学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

遼東還付の詔勅

2014-12-11 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月11日(木)10時29分37秒

>筆綾丸さん
>関東還府
私も何のことか全然分かりませんでしたが、三国干渉の結果、遼東半島を返還する旨の詔勅が出されたのが1895年(明治28)5月10日とのことなので、「遼東還付」の二字誤植みたいですね。
臥薪嘗胆、列強への警戒を怠るな、という警告の記念日なんでしょうね。

国立公文書館サイト内
http://www.jacar.go.jp/nichiro/18950510.htm
山口県文書館サイト内(PDF)
http://ymonjo.ysn21.jp/user_data/upload/File/ags/4-3-2-025.pdf

>長尾龍一氏の『日本憲法思想史』
これは未読なので、早速読んでみます。
長尾氏は東大教養学部教授を長く勤めておられ、私も時期的には重なっているのですが、講義は受けたことがなく、顔も思い浮かびません。
昭和四年六月、京大に講演に来た蓑田胸喜を宇都宮徳馬・水田三喜男・勝間田清一らが攻撃して追い返した一件はこの掲示板でも少し触れましたが、蓑田を京大に呼んだのは長尾龍一氏の父親だそうですね。
『天皇と東大』から少し引用してみます。(下巻、p60以下)

--------
 この滝川の文章でも、先の座談会の末川発言でも、誰が蓑田を呼んだのか分からないことになっているが、『京都大学百年史』では、次のように記されており、誰が呼んだかわかっている。
「同年六月には慶応大学予科教授の蓑田胸喜に講師を依頼した(これは猶興学会員-法学部学生長尾群太(ぐんた)の提言によるものという─子息長尾龍一東大教授の談<平成八年十一月三十日>)」
 ここに出てくる猶興学会というのは、当時東大の七生社とならび称された有名な学生右翼団体で、三年後の血盟団事件では、この団体から三名の学生テロリスト、田倉利之、森憲二、星子毅が出たことは前に述べた。長尾群太は、猶興学会の幹事長をずっとつとめていた学生で、京大右翼の指導者だった。(後略)
--------

『天皇と東大』を読んだ後、長尾龍一氏のエッセイ風の著作にいくつかあたって、父親のことが書いてないかなと探したのですが、見当たりませんでした。
長尾龍一氏はウェブサイトも運営されていますが、「私事を語らないこと、思いつきの雑文を慎むことを基本ルールとするつもりでおります。その原則が破られたときは、ぼけた時とお考えください」とのことなので、父親への言及もないのでしょうね。

長尾龍一 Website OURANOS -ウーラノス-
http://book.geocities.jp/ruichi_nagao/index.html

宇都宮徳馬と蓑田胸喜
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7582
『京都帝国大学学生運動史』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7585

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7603
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「ハイデルベルヒ大学のエリネツク」(by南木摩天楼)

2014-12-09 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 9日(火)20時53分45秒

>筆綾丸さん
「上杉慎吉の文章は特に神憑り的ということもない」と書いたばかりで恐縮ですが、異常に感情的であることは間違いなくて、まあ、変わった人ですね。
天皇機関説問題の前史たる上杉・美濃部論争は明治から大正の変わり目の時期に主として雑誌『太陽』を舞台に行われたのですが、宮沢俊義は『太陽』大正2年(1913)7月号に掲載された南木摩天楼の「上杉博士と美濃部博士」を引用しつつ、次のように述べています。(『天皇機関説事件:史料は語る』上巻、p58以下)

---------
 上杉がはじめ国家法人説ないし君主機関説を主張したことは、よく知られているが、南木は、この点について、その変化のいきさつを次のように説明する。

【62】併し彼〔上杉〕は初めから此の様の説を持して居たのではない。彼の初め大学に在りて穂積氏の憲法を聞くや、学年の終りにそのノートの表紙に題して、頭のいいものには解らぬ憲法也と云い、穂積説の矛盾多きことを認めて居たが、その出でて大学助教授たるに及びては、遂に国家法人説、君主機関説を採り、時には責任内閣制などを公にした事さえあったのであるが、その独逸留学より帰朝し、大学に憲法を講ずるに及びて全く従来の学説を一擲して、現在の如き極端論を唱うるに至ったのである。
 是を以て、人或は彼の斯る学説上の変化を目して、穂積氏の後継者たらんが為に故に衒える所と為すものもある。併し彼の言う所によれば、穂積説にして彼が如き矛盾撞着せるものに非ずして、今の自説の如く論理一貫せるものたらしめば、初めから或は之を奉じたかも知れぬ。現に先に国家法人説、君主機関説を採りて之を主張しつつあるに際しても、理窟は如何にも一通り徹底して間然する所なきが如きも、一度吾国体を顧み、歴史に鑑みるに及び、如何にしても不安の念なきを得なかったと云うのであるから、蓋し彼はその留学前後に於て、此点に関して相応の苦心研究を重ねたものであろう。而して彼の学説の一変せるは、全くこの結果に他ならぬのである。〔同三九頁〕

