第1問
歴史上、異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。
たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。
そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった。
13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動きを、解答欄(イ)に17行以内で論じなさい。
その際に、次の8つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。
インド 医学 アッバース朝 イブン=シーナ一 代数学 トレド シチリア島 アリストテレス
2011年のコメント
第1問
p.116-125 (これらのページは余りにデータが豊富なので、学問を省いて生活様式の多様化・変容にあたるものだけ抽出) ガザン=ハンは、地租を中心とするイスラーム式の税制を導入し……ムスリム商人は、奴隷や香辛料の交易にたずさわるばかりでなく、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きな役割をはたした。……イスラーム勢力の進出により、初期には仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用される例もあった。しかし、現実の統治でイスラーム教が強制されることはなかった。イスラーム信仰は、神への献身を求めるバクティや苦行をつうじて神との合体を求めるヨーガ信仰とも共通性があったことから、都市住民やカースト差別に苦しむ人びとのあいだにひろまった。ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設され、あるいはインドのサンスクリット語の作品がペルシア語へ翻訳されるなど、インド=イスラーム文化が誕生した。……やがてこの海岸地帯では、アラビア語の影響をうけたスワヒリ語が共通語としてもちいられるようになった。……各地の都市には軍人・商人・職人・知識人などが住み、信仰と学問・教育の場であるモスクや学院(マドラサ)、および生産と流通の場である市場を中心に都市生活が営まれた。またイスラーム帝国の成立によって、これらの都市を結ぶ交通路が整備され、このネットワークをつうじて新しい知識や生産の技術が短期間のうちに遠隔の地へ伝えられたことが特徴である。
p.139-140 7世紀以降異民族の侵入に対処するため、帝国をいくつかの軍管区にわけ、その司令官に軍事と行政の権限をあたえるという軍管区制(テマ制)がしかれ、中央集権化がすすんだ……学問の中心はキリスト教神学で、聖像崇拝論争などがたたかわされた。
p.157 ビザンツやイスラーム圏からもたらされたギリシアの古典が、ギリシア語やアラビア語から本格的にラテン語に翻訳されるようになり、それに刺激されて学問や文芸も大いに発展した。これを12世紀ルネサンスという。スコラ学はアリストテレス哲学の影響をうけて壮大な体系となり、トマス=アクィナスにより大成されて教皇権の理論的支柱となった。イスラーム科学の影響も大きく、実験を重視するロジャー=ベーコンの自然科学はのちの近代科学を準備するものであった。
p.163-164 カイロのムスリム商人も、シリア・北アフリカ・イベリア半島の海岸都市に代理人を派遣し、これらの地中海都市を結んで香辛料・砂糖・紙・穀物などの取引にたずさわった。また、11~13世紀には、十字軍とムスリム軍との戦争にもかかわらず、地中海を経由して先進的な知識や技術がイスラーム世界からヨーロッパにもたらされた。医学・哲学・数学・化学などのアラビア語の著作はつぎつぎとラテン語に翻訳され、ヨーロッパ近代科学の誕生に大きく貢献した。さらに、イスラーム教徒が中国から学んだ製紙法・羅針盤・火薬なども、シチリア島やイベリア半島を経由してヨーロッパに伝えられた。高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった。
[解答]
第1問
インド 医学 アッバース朝 イブン=シーナ一
代数学 トレド シチリア島 アリストテレス
アッバース朝時代には、イラン人を中心とする新改宗者が要職につけられ、官僚制度が発達し、行政の中央集権化がすすんだ。
11世紀末、イベリア半島のトレドではキリスト教国カスティリャによる征服以降はイスラーム文化の西欧移入の拠点となり、12~13世紀には医学・哲学・数学・化学などのアラビア語の文献のラテン語への翻訳がさかんに行われた。
ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」は、トレドにおけるキリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒の共存と異文化交流がもたらした実りを抜きにしてはあり得なかったのである。 イブン=シーナ一は医学 イブン=ルシュドはアリストテレス哲学を紹介した。
