岩倉具視・寺島宗則・井上馨・大隈重信)(青木周蔵・陸奥宗光・小村寿太郎
[point]
1.条約改正は主に岩倉具視→寺島宗則→井上馨→大隈重信→青木周蔵→陸奥宗光→小村寿太郎の7人があたった。
[解説]
1.岩倉使節団の渡航(1871)目的の一つがアメリカとの改正予備交渉。しかし不調に終わる。
2.寺島宗則外務卿(1873~79)は、税権回復でアメリカの同意(同国以外の第3国の同意を条件に)をえて成功しかけたが、イギリス・ドイツの反対で失敗。
3.井上馨外務卿・外相(1879~87)は、
1)法権回復、そして税権の一部回復めざす。前提とした条件は
ⅰ.外国人の内地雑居、ⅱ.外国人判事の任用、ⅲ.全対象国一括交渉。一括交渉は、どこか一国が反対したら不成功という前寺島外相の轍(てつ)を踏まないようにとの配慮。
2)この改正内容に加え欧化政策、1886年発生のノルマントン号事件の処理にも世論が反発。政府内でも農商務大臣谷干城(たにたてき)・法律顧問ボアソナードらが反対。三大事件建白運動で反対運動が高揚し、交渉は中止、井上外相は辞職に追い込まれた。
4.大隈重信外相(1888)は、法権回復をめざす(大審院に限り外国人判事任用)。米・独・露と成功したが草案が漏れ(『ロンドン・タイムズ』の記事を新聞『日本』が翻訳報道)て反対の世論が高揚。そのあげ句、大隈外相が玄洋社員による爆弾テロで負傷し交渉中止。
5.青木周蔵外相(1889~91)は、法権回復・税権の一部回復めざす。イギリスとほぼ成功しかけたが、1891年の大津事件で挫折。この後を受けて榎本武揚が外相を務め、青木案を継続。
6.陸奥宗光外相(1892~95)のとき法権回復・税権の一部回復なる。日清戦争直前の1894年、日英通商航海条約調印(1法権回復(領事裁判権撤廃) 2税権の一部回復 3内地雑居を認める→各国とも成功)。同時に日清戦争にイギリスの暗黙の支持を得る。なお陸奥には回想録『蹇蹇録(けんけんろく)』がある。
7.小村寿太郎外相(1908~11)のとき税権の完全回復がなる。1911年、日米通商航海条約を締結し、列国とも改正に成功。背景に日露戦争後、日本の国際的地位が向上したことがある。
〈2016早大・人間科学
問6 史料cに見る欧化主義や条約改正をめぐるI~Ⅴを古い順で並べたとき、正しい組み合わせはどれか、1つ選べ。
I 井上馨が列国代表を集めて、条約改正のための予備会議を開催した。
Ⅱ 青木周蔵が、大津事件により外相を辞任した。
Ⅲ 大隈重信が、玄洋社の一青年により負傷させられた。
Ⅳ 条約改正会議において、日本国内を外国人に開放する「内地雑居」の提案がなされた。
Ⅴ 鹿鳴館が竣工した。
ア I→Ⅴ→Ⅱ→Ⅳ→Ⅲ
イ Ⅴ→I→Ⅱ→Ⅳ→Ⅲ
ウ I→Ⅴ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅳ
エ Ⅴ→I→Ⅲ→Ⅱ→Ⅳ
オ I→Ⅴ→Ⅳ→Ⅲ→Ⅱ
カ Ⅴ→I→Ⅳ→Ⅲ→Ⅱ」
(答:オ ※まず(ⅠⅣⅤ)→Ⅲ→Ⅱがわかる。この順に並んでいるのがオ・カ。このあとが難しい。予備会議が最初にくるオを選ぶことに)
〈2016早大・国際教養
明治政府は幕府が結んだ条約の改正を最重要政策の一つに掲げ、1871年、[ A ]を特命全権大使とする使節団を米欧に派遣した。この使節団はアメリカとの間で条約改正の予備交渉を行ったが、条約締結国全体が同意しなければ無理だと判明して、最初の改正交渉は失敗した。
1873年に外務卿となった寺島宗則は、関税自主権回復を目指して、アメリカ以外の国とも改正交渉を行った。しかし何が禁輸品かを解釈する権限を外国側が持っている以上、平等性の実効を挙げることが出来ず、領事裁判権撤廃こそが必要だということになり、寺島外交も失敗に終わった。
