学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その6)

2018-03-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月25日(日)20時55分28秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p223以下)

-------
 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御とのごもりたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御ことどもかありけん。うちすて参らすべきならねば、御上臥〔うへぶ〕したる人のそばに寝れば、いまぞおどろきて、「こは誰そ」と言ふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直〔とのゐ〕し侍る」といらへば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、更け侍りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳のうちも遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。
-------

【私訳】私がまず先に入って、御襖をそっと開けると、先ほどのままでお寝みになっておられる。御前の女房も寝入っているのであろうか、声を立てる人もおらず、院がお体を低くなさって這うようにしてお入りになった後、どのようなことがおありだったのであろうか。そのまま捨て置き申し上げることもできないので、斎宮の御上臥しをしている女房の傍で寝ると、その人は今になって目を覚まして、「あなたはどなた」と言う。「お人が少ないのがお気の毒なので、御宿直しております」と返事をすると、それを本当だと思って話しかけてくるのも、気が利かないことよと情けなく感じられるので、「眠たいわ。夜も更けました」と言って眠ったふりをしていると、御几帳の内側も遠くないので気配で分かるのだが、院がそれほどお心を尽くされることもなく、早くも打ち解けなさったと思われたのは、あまりにあっけなかった。

-------
 心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに、明けすぎぬさきに帰り入らせ給ひて、「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、 さればよと覚え侍りし。日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず。今朝しもいぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影はさむる方なく」などばかりにてありけるとかや。
-------

【私訳】気強くお許しにならないで夜を明かされたとしたら、どんなに面白かっただろうと思われたのに、院はすっかり夜が明けてしまわないうちに帰ってこられて、「桜は色つやは美しいけれども、枝がもろく、手折りやすい花だなあ」などとおっしゃったので、やはり思った通りだと思われた。院は日が高くなるまでお寝みになって、もう昼という時分に目を覚まされて、「これはいけない。今朝に限って寝坊してしまった」などと言われて、今になって後朝(きぬぎぬ)のお手紙をしたためられる。斎宮のお返事は、ただ、「夢のようにして拝見した面影は覚めようもございません」ぐらいのことだったとか。

ということで、二条が仲介して後深草院と異母妹・前斎宮が関係を持ちます。
それにしても、前斎宮が後深草院を拒否すれば面白かったのに、あっさり靡いてしまって何とも退屈なことよ、という発想はなかなかのものです。
ここでの二条の役回りは、好色な後深草院に命じられて他の女との仲立ちを強いられる気の毒な被害者ではなく、後深草院の共犯者ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その5)

2018-03-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月25日(日)12時43分45秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p222以下)

-------
 御物語ありて、神路山の御物語などたえだえ聞え給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は、嵐の山のかぶろなる梢どもも御覽じて御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御方へ入らせ給ひて、いつしか「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。
 思ひつることよとをかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらん、まめやかに志ありと思はん」など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方なるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲〔がさね〕の薄様にや、
  知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは
-------

【私訳】斎宮は院とお話をして、伊勢の神通山のことなどを、とぎれとぎれに申し上げられると、院は「今宵はたいそう更けてしまいました。明日はゆっくりされて、嵐山の木の葉の落ちた梢などを御覧になってお帰りください」などとおっしゃって、自身のお部屋に戻られると、さっそく私に、「どうしたらよいだろう、どうしたらよいだろう」と仰せになる。
 予想通りだとおかしく思っていると、「お前が幼いときから私に仕えてきた証拠に、あの人との間をうまく取り持ってくれたら、本当に私に対して誠意があるものと思うぞ」などとおっしゃるので、さっそくお使いに参った。ただ一通りの挨拶のようにして、「お会いできてうれしく思いました。御旅寝も寂しくはありませんか」などといった口上で、別に密かにお手紙がある。氷襲の薄様であったか、
  知られじな……(今逢ったばかりのあなたの面影が、すぐに私の心に
  とどまってしまったとは、あなたは御存知ないでしょうね)

-------
 更けぬれば、御前なる人も皆寄り臥したる、御ぬしも小几帳ひき寄せて、御とのごもりたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うちあかめて、いと物ものたまはず。文も、見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りてこの由を申す。「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」とせめさせ給ふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。甘〔かん〕の御衣などはことごとしければ、御大口〔おほくち〕ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
-------

【私訳】夜が更けていたので、斎宮の御前に伺候している女房たちも皆寄り臥しており、御本人も小几帳を引き寄せておやすみになっておられた。近く参って、院の仰せの旨を申し上げると、お顔を赤らめて、特に何もおっしゃらない。お手紙も見るともなく、そのままお置きになった。「何と御返事申しましょうか」と申し上げると、斎宮は「思いがけないお言葉は、何とご返事のしようもなくて」とばかりで、また寝てしまわれたのも余り感心しないので、院のもとに帰って事情を申し上げる。すると院は、「何でもよいから、寝ておいでの所へ私を案内しろ、案内しろ」としつこくお責めになるのも煩わしいので、お供に参るだけなら何でもないことだから、ご案内した。甘の御衣などは大袈裟であるので、院は大口袴だけで、こっそりとお入りになる。

ということで、つい最近まで政治的事情と個人的事情で各々出家を望んでいたはずの後深草院と二条にしては、方向転換の素早さもいささか度が過ぎているのではなかろうか、という感じがします。
特に二条は、「里に侍るをりは君の御面影を恋ひ、かたはらに侍るをりは、またよそにつもる夜な夜なを怨み、わが身に疎くなりましますことも悲しむ」(里にいる折には院の御面影を恋い、院のおそばにいるときは、また他の女とお過ごしになる夜が重なることを怨み、わが身が疎遠になることを悲しむ)などと深く悩んでいたはずなのに、この場面では後深草院と前斎宮の仲を取り持つことに嬉々として荷担しています。

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7630942f4d47a35fc023c3ce48457dfc

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その4)

2018-03-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月25日(日)09時22分17秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p218以下)

-------
 明けぬれば、今日斎宮へ御迎へに人参るべしとて、女院の御方より、御牛飼・召次、北面の下臈など参る。心ことに出で立たせおはしまして、御見参あるべしとて、われもかう織りたる枯野の甘〔かん〕の御衣〔おんぞ〕に、りんだう織りたる薄色の御衣、紫苑色の御指貫、いといたうたきしめ給ふ。夕方になりて入らせ給ふとてあり。
-------

【私訳】明けると、今日、斎宮へお迎えに参るとのことで、大宮院の御方から御牛飼・召次、北面の下臈などが参った。院は格別に装束に心を配られて、斎宮とお会いになるとのことで、われもこうの模様を織った枯野色の甘の御衣に、りんどうを織った薄紫色の御衣、紫苑色の御指貫を召して、たいそう香を薫きしめておられる。夕方になって斎宮が大宮院の御所にお入りになるとの連絡があった。

-------
 寝殿の南面とりはらひて、鈍色の几帳とり出だされ、小几帳など立てられたり。御対面ありと聞えしほどに、女房を御使にて、「前斎宮の御渡り、あまりにあいなく、さびしきやうに侍るに、入らせ給ひて御物語候へかし」と申されたりしかば、やがて入らせ給ひぬ。御太刀もて例の御供に参る。
-------

【私訳】寝殿の南面の襖をとり払って広くし、薄墨色の几帳をとり出され、小几帳などが立てられている。大宮院と斎宮とが御対面になったと聞いたが、大宮院は女房をお使いとして、「前斎宮が来られていますが、二人だけではあまりに寂しいので、おいでになってお話をしてください」と申されたので、院はすぐにそのお部屋に入られた。私は御太刀を持って、いつものようにお伴をして参った。

-------
 大宮院、顕紋紗〔けんもしや〕の薄墨の御ころも、鈍色の御衣ひきかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単〔ひとへ〕ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親とてさぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし。斎宮は二十にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様なれば、ましてくまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ覚えさせ給ひし。
-------

