学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その54)─「それらしくみえる手が加えられたのだろう」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用した「上皇の使者押松丸」以下の記述に対応する慈光寺本の記事を見ると、前半は次の通りです。(岩波新大系、p326以下)

-------
 去程ニ、平判官ノ下人モ、同十九日酉ノ時計ニ、駿河守ノ許ヘゾ付ニケル。弟ノ使見付テ、「何事ゾ」と問ハレケレバ、「御文候」トテ奉ル。開見テ云レケルハ、「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ。加様ノ事ハ二目共見ジ」トテ、文カキ巻、平九郎ガ使ニ、「己計カ」ト問レケレバ、使申ケルハ、「院ノ御下部押松、権大夫殿打ンズル宣旨持テ下リ候ツルガ、鎌倉ヘ入候トテ、放テ候」トゾ申ケル。駿河守、重テ云ハレケルハ、「関々ノキビシケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞ツト計云ヘヨ」トテ、弟ノ使ヲ上ラル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21a9dd0aae9f78d209bd0a3cd8161afa

高橋氏は三浦胤義の書状をみた義村が「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ。加様ノ事ハ二目共見ジ」と感想を述べたことは省略されていますね。
そして後半は、

-------
 駿河守ハ文巻持テ、大夫殿ヘ参リ、申サレケルハ、「平判官胤義ガ、今年三年京住シテ下タル状、御覧ゼヨ。一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ、若ヨリ「互ニ変改アラジ」ト約束申テ候ヘバ、角モ申候ナリ。院下部押松、和殿討ンズル宣旨ヲ持テ下リケルガ、鎌倉入ニ放テ候ト申ツルゾ、此ヨリ奥ノ大名・高家ハ、披露有ツル者ナラバ、和殿ト義村トヲ敵ト思ハヌ者ハヨモアラジ。奥ノ人共ニ披露セヌ先ニ、鎌倉中ニテ押松尋テ御覧ゼヨ、大夫殿」トゾ申サレケル。「可然」トテ、鬼王ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ尋ラル。壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出シテ、天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ参リタリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40ec3ffc4871505a18e67054a033a7e1

というもので、高橋氏は「一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ」は省略した上で、「互ニ変改アラジ」(お互いに心変わりしない)を紹介されていますね。
さて、『人物叢書 三浦義村』で私にとって一番刺激的だったのは和田合戦に関する記述です。
高橋氏は『吾妻鏡』の和田合戦記事の虚構性を解明されており、その分析はそれ自体が極めて興味深いのはもちろんですが、慈光寺本における三浦胤義の義村評に影響しそうな点も面白いですね。
即ち、慈光寺本では、敗戦後の残党狩りの場面に、

-------
 其次ニ、黄村紺ノ旗十五流ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度申合文一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人ニテ、和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」ト思ヒ、四墓ヘコソ帰ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあり(p350以下)、胤義は義村を「和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人」と非難しています。
これと義村の北条義時に対する発言、「一年、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒シタリトテ、余所ノ誹謗ハ有シカドモ」を比較すると、胤義は義村を「誹謗」した「余所」の筆頭となりそうです。
これは『吾妻鏡』建暦三年(1213)五月二日条で、

-------
【前略】次三浦平六左衛門尉義村。同九郎右衛門尉胤義等。始者与義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改変之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎為継。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩禄也。今就内親之勧。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則参入相州御亭。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-05.htm

と、胤義も義村と一緒に和田義盛を裏切っていることを知っている者にとっては些か当惑させられてしまう話ですね。
高橋氏は『明月記』の記事により、

-------
 日頃より険悪な関係にあった義村兄弟と義盛とが挙兵前に内通していたはずがなく、義村は義盛隣家の「又左衛門尉」(『吾妻鏡』では八田知重とする)同様に義盛の動きを知り、実朝御所に一報を入れたことになる。
-------

とされますが(p98)、とすると、慈光寺本で胤義が義村を「誹謗」している点をどう考えたらよいのか。
この問題は和田合戦に関する高橋説を詳しく見た上で、改めて検討したいと思います。
さて、続きです。(p131)

-------
 義村が義時に異心なきことを誓った際、前田本は三浦氏の氏神である三浦十二天に誓う形をとり、古活字本・『承久軍物語』は三浦十二天と栗浜明神(神奈川県横須賀市)・森山神社(神奈川県葉山町)という三浦半島所在の神社を含む相模・伊豆の神社に誓う形をとっている。それらしくみえる手が加えられたのだろう。
-------

流布本では、

-------
 院宣の御使には、推松とて究めて足早き者有ける、是を撰てぞ被下ける。平九郎判官、私の使を相添て、承久三年五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負じと下ける程に、同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。平九郎判官の使は案内者にて、先に鎌倉へ走入て、駿河守に文を付たれば、披見して、「返事申べけれ共、道の程も如何敷間、態と申さぬ成」とて追出しぬ。
 駿河守、此文をかい巻て、権大夫の許へ持向へ、「已に世中こそ乱て候へ。去十五日、光季被討ぬ。胤義が私の文、御覧候へ」とて、権大夫義時、折節諸人対面の前に、引披ひて置たり。権大夫、「さては御辺の手に社懸り進らせ候はんずらめ」。三浦駿河守、打退て袖引繕ひ、「是こそ恐存候へども、平家追討より以来、度々の戦に忠節を致し、一度も不忠の儀候はず。自今以後も又、疎略を不可存、若偽申事候はゞ、遠くは熊野の嶽、近くは伊豆・筥根、別しては若宮三所・足柄・松童、殊更奉頼三浦十二天・栗濱・森山、惣じては日本国中の大小の神祇・冥道、知見し給へ。御後ろめたなき事不候」とぞ申ける。権大夫打笑て、「偖〔さて〕は心安候。今迄此事の出来候はぬ社、不思議に候へ。是は兼てより存たる事也。今は推松も鎌倉へ入んずらん。尋よ」とて被尋けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、「遠くは熊野の嶽、近くは伊豆・筥根、別しては若宮三所・足柄・松童、殊更奉頼三浦十二天・栗濱・森山、惣じては日本国中の大小の神祇・冥道」ですから、「相模・伊豆の神社」に限定されている訳ではないですね。
ま、そんな細かなことはともかく、「それらしくみえる手が加えられたのだろう」から、高橋氏が現在も慈光寺本が「最古態本」で、流布本(と前田本)は慈光寺本を加工した後続本であると考えておられることが分かります。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その53)─「時房が義時追討を命じられているということになれば」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない」(p128)、「胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない」(p129)、「『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層」(同)という具合に、慈光寺本の「創作」性を強調されるようになった高橋氏は、慈光寺本における「信憑性の高い記事」と「編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述」をどのような基準で判定されるのか。
例えば高橋氏は「参集を命じる廻文には、在京する検非違使、北面・西面の武士の名が記され、播磨国・伊予国から三河国に及ぶ諸国の武将たち一千騎も召された」(p129)とされますが、この「廻文ニ入輩」と「諸国ニ被召輩」の人名リストも慈光寺本にしか存在しない記事です。
高橋氏は当該記事を「信憑性の高い記事」と判断された訳ですが、しかし、「諸国ニ被召輩」の末尾には「近江国ニハ佐々木党・少輔入道親広ヲ始トシテ、一千余騎」とあって、伊賀光季と並ぶ京都守護、大江親広が「佐々木党」と並ぶ近江国の住人となっています。
高橋氏はこの部分を含めて「信憑性の高い記事」と判断されたのか。
ちなみに大江親広の存在感が極めて希薄であることは慈光寺本の謎の一つで、慈光寺本において親広の登場場面は実に「諸国ニ被召輩」の一箇所だけであり、藤原秀康による第一次軍勢手分や藤原秀澄による第二次軍勢手分にも名前はなく、近江関寺からの逃亡も記されず、戦後処理にも一切登場しません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その17)─「廻文」と「諸国ニ被召輩」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f
(その18)─大江親広の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その15)─慈光寺本における大江親広
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4d074844ec821a5a8232f92aff9eaf8

ま、それはともかく、続きです。(p130)

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 五月十五日、義時の縁者である伊賀判官藤原光季宅を胤義ら上皇方の討手が襲い、光季は奮戦したものの自害した。また、幕府と結びつきの深い藤原(西園寺)公経・実氏父子が拘禁された。この日の夜、光季の下人が報告のために鎌倉に下り、胤義も秀康への返答通り兄義村に宛てた手紙を送った。また、後鳥羽上皇も義時追討に院宣を下した。上皇が宛先として指名したのは、古活字本によると、武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西である。他の本には若干の異同があり、慈光寺本には、武田・小笠原、小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏・北条時房・三浦義村と記されている。注目されるのは、慈光寺本に義時の弟時房の名があることだろう。時房が義時追討を命じられているということになれば、上皇の狙いが幕府や北条氏の打倒ではなく、義時ただひとりの排除だったことを明確に示していることになる。
-------

いったん、ここで切ります。
「胤義も秀康への返答通り兄義村に宛てた手紙を送った」とありますが、流布本でも胤義は、

-------
中にも兄にて候三浦の駿河守、きはめて鳴呼〔をこ〕の者にて候へば、『日本国の惣追捕使にも被成ん』と仰候はゞ、よも辞申候はじ。さ候ば、胤義も内々申遣し候はん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

と約束しているので、ここは慈光寺本に偏した記述ではありません。
その後、「後鳥羽上皇も義時追討に院宣を下した」として、慈光寺本と流布本の異同を書かれていますが、「時房が義時追討を命じられているということになれば」云々との表現は微妙で、『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)とは若干ニュアンスが異なっていますね。
いずれにせよ、時房の名前があることで、何故に「上皇の狙いが幕府や北条氏の打倒ではなく、義時ただひとりの排除だったことを明確に示していることになる」のかは私には理解できません。
仮に「時房が義時追討を命じられている」としても、それは単に北条氏内部の分裂を狙ったというだけの話ではなかろうかと私は考えます。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

なお、「慈光寺本には、武田・小笠原、小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏・北条時房・三浦義村と記されている」とありますが、原文でも「武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺〔すかし〕遣ベシトゾ仰下サル」とあって、何故か武田・小笠原だけ姓だけですね。
まあ、八人並べておいて「此等両三人」と書いてあることに比べればたいした話ではありませんが。
また、「中間五郎」は普通は長沼宗政とされていますが、高橋氏には何かこだわりがあるようですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3

