第1問
次の資料は、エジプト遠征のオラービー(ウラービー)革命を支援し、イギリス政府の政策に反対したイギリス人外交官W.S.ブラントが著した『ハルツームのゴードン』(1911年)からの抜粋〔A〕〔B〕、および同書に収められたブラントとゴードン宛書簡〔C〕である。ゴードンは、中国、エジプトなどで任務につき、スーダンで戦死したイギリスの軍人である。
この文章を読んで、以下の問に答えなさい。〔60点〕
〔A〕 若くして軍に入ったゴードンは、(クリミア戦争における)セバストポール攻囲で初陣を飾った。
戦争の終結後、(ルーマニアの一地方である)ベッサラビア及びアルメニアの境界決定委員会の一員としてトルコに残った。
これがイスラム教徒の暮らす東方での彼の最初の経験となった。
1860年、彼は中国でイギリス軍に合流し、(1)北京攻略に参加した。
このあともまた、特殊な任務を与えられて、この地にとどまることになった。
当時、[ (2) ]軍に脅かされていた上海の防衛のために、ヨーロッパ人将校を戴く清朝軍が組織されており、その指揮がゴードンに委ねられたのである。
(イギリス軍の)士官の許可も下りたので、彼は外国の軍務につき、中国皇帝のもと、29歳の若さでアジア人の軍隊を指揮することになった。
彼の軍事上の権限は事実上絶対的なものだったので、彼は最高の戦術を駆使し、一身を顧みない勇気を発揮して、[ (2) ]軍を打ち破り、中国でも最も豊かな地方一つと、最も人口稠密(ちゅうみつ)ないくつかの都市とを清朝政府の手に返すことに成功した。
この大功に感謝した皇帝は彼に数々の栄誉を与えた。
もしゴードンにその気さえあれば、彼は金持ちになれただろう。しかし、富に対してあっぱれな侮蔑の念を抱いていたゴードンは規定の俸給以外は受けとろうとせず、仕事が済むとそのままイギリスへ帰っていった。
本国では通常の任務に戻り、それ以上イギリス政府に何かを要求したりもしなかった。(その後、ゴードンは、エジプト、スーダンでの任務につく。)
〔B〕 スーダンの反乱は下エジプトのそれときわめて類似したものだった。
どちらも二重の性格を備えていた。長い失政に対する民衆の自然な反乱として始まり、のち、キリスト教ヨーロッパが圧制者を支持し、民衆の敵として介入してくるに及んで、宗教的色彩を帯びたのである。
両者の唯一の相違は、エジプト遠征において改革を担ったのは(3)啓蒙された人々、イスラムのより人道的・革新的側面を代表する人々だったのに対し、スーダンにおける改革者たちは復古的・狂信的だったという事実である。
1882年にイギリス政府がエジプトで犯した大きな過失の最悪の点は、それがエジプト一国の自治の希望を粉砕したこと以上に、武力干渉という背信の一撃によって、世界中のイスラム教徒のリベラルな抱負の息の根をとめてしまったことに求められるべきである。
信心深くはあったが、狂信的イスラム教徒の地──キリスト教世界の侵略を警戒し、最も安全な拠りどころとして立憲改革に望みを託したすべてのイスラム教徒の地──を代表していた。そしてまさにこの改革の指導者を、立憲国家である(4)自由党政権下のイギリスは打倒することを選んだのである。だとすれば(イギリス軍にオラービーの軍が敗れた)タッル・アル・カビールの戦いが、すべてのイスラム教徒の地で改革への打撃、反動への拍車として受け止められたとして何の不思議があろう。
即座にコンスタンティノープル(イスタンブル)では、全権力が(5)スルタン・アブデュル=ハミト2世の狂信的徒党の手に落ち、立憲政党とリベラルな宗教政党の残党をスルタンが粉砕することが可能になった。
イランでも同様に反動的現象が生じ、北アフリカにおいては宗教思想の性格全体がキリスト教徒に対する苛烈で激しい憎悪に刻印されるという影響が現れた。
すでにフランスのチュニス侵略は戦闘的宗教団体サヌーシーアの反攻を引き起こしていた。イギリスのエジプト侵略が、スーダンにムハンマド・アフマドがマフディーとして出現するという事態を引き起したのである。
〔C〕
親愛なるゴードン将軍へ 1884年1月24日 デリー
あなたのスーダン行きの件について筆をとる義務を感じました。
今日の電報で知ったのですが、それには派遣の目的は記されていませんでした。しかし、もっとはっきりしたニュースが入るまで待っている余裕はありません。
今、警告を発したいと思います。あなたはマフディー勢力と駐在エジプト・イギリス軍との間に和を結び、(マフディーに対して)スーダンの主権を認め、(イギリス軍に対して)ハルツーム撤収の手配をするために行かれるのかもしれません。それなら幸運をお祈りするだけです。良い仕事ですから、成功なさるでしょう。