 南木は、ここで上杉の性癖を論ずる。かれは、上杉の憲法論が特異なのは、かれの性癖から来ている、と見ている。その当否はともかく、かれの学説が「感情的」であり、その憲法を講ずる態度が「学者的」というよりむしろ「伝道者的」だという批評は、そう見当ちがいではない。

【63】惟うに彼は一種の施毛曲りである。学生時代から友人間に少数意見という異名があった如く、何でも多数の意見に対しては故意に反対してみたいと云う風の一種の性癖がある。〔中略〕
 其の上に彼は余程感情的で、恐しく一徹の所がある。独逸留学中彼はハイデルベルヒ大学のエリネックに就いて居たが、其内にショーペンハウエル、ニーチェ等に心酔し、山の中に引籠って数ヵ月間哲学的冥想に耽った結果、専門の憲法など区々たる条文の解釈に没頭して居るのが馬鹿らしくなったと云うので、斯学の曲拠たるラーバンド以下著名の書十数冊に火を掛けて焼き棄てたと云う様な奇行もある。当時偶々伯林で彼に会した金井博士や、逓信省の二上兵治氏などは、全く彼は発狂したものと信じて大いに心配したと云う事である。<後略>
--------

変な人に対応するコツは相手のリズムに乗らないことですが、美濃部は論争の最初の方で上杉と同じような感情的対応をしてしまっていますね。
まあ、年齢も美濃部(1878-1948)の方が上杉(1878-1929)より五歳上であり、上杉を少し莫迦にしていたんでしょうね。
なお、南木摩天楼は『太陽』の記者を経て、同誌上で人物評論を担当していた人物だそうです。
宮沢俊義は資料の表記を読み易いように変えてしまっていますが、南木はおそらく「ハイデルベルヒ大学のエリネツク」と書いたのでしょうね。
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原理日本社の金太郎飴

2014-12-08 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 8日(月)20時37分31秒

>筆綾丸さん
>上杉慎吉
宮沢俊義の『天皇機関説事件:史料は語る』上・下(有斐閣、1970)を読んでいる途中なのですが、上杉慎吉の文章は特に神憑り的ということもないですね。
もともと明治憲法に非常に古風な神憑り的表現が多々ありますから、上杉のように素直な憲法解釈をすると古風で神憑り的表現も増えますが、論理は平明、というか単純ですね。
実際に論争の記録を読んでみると、意外なことに美濃部達吉もあまりたいした議論をしていません。
もっと切れ味の鋭い、颯爽たる議論を展開しているのかと思ったら、不必要に感情的な表現を用いて相手に揚げ足を取られたりしていて、何だかなあ、と思う箇所もいくつかあります。

>世田谷区若林町
近くに国士舘大学もありますね。
蓑田胸喜は慶応予科に10年勤めた後、1932年(昭和7年)から国士舘専門学校教授となっていますから、「世田谷区若林町二七八」は蓑田の自宅住所かもしれないですね。

土日に三井甲之について少し調べようと思って『原理日本』所収の論文や『明治天皇御集研究』 (復刻版、国民文化研究会、1977)をパラパラ見たのですが、正直、どれを読んでも同じような感じがして、いささか飽きてしまいました。
古い時期の伊藤左千夫や斎藤茂吉との関係は多少面白そうな感じがしないでもありませんが、後年の政治活動と直接関係する訳でもありませんから、そろそろ打ち切ろうかなと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7600
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蓑田胸喜は原理日本社の「機関」なりや?

