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1890(明治23)年 〈教育勅語の発布〉★★

2018-09-29 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

●明治時代(明治天皇 第1次山県有朋内閣)

 

Imperial Rescript on Education is distributed to all schools.

飛躍(ひやく)を求め 今日行こう

        1890年   (第1次)山県有朋内閣  元田永孚 井上毅 教育勅語

 

1890年、1次山県有朋内閣のもと、元田永孚・ 井上毅 らの起草により、国家主義教育を重視した教育勅語が発布された。この中で、忠君愛国の教育方針が示された。教育勅語は発布以後、第二次世界大戦後の教育改革まで日本の教育理念の指針とされた


[point]

1.教育勅語は、1890年に、井上毅元田永孚らが起草。

[解説]

1.教育勅語(1890)は、天皇が示した教育の基本方針の“お言葉”。自由民権運動の高揚に危機を感じた藩閥政府が、自由民権思想が国民のなかに定着しないように学校教育の統制に乗り出したもの。

2.軍人勅諭で軍隊の思想統制に成功した山県有朋首相は、その教育版作成を要望。法制局長官井上毅(いのうえこわし)を中心に元田永孚らの意見をいれて、天皇制擁護の忠君愛国の精神を強調し、忠孝を中心とする道徳教育を盛り込んだもの。


3.勅語はその謄本が全国の学校に配布され、式日、祝祭日毎に御真影(ごしんえい)拝礼勅語奉読が厳粛に行われた。勅語と御真影の管理は厳しい統制のもとにおかれ、火災から守ろうとして殉職した例が美談として喧伝された。


4.さらに政府が危機を感じる状況に応じて戊申詔書などを出し天皇制確立の補完とした。


2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

 ( a )年に出された( あ )は、( い )・元田永孚らによって起草されたもので、儒教主義的な家族道徳を基礎に忠君愛国、忠孝一致を教育の基本として強調している。( あ )は、こののち長く学校教育の基本理念とされるが、それは学校制度における「教育」と「学問」の二元的構造を生み出すことにもなった。」

(答:a1890、あ教育勅語、い井上毅)〉


 〈2016慶大・法

 儒学の学問的蓄積の継承は、開国、明治維新以後も途絶えたわけではない。福澤諭吉とともに明六社に参加し、『西国立志編』や『自由之理』の翻訳で知られる中村正直は、徳川期には幕府の聖堂・昌平坂学問所の御儒者であり、儒学想想を基礎に、西洋思想の受容を試みた。また明治天皇の侍講をつとめた[ 36 ]は、「教学大旨」や「教育勅語」の草案起草に携わった。」

(答:38元田永孚 ※原問には選択肢83語あり)〉


2014立大・文

 1886年、初代文部大臣( ニ )によって、帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令などが制定され、学校制度が整備された。その後、1890年になると、教育理念として忠君愛国を柱とする( ホ )が発布され、天皇を中心とする国家体制を教育面で支えることになった。」

(答:ニ森有礼、ホ教育勅語)〉


2012明大・文

 欧米列強に対抗するため、新生の明治国家は積極的に西欧の制度や文化を取り入れようとした。教育の面では、1871年(明治4)に[ a ]が設置されたのに続き、翌年には[ b ]の学校制度を手本とする統一的な学制が敷かれ、小学校教育の普及に力が入れられた。しかし画一的な強制に対する批判が起こり、教育制度は改変をかさね、1886年(明治19)に[ c ]のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整えられた。それとともに、教育政策はしだいに国家主義重視の方向へと変化していき、1890年(明治23)10月発布の[ d ]によって、忠君愛国が学校教育の中心に据えられた。

〔設問〕

1.空欄aにあてはまる国の行政機関名を記せ。

2.空欄bにあてはまる国名をカタカナで記せ。


3.空欄cにあてはまる、空欄aの行政機関の大臣をつとめる人物の氏名を記せ。


4.空欄dにあてはまる語を四字で記せ。」


(答:a文部省、bフランス、c森有礼、d教育勅語)〉


薩摩藩の琉球征服

2018-09-29 | Weblog

 1609(慶長14)年 島津家久、琉球に侵攻。実質的な支配下に置く。

Shimazu Iehisa, load of the Satsuma domain, mounts a military expedition against the Ryukyu Islands.
一路(いちろ)王宮 支配しようね。
  1609年   琉球王国   島津家久  尚寧

1609年薩摩藩の島津氏による侵攻を受け奄美諸島を薩摩藩の領土として割譲されたうえ琉球は事実上薩摩藩の属国となった。

After an invasion by the Shimazu clan of Satsuma Domain in 1609, the islands came under the rule of the Satsuma Domain with a secession of some territories.


[ポイント]

1.琉球尚寧王のとき、1609年島津家久の侵攻で、征服された。

[解説]

1.薩摩藩島津家久(1587~1638)は、1609年、3000の兵を率いて琉球に侵攻し、首里城(しゅりじょう)を落して国王尚寧(1564~1620)を捕え服属させた。これにより琉球王国は、日明(のち清)両属の形となる。この時以後、与論島以北は薩摩藩領となる。

2.琉球国王は清国からも冊封を受けつづけ、冊封使が来琉した。琉球は清国に、毎年進貢船を派遣し、清の下賜品を持ち帰った。この朝貢貿易の利益を薩摩藩が搾取し、国力を蓄えた。


3.薩摩の琉球侵攻後の1634年から、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府新将軍就任の際に派遣される慶賀使とが、幕末の1850年まで間に18回行われた。


〈2013慶大・経済〉

Ⅱ 沖縄の歴史について述べた次の文章を読んで、以下の問6~11に答えなさい。

 沖縄本島では、15世紀前半に琉球王国が成立し、周辺地域と広く交易を行って繁栄し、独自の文化を発展させた。豊臣秀吉や徳川家康によって日本の統一が進むと、琉球王国はBこれらの政権による対外政策の影響を受けるようになり、17世紀初めに幕藩体制に組み込まれた。

問7 下線部Bに関連して、豊臣・徳川政権と琉球王国との関係について述べた次の1~4の文章の中から、誤りを含むものを1つ選びなさい。

 1.豊臣秀吉は薩摩の島津氏を通じて琉球王国に服属と朝貢を求め、島津氏は秀吉に朝鮮への出陣を求められた際に琉球王国に兵糧の提供を要求した。

 2.島津氏は徳川幕府の許可を得て琉球王国に侵攻してその支配下におくと、明朝との関係を断絶させ、明との通商交易権を奪った。
 3.薩摩藩は、琉球王国にも検地・刀狩りを行なって農村支配を確立し、那覇に役人を派遣して、特産物の黒砂糖などを上納させた。
 4.徳川幕府は琉球王府に対して、国王の代替わりごとにその就任に感謝する謝恩使を、将軍の代替わりごとにそれを奉祝する慶賀使を派遣させた。」

(答:2 ※対外的には薩摩の支配下にあることを秘して、中国に服属する独立国として装わせることで朝貢貿易を継続させ、その貿易の利益を搾取した)〉

〈2012明大・法

 沖縄では、1609(慶長14)年に、薩摩の島津家久の軍により、琉球国王であった[ 3 ]が捕えられ、琉球王国は薩摩藩の支配下に入った。しかし、琉球王国はそれ以後も中国から冊封を受け、複雑な両属関係にあった。」

(答:尚寧 ※原問には尚姓の4人分選択肢あり)