しかし、もしあなたの派遣の目的が──政府の一部のひとびとの習性から考えて私が懸念するように──スーダンを一部なりともエジプト副王(エジプトの世襲制総督)の手に残すために部族の分断を図り、兵を募り、金をばらまくことならば、悪い仕事ですから失敗なさるでしょう。それは避けがたい必然なのです。勇気も、意図の誠実さも、これまであなたを導いてきた霊感も、あなたに成功をもたらすことはできますまい。
私は自分の持ち合わせている知識から、エジプト、(6)北アフリカ、及び(7)アラビア半島のすべての誠実なイスラム教徒はマフディーの大義に共鳴している、と申し上げることができます。
むろんみんながみんな、マフディーの神聖な使命を帯びた人物だと信じているわけではありません。しかし、彼らは自由、正義、信仰に基づく統治といった──彼らが神聖視している──概念を代表するものとしてマフディーにこころを寄せているのです。それゆえ逆にあなたの側につくのはよこしまな人々、あなたをすぐに裏切るような手合いばかりということになります。くれぐれも用心なさってください。イギリス人とアラブを結びつけていた古い共感の絆に期待なさってはいけません。あれはもう過去のものなのです。今となってはあなたの名声とても身の守りとはなりません。また、あなたが亡くなられた場合のことも考えて下さい。(8)必ずや復讐を求める声がイギリスで上がり、征服戦争を企てる者たちに絶好の口実を与えることになるでしょう。考えることも忌まわしいことですが、あなたを今送り出そうとしている人々の中に、すでにそこまで計算済みの者がいないとも限らないのです。杞憂だとしたら失礼をお許し下さい。昨年の楽しい思い出もあり、友として一筆、差し上げました。
ウィルフリッド・スカーウェン・ブラント
(W.S.ブラント『ハルツームのゴードン──同時代人の証言』栗田禎子訳、リブロポート、1983年より抜粋。ただし、一部を改め、( )の部分を補足した。)
問1 下線部(1)にある北京攻略が起きた戦争の名を答えなさい[5点]
問2 空欄[ (2) ]に入る適切な語を答えなさい。[5点]
問3 下線部(3)のようなイスラム改革運動を先導し、オラービー革命にも強い影響を与えたイラン出身の人物の名を答えなさい。
問4 下線部(4)について、このときのイギリスの首相の名を答えなさい。[5点]
問5 下線部(5)の時期にはオスマン帝国では憲法が停止された。
この憲法を作成したオスマン帝国の政治家の名を答えなさい。[5点]
問6 下線部(6)において、1863年にオスマン帝国により再征服され、その後イタリア支配を経て、1951年に独立した国の名を答えなさい。[5点]
問7 下線部(7)において、18世紀以来影響力をもってきたイスラム教スンナ(スンニー)派の一派の名を答えなさい。[5点]
問8 下線部(8)でブラントが予想するように、まもなくイギリスはスーダンを制圧し、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割は加速していく。
次の図(1)(2)は1870年代半ばと第一次世界大戦時のアフリカにおけるヨーロッパ4ケ国の植民地支配の状況を示したものである。このうち、で示された地域を植民地として支配した国(A)、で示された地域を植民地として支配した国(B)の名を答えなさい。[5点]
(1) アフリカにおける植民地支配(1870年代半ば)
(2) アフリカにおける植民地支配(第一次世界大戦時)
問9 ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割の過程を、400字以内で説明しなさい。その際、以下の語句を必ず使用し、用いた箇所すべてに下線部を引きなさい。
なお、以下の語句のうち「ベルリン会議」とは「ベルリン西アフリカ会議」とも呼ばれ、1884~85年に開催されたものを指す。[20点]
アドゥワの戦い コンゴ自由国 ベルリン会議 南アフリカ戦争 英仏協商
第1問
問1 「北京攻略が起きた戦争」は、下線部の前の文に「1860年、彼は中国でイギリス軍に合流」とあるので、1856年から始まっている戦争です。この戦争に参加した後で、ウォードが戦死したため李鴻章に請われてイギリスはこのゴードンを[ (2) ]の指揮官に任命しました。
問2 これは後の文の中に「脅かされていた上海の防衛のために、ヨーロッパ人将校を戴く清朝軍……清朝政府の手に返す」とあるように清朝側に立って戦う軍隊です。もともとはウォードがつくった当時の名前は洋槍隊でしたが、勝利つづきで常勝軍と呼ばれるようになった軍隊です。
この常勝軍は、当時上海に来ていた高杉晋作がその活躍に注目して「奇兵隊」をつくることになった鉄砲隊です。高杉の上海訪問記である『遊清五録』は一橋の過去問(1994-3)に引用されました。