2014-12-05 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 5日(金)13時24分7秒

掲示板投稿の保管庫としているブログ「学問空間」の方に、「川合貞一は原理日本社の二代目会長」は誤りで、「原理日本社に会長という概念はございません」というコメントをいただきました。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3889344aa4200da90442b8d4393951c5

私もウィキペディアの「原理日本社」の項目に川合貞一が原理日本社の二代目会長と記載されていたので、そうなのか、と思ってうっかり書いてしまったのですが、詳しい方がいらっしゃればご教示いただきたいと思います。

ところで、たまたま図書館でコピーしておいた『原理日本』138号(昭和14年12月24日発行)をみると、その表紙に

------
臨時増刊
「皇紀二千六百年」奉祝直前に
 学界空前の不祥事
  早稲田大学教授文学博士
  東京帝国大学法学部講師
  津田左右吉氏の大逆思想
    神代史上代史抹殺論の学術的批判
-------

とあり、三井甲之と蓑田胸喜の論文が掲載されています。
ま、その内容はともかくとして、奥付を見ると、

-------
編集兼発行者 蓑田胸喜
印刷者 鈴木泰次郎
印刷所 (住所・電話番号略)朝日印刷営業所
発行並発売所
 東京市世田谷区若林町二七八 原理日本社
 電話世田谷三五一一番
 振替東京七三八四二番
 事務所 麹町区内幸町一ノ六 商興ビル第三号館内
 電話銀座(57){五二一・五二三・五三一・五五一・七三〇・六〇〇}
-------

となっています。
事務所は都心の一等地で電話(の内線?)が六つもあり、ずいぶん立派な感じがします。
原理日本社の資金源については陸軍が書籍購入の形で援助したという話もあるそうですが、その真偽はともかく、事業規模だけ見ても相当なものであり、蓑田胸喜ないし三井甲之が個人でまかなえる限度を超えていますね。
学問空間にコメントをくださった方によれば「原理日本社に会長という概念はございません」とのことですが、そういう名前の役職がなかったとしても、では原理日本社という組織と蓑田胸喜はいかなる関係にあるのか。

原理日本社のメンバーはかなり多く、(私は未読ですが)規約があり、立派な事務所を設け、蓑田胸喜が実質的に運営の一切を取り仕切り、蓑田の個人財産とは別の資産を有していたことからすると、法律的には原理日本社は「権利能力なき社団」、すなわち社団としての実体を有する団体でありながら法人格のないもの、と言えるのではないかと思います。
民法には権利能力なき社団の規定はありませんが、民事訴訟法第29条は「法人でない社団又は財団で代表者又は管理人の定めがあるものは、その名において訴え、又は訴えられることができる。」と定めており、権利能力なき社団・財団の訴訟当事者能力を認めています。
「訴訟は、権利義務をめぐって争われるので、訴訟当事者能力が認められる以上、権利能力なき社団、財団を権利義務の主体とする判決も下されることとなる。このかぎりで、民事訴訟法29条は、権利能力なき社団、財団を承認する実定法上の根拠となる」(加藤雅信『新民法大系I 民法総則、p146)と考えられていて、最高裁の判例でも「権利能力なき社団・財団」の概念は承認されています。
そして、「権利能力なき社団」の要件は、加藤雅信氏の上掲書p147によれば、

-------
 一定の団体が法的に権利能力なき社団として認められるためには、主務官庁の許可は得ていないまでも、社団法人的な実体を具備しなければならない。まず、①目的、②社団性=社員の集合体性、③社団財産の確保、④代表の方法および管理体制の確定、⑤名称および事務所(ないし住所)の確定、等が基本的必要事項となろう。これが、理念型としての権利能力なき社団の要件といえる。
-------

とされており、他の民法学者も同じようなことを言われています。
かかる要件に照らすと、原理日本社は十分に社団としての実体を持つと思われるので、同社が「会長」という名称の役職を置いていたかどうかにかかわらず、法的には蓑田胸喜が「権利能力なき社団」としての原理日本社の「代表者」であると考えてよいように思います。
とすると、蓑田胸喜が締結した事務所賃貸借(ないし使用貸借)契約や印刷請負契約等は蓑田個人の契約ではなく、「権利能力なき社団」としての原理日本社を「代表」して行ったものであり、仮に蓑田胸喜個人が死亡したり役職を辞任したりしても、「権利能力なき社団」としての原理日本社はなお拘束されることになりそうですね。
要するに法人の代表権を有する代表理事や代表取締役が法人の「機関」であるように、蓑田胸喜も「権利能力なき社団」としての原理日本社の「機関」と考えてよさそうですね。