【私訳】大宮院は(後嵯峨院崩御後、出家されているので)顕紋紗の薄墨色の御ころもを召され、鈍色の御衣を上に引きかけられ、前に同じ色の小几帳を立てられている。斎宮は紅梅色の三枚重ねの御衣の下に青い御単を召されていたが、どうにも見苦しかった。斎宮の親族としてお仕えしている女房は、紫をぼかした五枚重ねの衣で、裳や唐衣なども着けていない。斎宮は二十歳を過ぎておられる。十分に成熟なされた御様子は、伊勢の神が名残を惜しまれてお引きとどめになったのももっともと思われ、花でいえば、桜に喩えても、はた目にはさほど見当違いではあるまいと見誤れるほどで、袖を覆ってお顔が隠れる間も見続けていたいと思われるような御様子なので、まして飽くまで色好みの院の御心の中は、早くもどんな御物思いの種になっていることだろうかと、傍からも斎宮がお気の毒に思われた。

ということで、斎宮とその御付の女房の衣装に対する二条の評価は極めて辛辣です。
衣装の趣味が悪いことを非難しているようにも見えますが、三角洋一氏は岩波新体系で、「裳唐衣さえ略した衣装が、大宮院を見くびるもので、気位高いと難じたものか」(p56)とされています。
そして、衣装はともかく、年齢相応に成熟し、桜という最上の美しさに喩えられるほどの美人である異母妹に対し、好色な後深草院が内心で色々と思っているであろうことを二条がじっと観察している、という構図が次の展開を予想させます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)

2018-03-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月24日(土)22時20分19秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p212以下)

-------
まことや、齋宮は後嵯峨院の姫宮にてものし給ひしが、御服にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年まで御わたりありしが、この秋のころにや、御上りありしのちは、仁和寺に衣笠といふわたりに住み給ひしかば、故大納言さるべきゆかりおはしまししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯河の御下りをも、ことに取沙汰し参らせなどせしもなつかしく、人めまれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、つねに参りて、御つれづれも慰め奉りなどせしほどに、十一月の十日あまりにや、大宮院に御対面のために嵯峨へ入らせ給ふべきに、「われひとりはあまりにあいなく侍るべきに、御わたりあれかし」と、申されたりしかば、御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院の御方さまも、うちとけ申さるることもなかりしを、このごろは、つねに申させおはしましなどするに、またとかく申されんもとて、入らせ給ふに、「あの御方さまも御入り立ちなれば」とて、一人御車のしりに参る。
-------

【私訳】ところで、斎宮は後嵯峨院の姫宮でいらっしゃったが、後嵯峨院の服喪で斎宮をお退りになったものの、なお御暇をお許されにならないで、伊勢に三年ばかり御滞在であったが、この年の秋のころであったろうか、御上京になった後は仁和寺の衣笠という辺りに御住みになっておられたが、父の故大納言がしかるべきご縁があったので、しばしばご奉仕して、斎宮として伊勢に御下向になったときも、特にお世話申し上げたりしたことも懐かしく、人の出入りも稀な御住いも、何となくお気の毒なように存じ上げて、つねに参って御つれづれをお慰めなどしていたところ、十一月の十日過ぎであったか、斎宮が大宮院に御対面のため嵯峨の御所へおいでになる際に、大宮院から後深草院へ、「私ひとりではあまりに愛想がないので、おいでなさるように」と申された。後嵯峨院崩御後の御政務のことや東宮をお立てになるまでの騒ぎの頃は、大宮院も後深草院に対して打ち解け申されることがなかったが、近ごろは大宮院からたびたびお声掛けもあったので、この度とかく申すのも、ということで、後深草院がお出かけになることになり、「おまえはあの御方(斎宮)へも御出入り申し上げている者だから」との院の御言葉で、私一人が院と御同車することになった。

ということで、この前斎宮・愷子内親王は後深草院の六歳下の異母妹ですね。
岩波新体系で、三角洋一氏は「故大納言さるべきゆかりおはしまししほどに」に付した注に「久我通光の室で、のち大炊助藤原親秀妻となった中納言藤原親兼女が、作者の父雅忠の義母、内親王の祖母にあたる」と書かれています。(p54)
後深草院と母の大宮院との関係は、後嵯峨院崩御後の治世をめぐる争いにおいて、大宮院が一貫して亀山院を支援する立場だったために冷却化していたところ、煕仁親王の立太子後に関係改善がなされて、今回も大宮院の呼び出しに後深草院が応えた、という設定になっています。

愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
大宮院(1225-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E3%81%8D%E3%81%A4%E5%AD%90

-------
 枯野の三つ衣に、紅梅の薄衣を重ぬ。春宮に立たせ給ひてのちは、みな唐衣を重ねしほどに、赤色の唐衣をぞ重ねて侍りし。台所もわたされず、ただひとり参り侍りき。
 女院の御方へ入らせおはしまして、のどかに御物語ありしついでに、 「あのあかこが幼くより、生〔お〕ほし立てて候ふほどに、さるかたに、宮仕ひもものなれたるさまなるにつきて、具しありき侍るに、あらぬさまにとりなして、女院の御方さまにも、御簡削られなどして侍れども、われさへ捨つべきやうもなく、故典侍大〔すけだい〕と申し、雅忠と申し、志ふかく候ひしかたみにもなど、申しおきしほどに」など申されしかば、「まことにいかが御覽じはなち候ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。
-------

【私訳】私は枯野色の三枚重ねの衣に、紅梅の薄衣を重ねて着た。院の若宮が春宮にお立ちになってからは、御所ではみな正式の唐衣を上に着たので、私も赤色の唐衣を重ねていた。台盤所の女房もお連れにならず、私一人がお伴申し上げた。
 大宮院の御所にお着きになって、のどかに女院と御話合いがあったついでに、院が、「あの『あかこ』は幼い時から私が養い育てましたので、それ相応に宮仕えも物慣れているようですので、連れて歩いておりますと、それを違ったように受け取られて、東二条院の方でも女房の名札を外されなどしてしまいましたけれども、私までがこの子を見捨てることはできず、今は亡き母の典侍大といい、父・雅忠といい、私に忠実に仕えてくれましたが、この子を形見と思って慈しんでくださいとの遺言がありましたので」などとおっしゃると、大宮院は「本当にどうしてお見放しになってよろしゅうございましょう。宮仕えはまた、しなれた人が暫くでもおりませんと、たよりないものですよ」などとおっしゃられて、私にも「何事も心おきなく私に相談なさい」などと情け深い様子で声をかけてくださるのも、いつまで続くことであろうかと思う。

ということで、三十三歳上の大宮院が暖かく声をかけてくれた言葉に、「いつまで草の」と冷ややかな感想を述べる十七歳の後深草院二条なのでありました。

-------
 今宵はのどかに御物語などありて、供御〔くご〕も女院の御方にて參りて、更けて御寝みあるべしとて、かかりの御壺の方に入らせおはしましたれども、人もなし。西園寺の大納言、善勝寺の大納言、長輔・爲方・兼行・資行などぞ侍りける。
-------

【私訳】今宵はのどかに御話合いをなさって、院はお食事も大宮院の方で召し上がって、夜が更けたので御やすみになるとのことで、蹴鞠の庭に面したお部屋にお入りになったが、ごく人少なであった。西園寺大納言(実兼)、善勝寺大納言(隆顕)、(持明院)長相・(中御門)為方・(楊梅)兼行・(山科)資行などが参上していた。

ということで、西園寺実兼・四条隆顕に加えて、実際に後深草院に仕えていた四位・五位の近臣の名前を列挙することにより、いかにもリアルな話のような雰囲気が漂ってきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その2)

2018-03-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月24日(土)17時59分56秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p209以下)