清朝はこの常勝軍のような軍隊をつくりたいとこの後で洋務運動を始めることになります。
問3 「オラービー革命にも強い影響」だけでなく、何より「イラン出身」なのでイランのタバコ・ボイコット運動に影響を与えています。
イラン出身といいながら自らはアフガン人(アフガーニー)を自称し、パン=イスラーム主義を提唱した人物です。
イスラーム世界の啓蒙家といえばこの人。
問4 「イギリスの首相」は「自由党政権」であるとあるので、当時の二大政党政治の中ではグラッドストン自由党内閣がありました。自国の対外政策に批判的な文章の書き手が、「立憲改革に望み……改革の指導者を、立憲国家である自由党政権下のイギリスは打倒する」と指摘しています。
自らは民主主義と誇っても、アジア・アフリカに民主主義は要らない、と考えるのが傲慢な欧米人の思考です。
もっともゴードンはハルツームに行ってから戦死しますので首相は非難の嵐にさらされます。
というのは鎮圧に向かったゴードンはマフディー軍によってハルツームに閉じ込められ、1885年1月戦死したのですが、援軍が来る48時間前でした。
首相が援軍派遣を渋ったための死であると非難されます。当時のミュージック・ホール(大衆酒場)で流行った歌はこうでした。
スーダンのずっと奥地、ハルトゥームで見捨てられた、一万もの軍隊に立ち向かったひとりの男が。
彼はイギリス人だった。
一年近くも、全世界が彼を見守り、そして彼を誉めたたえた。
イギリス人よ、考えてごらん、そしたらゴードンの死の意味がわかるだろう、
(コーラス)
遅すぎた、彼を救うには遅すぎた、救おうとしたけど遅すぎたのさ、彼は愛する人びとのために戦って、英雄になって死んだんだ。
遅すぎた、でもゴードンの物語は、不朽の魅力を放つのさ。彼はイギリスの栄光のために死んだ。彼はイギリスの心に生きている!
この歌の内容からイギリス人ののぼせあがった愛国心があらわに表現されてます。グラッドストンを「ゴードン殺し」と非難する歌も流行りました(井野瀬久美著『大英帝国はミュージック・ホールから』朝日選書)。
問5 「政治家の名」はこの「スルタン・アブデュル=ハミト2世」と似た名前です。2人の名前をくつけて「ミドハミト」と覚えます。スルタンは、列強の内政干渉や国内の立憲運動を避けるためにミドハト=パシャを必要としたのであり、パシャは40日足らずで罷免され、前々帝の死因をめぐって死刑の宣告を受けましたが、のちに減刑され、メッカの南東のターイフに幽閉されました。
しかし結局は殺されました。露土戦争を口実に停止されたミドハト憲法は、いずれ青年トルコ革命で復活します。1876年 〈ミドハト憲法の制定〉★
問6 イタリアとオスマン=トルコがかかわったところはどこか?
伊土(イタリア・トルコ)戦争が想起できたらリビアだと分かるか? また「イタリア支配を経て、1951年に独立した」でリビアだと分かればいいものの(ホワイト・アフリカ最初の独立)、「1863年にオスマン帝国により再征服」で分かるのは難しい。リビア東部(キレナイカ)にサヌーシー教団があり、自立をめぐる争いがあったことを指しています。
問7 ヒントは何より下線部の「アラビア半島」、そして「18世紀以来」です。現在のサウディアラビア王国の宗派でもあります。
問8 ぱっと見で分かりにくいですが、よくよく見ると見えてきます。フランスの植民地はアルジェリアから始まる(1830)ので、地図(1)で、フランスのすぐ南にある北アフリカの海岸を見れば薄いグレーの位置がアルジェリアであり、それは地図(2)でも西アフリカ全体が同じ色で塗られていることから、フランスの植民地だと確かめられます。
また(1)の南端にある濃いグレーの位置は南アフリカであり、地図(2)の濃いグレーがアフリカを縦断していることから、イギリスの植民地だと判断できます。
残る(A)格子縞(こうしじま)が地図(1)で沿岸線にあちこちあることと、(B)横線のところが(1)ではほとんどなく、(2)で4箇所あらわれること、つまり植民地をもったのが遅い国だと推理できます。つまり(A)ポルトガル (B)ドイツ (C)イギリス (D)フランスです。
センター試験でも出題されるので、とくにアフリカの位置は覚えておくといいです。特にドイツの植民地はみなバラバラにつながらない形で散らばっています。拙著『センター世界史B各駅停車』(パレード)では、「ドイツのアフリカにおける植民地はばらばら」と地図とともに説明しています。中部ではカメルーンをもっていました。このカメルーンから見まわして、ドイツの他の植民地は西の細い縦長のトーゴ、南の南西アフリカ(現ナミビア)、東の東アフリカ(現タンザニア)の4つです。今年(2012)の東大の問題に植民地政策とその後の動向の「差異」を求めたものがありました。見ておくと勉強になります。ポルトガルの特異性も説明しています。
