資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e
『日本史籍論集 下巻』p151以下
-------
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e
『日本史籍論集 下巻』p151以下
-------
一〇回以上記載されている諸氏が、足利一門では細川、足利被官では高の各一氏、外様では赤松・少弐・大友の三氏のみであることは諸本に共通する現象である。但し流布本では細川・少弐氏が相匹敵し、次には高・赤松両氏が相拮抗しているのに対して、京大本と天理本は、少弐・細川・高・赤松の順であるのが異なり、ことに京大本では少弐氏が際立って多く、細川氏は少弐氏の三分の二程度の頻度を示すに過ぎない。なお寛正本は下巻のみの数値であるが、他の三本でも少弐氏ほか数氏の記事は下巻に限られるので、寛正本における少弐氏の頻度は流布本と同様で、京大本と天理本の間にあることが知られる。かくて主に寛正本と京大本から判断すると、原本でもおそらく細川氏関係よりも少弐氏関係の記事の比率がかなり大であったことを推察しうるのである。
さらに寛正本・京大本および天理本に現れる細川関係記事と少弐関係記事の内容を検討すると、細川氏は主として「細川ノ人々」として一族単位で叙述されており、個人名としては室津における諸将分遣記事に従兄弟七人が列挙されている外は、頼春と定禅・直俊兄弟の活動がそれぞれ数ヵ所に記されているに過ぎない。ところが少弐氏の活動は、大部分が妙恵と頼尚の個人名で記され、この父子の言動が多くの感懐を交えて頗る詳細に叙述されている。細川一族を賞揚した記事は、僅かに建武三年正月廿七日の一族の奮戦を、「相残ル敵ヲ追払ケレハ御感再三也キ其比卿定禅ヲハ鬼神ノ様ニソ申セシ」(寛正本)とした一個所のみである。しかるに少弐父子については、九州に奔った尊氏・直義が少弐氏の協力によって危機を脱したのは事実にせよ、『梅松論』は妙恵の討死を口を極めて称賛し、尊氏・直義がその死を悼んだことを縷述し、頼尚の勇武を讃え、その尊氏に対する進言を数ヵ所に詳述するなど、過褒ともいうべき内容で満たされている。
『梅松論』の細川氏および少弐氏関係の記事を『太平記』のそれらと比較すれば、『梅松論』の叙述の不均衡は一層明らかである。『太平記』は定禅の勇猛振りのごときは『梅松論』に劣らず活写しているが、少弐父子の活動については『梅松論』よりも遥かに簡単に述べているに過ぎない。一方『太平記』が妙恵自刃の件りに、少弐一族の大半が菊池方に内応した旨を伝えているのに対して、『梅松論』は全くそのことに触れず、一族家人五百余人が妙恵とともに討死自害したとしているのである。要するに『梅松論』の「溢美」という潜鋒の評価は、正に少弐氏関係の記事に対して向けられるべきものといわなければならない。
もちろん、だからといって、『梅松論』原本の作者を少弐氏の直接関係者とするのは速断であろう。本書の記述が上巻では全く少弐氏の動向に触れず、また足利一門の中では細川氏に著しく片寄っているのは事実であるし、外様諸将の中では少弐父子に次ぐ比重を以て赤松円心の言動を詳述していることも認めなければならない。それゆえ、原作者は幕府関係者に相違ないとしても、必ずしも特定の一氏の行動のみを記述しようと意図したわけではなく、偶々少弐氏、次いで細川氏、さらに赤松・高などの諸氏の所伝を利用し易い立場にあったとみることは不当でない。しかしながらこの原作者に、少弐氏に格別の親近感を抱く何等かの事情が存在したことだけは否定しえまい。