さて、続きです。(p130以下)

-------
 上皇の使者押松丸、光季・胤義の下人は、いずれも十九日に鎌倉に到着した。義村邸にやってきた弟の使者をみつけた義村は、手紙を受け取り開きみて、関所での検問が厳しいから返事は書かない、いってきたことはわかったとだけ伝えよと、使者を帰した。
 義村はすぐに義時邸を訪れ、胤義の手紙をみせた。若いころから「互いに心変わりしない」との約束の通りの行動であった。鎌倉の御家人が院宣をみたならば、義村と義時が敵対していると思わない者はいないだろうから、広まる前に鎌倉に潜伏した使者を捕らえようと義村は提案し、義時は人を遣わして使者を捕らえた(慈光寺本『承久記』)。
-------

承久の乱の勃発を知らせる京都からの使者は、流布本では「院宣の御師」の「推松」と「平九郎判官」の「私の使」の二人だけ、慈光寺本では「伊賀判官下人」・「院御下部押松」・「平判官ノ下人」の三人ですが、『吾妻鏡』では、承久三年五月十九日条の登場順に

(1)「大夫尉光季」の「飛脚」
(2)「右大將家司主税頭長衡」の「飛脚」
(3)「関東分宣旨御使」の「押松丸<秀康所従云々>」
(4)「廷尉胤義<義村弟>」の「私書状」持参者

の四人です。

使者到来と幕府軍発向までの流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』の比較(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88580e2675d2e9400634c1adb8adb21

高橋氏が何故に慈光寺本を採られるのか、理由は分かりませんが、改めて慈光寺本を読み直してみると、和田合戦に関する記述が気になってきます。
この点は次の投稿で書きます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その52)─「史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
かつての高橋秀樹氏には慈光寺本が「最古態本」だから信頼できる、という野口実氏らと共通する発想が見られましたが、『人物叢書 三浦義村』では『承久記』の諸本を単調に並記して、この本にはこう書いてあり、あの本にはこう書いてある、という記述が目立ちますね。
高橋氏は「はしがき」で、

-------
 これまでの多くの研究が『吾妻鏡』の叙述をなぞってきたのに対して、最近の高橋の研究は、『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別し、さらに公家日記や『愚管抄』などの情報と照合した上で、鎌倉時代の政治史を再構築する方法をとっている。
 この方法を用いた叙述には、しばしば史料批判や考証が必要になってしまうため、本書は既存の人物叢書よりも叙述がやや煩雑かもしれない。その点をお詫びしないといけないが、読者には、史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像をぜひ確かめていただきたい。
-------

と書かれていて(p9)、実に立派な姿勢だと思いますが、『承久記』に関しては、「原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、【諸本の】編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別」する姿勢があまり徹底していないように感じます。
ま、全然ない訳でもなさそうなので、具体的に見て行きたいと思います。
まず、『承久記』諸本に関する高橋氏の基本的認識ですが、「第六 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財」に『承久記』に関する簡単な紹介があります。
即ち、

-------
・『承久記』
 承久の乱を描く軍記物。慈光寺本(水府明徳会彰考館所蔵)、前田本(前田育徳会尊経閣文庫所蔵)、古活字本(国立国会図書館ほか所蔵)、承久軍物語(国立公文書館所蔵)の四系統に大別されており、三浦胤義の話や義村と義時との関係は諸本によって描き方が異なっている。
 そのうち、もっとも成立が古いとされるのが慈光寺本で、新日本古典文学大系に収められている。同書には古活字本の翻刻も掲載されており、国史叢書『承久記』には四系統の諸本が収められている。
-------

とあって(p251以下)、「もっとも成立が古いとされるのが慈光寺本」との認識に変化はないようですね。
ただ、慈光寺本の諸本の成立時期と相互の関係については、例えば長村祥知氏の「承久の乱と歴史叙述」(松尾葦江編『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)などで近時の学説の動向が紹介されており、そうした学説の動向に一切触れないのはいささか不親切ではなかろうかと思います。
例えば、「前田家本は、室町幕府を開創した足利氏の周辺で成立したという理解が有力」(長村、p216)で、十四世紀以降の成立であることは争えません。
また、「『承久軍物語』は随所に絵の指定があることから絵巻作成の草稿本と考えられて」(長村、p217)おり、既に「大正七年(一九一八)に、龍粛氏が、流布本『承久記』版本に『吾妻鏡』版本を増補して成立したことを解明」(同)していますから、これは慈光寺本などとは遥かに遅れて近世に成立したものです。
こうした成立年代の違いを無視して、

-------
胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない。『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層に、義村、あるいは義村を含む東国武士に対して二通りの見方があったことが重要だろう。前田本の「はかりごとが人よりも優れている」という評価は、先に八〇頁で紹介した慈円『愚管抄』の義村評と重なる。
-------

と言われるのは如何なものか。
私は「原流布本」が慈光寺本に先行するとの特異な説を主張していますが、流布本は除いても、1230年代の成立である慈光寺本と、南北朝期以降の成立の前田本、そして近世に成立した『承久軍物語』を単調に並記するのは私には非常に奇妙に思われます。
そもそも前田本と『承久軍物語』は「京都周辺の知識人層」が「創作に関わった」と言えるのか。
少なくとも私は、そのように断定している学説の存在を知りません。
ま、成立時期と作者が「京都周辺の知識人層」と言えるかについては、高橋著をもう少し読み進めてから再度検討したいと思います。
ということで、続きです。(p129)

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 慈光寺本によれば、秀康は早速上皇にその旨を奏上し、四月八日に仏事の守護を名目とした軍議が開かれることになったという。参集を命じる廻文には、在京する検非違使、北面・西面の武士の名が記され、播磨国・伊予国から三河国に及ぶ諸国の武将たち一千騎も召された。
-------

「四月八日」とありますが、慈光寺本には、

-------
 去〔さ〕テ触催〔ふれもよほし〕ケル趣ハ、「来〔きたる〕四月廿八日城南寺ニシテ御仏事アルベシ。守護ノ為ニ甲冑ヲ着シテ参ラルベシ」トゾ催ケル。
 坊門新大納言<忠信>、按察中納言<光親>、佐々木野兵衛督<有雅>、中御門中納言<宗行>、一条宰相中将<信能>、高倉宰相中将<範茂>、直ニ勅定ヲ蒙ラレケリ。
 刑部僧正長厳、二位法印尊長等也。
 廻文〔めぐらしぶみ〕ニ入輩〔いるともがら〕、能登守秀康、石見前司、若狭前司、伊勢前司、安房守、下野守、下総守、隠岐守、山城守、駿河守太夫判官、後藤太夫判官、江太夫判官、三浦判官、河内判官、筑後判官、弥太郎判官、間野次郎左衛門尉、六郎右衛門尉、刑部左衛門尉、平内左衛門尉、医王左衛門尉、有石左衛門尉、斎藤左衛門尉、薩摩左衛門尉、安達源三左衛門尉、熊替左衛門尉、主馬左衛門尉、宮崎左衛門尉、藤太左衛門尉、筑後入道父子六騎、中務入道父子二騎。
 諸国ニ被召輩ハ、丹波国ニハ日置刑部丞・館六郎・城次郎・蘆田太郎・栗村左衛門尉。丹後国ニハ田野兵衛尉。但馬国ニハ朝倉八郎。播磨国ニハ草田右馬允。美濃国ニハ夜比兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本。尾張国ニハ山田小次郎。三河国ニハ駿川入道・右馬助・真平滋左衛門尉。摂津国ニハ関左衛門尉・渡部翔左衛門尉。紀伊国ニハ田辺法印・田井兵衛尉。大和国ニハ宇多左衛門尉。伊勢国ニハ加藤左衛門尉。伊予国ニハ河野四郎入道。近江国ニハ佐々木党・少輔入道親広ヲ始トシテ、一千余騎。承久三年<辛巳>四月廿八日、高陽院殿ヘゾ参リケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

とあって、正しくは「四月廿八日」ですね。
ま、ここは単純なケアレスミスでしょうが。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その51)─「胤義がもっとも饒舌に話す慈光寺本『承久記』」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
高橋秀樹氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、慈光寺本の藤原秀康と三浦胤義の密談について、胤義の空想的な鎌倉攻撃案を含め、全て史実と考えるかのような書き方だったので、私は、

-------
うーむ。
慈光寺本『承久記』を引用するにしても、例えば「軍記物語であるから創作的要素は含まれているだろうが」といった留保があればよいと思いますが、高橋氏は「義村が胤義の子三人を殺して異心なきことを義時に誓い、幕府軍が上洛した後、鎌倉に残った義村ら三浦勢で義時を討つように勧めます」という具合いに、丸々慈光寺本を信じ込んでいるかのような書き方ですね。
小説家やエッセイストならともかく、歴史研究者として、この態度はどうなのか。
酒を飲んでの藤原秀康と三浦胤義の密談は古活字本にも出てきますが、既に紹介済みの詳細な手紙の文面は慈光寺本だけに出て来る話です。
慈光寺本の作者はいったいどこからこの文面を入手したのか、といった疑問は、高橋氏の頭の中には浮かんで来ないのでしょうか。
まあ、一般常識があれば、少なくとも胤義の手紙は、慈光寺本の作者がストーリーにリアリティを出すために創作したものと考えると思いますが、それは高橋氏にとって常識ではないのでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

などと書いたのですが、先月出たばかりの『人物叢書 三浦義村』(吉川弘文館、2023)では、さすがに表現を若干改めておられますね。(p128)

-------
 胤義は秀康の宿所に招かれ、酒を飲みながら、三浦・鎌倉を振り捨てて後鳥羽上皇に仕えることを勧められた。胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない。ここでは、胤義がもっとも饒舌に話す慈光寺本『承久記』によって、その内容を紹介しておこう。
 胤義は、心中では後鳥羽上皇に仕えたいと思っていたこと、胤義の妻は元頼家の妻で頼家との間に男子を産んでいたが、頼家は北条時政に、男子は義時によって殺害され、胤義との結婚後も日々泣き暮らしていたので、鎌倉に一矢報いたいと思っており、上皇の命を受けるのは名誉なことであると述べた。そして、兄義村の許に手紙を送り、その手紙に、「胤義が上皇に召されて謀反を起こしたら、義時は大軍を上洛させて内裏を取り巻いて謀反人を追及するでしょう。義村には三浦に置いてきた胤義の子三人を義時の前に連れていって首を切り、義時に隔心のないことを示してほしい。諸国の武士が上洛しても義時は上洛せずに、三浦の人々に勧めて義時を討ち、義村と胤義とで日本国を知行しましょう」と書いたならば、義時を討つことは容易であろう。早く軍議を開いてほしいと語った。
-------

