅老松に因んだ書名を付けたという記事で結んでいることも、或は天満天神・大宰府・少弐氏という縁由に沿って解釈すべき事柄であるかも知れないのである。
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資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)

2024-10-30 | 鈴木小太郎チャンネル2024
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

『日本史籍論集 下巻』p149以下
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 著作年代について最も有力であったのは、菅政友の貞和五年(一三四九)説であった(『菅政友全集』所収「梅松論二冊」)。政友は自説の論拠を流布本『梅松論』巻末の崇光院即位の記事とそれに続く「将軍の威風四海の逆浪を平け干戈といふ事も聞えす」という叙述に置き、上巻後醍醐天皇隠岐遷幸(元弘二年、一三三二)の記事の「光陰既にうつり来て廿余年に成ぬれば見をきし事とも思ひ出すにつけても」云々の語句を、「廿余年ハ、十余年ヲ後ニ写シヒカメタルニヤアラン」と主張して、自説の年代に適合させようとした。この政友の説は、その後殆ど無条件に諸氏の踏襲するところとなったが、只、五十嵐梅三郎氏は前掲論文中に、政友の十余年云々は「結局憶測に過ぎない」として、「廿余年という文句に従って(中略)尠くとも正平七年以後数年間に作られたものであらう」と主張され、また釜田氏は『心の花』所収論文に「廿余年は十余年を後に移しひがめたのではないかと論定したのは、むしろ窮屈で、私は貞和五年以後(下限を十年間と定めない)の執筆とみるのを妥当とする」と述べておられる。五十嵐氏の説は明快ではあるが論拠が充分でなく、釜田氏の見解は政友の説に半信半疑ともいうべき感想に留まっている。
 諸本を検討すると、右の隠岐遷幸の部分は、管見に触れた流布本系写本にすべて「廿余年」とあるばかりでなく、京大本には「光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ見置事共ヲ思出テモ」とあり、天理本には「光陰移リ来テ過ニシ方廿余年ノ夢ナレハ見置事共ヲ思出ルニ」とあって、「廿余年」はおそらく原本以来の語句であり、写しひがめたという政友の憶測は全く当っていないことが判明し、ここに正平七年(文和元年、一三五二)以後という五十嵐氏の主張は、始めて積極的な論拠を獲得するのである。しかもこの「廿余年」は、「何レノ年ニヤ」という物語上の仮託の年に過ぎず、著述年代を正平七年以後数年間に限定する必然性さえ存在しない。本書が尊氏について「何ナル御大酒ノ後モ一座数尅ノ工夫ヲ成シ給シ也」(寛正本)という過去形を用い、義詮については「実ニ末代ニ永将軍ニテ御座アルヘキ瑞相カトソ覚シ」(京大本)と、将軍就職を予見しているような口吻で叙述しているところから見れば、或は本書の成立時期を尊氏が没して義詮が将軍職を継いだ延文三年(一三五八)以後とする推測も成立しうるのではないか。
 本書の著者については、「足利家属」ないし「僧夢窓之徒」とする説(前掲書陵部本所収、彰考館某の識語)、玄恵とする説(同上所収平祖興子璣「読梅松論」、『南山巡狩録』巻七頭注)、『難太平記』にいう細川和氏の夢想記を本書に当てる説(栗山潜鋒「弁梅松論」)が、江戸時代に提唱されている。細川和氏とする説は既に菅政友が否定しているが、和氏の没年が康永元年(一三三八)と認められること(『国学院雑誌』六七巻八号所収拙稿参照)からも、問題にならない。玄恵著作説は八木格治氏「梅松論とその荷担者」(『京都府立園部高等学校研究紀要』第六集、昭和三十三年)にも「一の仮説」として主張されているが、畢竟根拠に乏しい想像説であり、右のように著述年代が少なくとも正平七年以後と認められる以上、観応元年(一三五〇)に没した玄恵の作ではありえない。
 ところで、五十嵐氏は前掲論文に、『梅松論』は細川一族の記事を最も詳細に記し、これを賞揚しているとして、作者は足利氏を尊敬し、足利方の内部事情に通じていた事、夢窓国師と関係が深かった事などとともに、細川一族に関係のあった者とされた。次に井上良信氏は、折角流布本と京大本との細川関係記事の差異に着目されながら、京大本を後出と見る先入見のために、やはり『梅松論』の著者を細川関係者と主張された。五十嵐・井上両氏は流布本を基として考察されたため、結局「此書記細川氏功、頗為溢美」とする栗山潜鋒の見解を敷衍する結果となったのである。さらに冒頭に触れたように、釜田氏も原本を主として細川氏の口伝とする立場をとっておられる。
 けれども、本稿の検討によって、細川一族に対する讃美・顕彰の多くは流布本の付加した記事に外ならないことが明らかになった以上、細川氏関係者説が原作者に対してよりも流布本の作者(改作者)に帰せられるべきものであることは、もはや多言を要しない筈である。ここに諸本に現れた足利方の主な武将に名字に分けて、その頻度を一覧表にすると上のようになる。

     足利方主要武将名頻度表
    流布本 京大本 天理本 寛正本
   (類従本)        (下巻)
斯波  5    5    5    5
渋川  3    2    3    0
畠山  2    2    1    0
吉良  1    1    1    1
今川  4    4    4    4
一色  2    2    2    2
二木  9    9    9    8
細川  64    45    42    37
上杉  5    4    7    3
高   22    24    24    15
小山  6    6    6    3
小笠原 5    5    5    3
土岐  1    1    1    1
佐々木 3    3    2    3
赤松  22    21    20    16
河野  2    2    2    2
大内  2    2    2    2
厚東  4    2    3    2
少弐  64    71    58    66
大友  17    18    14    13

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