-------
 兵部卿の沙汰にて装束などいふも、ただ例の正体なきことなるにも、よろづ見うしろまるは、嬉しともいふべきにやなれども、露きえはて給ひし御ことののちは、人のとが身のあやまりも心憂く、なに心なくうち笑み給ひし御面影の、たがふところなくおはせしを、忍びつつ出で給ひて、「いとこそ鏡のかげに違はざりけれ」など申し承りしものを、など覚ゆるより、悲しきことのみ思ひつづけられて、慰む方なくて、明け暮れ侍りしほどに、女院の御方さまは、何とやらん、をかせる罪はそれとなければ、さしてその節といふことはなけれども、御入り立ちもはなたれ、御簡〔みふだ〕も削られなどしぬれば、いとど世の中ももの憂けれども、この御方さまは、「さればとて我さへは」などいふ御ことにてはあれども、とにかくに、わづらはしきことあるも味気なきやうにて、よろづのことには引き入りがちにのみなりながら、さるかたに、この御方さまには、なかなかあはれなることに思しめされたるに命をかけて、立ち出でて侍るに、
-------

【私訳】兵部卿(四条隆親)の世話で装束は整えてもらえるが、それも例によって形だけのことで、万事に後見役となってくれるのは嬉しいとも言うべきではあろうけれども、皇子が露のように消えてしまわれたことの後は、あの人(雪の曙)の罪、我が身の過ちも心憂く、無邪気に微笑まれた若宮の御顔が院にそっくりでいらっしゃったのを、院がお忍びで(皇子を世話する善勝寺隆顕の邸に)来られては、「本当に鏡に映る私の顔に似ている」とおっしゃったものだなあ、などと思うにつけ、悲しいことばかり思い続けられて、慰める術もなくて明け暮れ過しているうちに、女院(東二条院)の御方の方では、何故だろうか、とりたてて犯した罪はないので、特に理由があった訳ではないけれども、そちらの御殿への出入りを止められ、女房の名札も除かれなどしたので、いよいよ御所勤めももの憂くなってゆく。この後深草院の方では、「そうかといって、私までそなたを見放しはしない」などとおっしゃってはくださるが、煩わしいことが多いのも味気なく、万事に引きこもりがちにばかりなりながら、しかしそれはそれとして、院がかえって私を気の毒に思ってくださるのをひたすら頼りとして出仕を続けていたが、

ということで、文章が続いたまま、次の前斎宮の話に移って行きます。
後深草院二条は極めて論理明晰な、キビキビした文章を書くことができますが、出家願望からこのあたりまで、わざと心の中の様々な動きをそのまま並べたようなダラダラと屈折した文章を続けて陰気な雰囲気を醸し出していますね。
なお、後深草院二条の女房としての勤務状況は、『とはずがたり』を見る限りでも相当にだらしないというか、野放図というか、とにかく休んでばかりですから、東二条院の御所に出入り禁止になるのも当然といえば当然ですね。
東二条院から見れば、「をかせる罪はそれとなければ」どころか、枚挙にいとまない状況だったのではなかろうかと想像します。
後深草院は二条より十五歳上、東二条院は後深草院より更に十一歳上なので、二条から見れば二十六歳上の親の世代の存在です。

西園寺公子(東二条院、1232-1304)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AD%90
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その1)

2018-03-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月24日(土)15時24分55秒

『増鏡』が『とはずがたり』を膨大な分量で引用していることについては何度か触れましたが、「巻九 草枕」の前斎宮・愷子内親王をめぐるエピソードは『とはずがたり』を引用した上で『とはずがたり』に存在しない新たなエピソードを付け加えるという珍しいパターンなので、少し丁寧に分析したいと思います。
そこで、まずは『とはずがたり』の方を見ておきます。
『とはずがたり』では文永十一年(1274)の出来事として、正月から二月十七日まで後深草院が血写経を行うなど精進して女性関係を持たなかったため、その少し前に「雪の曙」の子を妊娠していた二条は妊娠時期を二か月誤魔化して後深草院に報告し、九月に「雪の曙」の女児が生まれると、早産で死んでしまったことにします。
そして翌十月には前年二月に生んだ後深草院の皇子が死んでしまったので、

-------
前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に分かれた苦しみと、この二つがただ私の身一つに集まった思いがする。【中略】一日一夜に生ずる八億八千とかの悲しみも、ただ私一人に集まるように思い続けていると、そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境界を離れて、仏弟子になってしまおう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7630942f4d47a35fc023c3ce48457dfc

と出家の決意をします。
そして「この秋ごろにや」ということで、二条自身の出家願望と後深草院の政治的理由による出家の話を重ねてきます。
その部分、原文は既に紹介ずみですが、現代語訳はまだでした。

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、東の御方の御腹の若君、位にゐ給ひぬれば、御所さまも花やかに、角〔すみ〕の御所には御影御わたりありしを、正親町殿へ移し参らせられて、角の御所、春宮の御所になりなどして、京極殿とて院の御方に候ふは、むかしの新典侍殿なれば、何となくこの人は過さねど、憂かりし夢のゆかりにおぼえしを、たち返り、大納言の典侍とて、春宮の御方に候ふなどするにつけても、よるづ世の中もの憂ければ、ただ山のあなたにのみ心は通へども、いかなる宿執なほのがれがたきやらん、嘆きつつまたふる年も暮れなんとするころ、いといたう召しあれば、さすがに捨てはてぬ世なれば、参りぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/87995bbed8c0b1b10592a8518e12b27f

【私訳】この秋ごろであったか、御所様におかれても政治の動きが面白くなく、(亀山院が)後院の別当を置かれるなどということも御面目がないということで、太政天皇の宣旨を朝廷へお返し申し上げ、身辺警護の御随身たちを召し集めて、それぞれに慰労の手当てを与えてお暇を下さり、久則一人、残ってお仕えするようにとのことだったので、各々袂を絞って泣く泣く御所を退出し、御出家しようとされてお供の人数を定められたときにも、女房は「東の御方と二条」とお決めになられたので、こういう悲しいことが宿望通りの喜ばしいこと(出家)の機縁にもなろうかと思っていたところ、鎌倉から宥め申し上げて、東の御方の御腹の若君(煕仁親王)が春宮におなりになったので、御所様も花やかなお気持ちとなり、角の御所に後嵯峨院の御肖像が安置されていたのを正親町殿に移し申し上げて、角の御所は春宮の御所になったりなどした。京極殿といって院の方にお仕えしている人は、昔の新典侍殿であるから、何となく気になる人で、悲しい別れをした亡き父の縁者と思っていたが、この人が改めて大納言典侍として春宮の御方へお仕えするなどと聞くにつけても、万事に世の中がもの憂いので、ただ山のあなたの宿にのみ心は通うけれども、どのようなのがれ難い宿縁があるのであろうか、嘆きつつ過ごすうちに今年もまた暮れようとする頃、しきりとお召があるので、何といっても捨てきれない世であり、また御所に戻った。

ということで、「山のあなたに」とは古今集・雑下・読人知らず「み吉野の山のあなたに宿もがな世の憂き時の隠れがにせむ」によります。(岩波新日本古典文学大系、p53)
『とはずがたり』の時間の流れの中では、「この秋ごろにや」から「ふる年も暮れなんとするころ」の短い期間に政治的事情による後深草院の出家騒動は収束し、同時に二条の個人的理由による出家願望も終わりを告げます。
史実としては文永十一年(1274)の「この秋ごろ」というと元寇(文永の役)で幕府も朝廷も大変な時期であり、仮にこのような時期に後深草院が出家の意思表示をしたら、幕府から「そうですか。ご修行に御励みください」と言われておしまいだったかもしれません。
後深草院ももちろん幕府の情勢を探っていて、元寇への対応が一段落した翌文永十二年(建治元年、1275)の四月という時期を選んで出家の意思表示をし、半年あれこれあって、やっと同年十一月の煕仁親王立太子にこぎつけた訳です。
ま、仮に二条の出家願望があったとしても、それと後深草院の出家騒動は時期的に重ならないですね。
文永十一年正月における六条殿の物理的な不存在と関東申次・西園寺実兼の現実の勤務状況に基づき「雪の曙」の子の妊娠騒動自体が虚構と考える私としては、わずか十七歳での出家願望という、ストーリー展開の上でもいささか大袈裟になりすぎてしまった感のある大風呂敷を納めるための冷却剤として後深草院の出家騒動を利用したのかな、と思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻九 草枕」の後半について

