学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

岩元禎と田中耕太郎

2015-10-16 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月16日(金)09時59分40秒

雄川一郎氏(東大名誉教授、行政法、1920-85)の「田中先生の思い出─その始めと終りの頃─」(『田中耕太郎 人と業績』p285以下)には「偉大なる暗闇」のモデルとも言われる岩元禎が出てきますね。

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【前略】大学の一年のときに、有名な一高の岩元禎先生が亡くなられた。田中先生は岩元先生に傾倒しておられたようであるが、そのとき、東大新聞に岩元先生を偲ぶ長文の文章を書かれたことがある。一高で私どもが岩元先生にドイツ語をおそわった最後のクラスであった。その頃は岩元先生も衰えられて、先輩から話にきかされている往年の先生の凄さはわずかに片鱗をとどめる位であったが、われわれは、あの田中先生や三谷隆正先生が無条件に頭を下げるのだから岩元先生は余程偉かったのだろうなどと話し合ったものである。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98

雄川氏はラートブルフ法哲学の輪読会にも触れていますが、その後の小型映画のエピソードの方がむしろ興味深いですね。

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 大学を出て、特別研究生として勉強を始めた頃、先生は尾高朝雄先生と共同で、われわれを集めてラートブルフ法哲学の講読を始められた。このことについてはすでにいろいろな人によって語られているが、おそらく、先生としては、戦時体制下であればこそ、研究生活のスタートについた者の指導を特に重要と考えられたのではないかと思われる。そしてまた石井照久先生などを通じて若い者に遠慮せずに話に来いというお話もあったのもそういうことであったのであろう。そこで、矢沢惇君や服部栄三君などと一緒にしばしば目白のお宅にうかがい、終電車近くまで学問の内外にわたっていろいろとお話をうかがったものである。また、これもその頃お宅で先生自らの作になる「ラテン・アメリカ紀行」(と記憶している)なる小型映画を見せて頂いたことがあるが、それが私がはじめて見たカラー・フィルムであった。今でこそ海外旅行でカラー・シネを撮ってくることは誰でもやることだけれども、当時は大変珍しいことであった。ニューヨークの夜景などにはおどろいたものである。後年私がコロンビア大学に留学したとき、タイムズ・スクエアのあたりを歩きながら、この映画のことを思い出したのである。
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雄川一郎氏と矢沢惇氏(東大教授、商法、1920-80)は一高で山口啓二氏(1920-2013)と同級だったそうで、「聞き書き─山口啓二の人と学問」にもちらっと登場しますね。

「ははーんと思いましたね」(by 山口啓二氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9781677dd1dff39fb1f2c6853174b3b6

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『田中耕太郎 人と業績』

2015-10-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月15日(木)16時44分36秒

今日は鈴木竹雄編『田中耕太郎 人と業績』(1977、有斐閣)を読んでいて、読み終えたら田中の『増補 法と宗教と社会生活』(春秋社、1957、初版は1925)に進もうかなと思っているので、清宮四郎に復帰するのは暫く先になりそうです。

>筆綾丸さん
>「毎週一回の輪読」は東大構内
これはそうでしょうね。
参加者の一人、滋賀秀三氏(東大名誉教授、中国法制史、1921-2008)は、この研究会の様子について次のように語っています。(『田中耕太郎 人と業績』、p293以下)

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 昭和十八年十月、大学院特別研究生として、十二人という前代未聞の数の若者が法学部の研究室に入った。なかに矢沢惇さん、加藤一郎さん等積極的な人士があって、先生にお願し、有志を集めて、ラートブルフ『法哲学』の輪読会が持たれることになった。副リーダーとして尾高朝雄先生、そして当時新進の助教授であられた野田良之先生も参加された。
 研究生活の始めにおいて、しかも戦争末期のすさんだ世情の中にあって、かような輪読会に参加することのできた仕合わせは、終生忘れることができない。もっとも、ここでも先生は特に多くのことを語られたわけではない。むしろ尾高先生のさわやかな弁が座をひきたてていた感じである。わたくしのような参加者がラートブルフの哲学そのものを当時どれだけ理解し得たかはすこぶるおぼつかない。先生が、何度読み返してもその度に新たに得るものがある、とてひとり悦に入っておられるのを、ぽかんと見ていたこともある。しかし二年間、物を考える刺戟を与えられ続けたことは貴重であった。最終回、いつものようにメンバーが参集しつつあるとき、入り来った一人によって、いましがたソ連参戦のニュースを聞いた旨が告げられた。一瞬、そして一瞬だけ、先生は非常に厳しい表情に変られた。当時先生が、同志数教授と力を併せて、戦争の早期終結のために画策しておられたことは、ずっと後になって始めて知った。
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昭和20年5月に田中の椎名町の自宅は空襲で全焼し、田中は岳父の松本烝治宅に引っ越していたはずですが、空襲で自宅が焼けようがソ連が参戦しようが、研究会は行う訳ですね。
ちなみに昭和19年春、京城帝国大学から転じて田中の同僚となっていた尾高朝雄はもっと気の毒で、昭和20年4月に駒込の自宅が空襲で全焼し、追い討ちをかけるように5月末には召集令状が来て、46歳で甲府の連隊に入隊したので(久留都茂子『父、尾高朝雄を語る』、竜門社深谷支部、p26)、ラートブルフ研究会の終わりの方には参加できなかったはずですね。

>エンデルレ書店
キリスト教関係の書店については私も全く詳しくありませんが、ネットで検索してみると、店舗は2013年11月末で閉店してしまったようですね。
また、国会図書館サイトで「出版者」をエンデルレ書店として検索すると480件出てきて、そのうち、一番最初の時期(昭和18-22年)の7冊は「ルーペルト・エンデルレ書店」となってしますね。
この「ルーペルト・エンデルレ書店」で改めてネットで検索すると、「奥付検印紙日録」というブログに同社出版物の奥付と検印紙の例が出ていて、そこに「発行者 ルーペルト・エンデルレ」、「独逸ヘルデル出版社代理店」とありますね。


また、「daily-sumus」というブログには、

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詳しいことは分らないが、戦前、ルーペルト・エンデルレがヘルダーの代理店として東京に開業した出版社である。昭和十八年の住所は東京市四谷区三栄町三番地ノ一。哲学・思想書を中心に刊行していたようだ。