諸本に、少弐頼尚の旗に綾藺笠を付けてあることを特記し、さらに京大本は「是ハ天神眷属御霊ノ影向アテ蝉口ニ御座ノ故ニ昔ヨリ当家庭訓也」とし、天理本、流布本にも同様の語句がある。また諸本とも、尊氏勢の奇瑞を述べて「此合戦ノ度ゴトニ天神ノ使者御霊宮影向アテ光ヲ輝カシ給」(寛正本)という如き記述を載せている。そもそも本書が北野の神宮寺毘沙門堂における物語という設定をとり、飛梅老松に因んだ書名を付けたという記事で結んでいることも、或は天満天神・大宰府・少弐氏という縁由に沿って解釈すべき事柄であるかも知れないのである。
-------
さらに寛正本・京大本および天理本に現れる細川関係記事と少弐関係記事の内容を検討すると、細川氏は主として「細川ノ人々」として一族単位で叙述されており、個人名としては室津における諸将分遣記事に従兄弟七人が列挙されている外は、頼春と定禅・直俊兄弟の活動がそれぞれ数ヵ所に記されているに過ぎない。ところが少弐氏の活動は、大部分が妙恵と頼尚の個人名で記され、この父子の言動が多くの感懐を交えて頗る詳細に叙述されている。細川一族を賞揚した記事は、僅かに建武三年正月廿七日の一族の奮戦を、「相残ル敵ヲ追払ケレハ御感再三也キ其比卿定禅ヲハ鬼神ノ様ニソ申セシ」(寛正本)とした一個所のみである。しかるに少弐父子については、九州に奔った尊氏・直義が少弐氏の協力によって危機を脱したのは事実にせよ、『梅松論』は妙恵の討死を口を極めて称賛し、尊氏・直義がその死を悼んだことを縷述し、頼尚の勇武を讃え、その尊氏に対する進言を数ヵ所に詳述するなど、過褒ともいうべき内容で満たされている。
『梅松論』の細川氏および少弐氏関係の記事を『太平記』のそれらと比較すれば、『梅松論』の叙述の不均衡は一層明らかである。『太平記』は定禅の勇猛振りのごときは『梅松論』に劣らず活写しているが、少弐父子の活動については『梅松論』よりも遥かに簡単に述べているに過ぎない。一方『太平記』が妙恵自刃の件りに、少弐一族の大半が菊池方に内応した旨を伝えているのに対して、『梅松論』は全くそのことに触れず、一族家人五百余人が妙恵とともに討死自害したとしているのである。要するに『梅松論』の「溢美」という潜鋒の評価は、正に少弐氏関係の記事に対して向けられるべきものといわなければならない。
もちろん、だからといって、『梅松論』原本の作者を少弐氏の直接関係者とするのは速断であろう。本書の記述が上巻では全く少弐氏の動向に触れず、また足利一門の中では細川氏に著しく片寄っているのは事実であるし、外様諸将の中では少弐父子に次ぐ比重を以て赤松円心の言動を詳述していることも認めなければならない。それゆえ、原作者は幕府関係者に相違ないとしても、必ずしも特定の一氏の行動のみを記述しようと意図したわけではなく、偶々少弐氏、次いで細川氏、さらに赤松・高などの諸氏の所伝を利用し易い立場にあったとみることは不当でない。しかしながらこの原作者に、少弐氏に格別の親近感を抱く何等かの事情が存在したことだけは否定しえまい。諸本に、少弐頼尚の旗に綾藺笠を付けてあることを特記し、さらに京大本は「是ハ天神眷属御霊ノ影向アテ蝉口ニ御座ノ故ニ昔ヨリ当家庭訓也」とし、天理本、流布本にも同様の語句がある。また諸本とも、尊氏勢の奇瑞を述べて「此合戦ノ度ゴトニ天神ノ使者御霊宮影向アテ光ヲ輝カシ給」(寛正本)という如き記述を載せている。そもそも本書が北野の神宮寺毘沙門堂における物語という設定をとり、飛梅老松に因んだ書名を付けたという記事で結んでいることも、或は天満天神・大宰府・少弐氏という縁由に沿って解釈すべき事柄であるかも知れないのである。
-------