元元聖孝淳称光
[ポイント]
1.歴代天皇は元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳→光仁とつづく。
[解説]
1.元明天皇の在位中の710年に平城京に遷都。
2.元正天皇の在位中に、718年に養老律令制定、722年に百万町歩開墾計画、723年に三世一身法を発布。
3.聖武天皇は、国分寺を造営、東大寺盧舎那大仏を造立(建設中の紫香楽の地で詔743年、開眼752年「馴染みで/ごっつい大仏」)。皇后は藤原光明子。治世中に長屋王、藤原四子、橘諸兄と政権が推移。
4.孝謙天皇の治世下に藤原仲麻呂(恵美押勝)が政権を掌握。仲麻呂は淳仁天皇を立てる。
5.孝謙上皇は道鏡を寵愛し、恵美押勝・淳仁天皇を退け重祚し、称徳天皇となる。
〈2016立教大・現心社コミュ福
問5.この人物聖武天皇に関する記述として正しくないのはどれか。
a.元明天皇の譲位により724年に即位した
b.皇后の光明子は藤原不比等の娘である
c.749年に孝謙天皇に譲位した
d.文武天皇の子である」
(答:a)
〈2015早大・商
次の文章を読んで、下記の設問(A~J)に笞えよ。解答はもっとも適当なものを1つ選び、解笞記入欄のその番号をマークせよ。もし、適当なものがなければ6をマークせよ。
奈良時代の天皇の歴史についてみてみよう。
天武天皇の子として生まれたイ草壁皇子は、将来を嘱望されながら、若くして世を去った。そこで、天武の皇后であった持統天皇が即位した。彼女は、草壁皇子の子である軽皇子に期待し、彼が15歳になると皇位を譲った。文武天皇である。しかし、その文武天皇も病弱であり、即位後10年程で亡くなってしまう。だが、文武と[ ロ ]の間に生まれた首皇子はまだ年若い。そこで、文武の母がハ元明天皇として即位し、ついで、文武の姉妹であった元正天皇も皇位に就いた。二代続けてのニ女帝である。
やがて、首皇子が成長すると、ホ聖武天皇として即位した。聖武の皇后は、へ藤原不比等と ト.県犬養三千代の間に生まれた光明子であった。二人の間に待ちに待った男子が誕生したが、まもなく夭逝し、女子のみが成長した。阿倍内親王、後の孝謙天皇である。彼女は一生不婚でチ淳仁天皇をはさんで再び即位し、称徳天皇となった。
しかし、ここで聖武・光明子の系譜d途絶えた。そこで群臣たちは称徳天皇亡き後、白壁王を擁立した。リ光仁天皇である。」
問A 下線部イ草壁皇子のライバルであり、謀反の疑いをかけられて自殺した人物は誰か。
1.山背大兄王 2.有馬皇子
3.大津皇子 4.舎人親王
5.高市皇子
(答:3 ※高市皇子は母が皇女でなかったため、ライバルではなかった。)
問B 空欄ロにあてはまる人物は誰か。
1.藤原宮子 2.藤原明子
3.藤原薬子 4.藤原順子
5.藤原威子
(答:1)
問C 下線部ハ元明天皇の時の出来事として誤っているものはどれか。
1.平城京に遷都した。
2.『日本書紀』が完成した。
3.和同開称を鋳造した。
4.『風土記』の作成を命じた。
5.蓄銭叙位令を出した。
(答:2 ※元明天皇(707~15 ※15年からは元正、「正」の字に着目)、遷都710、日本書紀720、和同開珎710、風土記の編集命令713、蓄銭叙位令711)
問D 下線部二女帝に関連して、女帝の組み合わせとして正しいものはどれか。
1.舒明-斉明
2.欽明-斉明
3.欽明-推古
4.敏達-皇極
5.舒明-皇極
(答:6)
問E 下線部ホ聖武天皇が遷都した順番が正しいものはどれか。
1.難波-紫香楽-恭仁
2.難波-恭仁-紫香楽
3.紫香楽-恭仁-難波
4.恭仁-紫香楽-難波
5.恭仁-難波-紫香楽
(答:5※恭仁京(740~44)→難波宮(744)→紫香楽宮(742離宮建設、743大仏造立の詔、744遷都→平城京還都(745~84) 国知れ何よ しかし閉口。)
問F 下線部ヘ藤原不比等について述べた文として誤っているものはどれか。
1.大宝律令の編纂に参加した。
2.平城京遷都に尽力した。
3.藤原鎌足の子であった。
4.東大寺建設に尽力した。
5.養老律令編簒の中心となった。
(答:4 ※不比等(659~720)、745聖武天皇が発願)
問G 下線部ト県犬養三千代のもう一人の子は誰か、
1.吉備真備 2.橘奈良麻呂
3.玄昉 4.石上宅嗣
5.橘諸兄
(答:5)
