【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】小選挙区制に対する尾崎行雄の批判

2021-06-10 15:07:56 | 転載
小選挙区制に対する尾崎行雄の批判

          
「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなくして議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するように見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバカしさに抱腹絶倒の外はない」


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人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出してしまう輩である。
国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。

(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)


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戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれて、ますます愛国心を失ってゆくという事実である。入隊後の基地での生活を通じて、日本の軍国主義の真相を目のあたりにした若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどうしようもなく、死に突入して行った。
           
(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36)


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久野収も、戦前の天皇制イデオロギー体系を宗教になぞらえて説明している。それは、天皇制イデオロギーの二側面を仏教の顕教と密教に見立てたもので、確かに巧みな譬喩であり、今に至るまで一種の定説と化している。

1956年の『現代日本の思想』(久野収、岩波新書)が、顕教密教という譬喩の出てくる最も初期の著作である、、、
少し長くなるが、次に引用してみよう。

「天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強力に作用した。

しかし、天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
  
注目すべきは、天皇の棒威と権力が、『顕教』と『密教』、通俗的と高踏的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤〔博文〕の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは 、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民エネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である」
   
要するに、戦前の天皇制は一般国民には、神のごとき絶対的権威として現れ、国政の枢要を担う高学歴エリート層には、単なる制度・機関にすぎなかった、ということである。顕教密教とは、日本では空海が明確化した仏教上の教理概念で、広く衆生にも理解されるように顕らかに説かれたのが顕教、真理が理解できる者にのみ密かに説かれたのが密教、という区分である。天皇性にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数の国民には、顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリートには、密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。これが天皇制イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。
   
久野収の見事な説明に、私は異論を唱える必要を感じない。というのは、天皇制イデオロギーの二面制については、顕教密教という言葉こそ使っていないものの、戦前に教育を受けた多くの人がそう認識しているからである。しかも、久野のような”革新的”な人ばかりでなく、”保守的”な人も同じようにそう認識している。

(呉智英『危険な思想家』メディアワークス、pp.160-161)


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義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国を侵略・分割した各帝国に反旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスはボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみで、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。
      
この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めてアジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。
            
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)


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日英同盟が成立(1902年1月)
      
これによってイギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対して特殊権益をもつことを相互に承認し、一国が交戦した場合には他の国は中立を保って他国の参戦防止に努めること、またもし第三国が参戦した場合には締約国は参戦して同盟国を援助することとなりました。このことは、日露が交戦した場合にも、露仏同盟を結んでいるフランスの参戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が可能となったことを意味しています。
             
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)


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第二インターナショナル(1904年8月)
      
また、1904年8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インターナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロシア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争に反対する非戦の握手をかわしました。大会では、つづいてフランス代表から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決しています。こうした世界各国の社会主義者との交流については、『平民新聞』に「日露社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告されていました。
      
置かれた状況の違いによって手段もまた異ならざるをえなかったにせよ、日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のための連帯の声が交わされていたのです。そして、本格化しはじめた日本の社会主義運動が、貧富の格差是正と生産手段の公有という本来の目的と並ん で、戦争に反対する非戦・反戦運動として展開せざるをえなかったのは、戦場に送られて死を強制され、しかも戦費の負担を強いられるなど、戦争の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であったことからすれば必然的なことであったのです。
      
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)


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明治の医師養成制度
      
明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のための医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差別されていた。野口英世はその顕著な一例)
            
(浅田次郎『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115)


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こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。原敬によれば、こうした批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」
(『原敬日記』1904年2月5日)

という自制のきかない状況に自らも落ち込んでいく様子を率直に告白しています。原はまた表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを
「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。

政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かくしてもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。
...
しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしものなり」

(『原敬日記』1904年2月1言日)

と観察していました。

ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわらず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなるという心理過程が示されているのではないでしょうか。そして、このように自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなかで「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになります。

(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)


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日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)

日本の背後にはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランスのある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。
           
(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)
   

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日露戦争の歴史的意味

この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するために、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配とを、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程にこそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。また、ポーツマス条約においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。しかも、日本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)旨を通告していたのですから、これにも違約します。
       
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)


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愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知られる千人針の風習が本格化したのは、日露戦争の時からでした。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るために、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのものにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を祈りました。
        
危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもちました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがことさら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるようになりました。
        
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)


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・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもなくはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。
      
・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見た。あれは何にするのであろう。飾っておくのかしらん。一同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を食べるとすぐに寝た。

(茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168)


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(日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざる
をえなくなったほどであった。
          
(司馬遼太郎『この国のかたち<一>』)


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日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。その誓いは、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならないはずである。だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじらなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけてしまった。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋より)


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日露戦争直後の1905年11月、内村(鑑三)は「日露戦争より余が受けし利益」
という演説において、

「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」

と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念します。
       
その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょう。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みるよりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持 し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れてきていたからです。
       
そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主権戦と利益線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張としてではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦争の開戦にあたって

「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」
(「宣戦の大詔を捧読す」1904年2月)

として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰は、韓国を併合すると、つぎには

「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「満蒙経営」1913年)

として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。そして、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」として死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さらに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直すことさえできなくなります。
       
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)
  
  
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イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。(1908年)

ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう発言した。「石油を制する者、世界を制す」。
     
(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)


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日本の中央政府は、常に孫文らの「理想」に対して冷淡であり、むしろ孫文らに対抗する地に足のついた「現実的」な勢力を応援した。
辛亥革命に対しては清朝を支持し、その後は袁世凱を支持した。袁の死後は北方軍閥の段祺瑞を尊重した。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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袁世凱は西太后の首席軍事顧問で、西太后死後の当時は隠居中だったが、改めて権力掌握のチャンスを掴んだ。