いったん、ここで切ります。
この部分、慈光寺本には、

-------
胤義ガ兄駿河守義村ガ許ヘ文ヲダニ一下ツル物ナラバ、義時打取ランニ易候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢一射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下リ候マジケレ。去バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家ハ、弓矢ニ付テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢ソロヘテ都ヘ上セテ、九重中ヲ七重八重ニ打巻テ、謀反ノ輩責玉ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心ナクシテ、諸国ノ武士ハ上トモ、殿ハ上ズシテ、三浦ノ人共勧仰セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行セン」ト、文ダニ一下ツル者ナラバ、義時討ンニ易候。加様ノ事ハ延ヌレバ悪候。急ギ軍ノ僉議候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

とあって、胤義は義村に、北条義時に対して「隔心」のないことを示すため、自分の「三浦ニ九七五ナル子供三人」を「権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」と依頼し、自分は「三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行セン」と望む訳ですから、何とも浅ましい話ですね。
さて、続きです。(p129)

-------
 慈光寺本の胤義の発言のなかに、義村に対する評価は記されていないが、他の三本は義村に対する真逆の評価を載せている。古活字本と『承久軍物語』は、「兄の三浦駿河守は極めて「鳴呼〔おこ〕の者」(愚かな者)なので、日本国惣追捕使にしてやると仰れば、よもや断ることはないでしょう」と、胤義に語らせる。一方、前田本は「兄の義村は、はかりごとが人より優れていて、一家は繁栄しており、義時からも心やすく思われています。胤義が、義時を討って下さい。日本国惣御代官は疑いないでしょうと申したならば、嫌な顔をせずに討ってくれるでしょう」と記している。胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない。『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層に、義村、あるいは義村を含む東国武士に対して二通りの見方があったことが重要だろう。前田本の「はかりごとが人よりも優れている」という評価は、先に八〇頁で紹介した慈円『愚管抄』の義村評と重なる。
-------

ということで、先に「胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない」とありましたが、ここで再び「胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない」と強調されておられますね。
ただ、私には高橋氏が慈光寺本の諸本の成立年代を論ぜず、慈光寺本・古活字本(流布本)・『承久軍物語』・前田本を並列的に論じておられることが気になります。
この点、次の投稿で少し検討します。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その50)─高橋秀樹氏の場合

2023-11-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私は高橋秀樹氏(國學院大學教授)を長村祥知氏と並ぶ「慈光寺本妄信歴史研究者」の「大将軍」と位置付けています。
高橋氏は長く文部科学省教科書調査官を務められ、『古記録入門(増補改訂版)』(吉川弘文館、2023)の著者で、『吉記』『勘仲記』等の詳細な注釈書も多数出されている方ですので、一般には手堅い実証的な研究者と思われているはずです。
しかし、高橋氏の慈光寺本に対する態度は手堅いとは言えず、むしろ相当に大胆ですね。
例えば高橋氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、

-------
 後白河法皇と源頼朝の時代から、朝廷が幕府に求めていたものは、朝廷の求めに応じて治安を維持し、費用の調進を請け負ってくれる、都合のいい存在としての幕府だった。院が地頭の停廃を要求しても、それを聞き入れてくれなければ、朝廷主導とはいいがたい。頼朝時代には、ほとんどの場合、地頭停廃要求は聞き入れられていた。
 ところが、後鳥羽上皇が寵愛する舞女亀菊に与えた摂津国長江荘の地頭停止を義時に要求したところ、義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ。慈光寺本『承久記』はこのことが承久の乱のきっかけだったと記している。古活字本『承久記』は義時が地頭だったとは記していないが、亀菊に与えた摂津国長江・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭停止を義時が拒んだことを理由としている点は同じである。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f7d97621d88d35d73046714ce3e72e5

とされていて(p99)、メルクマール(1)はあっさりクリアーされています。
また、義時追討の院宣についても、

-------
【前略】後鳥羽上皇の義時追討の命令が下された対象として慈光寺本『承久記』が記載しているのは、武田・小笠原・小山・宇都宮・中間(未詳)・足利氏と三浦義村、さらに北条時房である。時房の名がみえることは、後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあったことを物語っていよう。ただし、古活字本『承久記』には時房や足利義氏・中間五郎の名はみえず、千葉・葛西が加わっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

と書かれていて(p103)、メルクマール(2)もあっさりクリアーです。
それにしても、「時房の名がみえること」から「後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあった」と推論し、「義時一人の排除」で後鳥羽は満足、という純度100%の義時追討説を取られている点は、「慈光寺本妄信歴史研究者」の中でもかなり珍しい立場ですね。
高橋氏がこうした境地に到達された理由をつかみかねた私にとって、ヒントとなったのは『三浦一族研究』第3号(1999)の「第五回三浦一族シンポジウム」の記録でした。
このシンポジウムの基調講演は「聖徳大学教授」野口実氏ですが、パネリストの一人であった「放送大学講師」高橋秀樹氏は、野口氏の講演を受けて、

-------
 最初に、野口先生もおっしゃっておられましたけれども、実は承久の乱の研究はあまり進んでおりません。それは、史料がほとんどないというのが理由なんです。普通でしたら、『吾妻鏡』がありますし、公家の日記というのがかなりこの時代残っているはずなんですが、みごとに承久の乱の前後というのは公家の日記がないんですね。現存するものがない。『吾妻鏡』も承久の乱が起こったということ、挙兵したという第一報が届けられたというところから始まって、事件の経過や事件の処理が書いてあるだけでして、どういう過程でこの戦が起こったのか、或いは後鳥羽上皇は何を考えていたのかが分からない。そうなると、殆ど唯一の史料として使えるのが『承久記』という軍記ものです。ところが、『平家物語』とかその他の軍記ものもそうなんですが、こういう作品の特質としまして、色々な種類の本がある。日記等を写すときには正確に写そうとしますけれども、物語のようなものは写されていくのと同時にどんどん改編【ママ】されていってしまう、中身が変えられていく。そこでこの『承久記』もどの本によって考えるかでこの乱の評価が変わってきてしまいます。
 今日のお話は多分、古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多いかと思うんですが、実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております。慈光寺本と呼ばれる本で、岩波の新古典文学大系に入ったんで非常に読みやすくなった本です。それを使うとちょっと承久の乱に対する評価が変わってくるんじゃないかと思っております。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54a9ec4ee342c12b3a4d1c319cca2605

とされています。
これを見ると、慈光寺本偏重もあくまで近年の新しい動きであることが分かりますね。
「総大将」の野口実氏自身、1990年の「ドキュメント承久の乱」(『別冊歴史読本11月号 後鳥羽上皇』所収、新人物往来社)では『吾妻鏡』と流布本に依拠して書かれています。
さて、高橋氏は、

-------
 その慈光寺本によりますと、胤義が義村に手紙を書きますが、その中では北条氏に変わる立場に兄弟二人で立とうではないかということを言っているんですね。おそらく後鳥羽の意図は最初そういうところにあった。
 ところが、そういう意図で起こされた戦いにもかかわらず、それが鎌倉側では北条政子の大演説によって、北条義時相手の戦争が、幕府相手の戦争と意識されるようになってきた。後鳥羽側も、最初味方につけようとしていた寺社勢力、その他の権門が動いてくれなかった。結局、朝廷の中での後鳥羽が浮き上がってしまった。結果として鎌倉幕府との戦いになってしまった。そのように解釈できるのではないかなと思っています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d69498a5f1fa00eee24d28147a8dc444

とされます。
私には空想的な義時追討計画を含む胤義の手紙は慈光寺本作者の創作としか思えないのですが、高橋氏はその内容を史実と考え、かつそれが「後鳥羽の意図」を反映しているものとされている訳ですね。
『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)も読んでみて、高橋氏の場合、ここまで慈光寺本を偏愛されるようになったのは、宝治合戦前の三浦一族の地位が極めて高かったとするご自身のかねてからの持論に慈光寺本がうまく適合する(ように見える)ことが理由のように思われました。
慈光寺本に関して、私には高橋氏に同意できることは殆どありませんが、高橋氏の著作により三浦一族に関する知識が増えたことと、権門体制論が「慈光寺本妄信歴史研究者」に相当な影響を与えているらしいことを確認できたことは有益でした。

高橋秀樹氏の研究史整理(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ebd70f362ddd69b46f617a8385ddb26
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d48cfba1b956fa3ec0aee0a64daef2b

高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e80a4adbf7ee279d940a0618604de9f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b4f19cb7bcce2473950e1db3873f1171
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その49)─「史料の根幹に慈光寺本を据えるべき事は明らか」(by 野口実氏)

2023-11-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
宇治河合戦が行なわれていた期間中、杭瀬川で「山田重忠は徹底抗戦を続けていた」とする「序論 承久の乱の概要と評価」(野口第一論文)と「承久宇治川合戦の再評価」(野口第二論文)に矛盾があることは山田重忠の動向を比較すれば一目瞭然なのですが、野口氏は第二論文で山田重忠に言及されないので、なかなか気づきにくいですね。
流布本では、

-------
 月卿・雲客、「去にても打手を可被向〔むけらるべし〕」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣〔つかはさる〕。山田二郎重忠・山法師播磨竪者〔りつしや〕・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬〔くごのせ〕へ向ふ。佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊、武士には山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)、熊野法師には、田部〔たなべの〕法印・十万法橋・万劫禅師、奈良法師には土護覚心・円音、是等を始として一万余騎、宇治橋へ相向ふ。長瀬判官代・足立源左衛門尉、五百余騎にて牧嶋〔まきのしま〕へ向ふ。一条宰相中将信能・二位法印尊長、一千余騎にて芋洗〔いもあらひ〕へ向ふ。坊門大納言忠信、一千余騎にて淀へ向ふ。河野四郎入道通信・子息太郎、五百余騎にて広瀬へとてぞ向ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

と山田重忠は「勢多」に配置されており(『新訂承久記』、p99)、それなりに活躍しています。

流布本も読んでみる。(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
(その30)─「皆知し召様に、一谷の軍に弓手の小腕を射させて候間」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/949abc949b246591aef06020ab142ae8