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山県大弐「抹殺」問題

2014-12-05 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 5日(金)13時08分11秒

>筆綾丸さん
無駄に元気で仏教に関心が深い人たちというと、ついつい日蓮宗ではないかと思ってしまいますが、原理日本社周辺には日蓮宗関係者はいないようですね。

>山県大弐
ご紹介のウィキペディアの記事に、

-------
三井の告発を受けて、県内外では諸団体の結成や大弐に関する文献の刊行、論考の発表が相次いで行われた。山梨県教育会では教育関係者や郷土史家など23名を委員とする改正国史教科書調査委員会が組織され、文部大臣に対する上申書の作製や文部省へ対する質問書の送付を行った。1935年8月31日には文部省から県知事宛に質問書に対する回答が送付されたが、教科書本文への記述復活は確約されなかったため運動は継続した。翌1936年6月14日には明倫会・山県神社が中心となり山県大弐顕彰同盟会が組織され、名取忠愛が会長となった。
--------

とありますが、山県大弐顕彰同盟会の会長・名取忠愛の名前はどこかで見た覚えがあるなと思ったら、その女婿が山梨中央銀行頭取・山梨県商工会議所会頭の名取忠彦なんですね。
名取忠彦は広瀬久政の息子で、兄の広瀬勝丸は網野家に婿入りして網野善右衛門となり、その息子が網野善彦氏ですから、山梨県の名望家の世界はずいぶん狭いものです。

名取忠彦
「温厚の紳士網野善右衛門」

明和事件の舞台となった城下町小幡には子供の頃から何度も行っており、明和事件も一度きちんと調べてみたいと思っているのですが、今のところ余裕がありません。
甘楽町は畑の中に埋もれていた小幡藩の庭園を発掘・整備して立派な歴史公園としていますが、その史料展示室に掲示された年表に織田家は明和事件で小幡から山形県高畠に移った旨の簡単な記述があるだけで、明和事件に関する説明はないですね。
僅か二万石の小幡藩にとって驚天動地の大事件だったはずなのですが、まあ、観光資源にはなりにくい話ですね。

国指定名勝 楽山園

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

絵暦 2014/12/03(水) 17:07:55
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3
蓑田胸喜の文体から日蓮の影響を想定していたのですが、親鸞とは意外でした。
承元の法難に関連して、思想上、後鳥羽批判はできないでしょうから、親鸞を尊崇することに何か矛盾は感じたのではあるまいか、というような疑問も抱きました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E5%BC%90
三井甲之にとって山県大弐は重要な人物のようですが、『明和絵暦』を書いた山本周五郎も山梨の出身なんですね。(ちなみに、この小説はあまり面白くありません)

昔、牧野英一の名は知人から聞きましたが、飽きれるような秀才ですね。

「当時呉清源が四子で本因坊と打つ棋譜が新聞で評判だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%A7%80%E5%93%89
この本因坊とは秀哉で、川端康成が『名人』で描いた人ですね。
http://sports.geocities.jp/mamumamu0413/total.html#result
現在、日本では井山祐太氏が最強ですが、中国や韓国にはもっと強い棋士がいるようですね。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1411/28/news131.html
数日前、チェスの羽生・カスパロフ戦を見ましたが、元世界チャンピオンは強かったですね。
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再び堀米庸三氏の父・康太郎氏について

2014-12-03 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 3日(水)10時35分30秒

>筆綾丸さん
レスが遅れてしまいましたが、

>『歎異抄』を意識

というご指摘は間違いないですね。
原理日本社の思想的な中心は蓑田胸喜ではなく三井甲之ですが、『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』所収の片山杜秀氏「写生・随順・拝誦」によれば、「甲之は学生時代に、日本近代仏教史における重要な思想家のひとりで、求道学舎を主宰した近角常観(ちかずみじょうかん)と出会い、常観流の親鸞像に傾倒した」(p106)そうです。
蓑田胸喜にも親鸞の影響を伺わせる表現は多いのですが、「真宗系の人々」と呼ばれると強く反発したそうです。
植村和秀氏の「天皇機関説批判の「論理」」(『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』)から少し引用してみます。(p57)

