【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな

2021-06-11 23:53:11 | 転載
<鶴見俊輔「戦争映画論」(昭和32年)>
    
鶴見はこの戦争映画論で、「本当にがんばって戦った人々にたいして、私は、何の反感も感じない」「むしろ、軍人にすっかり罪をきせてしまって、戦後に自分の席を少しずらして自由主義・民主主義の側についてしまった権力者-ー官僚、政治家、実業家たちに憎しみを感じる」と述べている。
そのもっとも身近な例が、彼の父親だった。
    
鶴見の父の祐輔は、戦前は知米派の自由主義者として知られ、国粋主義者の平沼麒一郎を「日本をわるくする元凶だ」と評していた。ところが1939年1月に平沼が内閣を組織したさい、祐輔は次官として入閣した。このとき鶴見は、「えらいと思っていた」父親が、「次官くらいのエサでもパクッと食う」ことにひどい失望と屈辱を感じた。そして祐輔は戦後に公職追放になったが、1950年代には返り咲いた。鶴見はのちに、父親が「家からいろんな人たちに電話をかけるので、話の内容で考えが変わっていくのが見えた」と回想している。
    
また鶴見は、自分がかつて愛読していた武者小路実篤や倉田百三が、帰国してみると「鬼畜米英」の旗振り役を務めていることに怒りを覚えた。柳宗悦や宮本百合子、永井荷風などがそうした潮流に同調していないことが、わずかな救いだった。鶴見はたまたま入手した『評論家手帖』の名簿をみながら、かつての論調を変えて戦争賛美の文章を書いた知識人をチェックしていたという。こうした怒りは、後年に同世代の吉本隆明なども交えて、転向の共同研究を組織することにつながってゆく。
    
しかし鶴見は、吉本とは大きな相違があった。兵役を経験しなかった吉本と違い、鶴見はロマンティックな戦争観とおよそ無縁だった。彼は1950年には、「私達日本人が、戦争中、日本の外に出て何をしたかー-日本に残っておられた方達には今日でも分っていないように思う」と述べ、「純粋」な少年兵たちが、狂暴な加害者でもあったことを指摘した。鶴見はそのさい、サディストとマゾヒストは表裏一体だという学説に言及しながら、こう述べている。
  
日本人の多くは、小学校、中学校できびしいワクの中にはめられて、しかもそれを余り苦にしないで成長した。先生のいうままになり、全く自主性がなく、教育勅語や修身の教科書をうのみにしている、典型的なマゾヒストの優等生。…やがて十六、七歳になって、早めに学校からほうり出されて志願兵または軍属となって占領地に出る。そうするとそこで…サディスト的本能がむくむくと目ざめる。内地で数年にわたって日本精神教育を受けた少年達が、占領地に来てすぐ、毎晩酒をあびるようにのんでは女を買い、原住民の娘達を自由にし捕虜収容所で「毛唐」の首を試しぎりにしたことを自慢しているのを見た。
…私連日本人は、平和の時、天皇陛下や役人にへいこらへいこらしているその同じ程度に、戦時になると、他国民に対して残虐なことをする。

こうした視点は、「優等生」や「正義」への反抗という鶴見らしい要素も加わってはいるものの、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や、竹内好の「ドレイとドレイの主人は同じものだ」という言葉と同質のものだった。そして何より、鶴見はジャワ時代の自分のことを、こう回想していた。

「私は、この島を支配する官僚組織の末端にあって、私の上にある重みを更に苛酷なものとして現地人に伝えている。私のスタイルは同僚たちと何のかわりもない。同じ権威を背にして、二言、三言のつたない現地語で、命令を下しているばかりだ」。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.726-727)


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竹内好


民主主義がおわればファシズムです。
    
……既成事実を積みあげる岸の政治手法は、戦争に突入した時代の記憶をよびおこした。竹内好は、5月19日に深夜のラジオで強行採決のニュースを聞いたあとの心情を、23日にこう記している。

私は寝床を出ました。もう眠れません。健康のためひかえている酒を台所から出してきて、ひとりでのみました。
      
……これで民主主義はおわった、引導を渡された、という感じが最初にしました。
      
民主主義がおわればファシズムです。ファシズムは将来の危険でなく、目の前の現実となったのです。ファシズムの下でどう生きるべきか。あれやこれや思いは乱れるばかりです。ともかく態度決定をしなければならない。私の場合、亡命はできないし、国籍離脱もできない。