とあります。
「ルーペルト」は Rupert なんでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Enderle? 2015/10/14(水) 21:23:38
小太郎さん
戦時中の昭和十九年六月から二十年九月まで、ラードブルッフ法哲学の研究会が継続した、というのは驚きですが、「毎週一回の輪読」は東大構内で行われたのでしょうね。

http://tamutamu2011.kuronowish.com/sunagawasaikousai.htm
砂川事件最高裁大法廷判決の補足意見において、「いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや」という文がありましたが、『法哲学』邦訳序においても、「況んや所謂社会科学や文化科学や政治経済を論ずる者においておや」とあり、この「おや」にはオヤッと思わせるものがありますね。

http://www2n.biglobe.ne.jp/~jysuzuki/syoten.htm
http://www.sunnypages.jp/travel_guide/tokyo_books_music/bookstores/Enderle+Bookstore+Yotsuya/4377/reviews
「東京エンデルレ書店」はカトリック書の老舗なんですね。カトリック関連の書店が四谷に集中しているのは、上智大学と聖イグナチオ教会の所在地と関係があるのでしょうね。Enderle とは人名でしょうか。
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田中耕太郎『私の履歴書』

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)22時58分39秒

今日は「研究会 清宮憲法学の足跡」の続きを書く予定だったのですが、田中耕太郎の『私の履歴書』(春秋社、1961)を読み始めたら止まらなくなってしまい、結局、同書を含め、田中耕太郎関係の本をひたすら読んで終わってしまいました。
『私の履歴書』は最高裁判所長官の激務を終えた田中が、新たに国際司法裁判所判事としてオランダ・ハーグに向う前に日本経済新聞社の求めに応じて書いたものですが、田中の芸術的才能の豊かさを感じさせる香気溢れる名文で綴られており、学者モノはあまり面白くないのが通例の「私の履歴書」シリーズの中では別格の傑作と言ってよさそうです。
商法の研究のために留学を命ぜられたのに、そんな研究は日本でできるから留学してまでやる必要はないと開き直り、3年間の大半をヨーロッパでなければ経験できない文化芸術活動、即ち傍から見れば単なる物見遊山に費やした度胸の良さは見事です。
宗教面では、やはり内村鑑三に破門された経緯が一番面白いですね。

>筆綾丸さん
>(一九四六年四月三十日条)
田中耕太郎は終戦直後の1945年10月に文部省学校教育局長となり、翌年5月、第一次吉田内閣の文部大臣となっているので、1946年4月30日の時点で帝大教授の肩書きは誤りではないかと思ったのですが、『私の履歴書』によれば、学校教育局長は東大教授との兼任だったそうですね。
文部大臣はさすがに兼任は駄目だったとのことですが。
田中は貴族院議員を経て、1947年、第一回の参議院議員選挙に出馬し高位当選して参議院議員となり、その任期中の1950年3月、最高裁判所長官に転ずるという目まぐるしさで、戦前の学者生活に比べると実に変動の激しい人生ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

田中ラードブルッフ耕太郎、謹んで奏上す 2015/10/11(日) 19:21:19
小太郎さん
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/index.html
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm
原武史氏の『「昭和天皇実録」を読む 』を眺めていて、「破砕」は「開戦の詔書」(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)に出てくる格調高い言葉なんだな、とあらためて知りました。(同書127頁)
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・・・東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ・・・
----------

http://www.kurobe-dam.com/event_info/1513.html
http://shin-toyama.com/c3/e3.html
形而上的な「法の破砕」ではなく形而下的な「破砕帯」であれば、黒部ダムで見学できますね。北陸新幹線開通に伴う人気スポットのようです。

田中ラードブルッフ耕太郎も、同書に出てきます。
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三十日、カトリック信者の東京帝国大学教授・田中耕太郎から「キリスト教ニ就テ」と題する進講を皇后とともに受けています。
 ローマカトリック教とギリシャ教の差違、イタリア国首相ベニト・ムッソリーニがヴァチカン国と条約(一九二九年のラテラノ条約)を結んだ理由、カトリック教が布教に格別熱心な理由につき御下問になる。(一九四六年四月三十日条)(190頁~)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E
田中耕太郎のウィキの項を見て不思議に思うのは、田中の受洗に触れても洗礼名への言及がないことですね。英訳には辛うじて洗礼への言及がありますが、独訳は無視しています。華々しい勲章には触れているですが、キリスト者としての内面などはどうでもいい、ということらしく、それはそれで、まあ、ひとつの見識ではありますが。
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ラードブルッフ『法哲学』、「邦訳序」(その2)

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)22時21分32秒


続きです。

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 これと同時に私はラードブルッフ教授から翻訳の許可を得ることを引き受けた。当時直接交渉は種々の事情から困難な状態にあり、私の手紙に対する同教授からの翻訳快諾の手紙を、独逸フライブルクのヘンデル書店と東京エンデルレ書店の厚意ある中継によつて受け取つたのは昨年初夏の頃であつた。教授の手紙(一九四九年二月六日附)には私と妻とが、曾てハイデルベルヒに教授を訪れたこと(一九三六年)を懐しく思ひ出すこと、又戦争の最悪の時期においてなほ自分の書物に興味をもつてくれたことを幸福に思ふことが附け加へて書いてあつた。
 その間私は、誤りなきを期するためにはできるだけ多くの目を通した方がよいと思つて、全部の原稿を一応通読した。誤訳や不適訳は極めて少なく、仕事は良心的に忠実になされてゐると思つた。しかし光彩陸離、芸術味豊かな教授の文章の真面目を遺憾なく伝へることは殆んど不可能に近い業である。それにかやうな種類の書物について誤訳が絶対にないとは保障し難い。正直なところ我々はもし誤訳が少ないならば満足しなければならぬのである。
 我々は教授の学恩に答へるために、教授に速かに訳書を贈呈したかつた。ところが昨年の暮おしつまつて、ヘンデル書店を通じて教授の訃報が入つた。教授は昨年十一月二十三日、第七十一回の誕生日の二日後に急逝されたのであつた。全世界の法哲学者で彼の死を知つて悼まぬものは一人もなかつたであらう。私個人の悲しみと淋しさは無限である。本訳を教授の生前に公刊し得なかつたことは、痛恨の極みである。ただ我々として本訳を未亡人に、我々の亡き教授に対する絶大の敬愛のしるしとして呈することで以て満足しなければならぬ。
 終りになほ一言附加する。我々は我が国において新憲法実施以来民主主義が口にせられるが、それはなほスローガンの域を脱しないで、反民主主義的諸現象が横行してゐる。本書はナチ的ファッシズムの独裁下にあつて民主主義の理論的基礎付けを試みたものである。爾来時勢は変転したが我々は今は左翼的暴力の支配の脅威に晒されてゐる。民主主義は自らを防衛する権利をもつものであり、その脅威に対し拱手傍観するのは信念ある民主主義者の態度とはいひがたい。我々は朝鮮問題の勃発により日本のみならず全世界の民主主義の危機が切迫してゐる今日において、本書が民主主義の防衛のために戦ふ者に必要な理論的武器を供する意味で、なほ歴史的役割を演ずることを確信するものである。
  昭和二十五年(一九五〇年)七月十二日
           田中耕太郎
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ラードブルッフ『法哲学』、「邦訳序」(その1)