『吾妻鏡』六月十二日条でも、

-------
重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者観厳。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と山田重忠が「勢多」に配されたことは明確ですが、野口第二論文では「承久宇治川合戦の再評価」と題しながら、

 流布本:勢多・供御瀬・宇治橋・牧嶋・芋洗・淀・広瀬
 『吾妻鏡』:三穂崎・勢多・食渡・鵜飼瀬・宇治・真木嶋・芋洗・淀渡…合計八箇所

の流布本で合計七箇所、『吾妻鏡』で合計八箇所の戦場のうち、宇治橋での戦闘を論ずるのみです。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d91721ba246be6ef8f0f44a93184bcf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/120950e1704de0820bf7ea49cd971676

実態としては、「承久宇治川合戦の再評価」ではなく、「承久宇治橋合戦の再評価」ですね。
従って山田重忠が登場する余地はなく、第一論文と第二論文の矛盾も目立たないことになります。
これも見事な「匠の技」であり、野口氏も坂井孝一氏と同じく「消しゴムマジック」の名人ですね。
ところで、前回投稿の最後に「「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとする野口氏の試みは破綻しており、野口氏も実質的にそれを認めておられる」などと書きましたが、もちろんこれは私の評価で、野口氏自身はそんなことは微塵も口にされていません。
野口氏は「千葉次郎」や「紀内殿」について考察された「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『承久の乱の構造と展開』所収、初出は2005年)の「むすびにかえて─課題と展望」において、

-------
 杉山次子は流布本について、慈光寺本と『吾妻鏡』を合わせて成立したものとするが、松尾葦江が指摘するように個々の人名・地名など一致しない点も多い。
 慈光寺本が『承久記』のうち最古態のテクストであることは認められても、そこに登場する人名・地名などは不正確である可能性もあったわけだが、上記の考察によって、流布本や『吾妻鏡』がその点で整合性を有しているのは、作品に持ち込まれたイデオロギーと同様に操作されたものであることを不十分ながら浮かび上らせることが出来たように思う。やはり、承久の乱の過程を述べたり、乱の歴史的評価について検討するに際しては、史料の根幹に慈光寺本を据えるべき事は明らかであろう。
-------

とされています。
慈光寺本に「個々の人名・地名など一致しない点も多い」ことを認めつつ、「流布本や『吾妻鏡』がその点で整合性を有しているのは、作品に持ち込まれたイデオロギーと同様に操作されたもの」とされる訳ですから、殆ど「あばたもえくぼ」状態であり、完全に慈光寺本の虜になっておられますね。
また、この「イデオロギー」云々は西島三千代氏の影響を感じさせます。
西島説が歴史研究者に与えた影響に関しては少し検討する必要がありますが、「慈光寺本妄信歴史研究者交名」シリーズも(その30)で野口説を扱い始めて以降、ずいぶん長くなってしまったので、この問題はまた別途扱うことにします。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その30)─野口実氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a432e5141cbaf30d1ac8750e6355502

西島説は流布本の成立が相当遅れることを前提に組み立てられているので、流布本の成立時期さえ明確にしてしまえば自動的に論ずる価値も殆どなくなる説です。
従って私はあまり重視していないのですが、木下竜馬氏のような若手研究者も、

-------
 長村は以上のような論理で「後鳥羽の意図は義時追討にあった」とし、鎌倉幕府や将軍の廃絶、御家人制の解体をかならずしも意図していなかったと論じたのである。この長村説は、『承久記』の研究(西島三千代ら)を批判的に継承しつつ、公武対立を自明としてきた従来の政治史を見直す動き(杉橋隆夫、野口実、河内祥輔ら)にのっとり、承久の乱をめぐる政治過程に新視点を持ち込むものだった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b9ee1a57e8b81a6c5b6c6cd4c0b780c

とサラッと書かれていて(『歴史REAL 承久の乱』、洋泉社、2019)、まるで西島説が国文学界の『承久記』研究の代表のような扱いなので、アレっと思ったことがあります。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その48)─野口実説への私の最終的評価

2023-11-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
野口実氏がご自身の全ての著作で「逆輿」に言及されていないのかについては未確認ですが、今のところ私が設定した五つのメルクマールを全てクリアーしておられるのは坂井孝一氏(創価大学教授)だけですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その23)─「長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9274aff8b0ff315f86277ed8948bd1c

ただ、坂井氏は『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)において、

-------
 ただ、山田重忠は諦めていなかった。「慈光寺本」によれば、重忠は三百余騎を率いて東海・東山両道の合流地点である杭瀬河に向かったという。そこに武蔵七党(武蔵国を本拠として形成された七つの同族的武士団)の児玉党三千騎が攻め寄せた。重忠は「我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉、山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」と名乗りをあげ、「散々ニ切テ出、火出ル程」激しく戦った。あっという間に児玉党百余騎が討ち取られ、重忠勢も四十八騎が討たれた。その後も重忠は、敵が引いたらこちらも引き、敵が馬を馳せてきたらこちらも攻めるように指示を出し、「命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」と号令をかけて命の限り戦った。しかし、兵力の差はいかんともし難く、最後は都を指して落ちていった。かくして美濃の合戦は、わずか二日ほどで京方の大敗に終わった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0571a11fa27cee4835b24b7cbfcc7f1

と書かれていて(p181)、山田重忠の杭瀬河合戦が六月六日の出来事だと考えておられることは明らかです。
その上で、坂井氏は慈光寺本において杭瀬河合戦が後鳥羽院の叡山御幸の後に、宇治河合戦の「埋め草」として置かれていることについて読者に何の注意喚起もされないので、メルクマールの五番目、

(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

については「慎重な留保」がなく、即ちメルクマール(5)をクリアーしたと私は判断しました。
これに対し、野口実氏は、そもそも「杭瀬河合戦」を六月六日の出来事とされず、慈光寺本の奇妙な記述を全面的に肯定する立場なので、メルクマール(5)に関しては「慈光寺本妄信歴史研究者」の中でも別格の存在ですね。
さて、野口氏ももちろん「序論 承久の乱の概要と評価」に宇治河合戦が存在しないことの不自然さは自覚されていて、後に「承久宇治川合戦の再評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、初出は2010)を発表され、その「はじめに」において、

-------
また、私は先に慈光寺本『承久記』を主たる史料として承久の乱の全過程を追うことを試みたが、この合戦については慈光寺本『承久記』に記述がないため、詳細は省略に委ねた。本稿はその補足の目的もあわせ持つものである。【後略】
-------

と書かれました。(p70)
私は野口第二論文に若干の疑問を感じ、今年の一月に、

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

を書きましたが、その時点では準備不足であったので(その2)以降は四ヵ月後となり、五月から六月にかけて三十一回、合計三十二回の「野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点」シリーズで検討を加えました。
その結論は(その32)で纏めておきましたが、再掲すると、

-------
そもそも野口氏は何のために宇治川合戦を検討されることになったのか。
「承久宇治川合戦の再評価」(以下「野口第二論文」)に先行する「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、初出2009。以下「野口第一論文」)において、野口氏は「『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない」とされ、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとされました。
しかし、野口氏の試みは、流布本においては全体の約23%を占める宇治川合戦が慈光寺本には存在しない、という絶対的な制約ゆえに極めて不充分なものとならざるを得なかった訳です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90bf212c9c3b54e64c94d20179e5ff44

そこで、野口氏は、慈光寺本では「再構成」のしようがなかった宇治川合戦については流布本と『吾妻鑑』で「補足」することとし、この「補足」をもって「承久の乱の全過程を追う」こととされました。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6aa9f72352ac3539037714e50081cc9d

では、「承久の乱の全過程」が解明された結果、野口氏が得られた認識は「『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない」という当初の認識にどのような影響を与えたのか。
仮に野口第二論文によって「承久の乱の全過程」が解明された結果、「『吾妻鏡』や流布本『承久記』は……客観的な事実を伝えたものとはいえない」という結論が得られたならば、野口第一論文における野口氏の見通しの的確さが証明されたことになりますが、実際にはそうはならず、「『吾妻鏡』が「承久宇治川合戦」の史料として信頼しうるものであることが明らかにされた」訳です。
また、『吾妻鏡』との比較において、流布本もけっこう信頼できることも野口氏は明らかにされました。
とすると、宇治川合戦について『吾妻鏡』や流布本がそれなりに信頼できるのならば、承久の乱の勃発から尾張河合戦まではどうなのか。
その部分はやはり慈光寺本が信頼できるのか。
信頼できるとしたらその理由は何なのか。
結局のところ、宇治川合戦の分析の結果得られる一番素直な結論は、承久の乱全体について『吾妻鏡』や流布本はけっこう信頼できるのに対し、前半のみ存在し、その内容が『吾妻鑑』・流布本と異なる慈光寺本は全体としてあまり信頼できない、ということではないかと思われますが、野口第二論文では野口第一論文との齟齬の可能性への言及すらありません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672c57566711e1a519032386d3f384

となります。
要するに「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとする野口氏の試みは破綻しており、野口氏も実質的にそれを認めておられる、というのが私の野口説への最終的評価でしたが、この結論は現在も変わっていません。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その47)─野口氏は「逆輿」には言及せず。

2023-11-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p19以下)

-------
幕府軍の入京と乱後の処理
 この間、東海・東山両道一体となった幕府軍は、瀬田川沿いに南下して宇治に向かった泰時軍と瀬田橋から直接西に向かった時房の軍の二手に分かれて進撃を続け、各所に配置された院方の軍勢を蹴散らして、六月十五日巳刻(午前十時頃)、泰時はついに六波羅(京都市東山区)に到着した。十七日午刻(『承久三年具注暦日次記』によると二十四日)に北陸道軍の北条朝時が六波羅に到着するに及んで、泰時は鎌倉に戦勝報告と戦後処理に関する指示を仰ぐ内容の書状を送った。この書状を受け取った義時は感激して、「今はもう思う事がない。自分の果報は王の果報を過ぎたものだ。前世の行いが一つ足りなかったので、下臈の身分に生まれただけの事だったのだ」と述べたという。ちなみに、義時が泰時からの書状にこたえて下した指示は以下のようなものであった。
 ①後鳥羽院の兄である行助法親王(守貞親王)を院に立て、その皇子の茂仁親王を即位させること、②後鳥羽院を隠岐に配流し、そのほかの宮々も泰時の判断で流刑に処すること、③院方の公卿・殿上人を坂東に下し、容赦なく頸をはねること(ただし、坊門忠信は姉妹にあたる実朝後家の嘆願によって助命された)、④都での狼藉を禁止し、とくに七条女院(藤原殖子)や摂関家・徳大寺家・西園寺家など、院に加担しなかった権門に狼藉を加えた者は幕府軍に属していても斬罪に処すること、⑤泰時・朝時は早々に鎌倉に戻るべきこと、⑥都へ食料の供給が滞らぬように朝時は北陸道七ヵ国の支配を固めること。
-------