屈辱と悔恨に満ちた戦争の時代を生きた人びとにとって、強行採決は「ファシズムの下でどう生きるべきか」という危磯感を与えるものだった。竹内は本
気で亡命を考えたあと、それを断念し、日本にとどまって岸政権と闘う覚悟を決めた。
    
こうした戦争の記憶の想起は、竹内だけのものではなかった。作家の野上瀰生子は、「あの流儀でやれば徴兵制度の復活であろうが、或はまた戦争さえも
が強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と述べた。さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。

それは、張作霖爆殺-満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぽらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

前述したように岸には、官僚的な権威主義、アメリカヘの従属、戦争責任の忘却、そして「卑劣」さといった、戦後思想が嫌悪してきたものすべてが備わ
っていた。鶴見は、「岸首相ほど見事に、昭和時代における日本の支配者を代表するものはない。これより見事な単一の象徴は考えられない」と述べ、
「日本で現在たたかわれているのは、実質的には敗北前に日本を支配した国家と敗北後にうまれた国家との二つの国家のたたかいである」と唱えた。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.510-512)


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(竹内好は言う)しかし岸さんのような人が出てくる根ー-これが結局、私たち国民の心にある、弱い心にある、依頼心、人にすがりつく、
自分で自分のことを決めかねる、決断がつかない、という国民の、私たち一人一人の心の底にあるー-かくされているところのそれを、自分で見つめる
ことがためらわれるような弱い心が、そういうファシズムを培ってゆく、ということを忘れてはなりません。
     
たしかに本当の敵はわが心にあります。自分で自分の弱い心に鞭うって、自分で自分の奴隷根性を見つめ、それを叩き直すという辛い戦いがこの戦いです。国民の一人一人が眼覚めてゆく過程が、わが国全体が民主化する過程と重なります。……
      
……時間を犠牲にし、金を犠牲にして……こうしたことをやっているのは、大きな実りを得たいからなのです。……それはめいめい、この戦いを通じて、戦いの後に国民の一人一人が大きな知恵の袋を自分のものにするということです。どういう困難な境遇に立っても、めげずに生きてゆけるような、いつも生命の泉が噴き出るような、大きな知恵の袋をめいめいが自分のものにするように戦ってまいりましょう。

1960年6月において、このメッセージは大きな共感をもって迎えられた。岸政権との闘いは、いまや人びとにとって、戦後日本と自分自身の内部にある、否定的なものとの闘いとなっていた。
    
竹内はさらに6月12日の講演で、こう述べている。

どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。……私はやはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去に、かつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向って子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えていきたいと思います。

のちに保守派に転じた江藤淳も、6月初めに執筆した評論で岸政権との闘いを説き、読者にこう訴えた。「もし、ここでわれわれが勝てば、日本人は戦後はじめて自分の手で自分の運命をえらびとることができるのである」。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.513-514)


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ベトナム戦争による日本の平民(大衆)への教訓

     
第二次世界大戦では、(米国)徴兵対象年齢層の少なくとも7割が戦場に赴いた。

しかしベトナムに行った男性は、戦争最盛期の10年間に徴兵年齢に達した者(統計により異同があるが、ほぼ260万~300万人)のうち8%、多く見積もっても10%程度にすぎない。戦闘に携わった者となると、6%たらずである。
     
しかも1割と9割のどちらに入るかが、きわめて不公平なやり方で決められた。
全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵制が採用されたためである。その結果、有為な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置する黒人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人としての訓練を与えようという作為が働いた。
     
この「10万人計画(Project 100000)」の網に引っかかった者は35万人を超える。その4割は黒人だった。誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は1.3%
にすぎず、南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくなかった。
    
入隊者が全員警察になにがしかの世話になった過去を持つ部隊、7割以上が黒人かヒスパニックという部隊もあった。
     
いいようのない不公平感が触媒となり、アメリカに精神的荒廃をもたらした。映画『プラトーン』(1986年)をノべライズした作品によれば、ベトナム
に行った若者たちは「東南アジアでの労役から免れるような口実が何ひとつない、いたって簡単に徴兵できるカモ」にすぎなかった。また、こうした
やり方で能力の低い兵士を量産したことが、敗因の一つだったともいう。
               