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)21時58分24秒

昨日の投稿「『恩師』の水浸し」で、『法哲学』の序文についてあやふやな記憶で書いてしまいましたが、確認してみたら、研究会は戦時中の昭和19年6月に始まっており、参加者の大半は留学経験のない若手研究者でした。
田中の役割は実際には訳者ではなく監修者ですが、田中が執筆した「邦訳序」はなかなか興味深い内容なので、適当なことを書いてしまったお詫びを兼ねて、原文を紹介しておきます。
旧漢字を改めただけで、仮名遣いはそのままにしてあります。

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邦訳序

 グスタフ・ラードブルッフ教授の「法哲学要綱」第一版(一九一四年)が公刊されてから三十六年、又その第三版に該当する「法哲学」(一九三二年)が世に出てから十八年、それに対する我が法学界の大なる評価とそれが我が法学界に及ぼした深甚な影響はけだし測り知るべからざるものがある。しかしながら本書をその原著について精読した者はその範囲が極めて限局されてをり、法学に志す者すら必ずしも直接その内容に親しんでゐるとはいへない。況んや所謂社会科学や文化科学や政治経済を論ずる者においておや。我々はラードブルッフの法哲学が、単に法哲学の分野のみに限らず、社会、政治及び文化一般に関する学問に従事する者に対する甚だ高級な入門書であり、且つ既得の智識を消化し整序する仕上げの書たることを信ずる。さうしてこの書が時代的背景の所産でありながら、しかも永遠の課題と直接とり組んでいる意味において、我々はそれが古典的価値を有することにつき決して疑を懐かないのである。
 かやうな意味において我々は既に久しい間、本書が邦訳せられ、一層広い読者層をもち、以て我が思想界文化界の水準の向上に資することを切望してゐた。偶々太平洋戦争が我が国にとつて断末魔の様相を呈し、東大の教授陣や学生は一般の大学の例に漏れず、防空や勤労や学徒出陣や図書疎開等に寧日がなかつた頃の昭和十九年六月、ラードブルッフ法哲学の研究会が東大法学部の大学院特別研究生や助手の諸君の熱心な希望によつて誕生したのであつた。そのメンバーは小山昇、服部栄三、綿貫芳源、矢沢惇、守安清、伊藤正巳、加藤一郎、滋賀秀三、雄川一郎、石川吉右衛門、池原季雄、山本桂一の諸君である。その以外に同僚尾高朝雄教授と私はこれ等の若手の諸君の希望によつてこの研究会に参加し、会合を指導することになつた。空襲が益々熾烈を加へ、会員の中に罹災者が続出し、世情騒然、生活急迫を加へてきたにかかはらず、毎週一回の輪読は規則正しく続けられた。空虚な号令と虚偽なニュースが充満してゐる世間の騒音を外に、我々は血肉が躍動してをり、芸術的香気の高い本書を一章一章と読み続け、学問的栄養を摂取する幸福をしみじみと感じたのであつた。この協同的な仕事こそ、私個人としても、東大法学部勤務三十年間における最も楽しく且つ懐しい経験として今日これを回顧するのである。我々はこの仕事に参加した諸君が今日新進の学者として東大を初め各大学の教授陣を充実してゐることを心から喜ばしく感じるとともに、このラードブルッフの研究が諸君の学問の内容と方向付けに大きな寄与をしたこと、ことにこれによつて諸君が法哲学的真理の探求に情熱をもつやうになり、又相互間に気高い学問的協同体を作つたことを信じて疑はないのである。
 研究会は終戦直後の昭和二十年九月を以て予定の仕事を完了した。その後間もなく、参加者の勉強のために、又楽しかつた協同研究を記念するために、翻訳の話がもち上つた。各自はそれぞれ分担の部分を訳し、昭和二十二年三月までに、第一章乃至第十五章は服部君が、第十六章乃至第二十九章(終章)までを矢沢君が整理し、尾高教授と読み合せを行つた。
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「事実の規範力を認むべし」という命題

2015-10-11 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月11日(日)12時46分9秒

「研究会 清宮憲法学の足跡」の続きです。
樋口氏は芦部信喜氏に次いで高見勝利氏の意見を聞いた後、次のような感想を述べます。(p83以下)

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 芦部先生のご指摘の中で、「事実の規範力を認むべし」という命題を基本に据える先生の枠組からは、正しさという要素が、先生が別のところで力説されているにもかかわらず、論理内在的には位置づけ難いのではないかと、そういう問題が出されました。
 いくつか問題になり得る論点があると思うのです。先生は、「事実の規範力を認むべし」という命題を、根本規範の中に取り込んでいるように書かれてもいるのですが、他方では「違法の法」という議論のときに、何でもかんでも法秩序の統一に、ケルゼン風に焦る必要はないのだ、という言い方をして、体系の外から、体系を破って入ってくることを、正面から認めろということも言われているのです。そうなってくると、「事実の規範力を認むべし」というのは、むしろ体系を破るほうの側のことであって、破られるほうの上に載っている根本規範は無傷だ、という論理構成のようにも読めるのです。私自身、正直言って、よくわからないのです。その点が一つです。
 もう一つは、芦部先生のご指摘に関連して、これは今日の予定では根本規範論のセクションの主題ですので、ここでは触れるだけにしておきたいと思うのですが、戦後の先生の根本規範論では、その中に、先生の用語での授権規範だけではなくて、先生の用語での制限規範も入ってくるのです。制限規範というのは、端的にいえば人権価値ですし、究極的に個人の尊厳ということになってくると、そのレベルでは根本規範の中に、先生にとっての正義というのが入っているということになる。ただ、そこでもまた問題はもう一回元に戻るので、先生が一方で議論の決め手として要所要所でお出しになる「事実の規範力を認むべし」という命題と、いったいどうかかわるのかということは、なかなか読み取れない。これは、考えてみれば法律学始まって以来の難問ですから、清宮先生自身がその問題について、いろいろと苦吟をなさっていらっしゃる、ということなのかもしれませんが。
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「恩師」の水浸し

