1325年(正中2年) 建長寺の修造をはかるため、鎌倉幕府が元に建長寺船を派遣。
ビザ都合した 建長寺。
1325年 北条高時 建長寺船 元
[ポイント]
1.建長寺は蘭溪道隆(らんけいどうりゆう)を開山として北条時頼が造営したが、のち焼失。高時が再建のため建長寺船を派遣した。
[解説]
1.北条高時が火災にあった建長寺再建の費用を得るために、1325年、貿易船「建長寺船」を元に派遣した。派遣は1回のみだった。
2.元寇にも関わらず、日元間では私的な貿易が盛んに行われていた。
3.なお1976年、韓国南部沖合で沈没船が発見されている(新安沈船)。この沈船は発見された木簡から、東福寺再建のため元に派遣され、帰途の1323年沈没したことがわかっている。
〈2016慶大・文
鎌倉時代には、栄西が臨済宗を南宋から伝えている。彼の著書には源実朝に献上された『( D )』がある。中国からも僧侶が招かれているが、( E )は元の使者として来日したこともあって、当初は北条貞時から疑われたが、やがて貞時の信頼を得て建長寺の住持に迎えられた。
D1開目鈔 2喫茶養生記 3摧邪輪 4普勧坐禅儀 5臨済録
E1一山一寧 2虎関師錬 3陳和卿 4無学祖元 5蘭渓道隆
(答:D2〈サ〉、E1)
〈2016早大・社会科学
14世紀に入ってから、(1).日本と中国大陸の関係は貿易を中心に新たな展開をみせた。日本は衰退する元と国交を結ばないまま、非公式な貿易関係を維持した。
問1 下線部(1)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 鎌貪幕府は建長寺を創建する資金を調達するために、元に船を派遣した。
ロ 足利義満は天龍寺建立の資金を調達するために、明に船を派遣した。
ハ 将軍から明の皇帝におくる公文書には「日本国王臣源」と署名された。
ニ 朝貢形式の貿易では、運搬費も明が負担した。
ホ 足利義持の時代に、朝貢形式の貿易は一時中断した。
(答:イ・ロ ※イ創建ではなく再建、ロ義満ではなく尊氏が派遣)〉