(松岡完『ベトナム症候群』中公新書、p69)


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ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落とし、戦後その3倍にも及ぶ約15万人のベトナム帰還兵が自殺している。
        
(星野道夫『星野道夫著作集 4』新潮社、pp.165-166、2003)


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1965年初頭、毛沢東は「大躍進」後の「大飢饉」に対し部分的ではあったが自らの非を認めたことや、劉少奇・トウ小平の現実的な実務路線への国民の傾斜に対して、指導力低下に脅威を感じていた。自分もフルシチョフに非難されたスターリンのようになるのではないかという被害妄想が昂じて”「中国のフルシチョフ」である劉少奇・トウ小平と彼らに同調する党内勢力を叩き潰さねばならぬ”と思った。

そしてこれを「文化大革命」という言葉で包み隠しながら実行に移した。毛沢東はこの過程で、これまで毛沢東崇拝をくりかえし教え込まれてきた若者を
「(毛首席の)紅衛兵」(はじまりは清華大学附属中学の学生活動家が名乗ったもの)として利用した。林彪は「文化大革命」の指導者として「四旧を破る」ために突撃せよと紅衛兵を扇動した。多くの古い文化遺産や貴重な書物や文献がいともたやすく破壊された。四旧とは旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のことだった。
         
(ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社、pp.11-42)


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【文化大革命時代の中国】
       
「文化大革命は、実は二度にわたって行なわれたんだ。最初の文革は幹部同士の闘争で、自分に対する攻撃の有無に関わらず必死で他を攻撃した。政治の世界で飯を食う以上、なりふりかまわず突き進まなけりゃならないし、いったん特権を手にしたからには、闘争の目標にされる危険ぐらいは覚悟すべきなんだ。こんなことは当然であって、不平不満を言う理由などあるはずがない。自分たちが望んで掴みとった道じゃないか。

文革時の当事者やらその子どもたちやらが、今になって文革中造反派にやられてひどい目にあったなどと書きまくっているが、笑止千万な話さ。

もう一つの文革は一般民衆がやったんだ。彼らは毛沢東が共産党内で劉少奇らに対するクーデターを起こした機会を利用し、共産党組織に造反という名の反逆の闘争を仕掛ける形で、これまでの復讐をしようとしたんだ。だけど、こういう造反派は1969年には粛清されてしまった。
あれから11年経ったけれど、まだ幹部連中は造反の気骨を持った民衆を根絶やしにしようと躍起なんだよ」  
            
(虹影『飢餓の娘』関根謙訳、集英社、pp.243-244)


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<現代における最初の水戦争>
           
この戦争は領土と安全保障をめぐつて戦われたという見方が大勢を占めており、水の重要性についてはしばしば無視されている。だが、単純明快な事実はつぎのとおりだ。
戦前には、イスラエル領内にあったのはヨルダン川流域面積のわずか10分の1以下だったが、最終的には、ヨルダン川はほぼ完全にイスラエルの支配下に置かれるにいたった。イスラエルはヨルダンから、かつての東側国境とヨルダン川に挟まれたすべてを奪った。 
          
そして、シリアからは、ガリレヤ湖の北東の山岳地帯、ヨルダン川の源流が流れでるゴラン高原を奪ったのだ。
           
六日間戦争のときの指令官であり、後にイスラエル首相となったアリエル・シャロンは、その戦争でのイスラエルの水文学的な動機については平然と認め、イスラエル側の言い分を説明した。
1960年代はじめ、シリアは水路を建設してゴラン高原からヨルダン川の水源の流れを変えてイスラエルから水を奪おうという敵対的行為に出たと、シャロンは自伝に書いた。
           
「六日間戦争が本当にはじまったのは、イスラエルがヨルダン川の流路変更を実力で阻止すると決定した日である。国境紛争は大きな意味を持っていたものの、流路変更は生死をかけた重大問題だった」

(フレッド・ピアス『水の未来』古草秀子訳 、日経BP社、p.262)


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(自民党の金権体質の根源)