いったん、ここで切ります。
慈光寺本では、

-------
 去程ニ、六月十五日巳時ニハ、武蔵守六波羅ヘ著給フ。同十七日午時ニ、式部丞モ六波羅ヘ著給フ。其時、武蔵守ハ御文急鎌倉ヘ参セラル。「東国ヨリ都ヘ向シ人々ノ、水ニ流ルゝトモナク討ルゝトモナク、一万三千六百廿人ハ死タリ。泰時ト同ク都ヘ著テ、勧賞蒙ラント申人々、一千八百人也。所附シテ賜ルベク候。又、院ニハ誰ヲカ成マイラスベキ。御位ニハ誰ヲカ附マイラスベキ。十善ノ君ヲバ何クヘカ入奉ルベキ。宮々ヲバ、イカナル所ヘカ移マイラスベキ。公卿・殿上人ヲバ、イカゞハカラヒ申ベキ。条々、能々計給ベシ」トゾ申サレタル。権太夫ハ、此状ヲ御覧ジテ申サレケル。「是見給ヘ、和殿原。今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル」トゾ申サレケル。
 去間、御返事ニハ、「院ニハ持明院ノ宮ヲ定申ベシ。御位ニハ同宮ノ三郎宮ヲ即マイラスベシ。サテ本院ヲバ、同王土トイヘドモ、遥ニ離タル隠岐国ヘ流シマイラスベシ。宮々ヲバ武蔵守計テ流シマイラスベシ。公卿・殿上人ヲバ坂東国ヘ下シ奉ルベシ。次々ノ殿原ニハ、猶モ芳心アルベカラズ、悉頸ヲ切ベシ。去バ、先、都ニ狼藉ヲ止ベシ。所々ニハ、近衛殿下・九条殿下・七条女院・六条院・仁和寺ノ宮・徳大寺大臣殿・中山太政入道殿・大宮大将殿、此等ノ御辺ニテ、努々狼藉アルベカラズ。是ヲ用ヒズシテ狼藉ヲ致サン輩ヲバ、鎌倉方ト申トモ、召寄テ皆頸ヲ切ベシ。武蔵守・式部丞ハ、トクシテ下ルベシ。都ノアスルニ、式部丞ニハ北陸道七箇国ノ固ヲ給ベシ」トゾ書レタル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f705bd01bdbdbc98721ab5c17cb3963d

となっており、野口氏の説明は殆ど慈光寺本の逐語訳ですね。
さて、「この間、東海・東山両道一体となった幕府軍は、瀬田川沿いに南下して宇治に向かった泰時軍と瀬田橋から直接西に向かった時房の軍の二手に分かれて進撃を続け、各所に配置された院方の軍勢を蹴散らして」とありますが、この論文で宇治河合戦への言及はこれだけですね。
流布本では上下巻全体の約23%が宇治河合戦で占められていますが、慈光寺本には宇治河合戦が存在しないので、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)するとの方針を貫かれたこの論文にも宇治河合戦は殆ど存在しないこととなります。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その23)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/feff18f46fdd56027fe00e6c958c5d6d

ま、それはともかく続きです。(p20)

-------
 七月二日、後鳥羽院は高陽院殿から押小路泉殿(左京三条三坊十町)に、四日には四辻殿(一条万里小路)に、さらに六日には京外の鳥羽殿に移された。十日、泰時の嫡子の時氏が鳥羽殿に赴いて院に流罪を宣告。そして十三日、院は出家した近臣の伊王(医王)左衛門能茂や女房たちとともに隠岐に下ることとなる。【後略】
-------

野口論文はもう少し続きますが、五つのメルクマールに関係する部分はここまでなので、以下は省略します。
野口氏は「逆輿」には特に言及されないので、メルクマールの四番目、

(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

は適用外であり、結局、(4)以外の四つのメルクマールに該当することとなります。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その46)─野口実氏は「欠落説」を否定する立場

2023-11-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿の最後で「検討は次の投稿で行います」などと書きましたが、検討済みの論点が多いので、私見については下記投稿等を参照願います。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その15)─「36.東寺における渡辺翔と新田四郎の戦い 5行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/60715acf8de49638f53a1b3982fb0b31
(その16)─「37.紀内殿と山田重忠の戦い 3行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1b2f02e3dc8b9537bcb6d1f801a03e8
(その17)─「紀内殿」と千葉一族の動向
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2c27b807375b7be34d898ac8ccb40ee
(その18)─千葉一族と宇治河合戦
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d0aa30e7ef06e8a4c8a2fbd7ba93eab9
(その19)─「38.三浦胤義と義村との戦い 9行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9b1ea42f6866063b513f8693bfe6ca1
(その20)─「39.三浦胤義の自害 5行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df8619f643d1061a10e9dc234d6cd66a

さて、慈光寺本の合戦記事とその信頼性評価については、10月10日の「慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その21)─39項目の信頼性評価一覧」で私見を整理しておきました。

-------
「1.押松の報告 14行」…C
「2.後鳥羽院の指示 3行」…B
「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」…D
「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」…D
「5.北条時房による小野盛綱配下・玄蕃太郎追討 25行」…A

「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」…D
「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」…D
「8.北条時房による軍勢手分 4行」…D
「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」…D
「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始 3行」…D

「11.市川新五郎と京方・薩摩左衛門の言葉戦い 8行」…D
「12.荒三郎の瀬踏み、高桑殿射殺 10行」…D
「13.荒三郎の報告と渡河方法の指導 9行」…D
「14.武田・小笠原軍の渡河 2行」…B
「15.大内惟信と智戸六郎の戦い 3行」…B

「16.二宮殿と蜂屋入道の戦い 3行」…B
「17.市川新五郎と薩摩左衛門の戦い 3行」…D
「18.蜂屋蔵人の逃亡 4行」…C
「19.蜂屋三郎と武田六郎の戦い 10行」…C
「20.神土殿と上田刑部の降伏談義 9行」…D

「21.北条泰時による神土殿父子九騎の処刑 5行」…D
「22.板橋における荻野次郎座衛門・伊豆御曹司の戦い 2行」…B
「23.伊義渡における開田・懸桟・上田殿の戦い 2行」…B
「24.火御子における打見・御料・寺本殿と尾張熱田大宮司の戦い 2行」…B
「25.大豆戸における藤原秀康・三浦胤義の戦い 4行」…B

「26.食渡における安芸宗左衛門・下条殿と関左衛門・大和入道・押野入道との戦い 8行」…B
「27.伊勢国における加藤判官の戦い 8行」…D
「28.上瀬における重原・翔左衛門の戦い 6行」…B
「29.洲俣の藤原秀澄の敗走 1行」…B
「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」…A

「31.後鳥羽院、二位法印尊長邸へ御幸 3行」…A
「32.後鳥羽院、叡山御幸 5行」…B
「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」…D
「34.渡辺翔・山田重忠・三浦胤義による後鳥羽院への敗戦報告 5行(☆)」…C
「35.三浦胤義の後悔 5行」…C
 
「36.東寺における渡辺翔と新田四郎の戦い 5行」…C
「37.紀内殿と山田重忠の戦い 3行(☆)」…B
「38.三浦胤義と義村との戦い 9行」…C
「39.三浦胤義の自害 5行」…C

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/420706f61d22cfebf2402d7d5dd0696f

野口実氏は概ねこの順番に即して「序論 承久の乱の概要と評価」を書き進めておられますが、「32.後鳥羽院、叡山御幸 5行」に対応する叙述の後、突如として「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」に対応する叙述を加えておられる点はかなりの無理を感じさせます。
また、慈光寺本作者が宇治河合戦の「埋め草」として書いた「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」についても、慈光寺本の順番に従って叙述されています。
野口氏は、杉山次子氏のように慈光寺本には「宇治河合戦」が「欠落」しているとした上で、「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」はその位置を間違えており、本来は「29.洲俣の藤原秀澄の敗走」の後におかれるべき記事だった、と論ずることもできたはずです。
しかし、野口氏は「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)するとの方針を貫かれ、宇治河合戦「欠落説」を否定し、宇治河合戦に相当する期間中も、山田重忠は杭瀬河で「徹底抗戦を続けていた」のだと主張されます。
従って、メルクマールの五番目、

(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

については、慎重な留保どころか、慈光寺本作者の(私見では)意図的な創作を積極的に肯定する立場に立たれていますね。
これは歴史研究者としてはかなり珍しい、というか、管見の限り唯一の見解ではなかろうかと思います。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その45)─「山田重忠は徹底抗戦を続けていた」(by 野口実氏)

2023-11-11 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p18以下)

-------
 ところで、藤原秀澄に鎌倉進撃を進言した山田重忠は徹底抗戦を続けていた。洲俣を撤退した重忠は落ち行くことなく、今度は海道・山道から攻め寄せる幕府軍が合流する杭瀬川のほとりに三百余騎で布陣したのである。これに対した幕府軍は武蔵国の児玉党三千余騎で、重忠軍の奮戦によって大きな犠牲をこうむることになる。しかし、さすがの重忠も衆寡敵せず、源翔らとともに都を指して落ちて行った。
 三浦胤義・山田重忠・源翔ら院方の東海・東山道軍の敗将たちが、院御所高陽院殿に辿り着いたのは、十四日の夜半のことであった。胤義は敗戦を伝えるとともに、院御所に立て籠もって幕府軍を迎え撃って討死を遂げたいので門を開けてほしいと訴えたが、院の返事は、「それでは御所が幕府軍の攻撃にさらされることになるから退去せよ」という武士たちにとっては冷淡極まりないものであった。
-------

