2009 中央大学(法・国際企業関係法)
【問】つぎの文章(A~D)はアラブ人とイスラーム教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。。
A.イスラーム教はメッカのアラブ人商人であったムハンマドにより7世紀初めに創始された。アラブ人はアツカド人やヘブライ人と同じ( 1 )語系の言語を使用する民族で、諸部族に分かれてアラビア半島に居住していた。彼らは主に隊商による交易活動を営んでおり、その一部はイラン方面や地中海沿岸へも進出していた。
6世紀、ササン朝とビザンツ帝国のあいだで戦争が続き、中国・インドと西域を結ぶ貿易ルートが遮断された。その結果、東西貿易の多くがアラビア半島を経由するようになり、アラブ人商人たちに莫大な利益をもたらした。ムハンマドは商人による富の独占を批判し、(a).唯一神アッラーへの絶対的服従により生活を律するよう説いた。ムハンマドは迫害され、一時(b)メッカからメデイナに移住したが、ここで多くのアラブ人たちの信仰をあつめ 630年にはメッカに帰還した。
B.ムハンマドの死後彼の後継者の下でアラブ人たちは周辺地域への聖戦を開始した。彼らはササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からはシリア・エジプトを奪取、これらの地域に征服者として移住した。661年、(c)4代目後継者アリーの暗殺を機に、シリア総督だった( 2 )が実権を握りダマスクスを拠点としてイスラーム圏の指導者となった。彼が開いたウマイヤ朝は北アフリカからイベリア半島へと征服地を拡大したが、750年にムハンマドの叔父の子孫(d).アッバース家により倒された。アッバース朝は新首都バグダードを建設し、東はインダス川から西はモロッコに至る大帝国となった。イスラーム教の聖典である『コーラン』はアラビア語で記されており、イスラーム教に改宗した被征服民の多くは(イラン人などを除き)しだいにアラビア語を話すアラブ人たちに同化していった。
C.10世紀になるとアッバース朝は弱体化する。946年、東部でイラン人軍人が興した( 3 )朝がバグダードに入り、アッバース家から統治権を奪った。アラビア半島東部のアラブ人たちは(e)異民族であるイラン人の支配を嫌い、その統治からしだいに離脱した。11世紀になると中央アジアでトルコ人たちが興したセルジューク朝が( 3 )朝を滅ぼしアッバース家から( 4 )の称号を得てバグダードの統治者となった。セルジューク朝は小アジアに進出して強大化したが、(f)十字軍との戦闘で疲弊し、やがて分裂・滅亡した。アッバース朝は1258年モンゴル軍のバグダード襲来により滅亡した。このときトルコ系のマムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退し、アッバース家を首都( 5 )に迎えて( 4 )の称号を得た。これ以降、マムルーク朝はメッカ・メデイナの庇護者となったが、アラビア半島の多くのアラブ人たちは(g)異民族であるトルコ人の支配を嫌いトルコ系王朝の統治下に入らなかった。
D.バグダードの支配者はその後、モンゴル人から中央アジアのティムール朝へ16世紀初めにはイラン人王朝のサファヴイ一朝へ、さらに(h)トルコ人が興したオスマン帝国へと移り代わった。13世紀末に小アジアで勃興したオスマン帝国は、 16世紀になるとシリアへ進出してバグダードやイラク南部を奪取、またマムルーク朝も滅ぼしてメッカ・メデイナの保護権を獲得した。オスマン帝国はアラブ入居住域の大部分を支配するに至ったが、アラビア半島の完全な支配はできなかった。18世紀になると、そのアラビア半島で(i)反トルコ・反イランを旨とするイスラーム改革運動が起こる。この運動の最中、サウード家を中心とする( 6 )王国が建設され、メッカとメデイナをオスマン帝国から奪った。これに触発されて、トルコ人支配下のアラブ人たちのあいだには独立の動きが高まった。オスマン帝国は徐々に弱体化し1922年には滅亡するが、これと相前後してアラブ人たちは千年に及ぶ異民族支配からパレスチナを除き独立することになる。
- 1 空欄(1~6)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。
- 2 下線部(a)について。イスラーム教徒には六信五行が課されているが、この内容として正しくないのはつぎのうちどれか。答えは1つであるとは限らない
- あ.天使を信ずる い.来世を信ずる う.聖戦をする え.断食をする お.喜捨をする か.多くの妻を妻る(一夫多妻)