高度成長時代:日本は高度に政治的な経済だった。
   
高度成長時代においては、どの産業が存在するか、その中にどの企業がいるべきか、設備投資の水準、そして価格水準にいたるまで、重要な決定は交渉
や陳情に影響されて決まっていたのである。市場でも官僚の命令でも、どちらでもなかったのだ。・・・「発展途上段階の国」が、その急速な発展に伴
う主要な政治的問題、すなわち発展が勝者と敗者を産みだすという問題を解決するには、交渉と陳情以外の方法はない。
   
高度成長時代を通して、政府の政策は、勝者の成長を助成するか、敗者の償いをするかというトレードオフ、言い換えれば、成長を促進する「戦略的な」
政策と、成長の果実を広くばらまくという、「償い的な」政策との間のトレードオフに絶えず直面していた。

(リチャード・カッツ『腐りゆく日本というシステム』)


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米中関係改善「ニクソン・ショック」(1972年、昭和47年2月21日午前11時27分)
         
米大統領ニクソンを乗せた専用機「エアフォースワン」が北京首都空港に着陸した。滑走路では周恩来らが出迎えた。・・・
         
ニクソンがタラップを降りるまでキッシンジャーら随行団は機内にとどまった。寒風の中で帽子もかぶらずタラップの下に立っていた周恩来も、降り立ったニクソンにひとり歩み寄ると、二人だけで固く握手が交わされた。
         
1954年ジュネーブ会議(朝鮮戦争終結)において米国務長官ダレスは周恩来との握手を拒んだが、それ以来続いた中国と米国の仇敵関係がようやく雪解けを迎えた。
         
しかしこれは日本の頭越しに電撃的に行われた米中関係の改善で日本では「ニクソン・ショック」と言われるほど衝撃だった。
                   
(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社)


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米国が設定する「敵」は、これまでしばしば変化してきた。
         
例えば1960年代に入ると、それまでの旧ソ連に代わって中国が「主要敵」とされ、「中国封じ込め政策」が米国のアジア政策の根幹にすえられた。日本国内では批判も強かったが、自民党政権はひたすら忠実に米国の「中国封じ込め」に「貢献」した。

ところが、ある朝眠が覚めてみると、日米の「共通敵」であったはずの中国と米国が、突如として和解したことを知らされることとなった。

(豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』岩波新書、p.iii)。


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日中国交回復(田中角栄内閣)
         
共同声明では「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府」であることを認め、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重する」と明記。         
これにより日本は台湾と断交することになってしまった。なお日華平和条約(昭和27年(1952年)4月に戦争終結を宣言し締結)については共同声明では触れず、日本側が記者会見で「存在の意義を失い、終了したと認められる」と表明。
                  
(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社)


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第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争、1973年、昭和48年10月6日)
   
ここでの、航空戦略「2つの教訓」
    
1. ミサイルの発達により戦車と航空機が従来ほどには戦場で君臨できなくなった。
    
2. 兵器システムの進歩により発見されたら撃破されることが確実になった。

  短時日のうちに双方に大きな損害がでて、一旦防衛線を突破されると速いテンポで侵略されてしまう。 (特に戦車の脆さが際立って証明された)


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日中平和友好条約締結(1978年、昭和53年8月8日)
       
1978年は、いろいろな角度から見ても象徴的な意味を持つ重要な年だ。その年の鄧小平の訪日に合わせ、中国で開催された日本映画週間は中日交流史に大きな足跡を残した。そして、この年の未に長年鎖国政策を実施してきた中国は、ようやく改革・開放政策を取りいれ、改革の春を迎えた。当時、経済的にその成果を確認できるものは何一つなかったが、それでも国民の多くが改革・開放を情熱的に支持したのは、外国の映画を見ることができたからだ。ここでいう外国の映画とは日本映画のことである。・・
       
日本人は諸悪の根源である資本主義のために路頭に迷い、苦しい生活にあえいでいる、とそれまでの政治教育によって多くの中国人は信じこんでいた。しかし、物が溢れんばかりに豊かで近代的な日本社会と、いかにも幸せそうに暮らしている日本人の生活をスクリーンやブラウン管で目の当たりにした時、遅れているのは中国人自身なのではないか、と誰もがショックを覚えた。
       
