【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった

2021-06-13 09:09:33 | 転載
昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。
政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。
     
しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重大な妨げとなってきた。
     
(ゴードン・M・バーガー『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)


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北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)
       
「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうとしている。財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努力している。われわれは全国民の大同団結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底を完成しなければならぬ」

    
・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。


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日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変わっていない。それはなぜなのかと自問したほうがいい。報道企業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっています。そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつながっている。

(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)


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満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
        
首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐
(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)
      

錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)
     

この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
        
中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たちの厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にも とづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。
      
民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。


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中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中国共産党と蒋介石の対立激化)。毛沢東はモスクワにより首長に任命され「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。但し紅軍のトップは朱徳だった。さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられた。周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。
        
(ユン・チアン『マオ<上>』 講談社、pp.180-185)


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第一次上海事変(1932年、昭和7年1月28日)
       
日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。
            
(半藤一利『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)

この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけることができなかったのである。投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは何もなかった。英国は徐々に中国支援へと傾いていった。     

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)
        
江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。

(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)


これは後に「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日本人の心に刻み込まれた。

(ただし、彼らの命は導火線の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)


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団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
          
金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財閥、大富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に三井物産の「円売りドル買い」があった。
        

四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)
          
「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、(と決起した)ということだった」。


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満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚を 「理想」と考えていたわけである。これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生んだ。つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫して中国を選んだのである。
            
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』)


・因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定(関東軍と中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協定)から昭和12年7月の廬溝橋事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。
     

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たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。
      
つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。残念ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。
                  
(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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1932年、昭和7年5月15日(日) 首謀者 古賀中尉:
       
「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。
        
この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったのではないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」

(立花隆「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」
文藝春秋 2002年9月特別号 433ページ)


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五・一五事件前後の ”日本の変調のはじまり” について
    
「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
    
年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こつた。マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれていったのである。
    
どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。
    
第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正十二年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
    
「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。
     
だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民は快哉を叫んでいたのである。
    
戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
    
またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのである。
    
しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたのである。
    
天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家がある」とする説である。

(さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)。
    
・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台頭してきたのであった。
    
「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。

(保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.57-60)


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軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。そのためには、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしなければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
        
この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわらず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。
       
政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に明らかになった。
      
(ゴードン・M・バーガー『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)


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【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】

(昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)

ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。
   
ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也)
     
ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。ファシズムの様々な政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。
     
ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分裂が大戦後後進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み崩壊したり、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。
     
デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え
        
近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめるーーいわゆるアノミー現象が起こる。

デュケルムはこうして拡散した社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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日本政治研究会(時局新聞社)の見解
     
「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐる」。

(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)


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ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでファシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。イタリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。
      
ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。10年後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イタリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた

状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現している」と述べた。フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピアで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出した」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」と見ていた。
       
1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェルズは、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘン協定を承認した。前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じていた。ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。1941年4月、ジョージ・ケナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツの指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出している、と。
       
産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言した。ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった。企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、「大衆」の脅威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツの工業と商業及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。

(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)


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ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神
秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占
有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精
神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年
校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
    

(注)幼年学校: 陸軍幼年学校

陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍 幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
            
(昭和20年、永野護『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)


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誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
          
(辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)


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日中戦争の特質:中国に対する差別意識
   
この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味では差別意識に基づいていたと言えます。中国人に対しては、これを殺したって構わない。どうしたって構わないという感覚を持っていた。満州事変の経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。それまで日本陸軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていたのですが、満州事変で中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というかたちで1933年にまとめています。
   
その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕虜の処置」という項目です。そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。
  
そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表れていると言えます。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.68-69)


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(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナチスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。

(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、その解説部分(富原眞弓)
岩波文庫 p.177)


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ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言:
          
子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り込まれた。子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。
         
母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステリーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性があり、それを許容している余裕はなかったからだ。母親たちも一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほうが無難だった。

子供は焼き場の外で親から引き離され、別々にガス室に送られた。その時点ではなるべく多くの人を一度にガス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。親から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の空間に子供を放りこむこともできた。

ガス室でのユダヤ人根絶の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、との命令が出されていた。

(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイチャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)


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現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなくすことはできないが、自由をなくすことは可能だ。困窮を訴える声を消すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。飢えをなくすことはできなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ。・・・ドイツは世界を制覇するか、消え去るかだ。

(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社)


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監獄のなかで:
       
「だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党と社会民主党がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあっていたんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをしているんだからな」

(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社)


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中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
       
蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機の国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金を放棄し西南方面に移動。
       
この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍の間に毛沢東が共産党の指導者の地位を確立。一年に及ぶ「長征」の後、紅軍は陳西省延安に根拠を定めた。

(この時、徹底的な抗日を唱える張学良の率いる東北軍は陝西省西安に駐留していた。(--->西安事件、1936年12月12日)

日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿っていた。
       

(「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋経国との交換交渉)とを参照)

               
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「長征」が1935年1月に貴州の遵義にたどりついたとき、今後の方針について会議が行われた、そこには李徳、毛沢東、朱徳、博古、周恩来、陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇、林彪、楊尚昆、トウ小平、その後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。
       
(詳細は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.242-)


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満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧により地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。
     
(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)


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昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、「三宅坂上」、日本陸軍参謀本部)、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・ここは左手の皇居と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。国政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立していたことになる。書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。

次には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認をへずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。・・・
   
特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服従あるのみである。・・・

参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。そのために作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。しかし、それらをすべて無視した。かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主義とは無縁のところなのである。

作戦課はつねにわが決定を唯一の正道としてわが道を邁進した。
        
(半藤一利『ノモンハンの夏』)


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