-------
 つまり蓑田たちは、聖徳太子や親鸞を尊崇するのは、宗派や教団、教義などのためではない。むしろ「躍如として生き得る」体験のためには、それらは外在的な障害に他ならない。例えば「真宗系の人々」と呼ばれたことに対して、蓑田は、「僕らは仏教の一宗派としての「真宗」思想家でも乃至親鸞主義者でもなくて、日本主義者─原理としての日本を信ずるものである」と敏感に反応する。浄土真宗教団に対しては、「今日の東西本願寺、其他の「宗制」は実に信心の障礙たるべき「行者のはからひ」である」という三井甲之の批判を引用して、全面的に賛同する。(後略)
-------

文中、「乃至」は「ないし」の変換ミスなんでしょうね。
ま、正直、私もあまり理解できないまま引用していますが、植村和秀氏は原理日本社は「政治結社というよりも、むしろ宗教結社の雰囲気が濃厚な集い」であり、「しかし、この信仰の集いの性格は、三井を教祖または司祭とする教会的秩序ではなく、同信の友たちのゼクテ的な協働作業と見るべき」(p55)とされており、なるほどな、と思います。

私が原理日本社について少し真面目に考えたいと思ったきっかけは堀米庸三氏の父親・康太郎氏に関するエッセイですが、改めてこのエッセイを読み直すと、康太郎氏は若い頃から宗教的関心が強い人ですね。
堀米庸三氏は三井甲之と蓑田胸喜を区別して、父親が影響を受けたのはあくまで歌人としての三井だ、という風に考えたかったようですが、宗教結社としての原理日本社に魅せられたと考えるのが素直なような感じがします。
堀米康太郎氏の思想を研究すれば、それこそギンズブルグ的なマイクロヒストリーになりそうですね。

無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)~(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

将門岩 2014/11/28(金) 14:26:33
小太郎さん
〇〇というような伏字は著述家として恥ずべきことで、人はこんな風に晩節を汚してゆくんだなあ、と思いますね。〇〇〇〇〇について、私は、誇大妄想狂(パラノイア)や精神分裂病(スキゾイド)なども有り得るかな、と考えていました。

『第三十六章 滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉』において、滝川の著書により客観主義刑法理論と主観主義刑法理論の相違を説明したあとで、次のような記述がきます。
-----------------
要するに、客観主義刑法理論とは、今風にいえば、「罪刑法定主義」「刑法における法治主義原則」のことであって、いま近代国家なら、世界中の国で認められている刑法の根本原則そのもののことなのである。(30頁)
-----------------
これでは、主観主義刑法理論は「罪刑法定主義」に基づいていない、というように読めてしまいますが、それは立花氏の理解不足であって、客観主義刑法理論も主観主義刑法理論もともに「罪刑法定主義」に立脚していることは火を見るより明らかで、「罪刑法定主義」が両説の相違点などであるはずがなく、あえて今風に言えば、客観主義刑法理論は結果無価値論、主観主義刑法理論は行為無価値論で、前者の説の代表は小野清一郎や平野龍一、後者の説の代表は牧野英一や団藤重光、というようなことになりますか。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kadoiwa.html
滝川が治安維持法を批判するとき、不能犯の説明に比叡山の将門岩の例を挙げていますが(45頁)、恥ずかしながら、こんな岩の存在は知りませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E6%94%BF
ウィキによれば、滝川幸辰は滝川一益の末裔で、「辰」が通字ですか。

追記
『原理日本』が日本の伝統文化の先達とする者として、聖徳太子、人麿、実朝、親鸞・・・を挙げていることを考えると(56頁)、「日本総赤化徴候司法部不祥事件禍因根絶の逆縁昭和維新の正機」(69頁)という表現は、『歎異抄』を意識しているのかもしれませんね。
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野呂栄太郎と呉清源

2014-12-02 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 2日(火)22時20分26秒

>筆綾丸さん
私が刑法の勉強をしていた数十年前の時点で、既に牧野英一・滝川幸辰・小野清一郎は過去の人であり、団藤重光も過去の人になりかかっていました。
司法試験受験には関係ないので、団藤以外は著書・論文を参照することすら全くありませんでしたが、今頃になって古い学者の本を開いてみると、特に牧野英一あたりの文章は非常に新鮮ですね。
戦前の帝大法学部教授は英独仏全部読めて当たり前ですが、牧野はスペイン語・イタリア語も出来たそうで大変な秀才ですね。

牧野英一

>自業自得
滝川は戦後に京大法学部に復帰し、総長までやった人ですが、総長時代の評判もあまり良くないみたいですね。
今日は末川博の「名誉ある敗北『京大・滝川事件』」(『昭和史探訪2』、番町書房、1975)を読んでみましたが、末川も滝川個人に対しては割りと冷たい言い方をしていました。

