【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】「日本でいちばん面白い人生を送った男」

2021-06-16 22:59:20 | 転載
「文字の獲得は光の獲得でした」 344万回視聴された

[ハートネットTV] 不発弾で両目と両手を失って教師になる | NHK 2021/04/16

https://www.youtube.com/watch?v=C_Yftji3qf0  5分


==
==


不幸の始まりは不発弾の暴発

わが家の不幸は突然やって来ました。
 
それは敗戦の翌年、一九四六年七月十八日の朝でした。前日、近所の小川の岸に捨ててあった、無数の金属製のパイプ状のものが爆発したのです。(中略)

私は、光を失った自らの世界に、一筋の光が差し込んでくるのを感じました。(中略)

私は猛然と学習意欲を感じました。それまで押さえつけられていたものが一気にふき出すように、勉強したい、友だちが欲しい、外へ出たい、みんなと一緒に何かをしたい、そういうもろもろもろの思いが心を焦がしました。


https://www.npwo.or.jp/wp-content/uploads/2021/01/37fujinot.html

第37回NHK障害福祉賞 最優秀 「人と時代に恵まれて」 著者: 藤野 高明 (ふじの たかあき)


==
==


「日本でいちばん面白い人生を送った男」

「本当、田中のところにおって、こんな人についていけない、辞めようと思ったこともありますよ。『あんたの話は支離滅裂で、何言ってるか分からん』って。でも、田中は土建屋でも政治家でもないし、なんて言うか、革命家なんですね。複雑怪奇なんだが、本人にすれば一貫してるんで。財界の人も本当に分かってる人はいいけど、普通の人は付き合わんでしょ。ただ、夢を与える人だったね。私も色んな人に会ってきたけど、まぁ、とにかく圧倒されるよ。本人にもよく言ったけど、『あんたは、極端に言えば極悪非道かもしれんけど、一片の仏心があるから救われてる』って。やっぱり、仏心と言うか、信仰心みたいなのが最後に出るんです。侍の意識がありますから」

https://bit.ly/3wIalVi
「東京タイガー」 晩年は地球環境問題に目覚めた“革命家”


==
==


昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)親王の証言

「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」

「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」

「ある青年将校=私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです=から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました」

(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月)


==
==


「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。というのは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人間としてみることになり、それが日本には欠けていたということになります」 (井門満明・兵站参謀)
           
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)


==
==

       
日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。

われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。

(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.95)

==
==

日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。
     
太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
              
(司馬遼太郎『世に棲む日々<三>』)  

==
==

東郷茂徳外務大臣(1942年元旦、外務省にて)
       
「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
      

==
==

 <古山高麗雄『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
          
帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそう
である。
          
日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これには名目などない、狂乱の所行である。

==
==

ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった。

(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 165)

==
==

日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなくして軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで、統治したのです。
          
ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言ってもそのトップが軍人であっただけということです。実際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣された官僚などが多く含まれていました。また、「資源の獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積極的に進出しました。

海軍担当地域は、「未開発」地域が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
         
その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問題があると言えます。

(早瀬晋三『戦争の記憶を歩く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)
==
==
服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路攻略の無謀さ
(S17.7.18-S18.1.1)
         
標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナからポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わった。辻はここでも責任を問われなかった。

(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
                  
         
「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるようになってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しきってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
         
・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こしてうわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉のようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
                     
(小岩井第二大隊長の回想録より)
         
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.45-46)

==
==

ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
         
ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死者の3倍もの餓死者を出すという悲惨な結果を迎えた。まさに大東亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。

(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
        
「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦

このガダルカナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの戦いの全てに現れている
          

第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
           
井本熊男(当時・参謀本部作戦課)の回想
「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなければならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)でなければならぬ」
                    
(福井孝典『屍境』作品社、p.18)
           
大本営発表「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」

撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令
「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
               
(飯田進『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))

==
==

清沢洌『暗黒日記』(岩波文庫、p.39)
            
昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。
            
第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
            
第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
            
第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
            
第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。
            
第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
          
(清沢洌『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)

==
==

学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
          
東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運を扶翼し奉る日はきたのである」。
       
・特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
・1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
・学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死。(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
==
==


カイロ会談(1943.11)

ルーズベルトがチャーチルの反対を押して蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話しあった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャーチルにとっては中国はどうでもよかった。

(このあとルーズベルトとチャーチルはスターリンと会談するためにテヘランに行き、結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を
激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)

この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめて公式に共同声明した。

(粟屋憲太郎『東京裁判への道<上>』講談社、p.20)