2015-10-11 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月11日(日)11時58分3秒

既に何度か触れましたが、石川健治氏によれば、

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清宮の弟子のなかでも末っ子にあたる樋口陽一は、一九三四年の論文「違法の後法」を、かねて恩師の最高傑作として推していたものである。「タイトルからして格好いい。清宮先生のものとは思えないほど格好いいね」と、樋口は冗談めかして本稿筆者に語ったことがある。清宮没後のジュリスト特集でも、この論文にスポットを当てて、戦前の業績を論じている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/166a3d2d745e0d4b969ab3cac22c04f4

のだそうですね。
「清宮没後のジュリスト特集」云々は、私が全体の半分程度の分量を紹介済みの「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」のことですが、この論文は別に「違法の後法」だけに「スポットを当てて」いる訳ではないですね。
また、私には「かねて恩師の最高傑作として推していた」という雰囲気も感じ取れないのですが、そうかといって石川氏がウソを言っている訳でもないんでしょうね。
何しろ「窮極の旅」を含む『学問/政治/憲法―連環と緊張』は「二〇一四年にめでたく傘寿を迎えられた、樋口陽一という独立不羈の知識人に対して、これまでの学恩への衷心からの感謝のしるしとして、捧げられ」たものだそうなので、石川氏が「恩師」の樋口氏にすぐバレるようなウソをつくはずがありません。
ま、事情はよく分かりませんが、「違法の後法」は樋口氏の感性、ないし趣味に適合する論文であることは間違いないんでしょうね。
それにしても「恩師」の繰り返し、「恩師」の水浸しは本当に鬱陶しいです。
論文の冒頭や末尾に「恩師」への謝辞を書く程度ならよいのですが、本文中に「恩師」が何度も登場するのは相当に気持ちが悪いですね。

>筆綾丸さん
>Bruch は破壊(骨折、断層)というような意味
石川健治氏の好きな訳語だと「破砕」ですね。

>ラードブルフ
1951年、田中耕太郎(1890-1974)が『法哲学』を翻訳して小山書店から出していますが、その際は「ラードブルッフ」ですね。
序文によれば、この本は終戦直後の食糧事情も厳しい時期に、田中を中心とする何人かの研究者が集まってRadbruchの読書会を行った成果を田中がまとめたものだそうですが、参加者は田中を始め殆どヨーロッパ留学組なのに、ちょっと訛りがひどいですね。

>『タモリと戦後日本』
全体的に決して悪い本ではないのですが、空海と昭和天皇に譬えるのは勘弁してほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Radbruch 2015/10/10(土) 18:35:33
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%95
辞書を引くと、Radbruch の Rad は自転車(車輪)、Bruch は破壊(骨折、断層)というような意味で、法的安定性や正義とはおよそ無縁の、なんとも変な姓ですね。(芦部氏は、ラードブルフ、と訛っていますが)

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 ひょっとすると、芸能界に入る前もあとも他人に求められるがままに仕事をしてきたタモリが人生で自ら決断を下したのは、三〇歳で笑いの道に進むべく再上京を決めたときと、『いいとも!』の終了を決めたこのときぐらいなのではないか。このあたり、戦前・戦後を通じて立憲君主としてふるまうことを自らに課し、政治への介入をあくまで避けた昭和天皇が、二・二六事件と終戦の二度だけは「聖断」を下したという史実と思わず重ね合わせてしまう。(『タモリと戦後日本』299頁)
------------
これもタモリには驚きでしょうね。

昔、プラハの町をブラタモリしていたとき、本屋の店頭にル・ゴフの翻訳本があって、驚いたことがあります。

追記
https://fr.wikipedia.org/wiki/Rue_Le_Goff
パリ五区、パンテオンとリュクサンブール公園の間、ソルボンヌ大学の近くに、ル・ゴフ通りというのがありますが、ジャック・ル・ゴフとの関係はわかりません。
普仏戦争におけるシャンピニーの戦い(1871年)で、負傷者への輸血時での献身により亡くなったロマン・ル・ゴフ(ヴァル・ド・グラス軍病院の学生)に因んで、1880年、命名された、とウィキにはあります。ここでいう献身(dévouement)とは、自分の血を負傷兵に与えすぎて死んだ、という意味ですかね。信仰心があるにしても、凄いものです。
かつて、この通りの10番地にはフロイトが住み(1885-1886)、1番地ではサルトルが幼少期を過ごした(1905-1917)、とのことですが、二人とも通りの名の由来は知っていたでしょうね。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Jacques_Le_Goff
ル・ゴフの父ジャン(1878年生)とロマンとの間に、縁戚関係があるのかどうか。
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「これは結局、勝てば官軍の理論にならないかどうか」(by 芦部信喜)

2015-10-10 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月10日(土)11時24分15秒

『ジュリスト』964号(1990)の清宮追悼特集は芦部信喜(学習院大教授、当時)・高見勝利(北大教授、当時)・樋口陽一(東大教授、当時)の三氏による座談会の記録「研究会 清宮憲法学の足跡」(p80以下)と樋口氏の「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(p94以下)、そして高見氏の「日本国憲法の基本構造の究明─清宮四郎先生の戦後の業績─」(p97以下)の三部から構成されていますが、冒頭の座談会記録は参加者が樋口・高見論文を予め読んだ上で語り合ったものです。
樋口氏が司会となり、最初に芦部氏の意見を求めますが、その中で根本規範に関する部分を引用します。(p82)

-------
○事実の規範力を認むべしという原理

 もう一つ問題点として感じたことは、事実の規範力を認むべしという原理、これこそ根本規範である、という先生の命題についてです。先生はこの根本規範論によって、イェリネックの「事実の規範力」も、ケルゼンの「根本規範」も、「更生の途を見出すことができ、違法の後法が実定法として存在することを基礎づけることができる」と言われております。しかし、これは結局、勝てば官軍の理論にならないかどうか。先生は、「違法の後法」という一九三四年の論文の「事実の規範力を認むべし」という原理に触れた箇所で、「法は実効的に貫行され得るが故に通用するのではなく、実効的に貫行され得る時に通用するのである」というラードブルフの言葉を『法哲学』から引用しておられますが、ラードブルフは『法哲学』において、「われらに静安を与うる者が主である」というゲーテの『ファウスト』の言葉を引き、「これこそあらゆる実定法の効力が根拠を置く根本規範である」と述べ、その上で、「法は有効に実現しえられるが故に効力を有するのではなく、それが有効に実現しえられるときにはじめて法的安定性を与えられるが故に効力を有する」と述べているのです。つまり実定法の効力は、安定性に根拠があるという立場です。この安定性、これは正義と言い換えてもよいと思うのですが、清宮先生の根本規範論には、この正義の要件が欠けているのではないのか。そのため、事実の規範力説に著しく近いという印象を受けるのです。そう解してよいかどうか、これが二つ目の問題点です。
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『ヨーロッパは中世に誕生したのか』