2018-03-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月24日(土)11時38分5秒

「巻九 草枕」を後宇多天皇践祚、後嵯峨院三回忌、後深草院出家の内意、最明寺時頼、煕仁親王立太子と紹介してきましたが、この後、この巻は前斎宮(愷子内親王)と後深草院の密通、前斎宮と二条師忠・西園寺実兼の奇妙な三角関係の長大なエピソードを挟んで、最後に亀山院女御(新陽明門院)に皇子が生まれた記事を取ってつけたような形で付加して終わります。
「巻九 草枕」の前半は皇統が南北に分裂するそもそもの発端を扱った極めて重要な政治的事件を描く真面目な歴史物語なのに対し、後半は歴史的重要性の全くない愛欲エピソードの連続で、この何とも著しい落差、作者が真面目な歴史探求者のようでもあり、不倫・変態ネタが大好きなエロ小説家のようでもあるところが『増鏡』の非常に難しい点で、今まで多くの国文学・歴史学研究者を困惑させてきました。
さて、実はこの後半部分は既に昨年末に紹介済みです。
兼好法師の謎を解き明かした国文学界のスター的存在である小川剛生氏は、『増鏡』の作者を丹波忠守、監修者を二条良基という説を唱えているのですが、私は二条師忠の子孫である良基が監修者ならば、前斎宮と二条師忠・西園寺実兼のエピソードにおける師忠の滑稽な役回りを容認するはずがないと考えます。
そこで、小川説批判の意味で昨年末に二条師忠の登場する場面を紹介しておいたのですが、やはり最も『増鏡』らしいこのエピソードをもっと丁寧に分析しておきたいので、改めて原文と私訳、それに若干の解説を行いたいと思います。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8d88dea48f0f0b22372df0e76cea399
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6dd0180907906ee5c8b394b59efaa374
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd7cde400fd771b8419e4f6d945796a9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0efc706949a928b66c77229605401cfa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df0899e23c002603657e1e65c0542a0c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e01f197758952dbbce5da971f4a727
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6984d0e5c497123d2681603d4982983
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d25d5d082f4bcb4b7482904bece4143

「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/49dbeba4c7774d1eb4f141136f759990
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e837cb0f61b5b824a6eff499a04cc9f
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16665e8f7d97eaf7bdb417181c2f1cb2
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5c7d07b297545c971292249247e7391
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f997bafafa8b1a1bb6d5bd12546fa69

>筆綾丸さん
『壬申の乱と関ヶ原の戦い』は未読です。
しばらくは手が出せませんが、読んだ後で感想を書きます。

>好事家さん
無視してしまったような形になって申し訳ありませんが、単純に系図を挙げられても、正直、レスに困りますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2018/03/23(金) 22:20:41
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784396115272
本郷和人氏『壬申の乱と関ヶ原の戦い―なぜ同じ場所で戦われたのか』を半分ほど読みました。
不破関(関ケ原、青野ヶ原)あたりで日本を東西に分けるのは、「ふたつの王権論」の当然の帰結かと思いますが、壬申の乱と青野ヶ原の戦いと関ヶ原の戦いがなぜ同じ場所で戦われたのか、と問うのなら、源平の争乱や承久の乱の主戦場がなぜ関ケ原(青野ヶ原)ではなかったのか、についても答えられなければならないはずなのに、何の言及もなく、本郷さん、それじゃあ、片手落ちしょ、と思いました。
また、亀田俊和氏『高師直ー室町新秩序の創造者』を読んだあとでは、本郷氏の言うバサラな師直像は古色蒼然としていますね。

--------------
 ベストセラーになった『応仁の乱』(呉座勇一・著)では、応仁の乱にはこれといった目的がなかったと解釈しています。戦いをどちらがしかけたという点もあまり意味がないことで、目的を失って何となく戦う状態が一〇年以上も続いたとしていますが、これは常識ではありえないことです。
 戦後七〇年以上にわたり、私たち日本人は国内で戦乱のない時代に生きています。ある意味で「平和ボケ」しているから、このような悠長なことを言っていられるのです。殺しあいをともなう戦争を舐めてはいけない、というのが凡庸な私から、有能な後輩へのアドバイスです。(34頁~)
--------------
『陰謀の日本中世史』の「第六章 本能寺の変に黒幕はいたか」と「第七章 徳川家康は石田三成を嵌めたのか」は、大凡のことは見当が付くので、読むのはやめました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻九 草枕」(その5)─煕仁親王立太子

2018-03-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月23日(金)22時26分51秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p203以下)

-------
 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
-------

【私訳】その子だからであろうか、今の時宗朝臣も大変立派な人物で、「本院(後深草)がこのように世を捨てられようとされるのは本当におそれ多く、御気の毒な御事である。故院(後嵯峨)のお決めになったことには、それなりの深い理由があるのだろうが、後深草院は大勢の御兄弟の御長男で、これといった御過失もありにならないだろうに、どうしていきなり皇位から離れておしまいになるようなことがあってよいものだろうか」といって、新院(亀山)にも奏上し、あちらもこちらも御仲を宥め申し上げて、東の御方の若宮(煕仁親王)を東宮にお立てになった。

ということで、『増鏡』は一貫して、後嵯峨院自身が亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと考えていた、という立場であり、それを前提とした上で、幕府の斡旋により、幕府主導の妥協案として煕仁親王の立太子がなされた、という書き方です。

-------
 十月五日節会〔せちゑ〕行はれて、いとめでたし。かかれば少し御心慰めて、この際は強ひて背かせ給ふべき御道心にもあらねば、思しとどまりぬ。これぞあるべきこと、と、あいなく世人も思ひいふべし。帝よりは今二つばかりの御このかみなり。
-------

【私訳】十月五日、立太子の節会が行なわれて、まことに喜ばしい。このようになったので後深草院も少し御心を慰められて、今の場合はひたすら出家なさろうというほどの御道心でもないので、御出家は思いとどまられた。それが当然のことだ、と世人も素直に受け止めたようである。東宮は今上より二歳ほど年上である。

ということで、十月五日とありますが、これは十一月五日の誤りです。
ここまで後深草院が出家の意思表示をした時期も明示されていませんでしたが、寛元元年(1243)生まれの後深草院が「今年三十三にぞおはします」との説明はあったので、『増鏡』作者も文永十二年(建治元年、1275)に入ってからの出来事ということは正確に認識しています。
史実としては、後深草院が出家の意思表示をしたのは文永十二年(建治元年、1275)四月九日で、『続史愚抄』には、

〇九日庚戌。本院被献尊号兵仗等御報書<被辞申由也>。御報書前菅宰相<長成>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言<公孝>。公卿兵部卿<隆親>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言<経俊>及為方。仰依皇統御鬱懐可有御楽色故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云<〇増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>。

とあります。
その後、幕府の介入があり、半年後の同年十一月五日に煕仁親王の立太子となっています。

-------
 まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ。近頃は三条院・小一条院・高倉の院などやおはしましけん。高倉の院の御末ぞ今もかく栄えさせおはしませば、かしこきためしなめり。いにしへ天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめししためしなどをも、思ひや出でけん、御二流れにて、位にもおはしまさなんと思ひ申しけり。
 新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人目には御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、かなたこなた参り仕まつれば、大宮院も目安く思さるべし。
-------

【私訳】皇太子の方が天皇より御年齢が上という例は、遠い昔はさておき、近ごろでは三条院・小一条院・高倉院などがいらっしゃったであろううか。高倉院の御子孫が今もこのように繁栄しておられるので、皇太子が年長であることも嘉例といってよいであろう。古代の天智天皇と天武天皇とは御同腹の御兄弟である。その御子孫が、暫くは交替で世をお治めになった例なども思い出したのであろうか、(時宗は)二つの御流れにて、皇位につかれるようにと思い申し上げたのであった。
 新院(亀山)は(幕府の処置に)納得された訳でもなさそうであるが、一般の世間の目には御兄弟の仲は大変良くなられたように見えて、お便りも常に取り交わし、公卿らも両方に参上し仕えていたので、大宮院もまことに御安心と思われたであろう。

