2017学習院大・法
藤原氏による摂関政治が続いたなかで、醍醐天皇とその子村上天皇は、摂政・関白をあらたには置かずに諸政策を進めた。村上天皇の死後は再び藤原氏が外戚として絶頂期を迎えた。前後の摂関政治にはさまれた醍醐・村上による政治は、天皇を中心にすえる政治を理想とする、後世の観点から「延喜・⑧〔イ天慶 ロ天暦 ハ延暦 ハ安和〕の治」と称えられた。」
(答:⑧ロ)
〈2017立教大・文
基経の死後、藤原氏を外戚としない( ハ )天皇は摂政・関白を置かず、学者の菅原道真を重用した。だが続く醍醐天皇のとき、左大臣藤原時平は右大臣の道真が娘婿の斉世親王を即位させる陰謀をはかっていると讒言し、道真は大宰権帥に左遷され任地で死去した。」
(答:ハ.宇多)
〈2016慶大・商A方式
その後[ 4 ]は、光孝天皇を擁立して884年に初の関白になり、さらに[ 5 ]天皇の即位に際し、「阿衡の紛議」で関白の政治的地位を確立させる。[ 4 ]の死後、[ 5 ]天皇に登用された菅原道真は、[ 6 ]天皇のとき、901年に[ 7 ]の讒言で左遷される。[ 6 ]天皇と[ 8 ]天皇は、摂政・関白をおかずに親政をおこなったが、朱雀天皇の下では[ 9 ]が摂政・関白になっている。」
(答:4藤原基経、5宇多、6醍醐、7藤原時平、8村上、9藤原忠平 ※原問には65項の選択肢あり)
〈2014立大・現心コミュ福観光営
問5.これ摂政・関白に関する出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄の1に、次に古いものを2に、以下同じように4まで年代順にマークせよ。」
a.宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真を登用した
b.光孝天皇は藤原基経を実質的に関白とした
c.藤原忠平が朱雀天皇の摂政・関白となった
d.藤原頼通が約50年にわたって摂政・関白をつとめた」
(答:bacd)〉
〈2013早大・国際教養
問7 下線部d(遣唐使が)菅原道真の建議により停止されることになったについて、この時の天皇は誰か。1つ選べ。
ア 醍醐 イ 光孝 ウ 朱雀
エ 陽成 オ 宇多」
(答:オ)
894(寛平6)年9月 菅原道真らの建議で遣唐使の派遣中止。
白紙にします 遣唐使。
894年 菅原道真 遣唐使 宇多天皇
寛平6年(894年)、遣唐使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。
In 894, he was appointed to be the Japanese envoy to the Tang Court in China, but the trip was cancelled at
Michizane's suggestion (and, since the Tang dynasty fell in 907, the history of the envoy system ended here).