野口氏は「海道・山道から攻め寄せる幕府軍が合流する杭瀬川のほとり」で「山田重忠は徹底抗戦を続けていた」とされる訳ですが、これはいったい何時の話なのか。
洲俣(墨俣)での合戦は六月六日ですが、野口氏は「さすがの重忠も衆寡敵せず、源翔らとともに都を指して落ちて行った」後、「三浦胤義・山田重忠・源翔ら」が「十四日の夜半」に「院御所高陽院殿に辿り着いた」とされるので、山田重忠は六日に「洲俣を撤退」して以降、(移動に一日かかるとして)十三日くらいまで一週間以上、延々と杭瀬川で「徹底抗戦を続けていた」と考えておられるのでしょうか。
ま、ちょっと嫌味っぽく書いてしまいましたが、『吾妻鏡』六月六日条には、

-------
今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戰。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。武蔵太郎到于筵田。官軍卅許輩相搆合戦。負楯。精兵射東士及数返。武蔵太郎令善右衛門太郎中山次郎等射返之。波多野五郎義重進先登之処。矢石中右目。心神雖違乱。則射答矢云云。官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢」の「株河」を杭瀬河と考えるのが通例です。
そして翌七日条には「相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井両宿」とあって、北条時房・泰時以下の東山・東海道の軍勢は杭瀬河より西にある野上・垂井に移動していますから、杭瀬河合戦が六月六日の出来事であることは明らかです。
しかし、慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦は「承久三年六月八日ノ暁、員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各身ニ疵蒙ナガラ、院ニ参テ」尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告し、その報告を聞いた後鳥羽院が叡山に加勢を願うために御幸し、空しく帰って来た後の出来事となっています。
そして、宇治川合戦が存在しない慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦がその空白に置かれた「埋め草」になっており、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)すると、ここで破綻してしまう訳ですね。

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その14)─「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bf473f371becdfe9eee25a517c54300
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その21)─坂井孝一氏は「消しゴムマジック」の名人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0571a11fa27cee4835b24b7cbfcc7f1

さて、続きです。(p19)

-------
 胤義は院に加担したことを後悔する一方、どうせ自害にいたる運命であるのならば、せめて、淀路から攻め上ってくる兄の義村に対面して思いを述べてから、その手にかかって死のうと考え、重忠・翔とともに大宮大路を下り東寺に引き籠もって敵を待ち受けた。
 翔は東海道軍第四陣の将である仁田四郎、重忠は五陣の木内胤朝の手と戦ったのち、それぞれ大江山(京都市西京区)、嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちていった。一方、胤義は敵軍の中に三浦氏の黄村濃の旗を見つけて義村に近づき、「兄上に憎まれたことが悔しくて都に上り、院に召されて義時追討に加わりました。それでも味方になってくれると思って手紙を差し上げたのですが、一族の和田義盛が挙兵したときにも裏切ったあなたを頼んだのが間違いでした。今はただ、死ぬ前にお目にかかりたくてここに参りました」と語りかけた。これに対して義村は、こんな馬鹿者の相手をするのは無益なことだと軍を四塚(京都市南区)に戻している。
 胤義は「すでに武士としての冥加は尽きた自分が、帝王との戦いに勝利した兄を討ったところで、親の孝養をする者をなくしてしまうだけのことだ」と考えて、西獄(平安京の右京一条二坊十二町の地点にあった)に討ち取った敵の頸を懸けた後、木島(右京区)に落ち、十五日辰刻(午前八時頃)に父子ともに自害して果てた。京の人々は、胤義を立派な武士と讃えて、その死を惜しんだという。
-------

検討は次の投稿で行います。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その44)─「ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもの」(by 野口実氏)

2023-11-11 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p17以下)

-------
院方の敗退
 六月八日の明け方、糟屋久季と五条有仲(有長)が疵をこうむりながら帰洛し、去る六日、摩免戸の合戦で官軍が敗北したことを院に奏聞。これを聞いて、諸人顔色を変え、御所中は大騒動となり、洛中の上下貴賎はいずれも東西に逃げ惑うありさまとなった。
 このなかで、後鳥羽院は土御門・順徳両上皇らとともに比叡山に避難することとなり、途中、二位法印尊長の押小路河原の泉房に立ち寄って作戦会議をひらいたのち、千騎の軍勢とともに東坂本に赴いて比叡山延暦寺の協力を求めた。しかし、ふだんの寺社抑制策が災いして、延暦寺の上層部は幕府軍の防禦を辞退。後鳥羽院は空しく下山して高陽院殿に還御した。十日のことである。もはや院方にとって残された方策は、瀬田(滋賀県大津市)・宇治(京都府宇治市)に配置した兵力を頼みとし、宇治川に拠って京都を防衛するのみとなった。
 ちなみに、ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもので、瀬田には美濃竪者観厳ら七百人。そのうち、五百を美穂崎(滋賀県高島市)、二百が瀬田橋に配されていた。また、宇治には参議高倉範茂・右衛門佐藤原朝俊や奈良法師たち、真木島(宇治市槙島町)には中納言佐々木野有雅、伏見(京都市伏見区)には中納言中御門宗行、芋洗(京都府久御山町)には中納言坊門忠信、大渡(伏見区淀)には二位法印尊長、広瀬(大阪府島本町)には河野通信らが守備についていた。
-------

慈光寺本では、

-------
 承久三年六月八日ノ暁、員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各身ニ疵蒙ナガラ、院ニ参テ申ケルハ、坂東武者、数ヲシラズ責上ル間、六日、洲俣河原ニシテ纔ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル由ヲ奏シ申ゾ、憑モシゲナキ。院イトゞ騒セ給ヒテ、院ニ宮々モ引具シ奉テ、二位法印尊長ノ押小路河原ノ泉ニ入セ給フ。公卿・殿上人、若キ老タル、皆物具シテ、御供ニ候。ゲニゲニ矢一射ン事、知ガタシ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abfe3f518960f8febf8b0841fc347508

とあって、尾張河合戦の敗戦を後鳥羽院に報告したのは糟屋久季と五条有仲ですが、流布本では山田重忠、『吾妻鏡』では藤原秀康と五条有長となっていて、史料により異同があります。
野口氏は報告者は慈光寺本に、その後の記述は『吾妻鏡』六月八日条に依拠していますね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928

また、叡山御幸に関し、「千騎の軍勢とともに」とありますが、慈光寺本には、

-------
 去程ニ、酉時計、東坂本ヘ御幸ナル。御勢纔ニシテ、千騎トダニ見ヘヌゾ口惜キ。カゝルニ付テハ、唯、都ノ騒ナリ。何ナル御計ニカアレバ、又都ヘ帰リ入セマシマセバ、人ノ気色、何トナクヨシト云ントスレバ、宇治・勢田両所ノ橋ヲ取破テ、軍場ト定メラル。公卿・殿上人モ、其道ニ叶ヒヌベキヲバ、皆差向サセ給フ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

とあって、「御勢纔ニシテ、千騎トダニ見ヘヌゾ口惜キ」ですから、ここは変ですね。
さて、「ちなみに、ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもので」に続く部分は慈光寺本の藤原秀康による第一次軍勢手分の最後、

-------
 瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向フ。行桁三間引放、大綱九筋引ハヘテ、乱杭・逆木引テ待懸タリケリ。
 宇治ノ手ニハ、甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道ヲ始トシテ、奈良印地ニ仰附ラレケリ。真木島ヲバ、佐々木野中納言有雅、伏見ヲバ、中御門中納言宗行、芋洗ヲバ、坊門新中納言忠信、魚市ヲバ、吉野執行、大渡ヲバ、二位法眼尊長、下瀬ヲバ、伊予河野四郎入道ニ仰付ラレケリ。残ル人々ハ、按察殿ヲ始トシテ一千騎、高陽院殿ニゾ籠ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

を引用したものです。
慈光寺本では何故か尾張河合戦の前に瀬田・宇治にも軍勢が配置されており、野口氏も15頁で、

-------
 こうして、東海道には秀康・秀澄の兄弟のほか三浦胤義・佐々木広綱・安達親長・小野盛綱・源翔らの七千余騎、東山道には蜂屋頼俊・開田重国・大内惟信らの五千余騎、北陸道には加藤光員・大江能範らの七千余騎。総勢一万九千三百二十六騎が三道に下され、のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/695f8d6e1cb662e9ea80a8ca8f390972

と書かれているので、尾張河合戦の前から、高倉範茂・藤原朝俊・佐々木野有雅・中御門宗行・坊門忠信・二位法印尊長・河野通信らが宇治・瀬田の守備についていたとされているようです。
しかし、慈光寺本でも、「二位法印尊長ノ押小路河原ノ泉ニ入セ給フ」とあって、少なくとも二位法印尊長は叡山御幸に同行したと考えるのが自然ですから、慈光寺本自体に矛盾がありますね。
この点、『吾妻鏡』六月八日条には、

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乗車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六条親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戦事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣」が「宇治勢多田原等」に向かったのは六月八日のことであり、また同日、後鳥羽院は二位法印尊長らを伴って叡山に向かったとあります。
そもそも尾張河合戦の前に宇治・瀬田に軍勢を配する意味がないので、史実としては『吾妻鏡』の方が正しそうです。
ところで、宇治河合戦には確かに「公卿や僧侶によって率いられた軍勢」も参加してはいますが、京方も主力は武士であったことは諸史料から明らかですね。
しかし、野口氏は「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい」(p8)とされるので、慈光寺本に宇治川合戦が存在していないために、野口論文でも宇治川合戦の記述はほんの僅か、殆どないに等しい扱いです。
また、慈光寺本には北陸道の合戦の記述もないので、野口論文にも言及がありません。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その43)─「院方として伊勢にあった加藤判官」(by 野口実氏)

2023-11-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
(その36)で「従来の検討との重複を厭わず」と書きましたが、野口氏が慈光寺本の紹介に留めておられる部分は「慈光寺本の合戦記事の信頼性評価」シリーズ等へのリンクで簡略に済ませたいと思います。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その36)─「東海道軍の大将軍藤原秀澄」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/695f8d6e1cb662e9ea80a8ca8f390972

ということで、続きです。(p16)