2015-10-10 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月10日(土)10時31分20秒

>筆綾丸さん
石川健治氏の「7月クーデター説」との関連では「清宮四郎先生の戦前の業績」の問題点はほぼ出尽くしているのですが、いろいろやっているうちに樋口陽一氏に対する疑問も沢山出てきて、その扱いをどうしようかなと迷っています。
清宮との関係を細かく追っても収穫はなさそうですから、いったん打ち切って、フランス史をきちんと勉強してから樋口氏の弱点を突けば何かやれそうな感じもします。
樋口氏はイギリス史に弱い、というか最近のイギリス史の研究の進展をきちんとフォローしていないことは名大教授の愛敬浩二氏が指摘していて、私も一応、川北稔氏を中心にイギリス史研究の動向だけは見ているつもりなので愛敬氏の指摘に賛成なのですが、樋口氏の本拠は何といってもフランスですからね。
ま、どっちにしろ先の長い話なので、とりあえずは好きな中世から始めようと、たまたまル・ゴフの『ヨーロッパは中世に誕生したのか』(菅沼潤訳、藤原書店、2014)を読み始めたところ、筆綾丸さんがル・ゴフに言及されので、おおっ、と思いました。

『ヨーロッパは中世に誕生したのか』

>池田健二氏の『ロマネスクへの旅』三部作
どれも写真が良いですね。
『ヨーロッパは中世に誕生したのか』には多数の写真が載っているのですが、原著の転載ではなく、凡例に「本文・口絵写真は、池田健二氏の提供による」とあります。
フランスの歴史学者が書いた書物に自在に素材を提供できるのですから、池田氏がヨーロッパで撮影した写真の分量の膨大さが偲ばれます。

小亀レスですが、ご紹介の近藤正高著『タモリと戦後日本』を読んでみました。
「一義」は田中義一にあやかって祖父が命名したそうですが、姓名判断で「義一では頭でっかちな人間になる」と言われてひっくり返した(p20)、というのはいかにもタモリらしいエピソードです。
早稲田を中退して福岡に戻ってから再び上京するまでの七年間を空海の「謎の空白時代」に譬えるのは凄い発想ですが(p106)、さすがにこれにはタモリもびっくりでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Romanesque 2015/10/09(金) 17:27:34
小太郎さん
御引用の、
------------------
ケルゼンの根本規範は、それを仮説として想定しなければ法認識が成り立たないことを含意する点で、法および法学に対する根本的な懐疑を意味する。清宮先生の根本規範は、それとは正反対に、法および法学を根拠づける。
------------------
という指摘で尽きている、そんな気がしますね。

金沢百枝氏の『ロマネスク美術革命』において、以下の記述は、ロマネスク美術の出生の秘密の一端を解き明かしているように思われ、興味深く読みました。
------------------
フランク王国カロリング朝の宮廷で、奇妙な文化的融合が果たされたことが、ロマネスク美術にもおおいに関係しているように思われる。島嶼系写本で一般的だった文字を飾るという習慣と、古代以来の再現芸術との融合によって生じたイニシャル装飾の変容は、ロマネスク期に植物から生き物や物語へと刷新されていった柱頭彫刻の変容過程と重なっている。(103頁)
------------------

http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-09986-1.html
オータンのサン・ラザール大聖堂の扉口彫刻における天国と地獄の説明を読みながら、ル・ゴフの言うように、煉獄は中世のある時期に誕生したのであって、ロマネスク期にはまだ生まれていなかったと考えていいのだな、と思いました。

「あとがき」の最後の一文、
------------
膝のうえの猫をもふもふし、喉がぐるぐる鳴る音を聞きながらの執筆もまた、甘美な記憶である。(270頁)
------------
は、ロマネスク美術の専門家らしく、とてもロマネスクですね。

http://www.ichigaku.ac.jp/schoolinformation/seminar/misc21/seminar-contents-672/
池田健二氏の『ロマネスクへの旅』三部作(中公新書)はときどき開いてみるのですが、ロマネスク彫刻は一度はまるとなかなか抜け出せなくなりますね。
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「ケルゼンをいわば換骨奪胎」 (その4)

2015-10-09 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 9日(金)11時15分59秒

つづきです。

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 ところで、清宮先生は、憲法改正限界論を採る多くの学者が、その限界を画する際に、「大部分は単に規定の対象の政治的重要性乃至は事実上の変更困難性を以て直ちに区別の標識となし、いまだ確たる法的根拠に立脚するものとはいい得ない」(C一六六頁)、と批判している。それと関連して、C・シュミットのように憲法と憲法律の区別から改正の限界を画することを、「理論上も実際上も不可能である。かくして設けられる限界は実は極めて恣意的なものであろうから」(同上)、と評している。まさにその点で、戦後になってからの清宮先生自身の根本規範論・憲法改正限界論は首尾一貫しているかどうか、問題とされる余地がある。
--------

論文Cは「憲法改正作用」(1938年)ですね。
ここで、「戦後になってからの清宮先生自身の根本規範論・憲法改正限界論は首尾一貫しているかどうか」という極めて厳しい問題意識が明確化されます。

--------
 というのは、帝国憲法下で根本規範とされていたのは、文字どおり「国家における始源的法創設の最高権威を設定」する規範、帝国憲法一条であった。ところが、戦後は、国民主権のほか人権と平和主義にわたる「三つの原理」、「さらにそれらの原理の根底にある原理として、『個人の尊厳』という原理」が、「日本国憲法における根本規範の内容」として示されることとなった(憲法Ⅰ、第三版三三頁)。戦前は、清宮先生の用語法でいう授権規範の窮極にあるものだけが根本規範とされることによって、「確たる法的根拠に立脚」していたとすれば、戦後は、先生のいう制限規範までを根本規範として性格づけたことによって、結局、「規定対象の政治的重要性」にもとづく区別にもどったのではないだろうか。
 そして、そのこと自体、それぞれの実定憲法の性格の反映であるとすれば(帝国憲法にとって「憲法の憲法」(前出三三頁)が君主主権に尽きていたのに対し、日本国憲法の国民主権は単独で「憲法の憲法」とはなりえず、より窮極の「個人の尊厳」によって支えられなければならない、というちがい)、清宮根本規範論の軌跡も、それが実定憲法学の根拠づけであろうとする点からくる反映であると同時に、問題点をさし示すように思われる。
--------