c井上馨外務卿は、税権及び法権の回復を目指し、各国と精力的に改正交渉を開始した。ただし、当時の日本はまだ法典や裁判制度がほとんど整備されていなかったため、やむなく外国人判事・検事を多数任用することとした。ところが1886年10月のdノルマントン事件を契機として、外国人判検事を任用するのは国権侵害であるとの声が高まった。その後、三大事件建白運動が起こって、井上は引責辞任した。
井上の後を受けた[ B ]も、当時の状況から見て、完全に対等平等な条約改正は無埋と判断、大審院に数名の外国人判事を任用するとの譲歩をした。そして1888年11月に日墨条約を調印したのを皮切りに、1889年2月にアメリカ、6月にドイツ、8月にロシアと矢継ぎ早に改正条約を調印し、他の国々とも協議を開始した。しかし当初、秘密にされていた外国人判事任用の約束が暴露され、さらに外国人判事任用は、1889年2月に制定された帝国憲法に抵触するのではないかとの意見が出て来た。そうして結局、今回の条約改正も国権侵害になるとの声が湧き起こり、頓挫した。
1889年10月、政府は、「平等完全な条約でないならば、むしろ従来のままにして、欠点のある条約は締結しないほうがよい」として、条約改正中止を決定した。その後、日本では法典編纂が進み、f世界の情勢もまた変化したので、従来、条約改正に積極的でなかったイギリスが態度を軟化させ、1894年7月、g陸奥宗光外相は念願の日英改正条約を調印し、法権が回復された。そして1911年2月、h小村寿太郎外相は、陸奥条約の不備を改めた日米新通商航海条約を調印し、初めて関税自主権も確立したのであった
問3 [ A ]に該当する人名を漢字で記述解答用紙に記入せよ。
問4 下線部c井上馨に関連する説明として誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 熊本出身である。
イ 外国人に内地居住・旅行・営業の自由を与える政策をとった。
ウ 官営の社交場、鹿鳴館を建てた。
エ 帝国憲法草案の起草に尽力した。
オ 欧化政策を推進した。
問5 下線部dノルマントン事件に関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア イギリスの貨物船である。
イ 房総半島沖で難破した。
ウ 船長以下乗組員は脱出し、日本人乗客が全員溺死した。
エ 神戸領事の海難審判で、船長は無罪となった。
オ 国権回復の声が高まった。
問6 [ B ]に該当する人名を漢字で記入せよ。
問8 下線部f世界の情勢もまた変化したので、従来、条約改正に積極的でなかったイギリスが態度を軟化させに関連する出来事として正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 日清戦争の勃発
イ 清仏戦争の勃発
ウ シベリア鉄道の起工
エ 義和団事件の勃発
オ 甲午農民戦争の勃発
問9 下線部g陸奥宗光に関連する説明として正しいものはどれか。2つ選べ。
ア 第2次伊藤博文内閣の外相であった。
イ 駐露公使として樺太・千島交換条約に調印した。
ウ 日清戦争の講和会議に全権として出席した。
エ 後に元老となった。
オ 台湾総督となった。
問10 下線部h小村寿太郎に関連する説明として誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 第1次西園寺公望内閣の外相であった。
イ 日英同盟協約調印時の外相であった。
ウ 日露協商論者であった。
エ 韓国併合条約時の外相であった。
オ 日露講和条約調印時の全権であった。」
(答:問3岩倉具視、問4ア・エ ※井上毅との混乱を狙った選択肢、問5イ※紀伊半島沖、問6大隈重信、問8ウ、問9ア・ウ、問10ア・ウ)〉
〈2016法大・済社現福
〔Ⅲ〕次のA~Gの文章は明治期の外交について説明した一つながりの文章である。これを読み、下記の問いに答えよ。
A 1876年から外務卿の[ イ ]が、[ あ ]と交渉して[ 1 ]の交渉にほぼ成功したが、[ い ]・[ う ]などの反対で無効となった。
