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室町時代のおもな一揆(5件年代順)

2018-09-03 | Weblog

象徴貼りますカキやカガ。(土一揆(つちいっき))(正磨・嘉吉)(山城加賀

[ポイント]

1.室町時代のおもな一揆は、正長の徳政一揆播磨の土一揆嘉吉の徳政一揆山城国一揆加賀一向一揆の5件。

[解説]

1.正長の徳政一揆(土一揆)(1428)は、6代将軍義教が将軍に決まったとき、近江坂本の馬借が代初めの徳政を要求して蜂起し、これを契機に畿内一帯に波及し、酒屋・土倉・寺院などを破却。幕府から徳政令は出なかったが、この一揆が発生した大和では、興福寺などに迫り私徳政を実現した。大和の柳生郷にその時の徳政獲得を記念した石碑がある。

2.播磨の土一揆(1429)は、国人と土民が「播磨の国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し……侍をして国中にあらしむべからざる」と蜂起。京都から下向した赤松満佑(あかまつみつすけ)が鎮圧。「旧冬の京辺の如く」とあるのは前年冬の正長の徳政一揆を指す。


3.嘉吉の土一揆(土一揆、1441)は、7代将軍義勝が将軍に決まったとき、代始めには徳政令を出すことが正長のときからの先例だとして徳政を要求して蜂起(代始めの徳政)。足利義勝の幕府は、要求の全国一律の徳政(天下一同の徳政)を出し、事態を収めた。以後、幕府が徳政令を頻発し、幕府の権威が失墜する契機となった。


4.山城の国一揆(1485~93)は、南山城の国人・土民らが国人一揆を結成。畠山政長、義就両軍に撤退・寺社本所領の還付・新関の廃止などを要求し成功。宇治平等院で国中掟法を制定、36人(三十六人衆)の月行事による自治支配が8年間おこなわれる。


5.加賀の一向一揆(1488~1580)は、一揆の総勢20万人。守護の富樫政親を敗死させ、約100年にわたって国人・僧侶・農民による寄合が自治支配。「百姓ノ持チタル国」と称された。


[正誤問題]

1.正長の徳政一揆で、幕府は徳政令を発布した。大和の柳生郷にその獲得を記念した石碑がある。(×幕府から徳政令は出ていない)
2.播磨の土一揆は、同国の国人と土民が前年の正長の土一揆にならって、徳政令を要求して蜂起したもの。(×守護赤松氏の家臣を国外へ追放するという政治的要求から蜂起)

〈2016早大・法

問3 奈良市柳生町、旧柳生街道の路傍の磨崖仏の足もとに、国の史跡となっている、徳政一揆に関する農民側の記録の碑文があり、「[   ]元年ヨリサキ者、カンヘ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス。」と読める(句読点は付記した)。[   ]に入る元号は、問題文中に出てくる次の元号うちのどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。

 あ 享徳 い 永仁 う 天保
 え 正長 お 嘉吉

(答:え)〉

〈2014立大・文

正長の徳政一揆に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.近江の馬借の蜂起をきっかけにおこり、土倉・酒屋などを襲って質物や売買・貸借証文を奪った
 b.将軍足利義教が殺されて幕府が動揺している時におこった
 c.畠山氏の軍を国外へ退去させ、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した
 d.本願寺派の勢力を背景とし、門徒が国人と手を結んで守讃富樫政親を倒した」

(答:a ※b×1441嘉吉の土一揆(徳政一揆)、c×1485~93山城の国一揆、d×1488~1580加賀一向一揆)〉

〈2014明大・商(商)):「以下の文章は中世から近代初期にかけての民衆騒擾とその関連事項について記したものである。文章内におけるA~Eの【 】に入る最も適切な語句を1~5から選び、マークし、また[あ~お]の空欄に入る最も適切な語句を解答欄に漢字で記入しなさい。