「戦前は、清宮先生の用語法でいう授権規範の…」の「清宮先生の用語法でいう」に傍点が付されています。
樋口論文はこれで終わりですが、全体として、論文B=「違法の後法」を含む「清宮四郎先生の戦前の業績」に対する樋口氏の視線はかなり厳しいもののように感じられますね。
樋口氏の見解については、同じジュリスト964号に掲載された樋口氏と高見勝利・芦部信喜氏の鼎談での芦部氏の評価を紹介した上で、少し検討しようと思います。
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「ケルゼンをいわば換骨奪胎」 (その3)

2015-10-09 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 9日(金)11時14分51秒

ついで、東北大学名誉教授・菅野喜八郎氏(1928-2007)と金沢大学名誉教授・新正幸氏(1945-)の見解の紹介と若干の批評となります。
内容的には(その2)と重なるので省略しようかなとも思いましたが、いずれも東北大学出身の、石川健治氏の所謂「清宮門下生の方々」なので、清宮説の影響を確認する意味で紹介しておきます。

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 根本規範論を前提とした清宮先生の憲法改正限界論を「自然法的」(菅野喜八郎『国権の限界問題』六〇頁)とする呼び方があることにつき、注意が必要である。根本規範が実定法上のものである以上、それは、時と所を超えて妥当する法規範という意味での自然法ではなく、実定法の内容に応じて可変的なものだからである。ほかならぬケルゼンが、自然法は実定法破壊的であるより実定法正当化機能が卓越する、と指摘した機能的な意味で、清宮先生の根本規範論は「自然法的」なのである。
 もうひとつ、ケルゼン=根本規範論と清宮=根本規範論は、前者が「一般憲法学の可能態概念」であるのに対し、後者は「個別憲法学の現実態概念」であり、問題の次元がまったくちがうから両立可能だ、という指摘(新正幸「清宮憲法学と純粋法学─根本規範論を中心として─」(長尾他編『新ケルゼン研究』所収)がある。両者を論理的にそのような関係でとらえることができるという指摘は巧みな説明だとしても、しかし、それぞれのねらいとした点、二つの学説のいわばアイデンティティは、明らかに相互対立的であることを、見失ってはならないだろう。
--------

菅野喜八郎氏の『国権の限界問題』は未読ですが、日本国憲法のように実定憲法に自然法思想が組み込まれた場合、結果として「根本規範論を前提とした清宮先生の憲法改正限界論」は「自然法的」になるということですかね。
帝国憲法は自然法思想と無関係ですから、帝国憲法の下での「根本規範論を前提とした清宮先生の憲法改正限界論」は「自然法的」ではありえないですね。
ま、当たり前のことですが。

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「ケルゼンをいわば換骨奪胎」 (その2)

2015-10-08 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 8日(木)11時06分10秒

「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(『ジュリスト』964号、1990年)は(その1)で引用した部分の後、

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 以下では、ケルゼンの法段階理論との異同という観点を念頭におきながら、「上位規範に違反する下位規範」に関する考え方(Ⅰ)、「最上位」に想定される「根本規範」についての考え方(Ⅱ)の順で、いくらかの検討をこころみたい。
-------

として、問題を二つに分けるのですが、「Ⅰ」は当面の関心とは若干離れるので省略し、「Ⅱ」の方を紹介します。

-------
Ⅱ 「根本規範」

 直接には憲法改正作用の法的性格をどう理解するかという場面で、しかしより根本的には「法学」そのものの根拠づけの場面で、「根本規範」という概念が登場する。
 ここでも、清宮先生は、ケルゼンの思考に触発されながら、ケルゼンの同じ言葉で表現される観念を、「怪奇な根本規範に逃避」(B八六頁)というふうに評し、ケルゼンのそれが「仮説として前提された(vorausgesetzt)規範」であるのに対し、自らのものが、「一国の憲法の一部、いな、最も重要な部分として実在する規範であり、実定規範である」こと、gesatzt な規範であることを強調する(C一五九-一六〇頁)。
 そのことによって、清宮先生の「根本規範」=「国家における始源的法創設の最高権威を設定」する規範は、「他の一切の国家法秩序の通用を基礎づける」ものとなる(C一五九頁)。直接に根本規範によって設定された主権者によっておこなわれる作用である憲法改正作用の根拠となる憲法改正規範が、特別の意義を与えられ、根本規範→憲法改正規範→普通の憲法規範という三段階の構造があらわれる。こうして、憲法改正規範にもとづく憲法改正作用をもってしては、「根本規範を変更し得ず」、「憲法改正規範を変更し得ず」、という結論が導き出される(C一六六頁)。
 ケルゼンの根本規範は、それを仮説として想定しなければ法認識が成り立たないことを含意する点で、法および法学に対する根本的な懐疑を意味する。清宮先生の根本規範は、それとは正反対に、法および法学を根拠づける。
--------

ここでいったん切ります。
ま、要するにケルゼンの「根本規範」には「法および法学に対する根本的な懐疑」があるのに、清宮の「根本規範」にはそんなものはきれいさっぱり全くない、ということですね。
「清宮」の名にふさわしく、清潔感に充ち溢れた、実に清々しい理論です。
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清宮神社の御神体

2015-10-08 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 8日(木)10時34分22秒

>筆綾丸さん
>清宮に 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ
石川健治氏の清宮四郎ストーキング四部作を読むと、確かに我が身を滅ぼしても清宮を恋い慕う、みたいな鬼気迫る愛情を感じますね。
また、一種の宗教的雰囲気も濃厚で、清宮神社の神前に額づく石川氏の厳粛さは西行の「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」を連想させます。
ま、私が清宮神社の御神体らしい「違法の後法」を覗き見たところ、どうも鰯の頭ではないかと思われるのですが、見る人が見れば後光が射しているのかもしれません。