-------
 院方で大井戸を守っていた大内惟信・蜂屋入道らも奮戦したが、惟信は子息を討たれたために後退、蜂屋入道も痛手を負ったために自害をとげた。蜂屋入道の子息のうち蔵人はこれをみて逃亡、もうひとりの三郎は父の敵とばかりに武田信長と組み討ち、信長は討たれそうになったが、そこに弟の信継が駆けつけて三郎の頸を取った。
 蜂屋氏と同じく美濃源氏の一族で、院方として鵜沼を守っていた神地頼経は、大井戸・河合を突破して木曽川沿いに進んできた幕府東山道軍を見て、覚悟を決めて一戦を交えようとしたが、ともに守備についていた上田刑部から「命アレバ海月ノ骨ニモ」というくらいだから、天野政景を頼って北条泰時の見参に入ろうという勧めにしたがって、幕府軍に降参した。しかし、泰時はこれを許さず、頼経父子七人を梟首したという。
-------

関連記事についての私見はリンク先を参照願います。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その10)─「21.北条泰時による神土殿父子九騎の処刑 5行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d83ca988721b0979c2135bd86c287a0b

なお、「蜂屋入道」は藤原秀澄の第二次軍勢手分では「阿井渡」を担当したことになっていますが、ここは順番から見て「大井戸」より更に上流のようです。
しかし、慈光寺本にしか出て来ない「阿井渡」の場所はよく分かりません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda

また、「蜂屋三郎」は「我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也」と、その出自の説明がある点で珍しい人ですね。

慈光寺本において、その出自の説明がある人々(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/563afc85ef874d663913597943b6b37a

「神地頼経」は慈光寺本には「神土殿」とあるのみですが、『吾妻鏡』六月二十日条を参照すると「神地蔵人頼経」であることが分かります。
ただ、同条には、

-------
【前略】及晩。美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人。於貴舟辺。本間兵衛尉生虜之。又多田蔵人基綱梟首云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、「美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人」が貴船近辺で「本間兵衛尉」に生捕りにされたとのことですから慈光寺本と矛盾します。
野口氏は慈光寺本の方が信頼できるとの立場ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p17)

-------
 板橋・伊義(生瀬)などの院方の防御線は幕府軍によって次々と破られ、ついには摩免戸を守る藤原秀康・三浦胤義軍も胤義が敵兵を多く討ち取って見せたものの、結局退却を余儀なくされた。また、院方として伊勢にあった加藤判官(光兼ヵ)は、海を渡る白鷺の群れを白旗を掲げた幕府軍の兵船と誤解して、長江(三重県鈴鹿市)・勾(同松阪市)にあった自らの館に火を放ち、三千余騎を率いて撤退するという大失態を演じている。
 上瀬を守っていた摂津渡辺党の源翔(愛王左衛門)だけが、翌朝まで持ち堪えるという奮戦を見せるというケースもあったが、こうして美濃・尾張・伊勢に張り巡らされた院方の防衛ラインは一挙に崩壊してしまったのである。
-------

うーむ。
「加藤判官」は藤原秀澄の第二次軍勢手分では「安芸宗左衛門・下条殿」とともに「食渡」の担当だったはずなのですが、何故か遠く離れた伊勢でのエピソードが長々と続きます。
私には何が何だかさっぱり理解できませんが、野口氏は史実とされる訳ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その48)─「千年マデアラント造並ベタル長江館・マガリノ舘」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75d678c32fb74a42afe34e47e34dcd4c
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その11)─「27.伊勢国における加藤判官の戦い 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50879040f33c8a836dcc07a80315fe40

渡辺翔は『吾妻鏡』にも流布本にも登場しませんが、慈光寺本では頻出し、本当に好意的に描かれていますね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その49)─「愛王左衛門翔トハ我事ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その12)─「29.洲俣の藤原秀澄の敗走 1行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b52ba38854d02daf12dadc5de12815ff
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その42)─「当時の武士の天皇観をよく示したエピソード」(by 野口実氏)

2023-11-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した慈光寺本の山田重忠の発言は、最初に「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ」とあるので、「相模守」北条時房も「山道遠江井助」と一緒に尾張国府に到着したのかと思いきや、すぐ後に「尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并相模守ヲ討取テ」とあり、時房は泰時とともに橋本宿にいることが分かります。
また、山田重忠に対する藤原秀澄の返答の中に「尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取」とありますが、これでは「遠江井助」と北条泰時・時房の三人が尾張国府にいるような感じです。
本当に紛らわしい書き方ですが、慈光寺本作者が北条時房と「山道遠江井助」の関係を、例えば「相模守ノ郎等山道遠江井助」などと明確にし、また、藤原秀澄の返答も「尾張国府ニアンナル遠江井介、橋本ノ宿ニアンナル武蔵・相模守討取」などと書いてくれれば誰も誤解しない訳で、慈光寺本の文章は本当に雑ですね。
ま、それはともかく、野口論文の続きです。(p16)

-------
幕府東山道軍の進撃
 そうこうしているうちに、時房の軍は尾張国の熱田宮から一宮に至り、ここで軍議を開いた。一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが、現地の状況は決して幕府側に有利ではなかったようで、武田・小笠原の二人の大将軍すら、「弓矢取る身の習い」として、合戦の帰趨次第では敵方に寝返るつもりになったという。
 東海道軍の時房は、そうした状況をよく察しており、武田・小笠原に大井戸・河合の渡河に成功したならば、恩賞として六ヵ国の守護職を申請するという書状を届けたので、両者はようやく作戦に従ったという。六月六日のことである。このとき、大井戸を渡った小笠原の一の郎等市川新五郎は、院方の武士から朝敵よばわりされたことに対して、「義時だって桓武天皇の後胤、武田・小笠原も清和天皇の後胤、『誰カ昔ノ王孫ナラヌ』」と応じているが、当時の武士の天皇観をよく示したエピソードといえよう。
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慈光寺本では、

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 去程ニ、海道ノ先陣相模守ハ、橋下ノ宿ヲ立テ、参河国矢作・八橋・垂見・江崎ヲ打過テ、尾張ノ熱田ノ宮ヘゾ参リ給フ。上差抜テ進セテ、其夜ハ赤池ノ宿ニゾ著給フ。明日、尾張ノ一ノ宮ノ外ノ郷ニ打立テ、軍ノ手駄セラレケリ。「今度ノミチノ固ハ、上﨟次第ゾ、大豆渡ヲバ武蔵守、高桑ヲバ天野左衛門、大井戸・河合ヲバ」、武田・小笠原ハ美濃国東大寺ニコソ著ニケレ。此両人ノ給フ事、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」。武田、返事セラレケルハ、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ、小笠原殿」トゾ申サレケル。
 去程ニ、相模守ハ御文カキ、「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」ト書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、「サラバ渡セ」トテ、武田ハ河合ヲ渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908

となっており、「武田・小笠原ハ美濃国東大寺ニコソ著ニケレ」の前後で錯簡があるようです。
さて、野口氏は「東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」と書かれていますが、これは「美濃国東大寺」を美濃国の東大寺領大井庄に比定された訳ですね。
しかし、大井庄(大垣市)は大井戸(美濃加茂市)から西方に四十キロメートルほど離れており、大井戸攻撃前の東山道軍がそのような場所に存在するのは無理です。

「一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dff5c1b2c6954c573300de3316234306

また、野口氏は「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」を「恩賞として六ヵ国の守護職を申請する 」と解釈されていますが、この点については10月4日の下記投稿で検討しました。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」

野口氏は武田信光と小笠原長清の密談エピソードに加え、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとの話も史実とされる立場であり、メルクマールの三番目、

 (3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

をクリアーされていますね。
この点も野口氏は坂井孝一氏と同じ立場です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f8b69695f82ad48a840c818343941ca
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6de74a2adca331d2c2d08e1e3659a7

ところで、野口氏は「小笠原の一の郎等市川新五郎」が「誰カ昔ノ王孫ナラヌ」と言ったという話について「当時の武士の天皇観をよく示したエピソード」と言われます。
慈光寺本を見ると、これは、

-------
小笠原一ノ郎等市川新五郎ハ、扇ヲ上テ、向ノ旗ヲゾ招キタル。「向ノ旗ニテマシマスハ、河法シキノ人ゾ。ヨキ人ナラバ、渡シテ見参セン。次々ノ人ナラバ、馬クルシメニ渡サジ」トゾ招タル。薩摩左衛門立出テ申ケルハ、「男共、サコソ云トモ、己等ハ権太夫ガ郎等ナリ。調伏ノ宣旨蒙ヌル上ハ、ヤハスナホニ渡スベキ。渡スベクハ渡セ」トゾ招タル。新五郎是ヲ聞、腹ヲ立テテ、「マサキニ詞シ給フ殿原哉。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。武田・小笠原殿モ、清和天皇ノ末孫ナリ。権太夫も桓武天皇ノ後胤ナリ。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。其儀ナラバ、渡シテ見セ申サン」トテ、一千余騎コソ打出タレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bff94f63d818bc7dbe91b11a89be431f

というものですが、「薩摩左衛門」は義時追討の宣旨が出ている以上、その配下のお前たちを渡すことはできないと言っているだけで、幕府側が「王孫」かどうかなど全く問題にしていません。
それにも拘わらず、市川は、まるで自分たちが身分的に差別されたことに対する反論のように、我々だって「王孫」ではないか、と主張している訳で、何ともチグハグなやり取りですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その42)─「何ゾ、新五郎ガ唯今ノ河渡ゾ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88c823c32fa110d009d3bf7d40b7f892
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その41)─「幕府東海道軍の先鋒」の「山道遠江井助」

2023-11-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
野口実氏は「京方についた主人小野盛綱のもとに赴こうとして、時房の手から離脱しようとした安房国の住人筑井高重を、遠江の内田党が追捕して討ち果たす」と書かれているので、一見すると『吾妻鏡』五月三十日条に依拠されているように見えます。
しかし、『吾妻鏡』には「筑井高重」が「安房国の住人」とは記されておらず、また「内田四郎」とはあっても「内田党」との表現はみられないので、慈光寺本も加味しておられるようですね。
何故に「序論 承久の乱の概要と評価」の基本方針に従って慈光寺本で一貫させないのかは分かりませんが、あるいは慈光寺本の「玄蕃太郎」が他史料で裏付けられない奇妙な名前であることが原因かもしれません。
ま、それはともかく、続きです。(p15以下)

-------
 さて、京方では、幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った。重忠は院参の武士であるが、本拠は尾張国山田庄(名古屋市北西部・瀬戸市周辺)にあったから、地元の地理や武士たちの動向に通じていたのである。重忠の作戦は、勢いに乗じて橋本宿にいる北条泰時・時房の軍を破って鎌倉に押し寄せて、義時を討ち取ってから、北陸道に進撃し、背後から朝時の軍を蹴散らして上洛を遂げるという、幕府側の作戦同様にスケールの大きいものであった。しかし、慎重な秀澄は鎌倉に攻め下れば幕府の東山道・北陸道軍に挟撃されるおそれがあるとして、これを採ることはなかった。
-------