 諸国の守護大名たちが京都での戦いに明け暮れていた15世紀後半には、荘園制が弱体化し、領国支配の実権はしだいに守護代や国人に移っていった。この結果在地の武士たちの地域的結合である国人一揆が各地で結成されるようになったのである。1485年、南山城地方で両派に分かれて争っていた畠山義就と畠山A【1政長 2重忠 3持国 4義政 5満家】(1442~1493)の軍を国外に退去させた山城の国一揆はその後約8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。この様子を「然るべきか、但し又下極上の至なり」と表現した『[ あ ]』は同27代目門跡の尋尊の日記である。1488年におこつた加賀の一向一揆も浄土真宗本願寺派の勢力を背景に国人と手を結んだ加賀の門徒が守護富樫改親を倒したものであり、その後、一揆が実質的に支配する本願寺領国が約1世紀にわたって続いた。
 一方畿内などの農村でも自治的な惣村が発達し、不法をはたらく荘官の免職や水害・干害の際の年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に強訴したり、逃散するような組織的な行動を取るようになっていった。なかには、一揆の組織にあたり、神仏の前で起請文を燃やし、その灰を飲むことで脱落しないことを誓い合う儀礼を行う地域もあった。一般にこのような儀礼は[ い ]と呼ばれている。
 惣村の結合は時として荘園や郷の境界を超えて大規模化することもあった。この頃、貨幣経済の発達に伴って高利貸資本が庶民の生活を圧迫するようになり、これら資本も一揆の対象となったためである。1428年の正長の徳政一揆(土一揆)はこの典型であり、京都の土倉、酒屋などを襲い、質物や売買貸借証文を奪ったといわれている。奈良県柳生街道にある地蔵尊の巨石にはこの際の農民による徳政宣言文が刻まれており、それには「正長元年ヨリサキ者」から始まるB【1.17 2.27 3.37 4.47 5.57】文字が記されている。これは正長元年より以前に関しては当時春日社領の大柳生、坂原、小柳生、邑地の神戸4ケ郷の「ヲヰメ」はいっさいないと読むことができる。ここでの「負目」には土倉などの金融業者からの借金だけではなく、滞納した年貢に付加される利子なども含まれると考えられており、このために各地の惣村を基盤とした徳政一揆の蜂起がさらに大きな広がりをみせたといわれている。」

(答:A1政長、B2.27、あ大乗院寺社雑事記、い一味神水)〉


上杉禅宗の乱

2018-09-03 | Weblog

1416年 上杉禅宗の乱 上杉氏憲(うじのり)は、4代目鎌倉公方足利持氏との不和で関東管領を辞し、入道して禅秀と号した。
禅秀は、反持氏の満隆(持氏の叔父)と反義持(4代将軍)の義嗣(義満の4男で義持の弟)とらとはかり挙兵したが、義持の幕府軍の来援で敗れた(1416~7年、)。義持と持氏は奇しくも4代目であることを意識。

一死披露へ 禅秀も。

1416年       上杉禅秀の乱 義持 持氏



[ポイント]

1.上杉禅秀は、1416年、挙兵し、持氏および義持に敗れた(上杉禅秀の乱)。

[解説]

1.上杉氏憲(うじのり)は、4代目鎌倉公方足利持氏との不和で関東管領を辞し、入道して禅秀と号した。

2.禅秀は、反持氏の満隆(持氏の叔父)と反義持(4代将軍)の義嗣(義満の4男で義持の弟)とらとはかり挙兵したが、義持の幕府軍の来援で敗れた(1416~7年、上杉禅宗の乱)。義持と持氏は奇しくも4代目であることに注意。


〈2016関西学院大学・全学部

問2.下綿部bに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

 イ 義満は、西国11カ国の守護を兼ねた大内氏の内紛に介入し、大内義弘を滅ぼした。
 ウ 義満は、周防・和泉などの守護を兼ねた山名氏を討伐し、山名氏清を滅ぼした。
 エ 義満は、鎌倉公方に反旗を翻した前関東管領の上杉禅秀を討伐し、これを滅ぼした。 

(答:ア 

1390年(明徳元年)土岐康行の乱 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

いざ暮れる時 休み行き。

1390年 伊勢 土岐康行 美濃    

※イ×大内義弘を滅ぼした(応永の乱、1399年)のは正しいが、11カ国が6カ国の誤り、ウ×山名氏清を滅ぼした(明徳の乱1391)のは正しいが、周防・和泉はイの大内義弘の領地、エ×上杉禅秀の乱(1416~17)は鎌倉公方足利義持を襲った乱、4代義持が救援し禅秀を討った。義持は9歳で将軍になったが、父義満没(1408)後にようやく実権を握っていた)

〈2013早大・国際教養

問6 下線部e(義満が)国釣を秉(と)りが指している事態として最も近いものはどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。