==
==


「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍・最終最大の作戦
         
黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人
の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。
          
作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
          
入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
          
前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下により、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬のこと)。
          
日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」という名の軍隊の成員だったのだ。
          
すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。

しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だけではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。
         
(澤地久枝『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫 p194)


==
==

米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となったばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化していったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェルト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、こ
の関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやすいという相矛盾した性格を引き摺っていく。
   
(保阪修司『サウジアラビア』岩波新書、p.11)


==
==


1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回っいました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現できないほどだった。
             
呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。
             
しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました。
             
始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。

さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません。

それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです。

(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)

==
==


(カーティス・)ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさんの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。

(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、p.166)

==
==


戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字によれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだしたにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的批判を回避する常套手段となった。
             
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)

==
==


「天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに)授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
            
相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見棄てられる存在でしかないのか」

(小田実『終らない旅』新潮社、p.265)
==
==


八杉康夫上等水兵が回想する戦争
           
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。

『雪風』に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
            
いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
          
(辺見じゅん『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
        
==
==

「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
           
(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)

==
==

注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中のいくつかの死は続いていたということです。久米島での日本軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていました。
           
(目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)

==
==

学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉を失った。

(大田昌秀『沖縄の決断』朝日新聞社)


戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことばかりだった。
             
守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。

そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった。
             
この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。



大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧をめぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日のように見せつけられたとも述べている。
            
「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随見しました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めていたんです」

(佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)

==
==

アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
             
「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引きつげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりのチェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしない。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていったんだ。

家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビルも内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとびこんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
んな窒息してしまった。……
             
私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねばいいとおもった。
             
たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なんだ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな兵隊特有の近視眼的発想があった」。
               
(近藤信行『炎の記憶』新潮社、p.201)

==
==

ソビエト軍の満州進攻(対日宣戦布告 S20.8.8)
         
モロトフ外相

「日本はポツダム宣言の受諾を拒否したので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくその基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連の対日参戦を提議した。ソ連はポツダム宣言に参加し、明日、すなわち8月9日より、日本と戦争状態にあるべきことを宣告する」

==
==


生粋の紙幣について語ることができるようになるのは、1694年のイングランド銀行の創設によってはじめてである。
その銀行券が、決してもろもろの公債証書ではなかったからである。その他すべての手形と同様、それらもまた国王の戦債に根ざしている。
このことはどれほど強調してもしすぎではない。もはや、「王への負債」ではなく、「王による負債」であるという事実が、その貨幣をそれまでの貨幣と大きく異なったものにした。
多くの意味で、それはそれ以前の貨幣形態の〔反転した〕鏡像だったのである。イングランド銀行が創設されたのはロンドンとエディンバラの商人40人
ーーその大部分が既に国王への債権者であったーーからなる協会が、対仏戦争を援助するため、国王ウィリアム3世に120万ポンドの融資
をおこなったときであることをおもいだそう。その見返りとして銀行券発行を独占する株式会社の結成を許可するよう、彼らは王を説得した。
そして、その銀行券は、「事実上、王が彼らに負って〔借りて〕いる額面の約束手形だった」のである。
これが世界初の独立した国立中央銀行であり、それは小規模の銀行間でやりとりされている負債の手形交換所となった。
その手形が、まもなく、ヨーロッパ初の国家紙幣に発展していくのである、、、ここでわたしたちは奇妙な逆説に直面する。
資本主義と関連づけられるようになった金融装置を構成するほとんどすべての要素ーー中央銀行、債権市場、空売り、証券会社、投機バブル、証券化、年金といったーーが、経済学という科学のみならず、工場そして賃労働にさえ先だって出現していたのである。
このことはおなじみの見方に対する真の挑戦である。

デヴィッド・グレーバー「負債論」501p、509p

【永岡浩一さんからの通信】 2021年06月16日 午後 8:42

2021-06-16 22:51:40 | 転載
ポリタスTV(2021/6/16) 津田大介&島岡まな 性行為同意年齢引き上げ問題、立憲本多氏の問題発言から性的同意問題、与野党、左右を問わず日本のオッサンの前時代的性的な発想、女性の人権より家父長制重視の封建社会の後進国・日本の問題点を考える


 永岡です、ジャーナリスト津田大介さんのポリタスTV、立憲民主党本多氏が50歳と14歳の性行為に言及した件で、性行為同意年齢の問題点、大阪大学大学院法学研究科の島岡まなさんが出られました(https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ )。概略書き起こしします、これは明日以降も無料で見られます。この件はやはりテレビでは報じられず貴重です。

