堺細川 美麗エゴ。
(堺)(細川氏・ビレラ 会合衆
[point]
1.堺は細川氏と組み勘合貿易に従事し、かつ会合衆による自治が行われたと宣教師ビレラが報告している。なお「細川氏=堺商人」の組み合わせは「大内氏=博多商人」との正誤問題として頻出だが、「細」と「堺」の両漢字に「田」という共通の文字があることに気がつけば間違えないだろう。
[解説]
1.堺は、和泉国の港町で、15C後半より勘合貿易・南蛮貿易で繁栄。
2.15世紀後半、勘合貿易の実権はしだいに堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移った。細川氏と大内氏は、1523(大永3)年には寧波で衝突し(寧波の乱)、争いに勝利した大内氏が貿易を独占した。
3.堺は会合衆とよばれる豪商の合議によって市政が運営され、自治都市の性格を備えていた。会合衆は、36人の門閥豪商。多くは能登屋・嚥脂屋(べにや)など納屋(なや)(倉庫)貸しの貿易商人。
4.イエズス会の宣教師ガスパル=ヴィレラはその書簡(1562『耶蘇会士日本通信』)で、町はベニス市の如く執政官(会合衆をさす)に依りて治められていると書いている。
5.堺は、織田信長による矢銭(やせん)2万貫要求も一時拒否したが、結局屈服。豊臣秀吉による大坂城下への強制移住のため衰微。
〈2016関西大・全学部
( 2 )の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く4)執政官に依りて治めらる。
(1561〈永禄4〉年8月17日、『耶蘇会士日本通信』所収の書簡)
日本全国当( 2 )の町より安全なる所なく、他の諸国に於て5)動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。
(1562〈永禄5〉年、『耶蘇会士日本通信』所収の書簡)
問6 空欄(2)に入る地名として適当なものはどれか。
ア堺 イ伏見 ウ安土
問7 空欄(2)に住んだ商人で、佗茶を発展させた人物は誰か。
ア島井宗室 イ村田珠光 ウ武野紹鴎
問8 下線部4の「執政官」は何と呼ばれていたか。
ア年行司 イ同朋衆 ウ会合衆
問9 この書簡を書いたポルトガル人の宣教師は誰か。
ア)フランシスコ=ザビエル
イ)ヴァリニャーニ
ウ)ガスパル=ヴィレラ
問10 下線部5に「動乱」とあるが、1560年に起こった「動乱」はどれか。
ア本能寺の変 イ桶狭間の戦い ウ長篠合戦
(答:問6ア、問7ウ ※村田珠光は京都の僧で還俗した茶人、問8ウ、問9ウ、問10イ)〉
〈2012早大・文化構想
下線c堺・博多などの港町が繁栄したにかかわる記述として、誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 堺・博多は日明貿易の根拠地として栄えた
イ 堺は年行司、博多は会合衆の合議によって運営されていた
ウ 代表的な商人には、堺の神屋宗湛、博多の島井宗室らがいた
エ 堺・博多の町衆の間では、茶の湯がさかんとなった
オ 織田信長は堺を屈服させて支配下におき、直轄地とした」〉
(答:イ・ウ ※イ逆である、ウ島井宗室・神屋宗湛〈かた〉はともに博多商人)〉
〈2012明大・文
次に示す史料は、イエズス会の宣教師が日本のある町について述べた書簡の内容を示したものである。これを読んで、下の設問に答えよ。
●1561年(永禄4)の書簡より
[ c ]の町は甚だ広大にして、大なる商人多数あり、此の町はベニス市の如く(ウ).執政官に依りて治めらる。
●1562年(永禄5)の書簡より
日本全国、当[ c ]の町より安全なる所なく、他の諸国において動乱あるも、此の町にはかつてなく、敗者も勝者も、此の町に来往すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし(中略)町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、又他の側は探き堀を以てかこまれ、常に水充満せり。(『耶蘇会士日本通信』より)」
問5.空欄cにあてはまる漢字を記せ。
問7.下線部(ウ)の立場に相当する、この町における地位を漢字で記せ。
問8.この町の自治的な支配のあり方は、ある人物によって16世紀後半に否定される。その人物の姓名を漢字で記せ。
問9.上の書簡を書いた人物の名を記せ。
(答:問5堺、問7会合衆、問8織田信長、問9ガスパル=ヴィレラ)〉