その意味で、日本映画は中国と世界との距離をわかりやすく教えてくれたばかりでなく、同時に強烈なインパクトをもって新時代の訪れを知らせてくれた。

(莫邦富『日中はなぜわかり合えないのか』平凡社新書、2005: pp.92-94)


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解放同盟や団体といううるさくてやっかいな相手、それをさばくことができ、仕切ることができる。それが、官僚としての優秀さを示すものとして評価されたのだ。これは、団体だけではなく、被差別の問題をかかえている自治体でも、同じことであり、場合によっては、より大きな要素となっていたとも考えられる。
       
これは、解放同盟はともかく、ヤクザにとってはまたとない、つけいる隙となった。
       
「団体」を組織して、被差別民への自治体の予算を獲得したり、融資を実現したりして、手数料を取っていたヤクザのうちには、こうした行政側の姿勢を見て、これをビジネスとしてやっていこうとするものが生じていった。「ビジネスとして」というのは、「」を看板にして、同和対策に関係のないところまで公共の資金を引っ張ってくる行為を始めていくことを指していた。
       
たとえば、土地・不動産関係の許認可ビジネスをやる。開発業者を顧客にして、農地の住宅地への転用、市街化調整区域の地目変更など、土地開発に必要な許認可を、「同和対策」を大義名分として取りつけ、手数料を稼ぐのである。あるいは、融資ビジネスをやる。

たとえば「同和対策」の名で中小企業信用保証協会ーー中小企業基本法に基づいて各都道府県に設けられている公的機関ーーに保証させて、金融機関から無担保で数千万の融資をさせ、手数料を稼ぐ。あるいは、「同和対策」としておこなわれている固定資産税の減免などの税制優遇策を使って、税務工作をやってやり、手数料を稼ぐ。
       
いずれの場合も、「同和対策」の看板は掲げているが、許認可先、融資先などはいずれも一般企業でもいい。そのほうが多額の報酬が得られる。このようなビジネスが成立していったところで、「エセ」が誕生したわけである。
       
この種のビジネスには、私が京都で仕事をしているころにいくつも遭遇した。たとえば、京都岩倉の宅地造成にからんで、山口組系の男がやっている同和事業組合を使って、市街化調整区域の線引きをやり直させた事例は、『突破者』にかなり詳しく書いたが、同じような例はいくつもあった。
       
京都では、「エセの帝王」と呼ばれた尾崎清光も派手に活動していた。尾崎は、1978年(昭和53年)に設立した「日本清光会」といういわゆるエセ団体を使って、中央省庁や地方自治体の官僚を徹底的に恫喝する手法で、広大なエセビジネスを確立して展開し、大儲けしたのである。

尾崎は「人権」「差別」という戦後民主主義理念が絶対に逆らえない、したがって官僚が対抗できないポイントを利用すること、そして「こらっ、ワシをなめとんのか!」「いのちが惜しうないんか」といった高飛車な恫喝をかましながら、机や椅子をひっくりかえすというむきだしの暴力、このふたつを駆使して、相手をやりこめた。

尾崎は、同時に、取り上げる問題とその周辺や、恫喝する人間とその周辺について、徹底した調査をしてネタを集めて、盲点を抉り出すのもうまかった。そして、複数のヤクザの組と提携しながら、恐喝ビジネスを「」の名の下に展開したのだった。
       
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、pp.280-281より)


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「日本のお役人というものは、日露戦争後のお役人というものは、・・・・・皆さん、ちゃんとしていらっしゃったのでしょう。しかし、地球や人類、他民族や自分の国の民衆を考えるという、その要素を持っていなかった。」
   
(「週刊朝日」1997年12月5日、『司馬遼太郎が語る日本、第74回』)


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犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。
      
(いいだもも『20世紀の社会主義とは何であったか』)


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戦後、多くの人が先の戦争ではだまされたという。みながみな口を揃えてだまされたというが、俺がだましたのだという人間はまだ一人もいない。・・・
  
実のところ、だましたものとだまされたものとの区別ははっきりとしていたわけではない。・・・もし仮に、ごく少数のだました人間がいるとしても、
だからといって、だまされた側の非常に多数の人間は必ずしも正しいわけではないし、責任も解消されるわけではない。それどころか、だまされるということ事態がすでに一つの悪である。
  
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
  
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。・・・
          
(伊丹万作『戦争責任者の問題』(昭和21年))