アリストテレスが認めていなかった流出論を主張するなど、彼の思想はアリストテレス主義から数歩踏み出していたものであったため、しばしばよりアリストテレスに近い思想のイブン・ルシュドと比較される[69]。しかし、思想の根本ではアリストテレスの思想を継承していた[70]。後進のトマス・アクィナスよりもアリストテレスの手法に忠実であり、そのためにアリストテレスの思想をイスラム文化に根付かせることができた[71]。
イブン・スィーナーの存在の研究は弟子のバフマンヤール・イブン・アルマルズバーンらに引き継がれ、モッラー・サドラーら後期イスラーム思想家が発展させた[59]。
医学
イブン・スィーナーは医学を物理学から派生した学問と見なし[64]、医学を障害を取り除くことで本来の機能を回復させる技術と考えていた[72]。彼は自著において健康と病の原因を究明し、結果に応じて健康の保持と回復の手段を決定する必要があると述べた[73]。
イブン・スィーナーは医術の実践よりも理論面を得意とし[74]、臨床医学に必要とされる知識を『医学典範』にまとめ上げた[74][75]。イブン・スィーナーはギリシャの医学者ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させたが、解剖学の分野など、時代的な制限からガレノスと同じ誤りを犯した部分も存在する[76]。イブン・スィーナー独自の発見としては、新たな薬草、アルコールを使った腐敗の防止、脳腫瘍と胃潰瘍の発見などが挙げられる[77]。
ガレノスだけでなく、イブン・スィーナーは哲学の師であるアリストテレスの説いた四大元素説を理論医学に応用するなど、彼の理論を『医学典範』において活用している[32][78]。しかし、哲学と医学の領域、役割を明確に区別しており、他の医学者にも自らの領分を守るよう戒めた[78]。また、ガレノスやアリストテレスら西方世界の医学論のほかに、イブン・スィーナーの医学論は古代インド医学の流れも汲むとする意見もある[79]。
イブン・スィーナーは古代ギリシャ世界の影響を受けながら音楽理論を研究し[80]、健康の保持には音楽が最も効果的であると考えるに至った[56]。『アラー・ウッダウラのための学問の書』内の音楽論を述べた部分では、ペルシア語を使って初めて音楽の調子を表記した[81]。イブン・スィーナーの音楽論の基礎は当時実際に演奏されていた音楽にあった[82]。
イブン・スィーナーは医学論を人間の行動の研究にも適用したことから心理学の開拓者の一人にも数えられ[72]、『医学典範』の中で精神療法を実施したことを述べている[83]。彼は恋煩いを治療する名医としても知られ、当時の医学の手法に従って恋煩いにかかった患者の脈を計り、脈拍数に乱れがあることを確認した[84]。しかし、精神に属する「理性」と脳のはたらきを関連付けようとはしなかった[85]。
自然科学
イブン・スィーナーは自然科学の研究にあたって先人の研究を利用するとともに、独自の手法で理論を発展させた[86]。観察と実験によって探究を試みる手法はヨーロッパ世界に大きな影響を与え、ロバート・グロステストやロジャー・ベーコンらが行った実験科学の発展に大きな役割を果たした[87]。
ユークリッドの『原論』の最初の2つの公準について定式化を行い、アラビア世界におけるユークリッド解釈の道を開いた[88]。また、ギリシャ世界では自然数のみにとどまっていた数の概念を、正の実数に相当するものにまで広げた[88]。ユークリッド解釈はナスィールッディーン・トゥースィー、数の概念はウマル・ハイヤームに、後世のアラビア世界の科学者に継承される[88]。
占星術に対しては批判的な見解をとっていたが、天体が全ての自然物に影響を与えている観念は認め、天体の影響は人知を超えていると考えていた[89]。アストロラーベに代わる観測器具を考案したが、彼が考案した器具には16世紀に考案されたノニウスの原理が初めて用いられていると言われている[90]。イスファハーン時代には天文台の設計に携わり[91]、その時にプトレマイオスが発明した観測装置の問題点を多く指摘した[92]。
『治癒の書』に収録されている「天体地体論」においては大地が球体であることを様々な方法で論証し、中世キリスト教世界の地球観に影響を与えた[90]。同書に収録されている「気象学」は地理、気象、地質学について述べた章であり、造山運動の説明など、一部には近代の地質学との類似性が見られる[93]。ホラズムでは隕石を溶かして成分を分析しようと試みたが、灰と緑色の煙が生じただけで、金属質が溶けたと思われる物体は残らなかったと記録を残している[92]。
イブン・スィーナーは錬金術についても、否定的な立場をとっていた[94][95]。全ての金属は起源を一にする錬金術者たちの考えは誤りであり、金属はそれぞれ独立した種であるため、その種類を変える方法は存在しないと主張した[95]。この主張はロジャーベーコン、アルベルトゥス・マグヌスらヨーロッパの学者にも影響を及ぼし、彼らは錬金術における金属転換の考えに批判を行った[95]。
一方でイブン・スィーナーは神秘主義的な思考も持ち合わせ、夢判断を肯定して本を著し、奇蹟や超自然現象にも関心を示していた[96]。