ということで、後宇多天皇は文永四年(1267)、煕仁親王(伏見天皇)は文永二年(1265)生まれなので、確かに皇太子の方が二歳年長です。
後宇多天皇の母・洞院佶子(京極院、1245-72)と煕仁親王の母・洞院愔子(玄輝門院、1246-1329)は姉妹(洞院実雄の娘)なので、両者は父が兄弟、母が姉妹という密接な関係にあります。
なお、『増鏡』は西園寺家は賛美しても洞院家に冷たく、『増鏡』に描かれた後宇多天皇誕生の場面には、洞院佶子が自身で書いて賀茂社に納めた願文に「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」と書いてあった、という奇妙で不吉な記述がありました。
他方、煕仁親王についてはもっと冷たい扱いで、その誕生の記事もなく、後宇多天皇誕生の場面の中で、

-------
新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど
-------

【私訳】後深草院の若宮<後の伏見天皇>も実雄公の御孫ではあるが、そちらは皇子のいない東二条院の御心中も推察され、だいたい、若宮はだれ憚ることのない尊い方という訳でもない方だから、後嵯峨院も大宮院も万事につけて軽く聞き流されておられるが……

という具合に冷ややかに言及されていただけです。

「巻七 北野の雪」(その13)─皇子(後宇多天皇)誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b6e7187e80926aa482304fad6478bc7
「巻七 北野の雪」(その14)─「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻九 草枕」(その4)─最明寺時頼

2018-03-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月23日(金)13時13分20秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p200以下)

-------
 この頃はありし時頼の朝臣の子時宗といふぞ相模守、世の中はからふぬしなりける。故時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人のうれへなど、くはしくあなぐり見聞かんのはかりごとにてありける。
-------

【私訳】この頃は、今は亡き時頼の朝臣の子の時宗という者が相模守で、天下の事を執り行う地位にあった。故時頼朝臣は康元元年(1256)に剃髪して後、お忍びで諸国を修行して歩いた。それも国々の様子、人々の愁いなどを、委しく調べて見聞きしようとの考えであった。

-------
 あやしの宿に立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりあるうれへなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我はあやしき身なれど、昔よろしき主を持ち奉りし、未だ世にやおはする、と消息奉らん。もてまうでて聞え給へ」などいへば、「なでう事なき修行者の、なにばかりかは」とは思ひながら、いひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじか、と教へしままにいひて見れば、入道殿の御消息なり。「あなかま、あなかま」とて長くうれへなきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給へるか、とて、みな額〔ぬか〕をつきて悦びけり。かやうのこと、すべて数しらずありし程に、国々にも心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。
-------

【私訳】粗末な家に立ち寄っては、その家の主人の様子を訪ね、道理のある訴えで取り上げられずにいるものを聞き出しては、「私は賤しい身分だが、昔、立派な主人のもとに仕えていて、その方が今でも世に重んじられているのではないかと思うので、お手紙を差し上げましょう。これを持参して事情を申し上げなさい」などと言うので、「何ということもない修行者に、どれほどのことができようか」とは思うものの、みなで相談して、その手紙を持って関東へ行って、これこれと教えられたままに言ってみると、時頼入道のお手紙であった。(それを見た役人は)「静かに、静かに。(適切な対処をするから)」と言って、長く愁いのないように取り計らった。仏や神が現われなさったのかと、みな額を地につけて寄り喜んだ。このようなことが数知らずあったので、地方の支配者たちも(悪政を行なわないように)心遣いをしたのであった。この方を最明寺の入道といった。

ということで、いささか唐突に、出家後の北条時頼が諸国を巡って人民の愁いを聞いたという話が出てきます。
時頼廻国の話は『太平記』にも登場しますが、『増鏡』の作者を正嘉二年(1258)生まれの後深草院二条と考えている私は、『増鏡』の成立年代を通説より早く、鎌倉時代最末期には既に大半が書上げられていて、幕府崩壊後、若干の追加を行ったものと考えているので、時頼廻国伝承も『増鏡』が『太平記』に先行し、『太平記』に影響を与えたものと思っています。
この点は後で改めて検討します。
なお、時頼廻国伝説については、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』)において、かなり詳しく検討したことがあります。
現代の歴史研究者の中にも、佐々木馨氏のように時頼の廻国が基本的には事実であったと考える人もいますが(『執権時頼と廻国伝説』、吉川弘文館、1997)、私は賛同できません。
故・石井進氏も佐々木馨氏の著書に相当驚愕されたようで、「新たな北条時頼廻国説の提起に思う」(『日本歴史』600号、1998)において、穏やかな表現ではありますが、実質的には「佐々木は莫迦だな」という論評をされていますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻九 草枕」(その3)─元寇(文永の役)と後深草院の出家の内意

2018-03-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月23日(金)11時21分51秒

『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p193以下)

-------
 三月廿六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月廿二日御禊〔ごけい〕なり。十九日より官庁へ行幸あり。女御代、花山より出ださる。糸毛の車、寝殿の階〔はし〕の間に、左大臣殿、大納言長雅寄せらる。みな紅の十五の衣、同じ単、車の尻より出さる。十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古〔むくり〕起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿〔くわいりふでん〕の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂〔せいしよだう〕の御神楽もなし。
-------

【私訳】(文永十一年、1274)三月二十六日は後宇多天皇の御即位式が行われ、めでたく済み、月日が過ぎて行く。十月二十二日は御禊である。十九日から太政官庁へ行幸がある。女御代は花山院家から出される。糸毛の車を、寝殿正面の階の間に、左大臣殿(一条家経)・大納言(花山院)長雅が寄せられた。女御代は、表裏紅の十五の衣、同じ色のひとえを着て、衣の裾を車の後ろから出されている。十一月十九日、また太政官庁へ行幸があり、二十日から五節の舞が始まるということであったが、蒙古襲来とのことで中止となった。二十二日大嘗会で、廻立殿に行幸があり、豊明節会だけが行なわれて、清暑堂の御神楽もなかった。

ということで、文永十一年(1274)の記述はずいぶんあっさりとしています。
この年の最大の出来事は言うまでもなく元寇(文永の役)ですが、『増鏡』における元寇の記述は即位関係の諸行事が「蒙古起るとてとまりぬ」というだけです。
六年前の文永五年(1268)、蒙古襲来の可能性が生じた時ですら、

-------
 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b5e845e6c301a87dc455fe53dd5a8ee

という程度の分量を割いていたのに、実際の襲来時の記事は更に短くなっています。
まあ、蒙古に対応したのは主として幕府ですが、朝廷が無関係だったかというとそんなことはなくて、『続史愚抄』あたりをざっと見た範囲でも、九州の情勢について朝廷にも頻繁に情報が入っており、亀山院御所で議定が開催されたりしています。
しかし、『増鏡』はそれらは一切無視しており、その超然たる態度は清々しいほどです。
そして話題は後深草院の出家の内意の件に転じてしまいます。

-------
 新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに、日ごろゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世〔すくせ〕を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随身ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外〔うちと〕、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ。
-------

【私訳】新院(亀山)は世をお治めになることが(御在位のときと)変わらないので、万事御心のままで、前々から行きたいと思われていた所々に頻繁に御幸になり、花やかにお過ごしになっておられる。本当に結構なご様子である。
 本院(後深草)は、たいそう不運な御自身の宿命を、世間の人々が(不運な方だと)思っているであろうことも不愉快で、心も晴れず、出家してしまおうというお気持ちで、太政天皇の尊号も返上されたので、身辺警護の随身もやめるということで、御随身らを召して、禄を与えておいとまを賜ったりされたが、その間、みな本当に心細く感じあった。
 後深草院側では、いろいろと思いめぐらすにつけても、まことに忍び難いことが多くて、御所の内外の人々は誰も涙で袖をぬらしたことであった。後深草院もたいそう感慨深い御様子で、気弱になっておられる。今年三十三歳でいらっしゃる。故院(後嵯峨)が四十九歳で御剃髪なさったのでさえ、あれほどまで人々は残念に思われたのであった(まして今回はなおさらである)。東の御方(洞院愔子)も後深草院の御出家に遅れまいとの御心構えをなさる。