>『民主主義の本質と価値』
私の手元には西島芳二訳の『デモクラシーの本質と価値』しかないのですが、ピラトが登場する最後の部分は西島訳も悪くはないですね。
長尾龍一氏の新訳の共訳者となっている植田俊太郎氏のお名前は聞いたことがありませんでしたが、長尾氏のブログによれば、長尾氏が『純粋法学』の改訂版(英語版)を訳出した際にも植田氏はずいぶん活躍されたようです。

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ゲラが出ると、若い友人の高澤弘明氏と植田俊太郎氏に、「ゲラを見て、分りにくいところや変に感ずるところがあったら指摘して欲しい」とお願いした。その部分は原著を参照して訳し直そうというつもりであった。ところが植田氏は、ご多忙の中で、原著を丁寧に参照して、徹底的に検討して下さり、毎頁に誤訳・不適訳を発見して下さった。全く弁解の余地のない誤訳も多く、自分の訳がここまでひどいとは、と衝撃を受けた。デルフォイ神殿アポロン神の「汝自らを知れ」という叱責である。高澤氏が「分りにくい」と指摘して下さった中でも、幾つか誤訳を見つけた。両氏には、もとより私が感謝しなければならないが、第一に強調さるべきは学界への貢献であろう。

長尾龍一氏から「デルフォイ神殿アポロン神」並みに誉められる人も珍しいでしょうが、検索してみたら植田俊太郎氏は明治大学関係の学術雑誌にいくつかの論文を寄せている程度で、本当に若い人みたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

紫の朱を奪う 2015/10/07(水) 16:09:17
小太郎さん
御引用の「同書は各国語に訳され、世紀初頭のベストセラーとなった」という文からすると、『性と性格』(Geschlecht und Charakter)を鷗外は独逸語でスラスラ読み、鷗外の分身である大村は仏訳で読み、ここは誤訳だろう、などとブツブツ呟いた、という可能性もある訳ですね。鴎外という人はほんとに嫌味な人だなあ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85
ヴァイニンガー家の人々がケルゼンに与えた影響は複雑なんですね。
ケルゼンがトーマス・マンであったなら、法哲学的な著作の代りに、『 Weiningers : Verfall einer Familie 』(ヴァイニンガー家の人々ーある家族の没落)という作品が残ったかもしれないですね。

『民主主義の本質と価値』の最後は以下のとおりで、ケルゼンの内面は屈折しているようですね。
------------------------
 新約聖書第十八章ヨハネ伝にイエスの生涯のある出来事が記されている。端的で、素朴な雄渾さをもったその叙述は、世界文学中に最も崇高な作品の一つである。それは意図せずして、相対主義の、そして民主主義の悲劇的象徴となっている。過越祭の時、イエスは神の子にしてユダヤ人の王なりと自称したかどで、ローマの総督ピラートゥス〔ピラト〕の前に連行された。このローマ人の眼には、イエスは哀れな愚者にしか見えなかったから、ピラートゥスは「お前がユダヤ人の王なのか」と皮肉に問うた。イエスは、極めて真摯に、自己の神的使命への熱情に充たされて答えた。「その通りだ。私は王なのだ。真理の証しをするためにこの世に来たのだ。真理に属する者は我が声を聴け」と。ここで、古く、疲弊し、それゆえ懐疑的になった文明の人たるピラトゥスは、「真理とは何か」と問うた。彼は真理の何たるかを知らず、また民主的思惟を習慣とするローマ人であったから、これを民意に問い、評決に付そうとした。彼はユダヤ人たちの前に出て、イエスの言葉を伝え、彼らに対し、「私は彼に何の罪責をも見ない。しかし過越祭に私が一人の罪人を釈放するのが汝らの仕来たりである。そこで汝らはこのユダヤ人の王の釈放を欲するか」と問うた。評決の結果は、イエスの釈放を認めなかった。満場の民衆は呼号して、「彼ではない、バラバだ」と叫んだ。聖書の著者はこれに「バラバは強盗であった」と附言している。
 信仰者は、政治的信仰者は、これこそ民主主義肯定ではなく、その否定の適例であると反論するであろう。この反論は承認せざるを得ない。しかしそれにはただ一つの条件がある。すなわち、信仰者の、その奉ずる政治的真理、必要とあれば血の雨を降らせてでも貫徹されるべき真理に対する確信が、神の子のそれの如く堅固であるという条件が。(岩波文庫版131頁~)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%90
ウィキを読むと、バラバという人も複雑です。

https://kotobank.jp/word/%E7%B4%AB%E3%81%AE%E6%9C%B1%E3%82%92%E5%A5%AA%E3%81%86-642411
むらさきの あけをぞ奪ふ 清宮に 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ  東大寺俗別当 石川麻呂子

上は駄歌ながら、
わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ (元良親王)
が、本歌らしい。
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「ケルゼンをいわば換骨奪胎」(by 樋口陽一)

2015-10-07 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 7日(水)09時35分9秒

石川健治氏は「窮極の旅」の注107で、清宮の「根本規範」の用法について、「樋口陽一教授をはじめ、清宮門下生の方々に伺ってみたい問題である」などと言っていますが、樋口陽一氏は石川氏も引用している「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(『ジュリスト』964号、1990年)において、既に回答を示しているんじゃないですかね。
この論文は、樋口氏が本当に「違法の後法」を「恩師の最高傑作」などと評したのか疑問を感じさせる内容なので、少し紹介してみます。(p94)
まず、冒頭から。

--------
 清宮先生の戦前の業績を代表するものとして、A=「法の定立・適用・執行」(一九三一年)、B=「違法の後法」(一九三四年)、C=「憲法改正作用」(一九三八年)の三つをとりあげ、関連して、D=「国家における立法行為の限界」(一九三四年)にふれることとする(引用のページは『国家作用の理論』による)。
 これらの仕事を通して共通しているモチーフは、「国法秩序の論理構造の究明」であり、そこには、「従来の法学者の多数が、実定法の解釈にのみ主力を注ぎ、悪くいえば易きについて、条文の解釈にのみ逃避するの怠慢」ゆえに、また、「問題の至難」さのゆえに、それまで、「深く立ち入ってこの問題の究明を担当した学者」が「内、外ともに、あまり多くのその名を挙げることが出来ない」、という認識があった(「ブルクハルトの組織法・行態法論」一九四二年、二八三頁)。
 その際、先生の思考に大きな影響を与えたのが、ケルゼンの法段階理論であった。先生の留学(一九二五~二七年)中、ウィーンで直接にケルゼンの講義と人柄に接し(二六年夏学期)、『一般国家学』の邦訳(一九三六年、改訳版一九七一年)をも出版した先生が、ケルゼンの影響下にその理論を展開された、ということは、いまさら指摘するまでもないほど周知のところである。
--------

