次の文の( )に適当な語句を記入し、また、下線部についての問に答えよ。
ヨーロッパ人が最初に日本に来たのは、1543(天文 12)年にポルトガル人を乗せた商船が( ア )に漂着したときであり、このとき鉄砲が伝えられた。
その後、ポルトガル人は毎年のように九州の諸港に来航し日本との貿易を行った。またスペイン人も 1584(天正 12)年に平戸に来航し貿易を開始した。
当時の日本では①ポルトガル人やスぺイン人を( イ )と呼んだ。
そして、その貿易を( イ )貿易と呼び、キリスト教の布教活動と一体化して展開された。
大名のなかには貿易を望んで宣教師を保護するとともに布教活動に協力し、なかには洗礼を受けるものもいた。
秀吉は、当初キリスト教の布教を保護していたが九州に出兵したさいに②長崎がイエズス会の領地になっていることを知り、1587(天正 15)年に( ウ )で( エ )を発令し、宣教師の 20 日以内の国外退去を命じるなど禁教の方針に転じた。
しかし、京都・堺・長崎・博多の豪商に渡航許可書を与えて保護し、貿易については奨励する方針をとったため、禁教は徹底せず、キリスト教はなお各地にひろがっていった。
秀吉は国内統一を成し遂げると、衰退した明に代わって、日本が東アジアの中心となることを図り、海外への進出を企てた。秀吉は対馬の宗氏をとおして朝鮮に対し日本への朝貢と明出兵の先導を求めた。
朝鮮がこれを拒否すると③秀吉は肥前の名護屋に本陣を築き、朝鮮に15万余りの大群を派兵した。
日本軍は釜山、漢城そして平壌を占領したが、( オ )に率いられた朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の後端などのために次第に戦局が不利になっていった。
そのため秀告は、明との講和を図って休戦したが、交渉が決裂したため再び出兵した。
しかし日本軍は最初から苦戦を強いられ、翌年秀吉の病死により撤退した。
二度の侵略は朝鮮の人々に多くの被害を与えた。そのうえ撤兵のさいに、仏像や金属活字などの文化財を略奪するとともに④製陶技術者や学者をはじめ多くの民衆を日本に連行するなどして多大な苦痛を与えた。
また国内では膨大な戦費と兵力を費やした結果、豊臣政権は急速に農退していくこととなった。
家康は、朝鮮とは対馬の宗氏を通じて国交の回復をすすめ、1607(慶長 12)年に⑤朝鮮使節が来日した。
さらに1609(慶長 14)年には宗氏が朝鮮との問に( カ )を結び朝鮮外交上の特権的地位や釜山における倭館の設置が両国によって認められた。
琉球では 15 世紀以来、尚氏が王国をたてていたが、1609 年に薩摩藩の( キ )が幕府の許可を得て出兵し、これを支配した。
薩摩藩は尚氏を石高8 万9000 石余の王位につかせることによって、独立した王国の姿をとらせて中国との朝貢貿易を継続させ、中国からの物資を独占的に入手して利益をおさめた。
琉球は国王の代がわりごとにその承認を感謝する( ク )を、将軍の代がわりごとにそれを奉祝する慶賀使を幕府に派遣した。
蝦夷地では、その南端を支配する( ケ )氏が( コ )氏と改称し、1604(慶長 9)年に家康からアイヌとの交易独占権を保証され、藩制を敷いていた。
和人の商人は、わずかな米などを大量の海産物と交換、して大きな利益をあげていたため、不満をもったアイヌは 1669(寛文 9)年に( サ )の呼びかけで( コ )藩と戦ったが、敗北し、その後は全面的に服従することとなった。
問1 これに対して、オランダ人やイギリス人を何と呼んだか。
問2 長崎をイエズス会の教会に寄進したキリシタン大名は誰か、その氏名を記せ。
問3 この戦いを何というか。また、朝鮮側ではこの戦いを何と呼んでいるか。
問4 鍋島氏が連れ帰った朝鮮陶工の手で興され、のちに酒井田柿右衛門によって赤絵の技法が完成された焼物は何か。
問5 この使節を一般に何と呼んでいるか。
[解 答]
ア 種子島 イ 南 蛮 ウ 博 多 エ バテレン追放令 オ 李舜臣 カ 己酉約条 ( 慶長条約 ) キ 島津家久 ク 謝恩使 ケ 蠣崎 コ 松前 サ シャクシャイン
問1 紅毛人 問2 大村純忠 問3 文禄の役・壬辰の倭乱 問4 有田焼 問5 回答兼刷還使(「一般に」なので朝鮮通信使も可)