滝川の人格とは直接関係ありませんが、東大で京大法学部への支援活動を行った学生たちの記録、『私たちの滝川事件』(滝川事件・東大編集委員会 編、新潮社、1985)を読んでいたところ、佐々木恵真という方が1933年11月、警察の留置場で野呂栄太郎と出合った思い出を書かれていて(「闘いを支えた学内組織」)、その中に呉清源の名前が唐突に出てきたので、ちょっと驚きました。

-------
 その頃、私は起訴されるかどうかの、いわば待機中だったので、特高室に呼ばれて休憩した。そこで離れてはいたが野呂さんと顔を合わせていた。当時呉清源が四子で本因坊と打つ棋譜が新聞で評判だった。野呂さんの声は大きいので、明日はどこに打つかを赤鼻の特高と検討し合っているのがわかった。私の係りの若い特高はきらったが、私がその席に行っても、野呂さんに敬意を表して敢えて止めなかった。三回ほどだったか、野呂さんの予想は外れた。多分野呂さんの碁は学生時代の碁で、その腕前は私と同じぐらいの七、八級かと思われた。その話の間に、私のことなど特高から聞いておられる様子で「君は学生で若いのだから釈放されるだろう」と言われた。私が「どうかわからない」と答えると、赤鼻の特高もその見透しだと野呂さんに相槌を打っていた。私はその九月に満二〇歳になっていた。
-------

先月30日、呉清源は100歳で亡くなったそうですが、このときはまだ19歳ですね。
この場面に限るとずいぶんのんびりした情景ですが、佐々木恵真氏は逮捕されて以降、留置場で相当ひどい拷問を何度も受けており、釈放の期待も空しく市ヶ谷刑務所行きとなったとのことで、また野呂栄太郎も翌年2月に死亡していますね。

野呂栄太郎(1900-1934)

(12/4追記)佐々木恵真氏の引用文は若干分かりにくいところがありますが、原文のままです。
末尾に記載されている同氏の略歴は、
-------
七高出身
 昭和十三年、文学部国史学科卒。戦時中工場勤務、終戦後国民救援
 会の再建に協力
 昭和二十二年より業者運動にいり民商創設、二十四年から民商・
 東京商工団体連合会・全国商工団体連合会
 昭和五十四年退職
-------
とのことで、「転向」して1935年(昭和10)5月に出獄。東大に復学し、1938年(昭和13)に国史学科を卒業したものの、歴史学とは関係のない人生を送られたようですね。
「転向」という「私のとった行為は、自分の意思はどうであれ、理論的・政治的に未熟であったとはいえ、党に対する変節であった事実に変わりはない。私は、これからの一生を体制の中に決して住まない、人民の中にあって人民とともに、その解放のためにささやかに献げていこうと、あらためて深く心に決めた」(p72)とのことで、戦争中は「保護観察」の対象となり、戦後は共産党の再建に参加したそうです。
共産党の活動家としても「民商」という比較的地味な分野を選んだ人ですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「もっといい紙はないか」(近衛文麿) 2014/11/30(日) 17:30:13
小太郎さん
ご教示、痛み入ります。私の方が理解力不足でした。
正当防衛の例示をみると、滝川の処分は自業自得だろう、という気がしてきますね。

http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-414038-2
若い頃、武田泰淳の『政治家の文章』を読んで、妙に印象に残っているのですが、ひさしぶりに繙いてみました。
---------------
矢部貞治は、下巻の第十三章「戦後の近衛」の、「四、運命児の死」に、次のように記している。
 「通隆が『何か書いておいて下さい』というと、近衛は、
 『僕の心境を書こうか』
 といって筆と紙を求めた。近くに筆がなかったので通隆が鉛筆を渡し、有り合せの長い紙を切って出したら
 『もっといい紙はないか』
 というので、近衛の用箋を探して出すと、硯箱のふたを下敷にして、鉛筆で一文を書き流し
 『字句も熟していないから、君だけで持っていてくれ』
 と言って通隆に渡した。」(72頁)
---------------
近衛文麿が遺書を認める描写ですが、「もっといい紙はないか」という表現はリアルですね。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062882828
佐藤健太郎氏の『ふしぎな国道』は面白い本で、国道マニアという人種がいるのですね。
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