ま、ここまでは清宮の論文を読んだことのある者にとって、確かに「周知のところ」です。
そして、次に重要な指摘があります。

--------
 むしろ、ここでとりあげたいのは、次のこと、すなわち、清宮憲法学はケルゼンをいわば換骨奪胎することを通じて、実定憲法学の基礎づけにとりくんだ、ということである。ケルゼン学説の真骨頂が実定法批判と実定法批判にあったとしたならば、その特徴を─ケルゼンへの体系的言及やその翻訳にはたずさわることなしに─いちばんひき出して自分の憲法学の基礎としたのは、宮沢先生であった。ケルゼンに対する清宮憲法学の位置は、それゆえ、ケルゼンに対する宮沢憲法学の位置とくらべて、対照的だったといえよう。実定法学批判の方法的枠組(宮沢)と実定法学を基礎づける論理(清宮)との対照である。
 戦後、両先生は、まさに日本国憲法という実定法の解釈・啓蒙の場面でともに指導的立場に立たれることになるが、宮沢先生の場合は、戦前示された「法の科学」=イデオロギー批判という基本的方法そのものを転換させたわけではないとしても、少なくとも強調点の転換が見られ、戦前の、いわばつき放した実定法観を修正することになる(「法律学における『学説』」〔一九三六年〕から「学説というもの」〔一九六四年〕へ)。それに対し、清宮先生の場合は、戦前、戦後を通して実定法学の土俵で終始した。
--------

「ケルゼンをいわば換骨奪胎」したということは、要するにケルゼンからイデオロギー批判の要素を抜き取ってしまい、「ケルゼン学説の真骨頂」なきケルゼン学説(?)を創ったということですね。
従って、仮に樋口氏が長尾龍一氏から、清宮について<「ケルゼン・マイナス・批判的知性」(何が残るか?)>と問われたら、「ケルゼン学説の真骨頂」のない「実定憲法学の基礎づけ」が残ると答えることになりそうですね。
いったんここで切ります。

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オット・ヴァイニンガー(1880-1903)

2015-10-07 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 7日(水)08時02分37秒

>筆綾丸さん
>Otto Weininger
1880年生まれですから、ケルゼンより1歳上ですね。
「ケルゼン伝補遺」に長尾氏の簡明な解説があるので、引用しておきます。(p107以下)

-------
 大学時代のケルゼンの友人で、ベストセラーを遺して二十三歳で自殺したヴァイニンガーについては、『ケルゼンの周辺』(四七-一二一頁)に紹介したので、ここではその生涯と思想の要旨を略述したい。
 彼は、美術工芸家レオポルト・ヴァイニンガーの子としてウィーンに生れる。一八九八年ウィーン大学入学、哲学・心理学を学ぶ。最初アヴェナリウス流の経験論者であったが、一種の回心を体験して、プラトン的・カント的・キリスト教的形而上学的世界観に帰依し、一九〇二年七月二十一日ユダヤ教からプロテスタントに改宗した。「男性のみが形而上学をもち、女性はそれをもてない」という主張、及び「ユダヤ人は形而下的民族である」という主張を機軸とする博士論文『性と性格』(Geschlecht und Charakter)を一九〇二年夏提出、それに手を加えた同一表題の著書を一九〇三年五月に刊行した。その中の、最も卑しい民族であるユダヤ人の中から、内なるユダヤ性を根源的に克服したイエスが生れたように、現代においても、そのユダヤ人の中からメシア的人物が生れる可能性があるという主張は、自己自身を暗示しているという解釈もある。北欧に旅行した後、同年十月四日自殺。同書は各国語に訳され、世紀初頭のベストセラーとなった(戦前と戦後に邦訳がある)。
---------

この紹介を見る限り、ずいぶん複雑に屈折している感じですね。
国会図書館で検索すると、オツトオ・ワイニンゲル著、村上啓夫訳の『性と性格』は大正14年にアルス社から出たのが最初で、昭和3年に同じアルス社から上下版が出て、昭和9年に春秋社の『世界大思想全集』の90巻に入り、更に昭和11年には同社の春秋文庫に入っていますね。
戦後は昭和33年、河出書房新社から性問題研究会編・世界性学全集の第15巻として出ているそうですが、これも村上啓夫訳です。
これだけ版を重ねているのですから、相当に売れたんでしょうね。
なお、「ケルゼン伝補遺」には、上記部分の次にメタル『ケルゼン伝』の引用があり、そこには、

--------
【前略】ケルゼンは、オットのみならず、その姉妹のローザとも長く交際した。ローザは彼にハムスンの『神秘なることども』を贈り、それが彼のこのノルウェーの作家への愛を燃え立たせた。現在でもケルゼンは、オットの父レオポルトが息子の死後、ケルゼンが処女作『ダンテの国家論』を贈ったのに応えて、彼に贈った象牙のダンテ胸像を、大切な思い出として保存している。オット・ヴァイニンガーの人格とその死後に著書が獲得した名声は、彼の学問に生涯を捧げようという決意に強く影響した。
--------

とあります。
ローザとケルゼンの関係を妄想したくなるような微妙な書き方ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

青年 2015/10/06(火) 21:55:31
小太郎さん
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2522.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
http://www.douban.com/group/topic/26564580/
引用された長尾龍一氏の文に、「若き日、友人のヴァイニンガーが突如として宗教的となり、プロテスタントに改宗した衝撃」とありますが、鷗外の『青年』に
----------------------
・・・君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto Weininger というのだ。僕なんぞはニイチェから後の書物では、あの人の書いたものに一番ひどく動されたと云っても好いが・・・」(十二)
----------------------
という箇所があり、若い頃に読んで、Otto Weininger の名は妙に記憶に残っています。ケルゼンの友人だったのですね。
『青年』は鷗外がフランス語の知識を自慢した作品なので、Österreichisch(エスタライヒシュ)と得意のドイツ語ではなく、オオトリシアン(autrichien)とフランス語風の表記にしているのが、嫌味と言えば嫌味です。鴎外も作中の鷗外の分身(大村)もドイツ語でヴァイニンガーを読んでいるわけですから。

金沢百枝氏の『ロマネスク美術革命』は、これからゆっくり読もうと思っています。
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