第199回配信です。
一、前回配信の補足
矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p141
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去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
補注(下巻)p274
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一六三 大嘗会の御沙汰ありて 北朝の崇光天皇即位の翌年、観応元年(一三五〇)四月二十九日、大嘗会国郡卜定の事や、四条隆蔭らを大嘗会検校に任ずるなどの沙汰があったことは、園太暦・師守記・公卿補任などにみえるが、実際に行われたという記録はない。皇年代略記に「観応元年四月廿九日大嘗会国郡卜定、同十月廿ニ日御禊治定之処天下擾乱、仍不被行之」とあるが、十月二十二日に決まっていた御禊が中止された事は、他に記録が見当たらず、これによって梅松論の成立を観応元年十月以前とみなすことはなお考うべきであろう。
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「凡例」に「担当は、梅松論上巻翻刻・頭注・補注は矢代、下巻は加美が受持ち、また、寛正本翻刻は矢代、解説と源威集翻刻は加美がそれぞれ受持った」(p32)とあるので、上記補注は加美氏が記したもの。
また、解説において、加美氏は、
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まず『梅松論』成立の年代であるが、これについて菅政友氏提唱の貞和五年(一三四九)成立説が、長らく通説のようになっており、現在でも通史類や辞典類は、ほとんどこの説に拠っている。しかし、この説も今や、少なくとも正平七年(文和元年、一三五二)以降の成立と修正されるべき時期が来ているようだ。
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とされており(p8)、加美氏にとって、崇光天皇の大嘗会が行われなかったとしたら、それは自説にかなり不利な材料。
資料:加美宏氏「梅松論解説」(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』)〔2024-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fba855926bec92fcac833f5c4702cab4
加美宏(1934生、同志社大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%BE%8E%E5%AE%8F
矢代和夫(1927生、東京都立大学元教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E5%92%8C%E5%A4%AB
二、崇光天皇の大嘗会は行われたのか。
(1)岡田莊司氏の見解(『大嘗祭と古代の祭祀』の自著紹介)
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皇位継承をめぐって平安時代末期、二人の天皇の在位が確認できる。源頼朝が挙兵した治承四年(一一八〇)から文治の年号まで、養和・寿永・元暦と毎年のように代始・飢饉などによる改元があり、頼朝は平氏の都落ちまで、養和・寿永の元号を認めなかった。平氏は安徳天皇とともに三種神器を奉持して西国に逃れたため、後鳥羽天皇は神器を所持しないまま即位された。二人の天皇が在位された異例の事態のなか、後鳥羽天皇の即位にあわせて、大嘗祭の斎行は不可欠のことであった。
その後、承久の乱によって鎌倉側から在位を拒否された仲恭天皇は廃帝となる。践祚後、わずか二ケ月余りで即位儀・大嘗祭をへずに退位された。『帝王編年記』は大嘗祭斎行以前に退位されたことから、「半帝」と呼んだと伝える。
このあと、皇統は南朝・北朝に分かれ、南朝は三種神器を受け継いで吉野に朝廷を立てて正統性を主張したが、大嘗祭の斎行はなかった。北朝側はこれに対抗する意味でも、大嘗祭の斎行につとめた。ただし、北朝も崇光天皇のときのみは、観応の擾乱によって斎行できなかった。このように中世になると戦乱の影響により不斎行の事態が生じた。
矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p141
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去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
補注(下巻)p274
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一六三 大嘗会の御沙汰ありて 北朝の崇光天皇即位の翌年、観応元年(一三五〇)四月二十九日、大嘗会国郡卜定の事や、四条隆蔭らを大嘗会検校に任ずるなどの沙汰があったことは、園太暦・師守記・公卿補任などにみえるが、実際に行われたという記録はない。皇年代略記に「観応元年四月廿九日大嘗会国郡卜定、同十月廿ニ日御禊治定之処天下擾乱、仍不被行之」とあるが、十月二十二日に決まっていた御禊が中止された事は、他に記録が見当たらず、これによって梅松論の成立を観応元年十月以前とみなすことはなお考うべきであろう。
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「凡例」に「担当は、梅松論上巻翻刻・頭注・補注は矢代、下巻は加美が受持ち、また、寛正本翻刻は矢代、解説と源威集翻刻は加美がそれぞれ受持った」(p32)とあるので、上記補注は加美氏が記したもの。
また、解説において、加美氏は、
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まず『梅松論』成立の年代であるが、これについて菅政友氏提唱の貞和五年(一三四九)成立説が、長らく通説のようになっており、現在でも通史類や辞典類は、ほとんどこの説に拠っている。しかし、この説も今や、少なくとも正平七年(文和元年、一三五二)以降の成立と修正されるべき時期が来ているようだ。
