次の文章は1820年代初頭に植民地官僚ラッフルズが彼の母国イギリスとアジアとの交易について述べたものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。
私がイギリス国旗をかかげたとき、その人口は二百人にも達しないほどでした。三ヶ月のうちに、その数は三千人に及び、現在は一万人を越えております。
主としてシナ人であります。最後の二ヶ月のあいだに主として原住民の色々な種類の船が百七十三隻も到着したり、出帆したりしました。
それはすでに重要な商港となったのです。
(中略)
それは積極的にはオランダから何も奪いませんが、しかも、私たちにとってはすべてであります。それは、私たちにシャム・カムボヂャ・コーチシナその他とともにシナおよび日本に対する支配をあたえます。
……この港を通じてシナへイギリスの綿製品を導入することに関して観察なさっていることは、一つの非常に重要な問題であります。
……インドが充分廉価に製造することができなくても、イギリスはそうすることができます。
……私はシナの大部分がイギリスの綿製品をつけないという理由を見い出すことはできません。
……イギリスにおける東インド会社とシナにおける行(ホン)商人の独占は、私たちの船舶や広東港における公正な競争といったようなものの観念を排除しております。
……(A. )においてすべての目的は達せられるでしょう。
……シナ人自身が(A. )にやってきて購買します。
彼らは行(ホン)商人の制限や着服なしに広東の色々な港に輸入する手段をもっております。
シナの多くの総督は自分で秘密に外国貿易に従事しており、(A. )は、自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです。
事実、そうなってきています。
(信夫清三郎著『ラッフルズ伝』より引用、一部改変した。)
問1 文中の(A. )に入る地名を答えなさい。ところで、ラッフルズは(A. )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)
問2 この時期の、ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明したうえで、その後の同国の交易体制の変化について述べなさい。
(200字以内)
第3問
問1
この点でもスミスの思想的弟子であるラッフルズに合わないことでした。軍事力と産業技術でパクス=ブリタニカを形成しようとするイギリス国家の勢いに対してラッフルズは抵抗しようもなかったのです。自由貿易の行き着く先は、スミスもラッフルズも予想しなかった帝国主義的収奪でした。スミスもラッフルズも甘かった。
問2 課題は「清朝の交易体制……その後の同国の交易体制の変化」でした。「1820年代」の時期の貿易体制は開国前の体制です。乾隆帝が決めたかたち、貿易は広東一港に限定、公行が貿易を独占、関税自主権をもっていた、という体制です。それが二度の敗戦によって破られ、五港から 11港の開港、公行廃止、関税自主権喪失と変化します。
アヘンが公認され銀流出はますます増え、国内関税である釐金(りきん)税(地方通過税)は外国商人は1回2.5%で済み、中国人は省を越えるごとに払わなくてはならない。この税は太平天国を鎮圧するための臨時課税だったのが恒久化したもので、西欧の国々に対しては、天津条約(1858)では輸出入正税(従価5%)以外に2.5%の子口税を納めれば釐金を免除することが定められ、西欧に有利なものでした。
この問題は過去問(1983-3)の「1858年と1860年に調印された二つの条件が、中国民族産業の発達の障害になっていたからである。その条約のいかなる内容がこのような事態を招いたのか」という問題の類題でした。
1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはロバート=ハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリス人でした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。[解答]
Aは広州である。イギリスはコンバウン朝を滅ぼし、マレーシアを占領した。
これらの地域ではスズ鉱山やプランテーションでインド人や中国人の労働者を酷使し、生産物を徴収した。
この展開は、武力を使わずに経済的に東南アジア諸国を従属させ、金銭的利益を得ることができるという予想に反するものであった。
このころ清は貿易港を広州一港に限定し、公行に管理させていた。関税をかけて、国内の製品を保護したためヨーロッパからの綿製品の輸入は少なかった。
以降は次第にアヘンの密輸が始まった。南京条約では上海やアモイ等5港、北京条約では天津等11港が開港させられた。
南京条約で公行を廃止させられ、関税自主権も失ったためヨーロッパ製の安価な綿製品が大量に流入した。
後にアヘンの輸入も合法化された。
●ローマ(帝政)
Recognition of Christianity; The Roman Emperor Constantine recognizes Christianity.
さぁいざ公認 皆(みな)の神。
313年 キリスト教公認 コンスタンティヌス帝 ミラノ勅令
ディオクレティアヌス帝は治世の末期にキリスト教の大迫害を行ったが、その勢力を抑えることは不可能であった。コンスタンティヌス帝は前代の迫害を一転し、313年にはミラノ勅令によってキリスト教を公認。325年にはニケーア公会議を開いて三位一体説のアタナシウス派を正統教義とし、アリウス派を異端として教義の統一を図った。
ニケーア公会議
コンスタンティヌス帝がキリスト教に求めたものは、帝国を統制するのに有効な政治的価値であった。そのため、彼は教会内に生じていた神学上の対立を解消しようと、325年にはニケーア公会議《三位一体説を確立したニケーア公会議と325年の年代を覚えよう!》を開いて、アタナシウス派を正当教義とし、キリストの神聖を否定したアリウス派が異端とされた《アタナシウス派は父なる神・子なるキリスト・聖霊の3者に違いは〈ナシ〉といい、アリウス派は〈アリ〉としたのである》。アタナシウス派の説は、のち三位一体説として確立し、一方ローマを追放されたアリウス派はゲルマン人の中にひろまった。
▲The Humiliation of Valerian by Shapur
●イラン(ササン朝)
The Battle of Edessa took place between the armies of the Roman Empire under the command of Emperor Valerian and Sassanid forces under King of the Kings Shapur I in 260.
The Roman army was defeated and captured in its entirety by the Persian forces and for the first time in Rome's military history against a foreign enemy their emperor was taken prisoner.
踏む俺シャープ エデッサで。
260年 シャープール1世 エデッサの戦い ササン朝
260年、ササン朝ペルシア2代の王、シャープール1世はローマの軍人皇帝ヴァレリアヌスをエデッサで破って捕ら、対ローマ戦で優位を占めた。以後ローマ世界は僭称皇帝の乱立・領土の分裂などでその混迷を一層深めてゆくこととなる。