-------
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私〔わたくし〕も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東〔あづま〕にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これかれ東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
-------

【私訳】それほどでない普通の女房や公卿の中にも、とりわけ親しくお仕え申していた人が三、四人ほど、御出家のお供をする用意をするようなので、その身分身分に応じて、私的な面でも心細く思う家々があることだろう。こういった事情が関東にも聞こえ、幕府も驚いて、例の朝廷の陣の座の定めように、かれこれ関東武士どもが寄合を重ねて評定したのであった。

ということで、『とはずがたり』では、女房では「東の御方」と二条が出家するものと定められた、とありますが、『増鏡』では二条の名前が消されています。

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/87995bbed8c0b1b10592a8518e12b27f

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その5)

2018-03-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月22日(木)11時34分34秒

ついでなので、もう少しだけ『とはずがたり』を引用しておきます。
後深草院が文永十一年(1274)の年初に「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」という状況だったために、「雪の曙」こと西園寺実兼と二条は様々な工作を行なって、九月に生まれた女児は早産で死んでしまったことにします。
女児を「雪の曙」がどこかへ連れ去って悲しいと思っていた二条に、今度は昨年二月十日に生んだ皇子が死んだという悲報が入ってきて、二条は十七歳にして出家を決意するという展開になります。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p200以下)

-------
 さても、こぞ出で来給ひし御方、人しれず、隆顕のいとなみぐさにておはせしが、このほど御悩みと聞くも、身のあやまちの行末、はかばかしからじと思ひもあへず、十月の初めの八日にや、しぐれの雨のあまそそき、露とともに消えはて給ひぬと聞けば、かねて思ひまうけにしことなれども、あへなくあさましき心のうち、おろかならんや。
-------

【私訳】ところで去年お生まれになった若宮様は、内々、叔父の善勝寺隆顕が養育していたが、このごろ御病気だと聞くので、私の過ちの結果で、何かよくないことがと思っていた矢先に、十月八日、時雨の雨の雫のように、露と消えてしまわれたと聞いたときには、かねて覚悟していたことではあるけれども、はかなく情けない心のうちは、ひととおりのものであろうか。

-------
 前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる。幼稚にて母に後れ、盛りにて父を失ひしのみならず、今またかかる思ひの袖の涙、かこつ方なきばかりかは。なれゆけば、帰るあしたは名残を慕ひて、また寝の床に涙を流し、待つ宵には、ふけゆく鐘に音を添へて、待ちつけて後は、また世にや聞えんと苦しみ、里に侍るをりは君の御面影を恋ひ、かたはらに侍るをりは、またよそにつもる夜な夜なを怨み、わが身に疎くなりましますことも悲しむ。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる、一日一夜に八億四千とかやのかなしみも、ただわれ一人に思ひ続くれば、しかじ、ただ恩愛の境界をわかれて、仏弟子となりなん。
-------

【私訳】前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に分かれた苦しみと、この二つがただ私の身一つに集まった思いがする。私は幼いときに母に先立たれ、成長してからは父を失ったのみならず、今またこのような思いで袖を涙で濡らし、誰をうらむこともできない。(雪の曙と)逢瀬を重ねるにつれ、帰る朝は名残を慕い、帰ってのちの一人臥す床に涙を流し、彼を待つ宵には更け行く時を知らせる鐘の音に、わが泣く声を添え、待った末に会えば、世間に知られるのではないかと苦しみ、里にいる折には院の御面影を恋い、院のおそばにいるときは、また他の女とお過ごしになる夜が重なることを怨み、わが身が疎遠になることを悲しむ。人間の習いとして、苦しんでいるばかりで明け暮れる。一日一夜に生ずる八億八千とかの悲しみも、ただ私一人に集まるように思い続けていると、そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境界を離れて、仏弟子になってしまおう。

ということで、二条は十七歳にして出家を決意します。

-------
 九つの年にや、西行が修行の記といふ絵をみしに、かた方に深き山を描きて、 前には川の流れを描きて、 花の散りかかるにゐて眺むるとて、
  風吹けば花のしら波岩こえて渡りわづらふ山川の水
とよみたるを描きたるをみしより、うらやましく、難行苦行はかなはずとも、われも世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花のもと露のなさけをも慕ひ、紅葉の秋の散るうらみをものべて、かかる修行の記を書きしるして、亡からんのちの形見にもせばやと思ひしを、三従のうれへのがれざれば、親にしたがひて日を重ね、君に仕へても今日まで憂き世に過ぎつるも、心のほかになど思ふより、憂き世をいとふ心のみ深くなり行くに、
-------

【私訳】九つの年だったか、西行の修行の記という絵巻を見たことがあるが、片方に深い山を描き、前には川の流れを描いて、花の散りかかるところに西行が座って眺めながら、
  風吹けば花のしら波岩こえて渡りわづらふ山川の水
と詠んだ歌を書いてあったのを見てから、うらやましく、難行苦行はかなわなくとも、私も世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花の下、露の情けをも慕い、紅葉の秋に散る恨みをも綴り、このような修行の記を書き記して、亡くなった後の形見にもしたいと思ったのだが、三従という女の愁いは逃れることができないので、親に従って日を重ね、君に仕えて今日まで憂き世を過ごしつつも、これも本心からではないと思い、憂き世を厭う心の身深くなって行くが、……

ということで、この後、

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、東の御方の御腹の若君、位にゐ給ひぬれば、御所さまも花やかに、角〔すみ〕の御所には御影御わたりありしを、正親町殿へ移し参らせられて、角の御所、春宮の御所になりなどして、京極殿とて院の御方に候ふは、むかしの新典侍殿なれば、何となくこの人は過さねど、憂かりし夢のゆかりにおぼえしを、たち返り、大納言の典侍とて、春宮の御方に候ふなどするにつけても、よるづ世の中もの憂ければ、ただ山のあなたにのみ心は通へども、いかなる宿執なほのがれがたきやらん、嘆きつつまたふる年も暮れなんとするころ、いといたう召しあれば、さすがに捨てはてぬ世なれば、参りぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672068d6739278f7b411ecbde2fe35

という後深草院の出家の決意の話に移ります。
文永十一年(1274)の年初の後深草院の血写経から九月の出産、十月の皇子の死去までは、それが事実であったかどうかは別として、時間の流れとしては不自然ではありません。
しかし、史実としては後深草院が出家の意思表示をしたのは「この秋ごろ」、即ち文永十一年の秋ではなく、文永十二年(建治元年、1275)四月九日で、その後、幕府の介入があり、半年後の同年十一月五日に煕仁親王の立太子となっています。
『とはずがたり』では「この秋ごろ」に後深草院の出家の決意から「東の御方の御腹の若君」の立太子まで一気に進んでしまうので、ここで『とはずがたり』の時間の流れと史実の間に一年のズレが生じることになります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その4)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)22時44分16秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p193以下)

-------
 「ぬるけなどおびたたしきには、みなさることと、医師も申すぞ。かまへていたはれ」とて、薬どもあまた賜はせなどするも、いと恐ろし。殊なるわづらひもなくて、日かず過ぎぬれば、ここなりつる人も帰りなどしたれども、「百日過ぎて御所さまへは参るべし」とてあれば、つくづくと籠りゐたれば、夜な夜なは、隔てなくといふばかり通ひ給ふも、いつとなく世の聞えやとのみ我も人も思ひたるも、心のひまなし。
-------

【私訳】「発熱がひどいときには、だれでもそういうことがあると医者も申しているよ。気をつけて養生しなさい」とて、院からお薬をたくさん賜ったりするにつけても、(院に嘘をついていることは)本当に恐ろしい気がする。格別、産後のわずらいもなく日数が過ぎたので、ここにおられた人(雪の曙)もお帰りになったが、「御所の方へは百日を過ぎたら参上しなさい」とのことだったので、それまではただ、なすこともなく籠もっていると、夜々は一晩の隔てのないくらいにあの人が通って来られるにつけても、いつとなく世間にうわさが広まっていはいないかということばかり私も彼も思って、心の休まるいとまがない。