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とされており(p8)、加美氏にとって、崇光天皇の大嘗会が行われなかったとしたら、それは自説にかなり不利な材料。
資料:加美宏氏「梅松論解説」(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』)〔2024-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fba855926bec92fcac833f5c4702cab4
加美宏(1934生、同志社大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%BE%8E%E5%AE%8F
矢代和夫(1927生、東京都立大学元教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E5%92%8C%E5%A4%AB
二、崇光天皇の大嘗会は行われたのか。
(1)岡田莊司氏の見解(『大嘗祭と古代の祭祀』の自著紹介)
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皇位継承をめぐって平安時代末期、二人の天皇の在位が確認できる。源頼朝が挙兵した治承四年(一一八〇)から文治の年号まで、養和・寿永・元暦と毎年のように代始・飢饉などによる改元があり、頼朝は平氏の都落ちまで、養和・寿永の元号を認めなかった。平氏は安徳天皇とともに三種神器を奉持して西国に逃れたため、後鳥羽天皇は神器を所持しないまま即位された。二人の天皇が在位された異例の事態のなか、後鳥羽天皇の即位にあわせて、大嘗祭の斎行は不可欠のことであった。
その後、承久の乱によって鎌倉側から在位を拒否された仲恭天皇は廃帝となる。践祚後、わずか二ケ月余りで即位儀・大嘗祭をへずに退位された。『帝王編年記』は大嘗祭斎行以前に退位されたことから、「半帝」と呼んだと伝える。
このあと、皇統は南朝・北朝に分かれ、南朝は三種神器を受け継いで吉野に朝廷を立てて正統性を主張したが、大嘗祭の斎行はなかった。北朝側はこれに対抗する意味でも、大嘗祭の斎行につとめた。ただし、北朝も崇光天皇のときのみは、観応の擾乱によって斎行できなかった。このように中世になると戦乱の影響により不斎行の事態が生じた。
なお、『大嘗祭と古代の祭祀』には崇光天皇への言及はない。
『大嘗祭と古代の祭祀』(吉川弘文館、2019)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b437087.html
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b437087.html
(2)家永遵嗣氏の見解
遠藤珠紀・水野智之編『北朝天皇研究の最前線』(山川出版社、2023)
https://www.yamakawa.co.jp/product/15240
家永遵嗣氏「第三章 政治的混乱が「国制の一元化」「皇統の一本化」になったわけ」
p80以下
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「正平一統」により崇光の大嘗会は中止
ちょうどこの頃、直義の養子直冬(一三二七?~八七?)が、幕府に対立する勢力となって九州・中国地方西部で強大化し、幕府はその対策に追われていた。直義を隠退させた直後に、師直らが直冬の殺害を謀って失敗していた。観応元年(一三五〇)十月に、尊氏が直冬征討に出陣することになった。光厳上皇は十月十九日に大嘗会の延期を決定し、同月二十八日に尊氏が京都を発った。
一方、同じ頃に直義は南朝に降って挙兵する準備を進めており、観応元年十一月に師直らの討伐を名目として挙兵した。「観応の擾乱」のはじまりである。直義は同年十二月に南朝への帰参を許され、翌年二月に摂津打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏・義詮を破り、高師直とその一族が殺された。
直義が南朝に示した講和条件ははっきりしない。『観応二年日次記〔ひなみき〕』によると、北畠親房(一二九三~一三五四)らの反対で講和交渉は五月半ばに破談になったという。南朝との和睦が破談になったために、六月に北朝の崇光天皇の大嘗会の準備が再開された。
『園太暦』同年六月九日条によれば、幕府の使者二階堂行珍(?~一三五七?)が光厳上皇に謁して「大嘗会」について決定してほしい、「段米〔だんまい〕(大嘗会段米)」のことは幕府側で取り計らうから、院宣を下してほしいと述べたとある。大嘗会段米を幕府が代行徴収することを、幕府側も原則的に受け容れていたわけである。直義は北朝に与するようになった。
しかし、このあと七月に尊氏・義詮が直義との戦争を再開し、八月に尊氏・義詮が南朝に降参して、十一月初めには北朝が中絶する「正平一統」となった。実際には、崇光天皇の大嘗会は行われることはなく、そのための大嘗会段米が徴収されることもなかったのである。
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家永遵嗣(1957生、学習院大学教授)
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/ienaga.html
赤橋種子と正親町公蔭(その1)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
四月初めの中間整理(その14)〔2021-04-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1
0085 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その7)〔2024-05-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9eb3dfa4944289c0ba28e642dfa2bff
崇光天皇 大光明寺陵 (京都市伏見区)
https://kyotofukoh.jp/report1897.html