問H 下線部ト.県犬養三千代に関わりの深いと伝えられているものはどれか。
1.法隆寺橘夫人念待仏
2.薬師寺薬師三尊像
3.薬師寺聖観音像
4.東大寺戒壇院四天王像
5.東大寺日光・月光菩薩像
(答:1)
問I 下線部チ淳仁天皇が流されたのはどこか。
1.讃岐国 2.隠岐国
3.佐渡国 4.土佐国
5.淡路国
(答:5)
問J 下線部リ光仁天皇について述べた文として誤っているものはどれか。
1.即位した時の年齢は60歳を超えていた。
2.天智天皇の孫であった。
3.道鏡を観世音寺に流した。
4.桓武天皇の父であった。
5.加墾禁止令を廃止した。
(答:3)
後任幹桓平んぎ嵯淳仁文清和陽非怒り光。
(光仁(こうにん)・桓武(かんむ))(平城(へいぜい)・嵯峨(さが))(淳和(じゆんな)・仁明(にんみよう))(文徳(もんとく))(清和(せいわ)・陽成(ようぜい))
[句意]後任の幹部の丙さんが、純粋な2名にもっと手厚い世話をすることを要請させた、という句。「丙」はA氏や甲氏のように匿名の人を表わしている。
[ポイント]
1.歴代天皇は光仁→桓武→平城→嵯峨→淳和→仁明→文徳→清和→陽成とつづく。
[解説]
1.光仁天皇(位770~781)は天智天皇の孫。62歳で即位。道鏡をしりぞけた藤原百川らがはかって、壬申の乱以後続いてきた天武天皇の血統による皇位継承を廃し、ふたたび天智天皇の皇統へ。
光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠(たかのにいがさ)とのあいだに生まれた桓武天皇が即位した。
光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
2.桓武(位781~806)・平城(位806~809)・嵯峨(位809~823)の各天皇は別項で詳述予定。
3.淳和天皇(位823~833)は、桓武天皇と藤原百川の娘の子。嵯峨天皇の弟。名は大伴(大伴氏は即位の翌日、天皇の名を避け伴氏と改めた)。漢詩文集『経国集』(827)、養老令の官撰注釈書『令義解』(833)をつくるなど文化政策に努めた。
4.仁明天皇(位833~850)は、嵯峨天皇の子。治世中、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としたが、承和の変(842)により、藤原冬嗣の娘順子との間に生まれた道康親王(文徳天皇)が皇太子とされた。
5.文徳天皇(位850~858)は藤原良房の画策により皇太子になったため、その治世は良房の政治介入を避けられなかった。第一皇子をさしおいて、良房の娘明子の生んだ第4皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生後8ヵ月で皇太子に立てられている。
6.清和天皇(位858~876)は、9歳で即位。後見役の藤原良房が事実上の摂政となる。しかし天皇自身も『貞観格式』の編纂にや学問の振興には積極的に関与している。27歳で譲位。
7.陽成天皇(位877~884)はわずか2歳で立太子、10歳で即位。乱行が絶えず、関白藤原基経により病気を理由に廃された。しかし長命で譲位後も65年生きた。『後撰和歌集』に収められた「筑波嶺(ね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」は百人一首にも採録されている。
〈2014早大・人間科学
歴史書の編纂は平安京に遷都した後も継続され,『続日本紀』からf『日本三代実録』まで5つの勅撰の正史が残された。」
問6 下線部f『日本三代実録』に事跡の描かれた3天皇の組合せとして,正しいものはどれか,1つ選べ。
ア 淳仁・称徳・光仁
イ 清和・陽成・光孝
ウ 桓武・平城・嵯峨
エ 淳和・仁明・文徳
オ 宇多・醍醐・朱雀」
(答:イ ※「清」の字。〉
〈2013早大・文
平安時代に入ると、藤原良房が承和の変により、伴健岑・橘逸勢を排除した。また、応天門の変によって伴善男を排斥し、[ C ]天皇の摂政となった。ついで良房の養子の基経が関白となり、摂関政治の基礎を築いた。」
問4 空欄Cにあてはまる人物は誰か。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア醍醐 イ文徳
ウ仁明 エ陽成
オ清和
(答:オ)〉