 毎週水曜日お馴染みの文春オンライン、平井IT大臣に官製談合防止法違反のスキャンダルが載ります(https://bunshun.jp/articles/-/46212 )、ツイッターでは平井氏、議員辞職ものだとの指摘もありました。この件と五輪デタラメ、ジャーナリストの斎藤貴男さんが日刊ゲンダイで指摘されています(http://www.asyura2.com/21/senkyo281/msg/463.html )。オリンピック反対のテレビはほとんどありません、そもそも中止の署名の提案をされた宇都宮さんをテレビに出すべきなのに出さない、テレビは今でも高齢者への影響力は大きく、そしてその世代は64年の五輪で東洋の魔女がソ連を倒したのに熱狂したもの(母から聞いた話だと、当時のテレビは太平洋戦争末期のソ連参戦への復讐のようなものであったそうです)、ちょっと怖いです(ポリタスTVのゲストがテレビのレギュラーなのはほとんどありません!)。

 ポリタスTV、本多氏の発言は性的同意年齢を上げることに反対の本音、それもリベラル系にあるものが問題、最初に報じられたのは6/4、産経の報道、6/8に朝日が本多氏の実名報道、本多氏に批判、1ヶ月経ち、島岡さんは複雑、本多氏に会い失礼と思い、寺田座長から謝罪メール、島岡さん、リベラル政党でいいのかと問い、寺田氏、これで膿を出して生まれ変わりたいというもの、6月に中間報告書、本多氏の意見もあり、中学生と成人の性交は認められないと結論になり、島岡さん評価して、しかしその後抵抗にあい止められたと思い、産経の記事は党内で押し返されるという意味でのリークと予想。

 津田さん、政治のデタラメもあり、勉強会、座長の謝罪もあり、島岡さんの意見も入れた、立憲民主党として性的同意年齢の引き上げの方向がダメになり、立憲がぶれて、党としての対応は島岡さん疑問、産経の記事の後、福山市、名前を公表しないで言い、本人が謝罪撤回というものは島岡さんおかしいと思い、世論が盛り上がり撤回でみっともない。津田さんもみっともないと説かれて、イデオロギー的に反対の産経に叩かれて厳重注意は問題、党としての対処は、立憲の支持者の批判もあった。

 この発言に対して、産経が嬉々として報じて、公明党も叩き、しかしこの問題を放置したのは自公与党だと津田さん説かれて、議員立法すべきと説かれて、寺田氏、中学生の同意について公式コメント、本多氏謝罪、島岡さんは会議をズームでやるのにPC1台のみ、一人しか映らず、発言者がPCの前に来ない、島岡さん、立憲に性交同意引き上げに反対のものがいるときつく言い、本多氏、自分だが、何が悪い、青少年保護条例が自治体にあるというので島岡さん唖然、島岡さん、それは議員の資質、条例ではなく刑法で取り締まれと指摘すると本多氏イライラして、女性に反論されて頭に来た単細胞、どんどん声が大きくなり、島岡さんが絶対に引き上げるべきというのをバカにして、絶対と言った学者はいない、しかし島岡さんはその手の差別を何度も見てきてウンザリ。

 津田さん、本多氏は56歳、アラカン、14歳と真剣に恋愛ではない、引き上げは国際的な流れなのにそれをバカにしたものは大問題と怒られて、しかしこんな議員は与野党、左右関係なくいると怒られて、しかし本丸の議論は、2017年に改正、3年後に見直しになり、法務省の性犯罪の刑法見直しは被害者も参加して1年議論、取りまとめられて、刑法では、性交同意年齢は両論併記、さらに抗拒不能も点もあり、島岡さんは刑法の専門家、国際法の件、島岡さんが解説された動画もあり、許可を得てここで使用、13歳以上は暴行を立証できないと相手を有罪に出来ず、14歳が20代の男性から被害に会い、無罪判決もあり、義務教育の16歳までせめて引き上げるべき。

 ここで島岡さん、性犯罪の被害者保護、性教育なし、性的同意なしは問題、先進諸外国では対処されて、イギリスだと刑事責任年齢は10歳で性交同意年齢は16歳、これの一致を求めているのはどこかの島国のみ、そこでのみこんな乱暴な議論になっている!