問9 400字論述の課題は「ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割の過程」でした。
指定語句5つは難しいものはありませんが、それぞれどの国がどの地域を分割、植民地化したのか記していくことが課題です。
指定語句にない事柄は、アフリカ全体を網羅するように地図を参考に描くとすれば、フランス・オランダが欠かせません。
ポルトガルが先陣を切ったことを説明した後は、「十」字で行くのが書きやすいでしょう。まずヨコのフランス横断政策から。
アルジェリアをとり、この地の隣にあたる西のモロッコ、東のチュニジアをとり、サハラに南下してマリ・ニジェール・チャドなどを植民地化していきます。東部の港ディプチ(ジブチ)と大きい島マダガスカル。
縦断政策のイギリスは何よりエジプトから南下してスーダンに行くと、西から来るフランスとファッショダ事件を起こしますがフランスが譲歩して南下をつづけました(この事件から英仏は友好の方向に向かい、英仏協商を結びます)。スーダンの南のケニアも得ます。
南からはオランダのケープ植民地を奪い(ウィーン会議)、南アフリカ戦争でトランスヴァール共和国・オレンジ自由国をとって南アフリカ連邦を構成し、ローデシア(ザンビア・ジンバブエ)を取りました。
イタリアはエチオピアを取るために戦争(第一次エチオピア戦争)を起しましたがアドゥワ(教科書ではアドワ)の戦いで敗北(1896)、第二次はムッソリーニが毒ガスを使って征服に成功します。伊土戦争でイタリアがリビアを取ることはすでに出てきました。
ベルギーが唯一植民地化したのがアフリカのど真ん中コンゴ川流域のコンゴです。初めはスタンレーに探検させて「国際アフリカ協会」という学術団体のような名前で始め(1876)、アフリカ分割のためのベルリン会議後はコンゴ自由国という自由のない国にし、国王レオポルド2世への非難が国際的に高まると、ベルギー政府の管理するベルギー領コンゴ(1908)と改めました。
スタンレーも出席したアフリカ分割のベルリン会議(1884-85」)はベルギーのコンゴ領有をめぐる紛争がおき、ビスマルクが調停のために開いた会議でした。このときにアフリカ分割の原則である先占(早いもの勝ち)の原則が決まります。アフリカのひとが誰もいない盗賊会議でした。
この会議の頃がドイツもアフリカに進出をさかんにした時期でした。ビスマルク辞任の後は、モロッコをめぐってドイツ(ヴィルヘルム2世)が徴発して2回のモロッコ事件(1905,11)をおこしますが、英仏と協商側の結束を固める役割を果たします。
北部・西部・東部・南部と地域毎に描いたり、ナイル川・ニジェール川・コンゴ川・ザンベジ川と流域毎に描くこともできます。
[解答]
第1問
問1 アロー戦争
問2 太平天国
問3 アフガーニー
問4 グラッドスト(ー)ン
問5 ミドハト=パシヤ
問6 リビア
問7 ワッハーブ派
問8 ボルトガル、ドイツ
問9 フランスは1830年にアルジェリアを植民地にしたのをかわきりに、この地の隣にあたる西のモロッコ、東のチュニジアをとり、サハラに南下してマリ・ニジェール・チャドなどを植民地化していき、アフリカを横断する形で支配を進める。イギリスはエジプトから南下してスーダンに行くと、西から来るフランスとファッショダ事件を起こしますがフランスが譲歩して南下をつづけた。この事件から英仏は友好の方向に向かい、英仏協商を結ぶ。
ベルギーが唯一植民地化したのがコンゴであった。初めはスタンレーに探検させて「国際アフリカ協会」という学術団体のような名前で始め(1876)、アフリカ分割のためのベルリン会議後はコンゴ自由国という国にし、国王レオポルド2世への非難が国際的に高まると、ベルギー政府の管理するベルギー領コンゴ(1908)と改めました。
スタンレーも出席したアフリカ分割のベルリン会議(1884-85」)はベルギーのコンゴ領有をめぐる紛争がおき、ビスマルクが調停のために開いた会議であった。このときにアフリカ分割の原則である先占の原則が決まりる。アフリカのひとが誰もいない盗賊会議でした。
この会議の頃がドイツもアフリカに進出をさかんにした時期でした。ビスマルク辞任の後は、モロッコをめぐってヴィルヘルム2世が2回のモロッコ事件(1905,11)をおこしますが、英仏と協商側の結束を固める役割を果たします。
アドゥワの戦い コンゴ自由国 ベルリン会議 南アフリカ戦争 英仏協商
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