ということで、これで一応、後深草院の血写経から始まった「雪の曙」との間の子の妊娠・出産騒動は終りです。
ま、二か月のずれは流産とすることで解決するしかないですね。
さて、発端部分は現代語訳を省略していましたが、

-------
 年かへりぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経衆十二人にて如法経書かせらる。去年の夢、なごりし思し召し出でられて、人のわずらひなくてとて、塗籠の物どもにて行はせらる。正月〔むつき〕より、御指の血を出だして、御手の裏をひるがへして法華経をあそばすとて、今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし。
-------

【私訳】年が改まって(文永十一年になると)、後深草院はさっそく六条殿の御所にて、写経の者十二人に命じて如法経を書かせられた。これは院が昨年の夢想を思い出され、人々を煩わさせないようにと、御所の塗籠にある物を費用に当てて行なわせた。正月より御指の血を出して、故院の御手蹟の裏に法華経を書かれるということで、今年は正月より(故院の命日である)二月十七日までは御精進とのことで、女を召されるなどということも一切ない。

ということで、「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」は歴史的重要性が全くないので『増鏡』には反映されませんでしたが、『とはずがたり』のストーリー展開においては、この部分がないと九月に生まれた子は二条が生んだ後深草院の二人目の子ということであっさり終ってしまいます。
二か月のずれを誤魔化すための諸工作も一切不要、ハラハラドキドキは全くなくて、面白くもなんともありません。
私は文永十一年(1274)正月の時点では、その三ヵ月前に起きた火事のために「六条殿の御所」は物理的に存在していないこと、また、元寇(文永の役)の直前の時期に「雪の曙」こと西園寺実兼が、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどいう事態は考えにくいことから、この話は全体として虚構であると考えます。
後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつ、というのが私の考え方です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その3)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)20時19分21秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p192以下)

-------
 かかるほどに、二十日あまりの曙より、そのここち出できたり。人にかくともいはねば、ただ心知りたる人、一二人ばかりにて、とかく心ばかりはいひ騒ぐも、亡きあとまでもいかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ志をみるにもいとかなし。いたくとりたることなくて、日も暮れぬ。
-------

【私訳】こうしているうちに、(九月)二十日過ぎの明け方から、出産が近いように感じられてきた。人には出産だと言っていないので、ただ事情を知った人一人二人だけで、いろいろと気持ちばかりはあせるが、このお産で死んだら後々までどんな浮き名を残すのだろうかと思われ、彼の並々ならぬ心遣いを見るにも、しみじみと悲しい。取り立てて言うほどのこともなくて日も暮れた。

-------
 火ともすほどよりは、殊のほかに近づきて覚ゆれども、ことさら弦打などもせず、ただ衣の下ばかりにて、ひとり悲しみゐたるに、深き鐘の聞ゆるほどにや、あまり堪えがたくや、起きあがるに、「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうのことがなきゆゑに、とどこほるか。いかに抱くべきことぞ」とて、かき起さるる袖にとりつきて、ことなく生れ給ひぬ。まづあなうれしとて、「重湯とく」などいはるるこそ、いつならひけることぞと、心知るどちはあはれがり侍りしか。
 さても何ぞと火ともして見給へば、産髪黒々として、今より見あけ給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におし包みて、枕なる刀の小刀にて、臍の緒うち切りつつ、かきいだきて、人にもいはず外へ出で給ひぬとみしよりほか、またふたたびその面影みざりしこそ。
-------

【私訳】灯をともす頃から、いよいよ出産が近づいたと思われるが、ことさら魔よけの鳴弦などもせず、ただ衣の下で一人悲しんでいたが、夜更けの鐘の音の聞こえる頃であろうか、あまりに苦しくて起き上がろうとすると、彼が「さて、腰を抱くとかするものだそうだが、そういうことをしないから滞るのだろうか。どのように抱いたら良いのか」と言って私をかき起こされる、その袖にすがりついて無事にお生まれになった。まずは、ああよかった、とほっとして、「重湯を早く差し上げなさい」などと彼が指図されるのを、どこで覚えられたことかと、事情を知っている者たちは感じあっていた。
 「ところで赤児は」と彼が灯りをともして御覧になると、産髪が黒々として、今から目を開けておられるのをただ一目見れば、恩愛のよしみであるから、可愛くないはずはないが、彼は側にあった白い小袖に赤児をおし包んで、枕元に置いた守り刀の小刀で臍の緒を切って抱き上げると、人にもいわず外にお出になってしまった、と見たばかりで、再びその面影を見ることはなかった。
-------

ということで、数多くの古典文学の中でも出産の様相をここまで詳しく、というか露骨に描写した作品は非常に稀で、ここは『とはずがたり』の中でも屈指の名場面とされています。
また、雪の曙が生まれたばかりの赤ちゃんをどこかに連れ去ってしまい、その後二度と会うことはなかった、とここには書いてあるのですが、実際には巻二の「女楽事件」の後、再会の場面があります。

-------
「さらば、などやいま一目も」と言はまほしけれども、なかなかなればものは言はねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など慰めらるれど、一目見合はせられつる面影忘られがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなる方へとだに知らずなりぬると、思ふもかなしけれども、いかにしてといふわざもなければ、人知れぬ音をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、「あまりに心地わびしくて、この暁はやおろし給ひぬ。女にてなどは見えわくほどに侍りつるを」など奏しける。
-------

【私訳】「そういうことならば、どうしていま一目でも」と言いたいけれども、言ったところでかいのないことなので言いはしないが、袖の涙が私の気持ちを現わしていたからか、「まあ、よもやこれきりということでもない。長く生きていれば、きっとお会いになることもあるでしょう」などと慰められるけれども、一目眼を見合せた面影が忘れ難く、女の児であられたものを、どちらの方へ持って行かれたということさえわからなくなってしまったと思うのも悲しいけれども、何かできる訳でもないので、人知れず袖で顔を覆いつつ泣くばかりで夜も明けると、御所へは「大変体の具合が悪くて、この暁、流産でございました。女児と見分けがつくほどでありました」と奏上した。

巻二で再会した場面では、「雪の曙」の北の方がちょうどその頃出産したけれども、幼くして亡くなってしまったので、その代わりに二条の生んだ子を育てており、人はみな、北の方の子だと思っている、という話になっています。(p309以下)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その2)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)16時18分47秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p186以下)

-------
 三日は、ことさら例の隠れゐられたりしかば、十日には参り侍るべきにてありしを、その夜より、にはかにわづらうことありしほどに、参ることもかなはざりしかば、十二日の夕がた、善勝寺、さきの例にとて御帯を持ちて来りたるをみるにも、故大納言の、いかにかなど思ひ騒がれし夜のこと思ひ出でられて、袖には露のひまなさは、必ず秋のならひならねどと覚えても、一月などにてもなき違ひも、いかにとはかりなすべき心地せず。さればとて、水の底まで思ひ入るべきにしもあらねば、つれなく過ぐるにつけても、いかにせんといひ思ふよりほかのことなきに、九月〔ながつき〕にもなりぬ。
-------

【私訳】三日間は例のように特に引きこもっていて、十日には御所に参る予定だったが、その夜から俄かに病気になって参ることができなかったので、十二日の夕方、善勝寺大納言が、先の例に従って、といって院からの御帯を持って来たのを見るにつけても、この前の着帯のとき、父の故大納言が「御使いのもてなしはどういうふうにしよう」などとあれこれ心配された夜のことが思い出されて、袖に涙の乾く間もないこの悲しさは、必ず秋に限ったことではないと分ってはいるけれども、一ヵ月くらいではすまない日数の違いを、何とかつじつまを合わせる思案のしようもない。だからといって、(『源氏物語』の浮舟や『狭衣物語』の飛鳥井姫のように)入水自殺をしようと思い詰めねばならぬ訳でもないので、成り行きのまま日を過ごすにつけても、ただどうしようと言い、また思うよりほかはなく、九月にもなってしまった。