 ア 室町幕府を開設した。

 イ 後醍醐天皇を幽閉した。
 ウ 征西府を設置した。
 エ 太政大臣に就任した。
 オ 上杉禅秀の乱を鎮めた。

(答:エ)〉


足利義満の守護抑圧

2018-09-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

時や名答 応援よ。
土岐康行の乱)(明徳の乱)(応永の乱)
(足利義満

1390年(明徳元年)土岐康行の乱 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

いざ暮れる時 休み行き。

1390年 伊勢 土岐康行 美濃 


[ポイント]

1.足利義満は、土岐康行の乱明徳の乱応永の乱を討伐し、守護大名を抑圧した。

[解説]
1.義満は1390(明徳元)年、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐した(土岐康行(やすゆき)の乱)。

2.翌1391(明徳2)年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆(日本60余カ国の6分の1を持つ一族の意)とよばれた山名氏一族の内紛に介入して、山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。

3.さらに1399(応永6)年にも有力守護大内義弘を討伐した(応永の乱)。これらはいずれも義満の挑発によって引きおこされた事件である。

〈2016早大・文

問6 下線d大名の力をコントロールについて。足利義満の統制に関連するものはどれか。2つ選べ。

 ア寧波の乱 イ永享の乱

 ウ中先代の乱 エ明徳の乱
 オ応永の乱

(答:エ・オ)〉

 〈2016関西学院大学・全学部

 南北朝の合体を実現した3代将軍足利義満は、それまで朝廷が保持していたいくつかの権限を幕府の手に収めるとともに、全国的な統―政権としての幕府権力を確立していった。また義満は、南北朝の動乱の中で強大化したb外様の有力守護を攻めその勢力の削減に努め、幕府の機構の整備を進めた。

 問2.下綿部bに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい   
 ア 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。
 イ 義満は、西国11カ国の守護を兼ねた大内氏の内紛に介入し、大内義弘を滅ぼした。
 ウ 義満は、周防・和泉などの守護を兼ねた山名氏を討伐し、山名氏清を滅ぼした。
 エ 義満は、鎌倉公方に反旗を翻した前関東管領の上杉禅秀を討伐し、これを滅ぼした。

(答:ア ※イ×大内義弘を滅ぼした(応永の乱、1399年)のは正しいが、11カ国が6カ国の誤り、ウ×山名氏清を滅ぼした(明徳の乱1391)のは正しいが、周防・和泉はイの大内義弘の領地、エ×上杉禅秀の乱(1416~17)は鎌倉公方足利義持を襲った乱、4代義持が救援し禅秀を討った。義持は9歳で将軍になったが、父義満没(1408)後にようやく実権を握っていた)

1399年(応永6年) 応永の乱 義満は周防長門など6か国の守護をつとめていた大内義弘を滅ぼした。

一味括ろう 応援よ。

1399年 (周防・長門など)6か国 応永の乱 足利義満

 〈2016早大・文化構想

問5 下線c守護に関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 山名持豊(宗全)は、多くの国の守護となり、六分一殿といわれた。

 イ 美濃などの守護で強い勢力をもっていた土岐康行は、足利義満に討伐された。
 ウ 周防などの守護であった大内氏は、大内義弘の敗死によって滅亡した。
 エ 播磨などの守護であった赤松満祐は、嘉吉の徳政一揆の鎮圧に活躍した。
 オ 織田信長は尾張の守護家に生まれたが、尾張国内の統一には時間を要した。

(答:イ ※ア:六分の一殿は山名氏清、ウ:大内氏は応永の乱で大内義弘が敗れた後復活し戦国大名へと成長、エ:嘉吉の乱で赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺。その後馬借・農民らが「代初めの徳政」を求めて起こしたのが嘉吉の徳政一揆、オ:織田氏は守護代で、織田信長の父信秀はその織田氏の中でも庶流)〉

〈2012京都府立大

 足利義満が行った有力守護大名に対する抑圧政策について、3語句を全て用いて説明せよ。

土岐康行の乱 明徳の乱 応永の乱

〔解答例〕
 足利義満は、将軍権力の確立をはかるため、奉公衆とよばれる直轄軍を育成、この軍事力を背景に、南北朝動乱期に強大化した有力守護大名を武力で討伐し全国の統制をはかった。1390年、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱)、翌1391年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆とよばれた山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。さらに1399(応永6)年にも大内義弘を討伐したが(応永の乱)、これらはいずれも義満の挑発であった。(215字)〉