B 1882年、外務卿(のち外務大臣)の[ ウ ]は、東京に列国の代表を集めて予備会議を開き、ついで1886年から正式会議に移った。その結果1887年には、[ 2 ]を実施するかわりに、[ 3 ]を原則として実現する改正案が、諸国より一応了承された。しかしこの改正案については、[ 4 ]という条件などもついていたので、国家主権の侵害であるとの批判が政府部内でも起こり、改正交渉に反対する政府内外の声が強くなり、交渉は中止された。
C そのあとを受けた[ エ ]外相は、条約改正に奸意的な国から個別に交渉を始め、[ あ ]・[ う ]・[ え ]とのあいだに改正条約を調印した。しかし条約正文以外の約束として、[ 5 ]が決められていたことがわかると、政府内外に強い反対論がおこり、[ エ ]が襲撃される事件が起こり、改正交渉はまた中断した。
D その後、[ い ]は[ え ]を警戒して、日本に好意的になり、相互対等を原則とする条約改正に応じる態度を示したが、改正交渉は諸事件の中で、実らなかった。
1894年になって、ようやく、[ オ ]外相のとき、[ 3 ]の実現と[ 1 ]の一部実現、および[ 6 ]を内容とする[ い ]との通商航海条約の調印に成功した。ついで、他の諸国とも改正条約が調印され、1899年から同時に施行された。
E その後、日本は[ い ]と同盟を結び、日本の利権をおびやかすようになった[ え ]の影響を抑えようとしたが、交渉はまとまらず[ え ]と戦争になる。
この戦争のあと、すでに1899年から実施されていた複数国との通商航海条約が満期を迎えることになっていた1911年、日本は[ カ ]外相のもとで、これらの条約について、[ 1 ]にも成功し、懸案だった不平等条約の改正を達成した。
F 明治政府はこのような既存の不平等条約の改正に取り組む一方で、他の国々と、外交のための新たな条約を締結することにも取り組んだ。1871年には[ お ]に使節を派遣して条約を結び、相互に開港し、[ 7 ]などをさだめた。これは日本が外国と結んだ最初の対等条約であるが、日本はこれに不満で、1873年にようやく批准した。
G 明治政府はまた、発足とともに[ か ]に国交樹立を求めたが、鎖国政策をとっていた同国は、日本の交渉態度を不満として正式な交渉に応じなかった。海外に使節団が派遣されていたため、留守政府首脳となっていた[ キ ]([ ケ ]と同じ藩出身)・[ ク ]らは1873年、同国にさらに開国をせまり拒否された場合には武力行使も辞さないという強硬策をとなえたが、帰国した[ ケ ]らの強い反対にあって挫折した。その後、日本の軍艦雲揚が同国の首都近くの島で同国を挑発し、これは戦闘に発展した。この事件を機に日本は同国に迫り、翌1876年に条約を結び、同国を開国させた。この条約は、日本に有利な諸条件を認めさせる、相手国にとっての不平等条約であった。
問1 文中の空欄[あ~か]にあてはまる国名を下記のa~oから選べ。
aアメリカ bイギリス
cオランダ dカナダ
e清国 fタイ g台湾
hドイツ i朝鮮
jスペイン kオーストリア
lビルマ mベトナム
nポルトガル oロシア
問2 文中の空欄[ア~ケ]にあてはまる人物名を下記のa~mから選べ。
a伊藤博文 b板垣退助
c岩倉具視 d大久保利通
e小村寿太郎 f西郷隆盛
g寺島宗則 h山県有朋
i井上馨 j青木周蔵
k大隈重信 l松方正義
m陸奥宗光
問3 文中の空欄[1~7]にあてはまる事柄を下記のa~gから選べ。
a 外国人内地雑居を認可すること
b 相互対等の最恵国待遇
c 相互に領事裁判権を認めあうこと
d 大審院への外国人判事の任用を認可すること
e 領事裁判権の撤廃
f 外国人を被告とする裁判には半数以上の外国人判事を採用すること
g 関税自主権回復
(答:問1あa、いb、うh、えo、おe、かi、問2アc、イg、ウi、エk、オm、カe、キf、クb、ケd、問31g、2a、3e、4f、5d、6b、7c、)〉