(S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、p.169)


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近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)

ヤクザは光彩陸離として下層民の先頭に立つ。
          
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)


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筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。
             
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)


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最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)
       
ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフスク、吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア地域に設置。

(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.42)


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「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立
                 
(内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
         
治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。昭和16年に全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。

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第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年以下の懲役か禁錮に処する。
             
     
●●「国体」とは●●
            
当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経済秩序をいう。

(長谷部恭男『憲法とは何か』岩波新書、p.23)
           
    
星島二郎の反対演説
          
「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となってやるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰すことが出来る」と警告した。
         
(結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなかった)。

(楠精一郎『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、pp.57-58)


「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
             
(上記2法はセットで成立していた)


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孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
      
いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸 1924年11月28日)
        
「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それとも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえらびになればよいことです」。

           資本主義=重財而軽徳
           共産主義=重物而軽人
           亜州主義=重人並重徳(=アジア主義)
     
(孫文は、この演説のなかで井伊直弼が安政条約を結んだ1858年から明治27年(安政の不平等条約解消)までの36年間の日本が、欧米の植民地であって独立国ではなかったと規定した)


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大正 ---> 昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)

『書経』堯 典

     
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「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
   
この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。・・・
   
国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのではないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が不思議でならないのです」

(司馬遼太郎『雑談「昭和」への道』より)

 
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「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。
              
(司馬遼太郎『この国のかたち<一>』より)


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<孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
     
さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して是等思想は悉く其向う所は違っているけれども、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。
     
若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢(決潰した堤防を河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。
・・・ 
我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、決して微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、実に将来に於ける政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関する大問題である事を記憶せられたいのであります。
     
(松本健一『評伝 斎藤隆夫』 東洋経済 p234-235)


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田中義一(政友会)内閣は長州・陸軍閥の田中義一を首相に戴き、内務大臣は司法次官・検事総長出身の鈴木喜三郎とした、政党内閣とは縁もゆかりもない、実質的には官僚・軍閥内閣であった。
        
(松本健一『評伝 斎藤隆夫』)


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現内閣(田中内閣)は政党内閣の本領を全然没却して、党利党略の為めに、国家民衆の利益を犠牲に供して憚らぬものである。
                     
(昭和3年、斎藤隆夫(民政党))


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<幻の「田中上奏文」:日本語原文は存在しない、「偽書」>
          
1927年、日本政府の首相、将軍の田中[義一]は天皇への覚書の中で次のように述べた。「明治天皇の遺訓により、我々の第一歩は台湾征服であり、第二歩は朝鮮を獲得すべきことにあった(これはすでに実現した)。今は、満洲、モンゴル、中国の征服という第三の歩をすすめなければならない。これが達
成されれば、我々の足は残りのアジアすべてに及ぶであろう」。
         
(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳岩 波現代文庫 pp.7-11)

https://ja.wikipedia.org/wiki/田中上奏文


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<蒋緯国の追憶(1990.5)>
          
本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきでした。それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、そこを前面の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯にしようとしたのです。ロシアの南下をくい止めるために共に連合して助けあって対抗しなければならなかったのにですよ。なぜこうならなかったかを見ていけば、あのころのお国の田中義一内閣がもっとも大きな誤ちを犯したということになる。彼の内閣のときから中国を侵略し、共産中国をつくる元となる役割を果たしたといっていいでしょう。私は田中首相が中国を攻めてきたという言い方はしませんが、彼の戦略が間違っていたとの断定はしてもいいでしょう。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協力し、いつ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、どのように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失敗だったということです。

(保阪正康『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.71)


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張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、1928年、昭和3年6月4日)
       
昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件であった。
       
つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわにしていた。どこに権力があり、だれが責任をとるのかという指導力の核心が分裂してしまっているがために、当事者能力を欠いていた。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋より)


この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中義一は孤立してしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一辞職-->田中急死-->宇垣一成(=昭和陸軍=長州閥)のはじまり)。
       
この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」

(半藤一利『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)

をつくりあげ、陸軍が横暴を極めるようになってしまった。
       
これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるようになった。
       
張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
      
(石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手な満蒙政策の具現化。--->柳条湖事件(1931年、昭和6年9月18日)--->満州事変へ)


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<関東軍とは>
       
関東州(遼東半島の南端部で満州地方の南端、軍港旅順と貿易港大連などを擁した)と南満州鉄道・満鉄附属地(拓務省関東庁管轄)を警備するために設けられたのが関東軍である。1935年8月頃からは満鉄総裁・副総裁人事、満州電々などの人事を蹂躙し、さらには満州国の人事や組織へも傍若無人に介入しはじめた。

(古川隆久『あるエリート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、p.76など)


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不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、パリ条約)の締結(1928年8月)
      
不戦条約は国際連盟第5回総会(1924)においてフランスが提案し採択された「国際間紛争の平和的解決のための保障協定(ジュネーヴ平和議定書)」の思想を踏まえて作られたもので、1928.8月に日本を含め15か国が調印した。条約は1929.9月に発効し1938年までに64か国が締結することになった。しかしこの条約は自衛権に基づく武力行使についての定義や解釈が曖昧で、結局日本が自衛権を拡張解釈して満州事変(1931年)を起こし有名無実のものとなってしまった。そして遂に日本は国際連盟脱退(1933年)に行き着くのであった。


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昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、
テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。

(竹内宏『父が子に語る昭和経済史』)


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