「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至った」とありますが、慈光寺本では、

-------
 山道遠江井助ハ、尾張国府ニゾ著ニケル。其時、洲俣ニオハシケル山田殿、此由聞付テ、河内判官請ジテ宣給フ様、「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄、義時討取テ、谷七郷ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上、北陸道ニ打廻リ、式部丞朝時討取、都ニ登テ、院ノ御見参ニ入ラン、河内判官殿」トゾ申サレケル。判官ハ、天性臆病武者ナリ。此事ヲ聞、「其事ニ候。尤サルベキ事ナレドモ、山道・海道一ニ円ゲ、洲俣渡シテ、尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取、鎌倉ヘ下モノナラバ、北陸道責テ上ナル式部丞朝時、山道々々固メテ上ナル武田・小笠原ガ中ニ取籠ラレテ、属降カキテ要事ナシ。京ヨリ此マデ下ダニ馬足ノクルシキニ、唯、是ニテ何時日マデモ待請テ、坂東武者ノ種振ハン、山田殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

とあって、尾張国府に最初に着いた「山道遠江井助」なる人物は、山田重忠の発言の中で「相模守・山道遠江井助」と北条時房と並置され、「尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取」った後、「三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并相模守ヲ討取テ」とあり、「河内判官」藤原秀澄の返答の中でも「尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守」と泰時・時房と並置されています。
しかし、そのような重要人物でありながら、「山道遠江井助」は北条義時の「軍ノ僉議」には名前がなく、本当に唐突にこの場面に登場し、その出自も幕府における立場も全く分からない謎の人物です。
この後、「山道遠江井助」は「中源次・中六」という者を召して、「都ノ武士ノ洲俣ニ著タンナル。事ノ善悪見テ来ヨ」と斥候を命じますが、「中源次・中六」は山田重忠方の斥候「井綱権八・下藤五」と「牛尾堤」で出会い、「井綱権八・下藤五」に騙されて捕縛されてしまい、山田重忠の許に連れて行かれます。
山田重忠は「道理有ケル武者」なので、「中六」を「日ノ大将軍河内判官」秀澄に送ったところ、秀澄は「心ノビタル武者」なので、「中六」に逃げられてしまった、という展開となります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その39)─「都ノ武士ノ先使ニテモ候ハズ。賀楊津ノ宿太郎ニテ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e18148ac5d76108499d797479633a933

このように「山道遠江井助」は、単に一番最初に尾張国府に着いただけでなく、尾張国府を拠点に独自の判断で斥候を手配するなど、相当の権限を有した人物として描かれていますが、「中源次・中六」を斥候として派遣した後の動向は全く不明で、二度と慈光寺本に登場しません。
本当に謎めいた人物ですから、愛知県や静岡県の地方史研究者の中には、相当の熱意をもって「山道遠江井助」を調べた人がいるだろうと思われますが、私の(文字通りの)管見の限りでは、特別な知見は得られていないようです。
野口実氏も「山道遠江井助」の名前すら出されないので、おそらく調べたけれども分からなかったということなのでしょうね。
ま、それはともかく、野口氏は山田重忠(慈光寺本では「重定(貞)」)の鎌倉攻撃案を丁寧に紹介されており、藤原秀澄の返答と併せ、特に疑わしいとも思われていないようです。
このような立場は「慈光寺本妄信歴史研究者」の中でもかなり珍しく、今のところ野口氏の他には坂井孝一氏くらいですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その18)─藤原秀澄による山田重忠案の拒絶を史実とされる坂井孝一氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b486fa555337df2f32af0a6ee392d603

また、野口氏は山田重忠の「献策」を受けた藤原秀澄について「大将軍の藤原秀澄」と書かれていますが、こうした表現は読者に誤解を与えます。
慈光寺本には確かに「海道大将軍河内判官秀澄」との表現がありますが(岩波新大系、p335)、その慈光寺本においてすら「海道大将軍」藤原秀澄は六十五人いる「大将軍」の一人に過ぎません。
自分は史料を正確に引用しているのであって誤解するのは読者の勝手、という書き方は、研究者としていかがなものかと私は懸念します。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その20)─坂井氏による「海道大将軍秀澄」の用い方の問題点
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b6465aa4987ddfa080c321f92de97e0f
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その40)─『吾妻鏡』五月三十日条との関係

2023-11-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
杉山次子氏は流布本は慈光寺本と『吾妻鏡』を「主材料」として『吾妻鏡』に遅れて成立したとされ、この杉山説は野口実氏以外にも肯定的に引用される歴史研究者が多いようですが、流布本作者のつもりになって慈光寺本で利用できそうな箇所を探してみても殆ど見つからないはずです。
国文学者の大津雄一氏(早稲田大学教授)が重視される冒頭の「劫」の仏教話や、続く「国王ノ兵乱十二度」(実際に数えると九度)の話など、流布本には何の影響も与えていません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その6)─仏教と日本の神話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b6f6430ffecf3f663a099ae7e28cc47
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16

また、流布本作者が詳細に描く実朝暗殺記事も慈光寺本では極めて僅かであり、西園寺実氏の「春の雁の」の歌はなく、阿野時元・源頼茂の事件や「官打」・最勝四天王院への言及もなく、三寅下向の事情も数行だけ、仁科盛遠エピソードもなく、徳大寺公継の諫言もありませんから、流布本作者はこれら全てについて別の情報源に当たらなければなりません。
そして、慈光寺本でやたらと分量が多い伊賀光季追討エピソードが流布本作者に大いに参照されたかというと、これも個々の出来事の時間・場所、登場人物の選択とその役割など、まるで同一内容になるのを意図的に避けているのではなかろうかと思われるほど異同が多く、流布本作者にとって慈光寺本は全然参考になっていません。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25b33642bd703dd0ec7407be3bd7fa12
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba727054dbbd9d689da0a798b3db294c

宇治河合戦のみならず北陸道の合戦も存在しない慈光寺本は流布本の参考になりようがなく、京方敗北後の戦後処理も、誰が書いても同じような事実以外は両書に共通する部分を探すのは困難です。
戦後処理では唯一、佐々木広綱子息・勢多伽(流布本では勢多伽丸)関係の記事が流布本・慈光寺本とも豊富で、しかも記事の割合のみならず、情報の絶対量でも慈光寺本の方が相当に多いので、流布本作者が慈光寺本を参照した可能性は皆無ではないかもしれません。
ま、私は懐疑的ですが。

流布本も読んでみる。(その81)─「余に無慙なれば、助けんと思ふぞ、其代りには尼が首を取」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9211c088affea9cd27e749b9796748dc

こうしてみると、慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードと流布本の「三浦筑井四郎太郎」エピソードは、両書の関係を考える上で極めて貴重な箇所ですね。
では、この二つのエピソードを比較した場合、どちらのストーリーが自然かというと、私は流布本の方が自然だと思います。
その理由は既に前二回の投稿で書きましたが、北条時房の所在に関する記述の相違も追加したいと思います。
即ち、慈光寺本では、「内田党」が相当遠方と思われる「石墓」で「玄蕃太郎」を発見し、そこで長時間戦ってから橋本宿に戻るまで、北条時房はずっと橋本宿に留まり、橋本宿で「「時房、今度ノ軍〔いくさ〕ニハヤ打勝タリ」トテ、上差〔うはざし〕抜テ軍神〔いくさがみ〕ニゾ奉ラレケル」と祭事を行っています。
これに対し、流布本では、

-------
次日、相模守被通けるが、是を見て、「十九騎と聞へつるが一人も不落けるや。哀れ能〔よ〕かりける者共哉、御大事にも値〔あひ〕ぬべかりける物を。惜ひ者共を」とて、各歎惜み、「阿弥陀仏」と申て通りけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

となっていて、こうした細かな記述も時房軍の移動の迅速さと緊張感を伝えており、時房がのんびり橋本宿で報告を待っていたという慈光寺本より自然ではないかと思われます。
さて、そうはいっても、ストーリーの自然さと、成立の前後は別問題です。
慈光寺本のストーリーが不自然なので、それが気になった流布本作者が自然なストーリーに改めたと考えることも可能だからです。
しかし、私としては、伊賀光季追討記事や勢多伽丸エピソードと同じく、自然なストーリーの流布本が先行し、特異な感性の持ち主である慈光寺本作者が流布本に不満を持って独自の改変を加えたと考えたいですね。
では、『吾妻鏡』との関係はどうか。
『吾妻鏡』五月三十日条は、

-------
相州着遠江国橋本駅。入夜勇士十余輩潜相交于相州大軍。進出先陣。恠之令内田四郎尋問之処。候于仙洞之下総前司盛綱近親筑井太郎高重令上洛云々。仍誅伏之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

となっていて、「相州」北条時房が遠江国橋本宿に到着した日の夜、「勇士十余輩」が密かに「相州大軍」に紛れ込み、「先陣」に進み出た。これを不審に思った時房が「内田四郎」に尋問させたところ、「仙洞(後鳥羽)に祗候している下総前司(小野)盛綱の近臣である「筑井太郎高重」が上洛する」とのことだったので、高重を誅殺した、のだそうです。
このストーリーは慈光寺本に似ていますが、登場人物は「玄蕃太郎」ではなく「下総前司盛綱近親筑井太郎高重」なので、流布本の「下総守の縁者に三浦筑井四郎太郎と申者」に近く、尋問した者も「打田三郎」ではなく「内田四郎」なので、流布本と一致します。
とすると、『吾妻鏡』五月三十日条は、

 ストーリーの骨格:慈光寺本と一致
 登場人物:流布本と一致

となります。
私自身は「原流布本」は慈光寺本に先行して成立し、『吾妻鏡』編者も流布本を参照していると考えているので、五月三十日条は『吾妻鏡』編者が慈光寺本をも参照しており、流布本と慈光寺本からそれぞれ信頼できそうな部分を採り出して合成した記事ではなかろうかと考えます。
『吾妻鏡』編者が流布本を参照したであろうと思われる箇所が多数あるのに対し、慈光寺本を参照したであろうと思われる部分は少ないのですが、ここはその代表例ではなかろうかと私は考えています。
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