二条は既に前年(文永十年、1273)二月十日に後深草院皇子を産んでいるので、着帯の儀も二度目ですね。
「袖には露のひまなさは、必ず秋のならひならねど」は後鳥羽院の「露は袖に物思ふころはさぞなおく必ず秋のならひならねど」を受けた表現です。
一ヵ月くらいなら誤魔化しも簡単だが、実際にはそれ以上の期間なのでけっこう大変だ、ということで、ここで「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」と具体的な期間を明示したことがストーリー展開の上で生きてきます。
「罪の報い」「誰がとがとかいはん」といった表現もありましたが、ま、入水自殺するほどの罪でもないよね、というのが当時十七歳の二条の心境です。

-------
 世の中もおそろしければ、二日にや、急ぎ何かと申しことづけて出でぬ。その夜やがて彼にもおはしつつ、いかがすべきといふほどに、「まづ大事に病むよしを申せ。さて人の忌ませ給ふべき病なりと、陰陽師がいふよしを披露せよ」などと添ひゐていはるれば、そのままにいひて、昼はひめもすに臥し暮し、うとき人も近づけず、心しる人二人ばかりにて、湯水も飲まずなどいへども、とりわきとめくる人のなきにつけても、あらましかがといと悲し。
-------

【私訳】周囲の目も恐ろしいので、(九月)二日だったか、急に何かにかこつけて里へ下がった。その夜、さっそく彼(雪の曙)もおいでになる。「どうしましょう」と相談すると、「まず重病だということを申し上げなさい。そして人に災厄を及ぼすため近づいてはいけない病気だと陰陽師が言っていると世間に披露しない」などとそばに寄り添って言われるので、その通りに言って、昼は終日臥して過し、疎遠な人は近づけず、気心の知れた人二人ほどだけで、「湯水さえ飲みませんで」などと言っているが、格別訪ねてくる人がないにつけても、こんなとき父がいてくれたら、と本当に悲しい。

ということで、「雪の曙」は世間の目を誤魔化すために色々と画策します。

-------
 御所さまへも、「御いたはしければ、御使な給ひそ」と申したれば、時などとりて御おとづれ、かかる心がまへつひにもりやせんと、行末いと恐ろしながら、今日明日は、みな人さと思ひて、善勝寺ぞ、「さてしもあるべきかは。医師〔くすし〕はいかが申す」など申して、たびたびまうできたれども、「ことさら広ごるべきことと申せば、わざと」などいひて、見参〔げざん〕もせず。しひておぼつかなくなどいふ折は、暗きやうにて、衣の下にていとものも言はねば、まことしく思ひてたち帰るもいとおそろし。さらでの人は、誰とひくる人もなければ、添ひゐたるに、その人はまた、春日に籠りたりと披露して、代官をこめて、「人の文などをば、あらましとて返事をばするな」とささめくもいと心ぐるし。
-------

【私訳】院へも「御障りがあっては申し訳ありませんので、御使いは下さいますな」と申し上げたが、時を見計らってはお見舞いの使いがあり、いろいろ取り計らっていることもいつかは漏れるのではないかと行く末が心配ではあるが、今日明日のところは、誰もがみな疑いはしない。叔父の善勝寺大納言隆顕は、「そのままにしておいてよいものか。医師は何と言っているのだ」などと申して、度々訪ねてくるけれども、「とくに災厄が広がる病気と申しますから、わざとお目にかかりません」などと言って、私は叔父に会いもしない。強いて「どうしても気にかかるから」などというときには、部屋を暗くして衣を被って、あまり物も言わないので、叔父はそれをまことと信じて帰って行くのを見るのも本当に恐ろしい。そのほかの人は誰といって訪ねてくる者もないので、その人(雪の曙)は私のそばにいつも寄り添っておられたが、彼もまた、春日に参籠しているなどと世間には披露して、春日には代理を籠もらせ、「人からくる手紙などを、推量で返事をしてはならぬ」などと従者にささやくのを聞くのも、まことに心苦しい。

ということで、関東申次の重職にある「雪の曙」こと西園寺実兼が、藤原氏の氏神である奈良の春日大社に籠もっていると称して実際には二条の家に隠れ、春日大社に代理で籠もらせた者には、手紙が来ても返事をするな、と言いつけたのだそうです。
ちなみに、文永十一年(1274)九月というと、翌十月は元寇(文永の役)で、関東申次の西園寺実兼は相当忙しかったのではないかと思いますが、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者たちは特に疑問は持たないようです。

元寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)10時55分12秒

前投稿で紹介した『とはずがたり』における後深草院の血写経に関する記述の最後に「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」とありますが、後深草院が二か月弱の期間、女性関係を断っていたことは『増鏡』には反映されていません。
ま、歴史的には全然重要な事実ではないので『増鏡』に描かれなかったことは不思議ではありませんが、実はこの部分は『とはずがたり』のストーリーの展開上は極めて重要なポイントです。
というのは、この期間が始まる少し前に後深草院二条は「雪の曙」(西園寺実兼)の子を妊娠してしまい、後深草院の子であるかのように誤魔化すのに二人は大変な苦労をするからです。
けっこう面白い話なので、いささか脱線気味になりますが、既に引用した部分の続きを紹介しておきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p185以下)

-------
 さるほどに、二月の末つかたより、心地例ならず覚えて、物もくはず、しばしはかぜなど思ふほどに、やうやうみし夢の名残にやと思ひ合せらるるも、何とまぎらはすべきやうもなきことなれば、せめての罪の報いも思ひ知られて、心のうちの物思ひやる方なけれども、かくともいかがいひ出でん。神わざにことづけて、里がちにのみゐたれば、常に来つつ、見知ることもありけるにや、「さにこそ」などいふより、いとどねんごろなるさまにいひ通ひつつ、「君に知られ奉らぬわざもがな」といふ。
-------

【私訳】そのうち(文永十一年、1274)二月の末ごろから、体調がいつもと違うように思われて、食欲もなく、暫くは風邪だろうかなどと思っているうちに、だんだんあの人との夢の名残かと思い当たったが、何とも紛らわしようのないことなので、罪の報いと思い知らされて、心に秘めた物思いは晴らせないけれども、どうしてそれを言い出すことができよう。(御所での)神事にかこつけて里に下がっていると、彼(雪の曙)がいつもやってきて、そのうちにそれと気づいたのであろう、「そうに違いない」などといって、それからはいよいよ懇切に慰めに訪れては、「後深草院に知られ申さないようにする方法があればいいが」という。

-------
 祈りいしいし心を尽すも、誰がとがとかいはんと、思ひつづけられてあるほどに、二月の末よりは、御所さまへも参り通ひしかば、五月〔さつき〕のころは、四月〔よつき〕ばかりのよしを思し召させたれども、まことには六月〔むつき〕なれば、違ひざまも行末いとあさましきに、六月〔みなづき〕七日、「里へ出でよ」としきりにいはるれば、何ごとぞと思ひて出でたれば、帯をてづから用意して、「ことさらと思ひて、四月〔うづき〕にてあるべかりしを、世の恐ろしさに今日までになりぬるを、御所より十二日は着帯のよし聞くを、殊に思ふやうありて」といはるるぞ、志もなほざりならず覚ゆれども、身のなりゆかん果てぞかなしく覚え侍りし。
-------

【私訳】(雪の曙が)安産のための祈祷にいろいろ心を尽くすのを見ても、誰の罪といったらよいのだろうと思い続けられているうちに、二月の末からは御所の方へも度々参ったから、五月のころは妊娠四か月ばかりのように院に思わせ申したけれども、本当は既に六か月であるから、その間の月の数の違いも、これから先まことに心配なことであった。六月七日、彼(雪の曙)が「里へ出よ」としきりに言うので、何事だろうと思って里に下がったところ、彼は帯を自ら用意して、「特別正式にと思って、四月に行わなければならなかったけれど、世間が恐ろしくて今まで延期してしまったが、御所から十二日に着帯の儀式をされると聞いたので、これはわたしが格別に考えていることで」と言われるのは、その志も並々ではないものと思われるけれども、わが身の成りゆく果てを考えると悲しく思われた。

ということで、妊娠六か月なのに四か月と後深草院を騙した二条は、つじつま合わせのために更に工夫を重ねることになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする