第203回配信です。
一、当面の方針
『梅松論』の成立時期論について一応の私見を提示したので、いったん『梅松論』から少し離れて成良親王のことなどを改めて検討しようと思っていた。
しかし、流布本の四つの「一つ書」に対応する古写本系の本の箇所を比較してみると、諸本の関係についての通説的見解(小川信説)に疑問が生じてきた。
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
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このように京大本の物語としての構成は最も複雑であり、天理本は稍簡略、流布本は最も簡単である。この場合、仮りに流布本が最も原型に近いとすれば、京大本や天理本は、先代様の語義をめぐる冗長な論議をはじめ、繫雑な問答を文中数ヵ所にわたって付加したことになるが、そのような複雑な改作を敢えてしてまで、わざわざ問答体の体裁を整えるという必要性はきわめて乏しいと言わざるをえない。従って高橋氏の言われるように、流布本の構成が最も簡単なのは省略の結果とみるのが妥当である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
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このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
『梅松論』の成立時期論について一応の私見を提示したので、いったん『梅松論』から少し離れて成良親王のことなどを改めて検討しようと思っていた。
しかし、流布本の四つの「一つ書」に対応する古写本系の本の箇所を比較してみると、諸本の関係についての通説的見解(小川信説)に疑問が生じてきた。
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
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このように京大本の物語としての構成は最も複雑であり、天理本は稍簡略、流布本は最も簡単である。この場合、仮りに流布本が最も原型に近いとすれば、京大本や天理本は、先代様の語義をめぐる冗長な論議をはじめ、繫雑な問答を文中数ヵ所にわたって付加したことになるが、そのような複雑な改作を敢えてしてまで、わざわざ問答体の体裁を整えるという必要性はきわめて乏しいと言わざるをえない。従って高橋氏の言われるように、流布本の構成が最も簡単なのは省略の結果とみるのが妥当である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
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このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
(暫定的な私見)
「そのような複雑な改作を敢えてしてまで、わざわざ問答体の体裁を整えるという必要性はきわめて乏しい」というのはあまりに現代的な発想なのではないか。
『梅松論』の作者は実際に足利尊氏の下で参戦した武士の可能性が高い。(小秋元段氏他)
そうであれば、「原梅松論」は貴族的な「鏡物」の伝統に束縛されることなく、『太平記』と同様の武骨な文体、構成を取っていたと考えるのが自然ではないか。
古写本系の諸本は、「原流布本」の武骨さを嫌った、それなりに伝統的・古典的・貴族的な教養を持った人が、「鏡物」という歴史物語の本流に沿った形で、「四鏡」、特に『増鏡』を意識した構成にしたのではないか。
二、流布本の四つの「一つ書」の内容
資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
1、「夢窓国師談義」
(1)「将軍」の一般論
「国王大臣、人の首領と生るゝは、過去の善根の力なるあいだ、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治むる職なれば、おぼろげの事にあらず」
(2)「異朝の事」
(3)「我朝の田村・利仁・頼光・保昌」
「異賊を退治すといへども、威勢国に及ず」
(4)源頼朝
「右幕下頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専にして、賞罰私なしといへども、罰の苛故に仁の闕るか
(5)足利尊氏
「今の征夷大将軍尊氏は仁徳をかね給へるうへに、なを大なる徳在なり」
(具体例)
第一
「御心強にして、合戦の間、身命を捨給ふべきに臨む御事、度々に及といへども、笑を食【含】で怖畏の色なし」
第二
「慈悲天性にして、人を悪み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし」
第三
「御心広大にして物惜の気なく、金銀・土石おも平均に思合て、武具、御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覽じ合ず、御手に任て取給ひしなり。八月一日などに、諸人の進物ども、数もしらずなりしかども、皆、人に下し給しほどに、夕に何ありともおぼえず」
(総括)
「実に三つの御躰、末代にありがたき将軍なりと、国師談義のたびごとにぞ仰ありける」
2、「今の両将」の宗教活動(「たゞ人とは申べきにあら」ざる理由)
(1)聖徳太子
「四十九院を作置、天下に斎日を禁戒」
(2)聖武天皇
「東大寺・国分寺を立」
(3)淡海公
「興福寺を建立」
(4)「今の両将」
①「殊に仏法に帰し、夢窓国師を開山として天龍寺を造立」
②「一切経書写の御願を発し」
③「みづから図絵し、自讃御判」
④「御大飲酒の後も、一座数刻の工夫をなしたまひし」
3、「三条殿」の宗教活動とその性格、尊氏との関係
(1)「三条殿」の宗教活動
「六十六ヶ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立」
(2)性格
「御身の振舞廉直にして、げに/″\敷〔しく〕いつはれる御色なし」
(3)尊氏との関係
①「此故に御政道の事を将軍より御譲りありしに、同く御辞退再三に及ぶといへども、上御所御懇望ありしほどに御領状あり。其後は政務の事におひては、一塵も将軍より御口入〔くにふ〕の儀なし」
②「ある時御対面の次〔ついで〕に、将軍、三条殿に仰せられていはく、国を治る職に居給上は、いかにも/\御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒〔いたづら〕に暇をついやすべからず。花、紅葉はくるしからず。見物などは折によるべし。御身を重くもたせ給へと申〔まうす〕は、我身を軽く振舞て諸侍に近付〔づき〕、人々に思付れ、朝家をも守護したてまつらんとおもふゆへなり、とぞ仰られける。此重【条】は凡慮をよばざる所とぞ感じ申されし也」。
※細川顕氏と夢窓疎石のエピソード
「抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり」
4、尊氏・直義が「師直并故評定衆をあまためし」た会合のエピソード
(1)尊氏の発言
①源頼朝の略歴
②源頼朝の「政道」
「賞罰分明にして先賢の好するところ也。しかりといへども、猶以罰の苛方多かりき。是によて氏族の輩以下、疑心を残しけるほどに、指錯なしといへども、誅伐しげかりし事いと不便なり」
③尊氏自身の「政道」の方針
「当代は人の歎なくして、天下おさまらん事本意たるあいだ、今度は怨敵をもよくなだめて本領を安堵せしめ、忠功をいたさん輩におゐては、ことさら莫太の賞を行なはるべきなり。此趣をもて、めん/\扶佐したてまつるべきよし仰いだされし」
(2)直義と「師直并故評定衆」の反応
「下御所殊に喜悦ありければ、師直并に故評定衆、各かたじけなき将軍の御意を感じたてまつりて、涙をのごはぬともがらぞなかりし」
(3)総括
「唐尭・虞舜は異朝の事なれば是非におよばず。末代にもかゝる将軍に生れあひ奉りて、国民屋を並、楽み栄けるこそめでたけれ」
三、古写本において流布本の四つの「一つ書」に対応する部分の特徴
資料:京大本と寛正本の終わり方〔2024-10-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1bfa6e29e2a4b6a862b51c2eae5de549
資料:天理本の終わり方〔2024-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50243b73fd0b54e89fdcac5a7fd34be0
1、京大本
「一つ書」は全く存在せず、段落分けもなく、全文が連続している。
流布本の「一つ書」の二番目(「聖徳太子は四十九院を作置」云々)に対応する部分が存在しない。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。
2、寛正本
流布本には四つの「一つ書」があるが、寛正本では二つ。
ただし、二番目はそのまま下巻全体の末尾まで連続している。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。
3、天理本
流布本と同じく四つの「一つ書」がある。
独自の改変が好きな行誉は、この部分に関しては何故にさほど改変を行わなかったのか。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。