- 3 下線部(b)のメッカとメデイナ、そしてイェルサレムがイスラーム教の三大聖地となっている。イェルサレムと縁が深いユダヤ教徒たちとキリスト教徒たちは、イスラーム教では何と呼ばれるか。その名称を答えなさい。
- 4 下線部(c)のアリーとその子孫のみがムハンマドの正統の後継者である、とするイスラーム教の宗派は何派と呼ばれるか。その名称を答えなさい。また、この宗派が国民の多数を占める現代国家をつぎの中から1つ選んで記号で答えなさい。
- あ.サウジアラビア い.エジプト う.イラン え.シリア お.トルコ
- 5 下線部(d)について。アラブ人優遇政策をとるウマイヤ朝への不満が、あらゆるイスラーム教徒を平等に扱うアッバース朝の誕生につながった。アッバース家によるウマイヤ朝打倒運動の拠点となったイラン北東部の地方は何と呼ばれるか。その地方名を答えなさい。
- 6 下線部(e)について。イラン人が話すペルシア語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、イラン人と同じ語族に属する民族を1つ選んで記号で答えなさい。
- あ.アッシリア人 い.フェニキア人 う.アムル人 え.ドラヴイダ人 お.ギリシア人
- 7 下根部(f)の十字軍は、アラビア文化が本格的にヨーロッパに伝えられる契機の1つとなった。この文化の伝播は紙という媒体を通して可能になったが、紙がイスラーム圏にもたらされたきっかけはアラブ人たちが8世紀に起こしたある戦いである。その戦いの名称を答えなさい。また、その戦いはアラブ人たちとどの国とのあいだで発生したか。その国名を答えなさい。
- 8
- 下線部(g)について。トルコ語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、トルコ語と同じ語族に属さないのはどれか、1つ選んで記号で答えなさい。
あ.モンゴル語 い.ウイグル語 う.ソグド語 え.キルギス語 お.満州語 - 9
- 下線部(i)の改革運動は、 10世紀以降とりわけイラン人たちに広まった神との内的な一体感を求める考え方を排撃した。この考え方は求道者が羊毛で作った粗末な衣服をまとっていたことにちなむ名称で呼ばれる。その名称を答えなさい。
- 10
- 下線部(h)のオスマン帝国など、 10世紀以降のイスラーム圏王朝では、軍人に土地の徴税権を与え、各人の俸給に相当する額を直接、農民や都市民から徴税させる制度(イクター制)が広く採用されていた。オスマン帝国で騎士階級に与えられた土地の徴税権は何と呼ばれたか。その名称を答えなさい。
解 答
設問1
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
セム | ムアーウィア | ブワイフ | スルタン | カイロ | ワッハーブ |
設問2~10
2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
う・か | 啓典の民 | シーア派・う | ホラーサーン地方 | インド-ヨーロッパ語族・お |
7 | 8 | 9 | 10 | |
タラス河畔の戦い・唐 | アルタイ語族・う | スーフィズム | ティマール |
解 説:
設問1.1.セム語系の言語を使用する民族は、バビロニア人、アラブ人、アッシリア人、アツカド人、フェニキア人など、「ア」の付く民族が圧倒的に多い。
設問1・2
661年 〈ウマイヤ朝〉
無論言うまい騙し討ち。
661年 ムアーウィア ウマイヤ朝 ダマスカス
3
946 〈ブワイフ朝、バグダード入城〉
苦心、武は畏怖 アッバース 。
946年 シーア派 ブワイフ朝のバグダード入城イラン系 アッバース朝
5 ホラーサーン地方 〈ホ〉北東、〈ラ〉と〈ン〉イラン
設問1 7
751 〈タラス河畔の戦い〉
なぁ来いったら 紙持って。
751年 アッバース朝 高仙芝 タラス河畔の戦い 製紙法の伝達
設問2・2
六信五行
イスラム教徒が信ずべき六つの信条と、実行すべき五つの義務。六信とはアッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定、五行とは信仰告白・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)をいう。五行六信。
受信綺麗だ 五行見た。
巡礼 信仰告白 喜捨 礼拝 断食 五行
設問6.イランはインド-ヨーロッパ語族。「イ」「ン」
- 設問8.う.ソグド語は、インド=ヨーロッパ語に属する。ソグド人もインド=ヨーロッパ語族のイラン系の民族。
- 設問9.スーフィズム スース―する服
設問10 ブセイクビザプ 押すティマる。
ブワイフ朝・セルジューク朝 イクター制
ビザンツ帝国 プロノイア制 オスマントルコ ティマール制