 そして、子ども同士の性交について、島岡さんは、解釈で問題なしといるのは危険、16歳にして、その場合15歳同士のものは処罰されるのかについて、年齢差のない、同意のあるものは除くとしたら当該性のないものは除外できて、中学生はみんな罰するという道徳的な制約はおかしい。他方、地位、権力によるものは問題、16歳にして、年齢差のないものは考慮したらいい。

 公訴時効の問題もあり、被害者が認識するのにそれを越す時間が要り、島岡さんは2017年の前から時効を伸ばすべきと主張、被害の重大性があり、証拠を集められず起訴できない事例と異なり、可能性すら奪い、被害を思い出し、今は写真など証拠があり、永久に時効はなくすべき、公訴時効停止は必須、日本はジェンダー後進国。フランスだと48歳で幼児性虐待に気づいて時効になったが、ドイツだと認められるとその方は主張して法は変わり、性犯罪の被害者救済は急務、時効はなくすべき。公訴時効は開始を25~30歳にして、時効は20年とすべき。今後の法制審を監視して被害者の人権を守るべき。



 津田さん、国際的な潮流を問われて、島岡さん、性犯罪規程の本が出て、性交同意年齢、刑事責任の年齢があり、日本だと後者より前者が上はおかしいというが、国際的にはそんなアホな話は少なく、韓国も13歳から16歳に昨年なり、ジェンダーギャップ指数を韓国は急速に改善している。16歳の国が多く、フランスも15歳になった。海外の先進国だと対等な関係でないと恋愛と認められず、性的搾取と見るのが先進国。津田さん、日本はジェンダーギャップ指数最悪、どうして問題にならなかつたかと問われて、島岡さん、日本だと2017年に強姦罪改正、当時の松島法相の判断、しかし法曹界、大臣もオッサンばかり、妻は夫の言いなりになれ=夫婦間でレイプは成立しないというトンデモ、女心と秋の空とすら書かれて、簡単に貞節を捨てるなと何十年も書かれて、戦前の男尊女卑、夫に妻は隷属しろ、DVされて当然という女性の人権無視。レイプは強い暴力でないと認めないと、何と2012年に書かれて、家父長制を守る、女性は抵抗しろ、守るのは女性ではなく家という差別主義があり、それでも同意年齢13歳は考えるべきと結論、津田さん唖然、何を罪に問えるかはオッサンが決めて、国会議員、法務省も大半男性、女性救済にならなかったのに津田さん唖然、教科書で家父長制を21世紀に認めていた、女性の法律関係者も声を上げられず唖然、島岡さんが2012年に批判する前は強姦罪の問題は指摘されず。

 男女にステレオタイプが法律にあり、当事者の求めていた不同意性交のことなど取り組まれず、津田さんも唖然、島岡さん、犯罪でないものが犯罪にならないようにというが、ヨーロッパは死刑なし+人質司法なし、取り調べに弁護士立ち合いは当然でそれがあると防げて、被害者の保護もない人権後進国!弱さのしわ寄せをより弱い女性、性的マイノリティに押し付けて、法務省など犯罪とならないものを狭める前に、取り調べの可視化で冤罪をなくすのが先と説かれて、津田さん、昨夜強行採決の土地規制法は犯罪でないものが弾圧されてダブルスタンダードだと批判されて、そして性的同意年齢の引き上げにより、子供たちの自由恋愛はどうなるの議論もあり、そして子供の自己決定権であり、親の子供に対する管理監督強化のパターナリズム強化の懸念もあると説かれて、島岡さんは、日本人はよく知るフランス人より人権がわかっていない。フランスのように警察の介入する国家ではなく、日本は欧米よりロシア、中国、DPRKに近いのにそれを国民が理解していない。しかし、現実はすぐに変化は困難で、まず性交同意年齢引き上げは人権社会の一歩。フランスでもジェンダーギャップは15位、性犯罪のことをきちんと考えて、フランスは無罪にする弁護士が法務大臣になれて、映画「私は確信する」、字幕を島岡さん監修されて日本でも2月に大都市で公開。

 フランスの方針はほとんどの先進国でやっていて、日本のような後進国とは異なる。津田さん、不同意性交、抗拒不能の場合はペンディングと説かれて、島岡さん、スウェーデン型の立法を求めたい。自発的に女性がやらないと犯罪。ドイツだと黙っていたら同意と抵抗義務を求めて、しかし日本だと立法不能、せめてドイツ型のものにすべき。

 男性の方が責任を取るべき、夫婦間も同意があっても暴力による性行為は犯罪。最初に同意を取り、嫌と言われたら止めるべき、日本で同意の理解がなく、性教育、セックスのものではなく、対等な関係を作るためのものが必要。同意ない性行為は犯罪、スウェーデン型の社会にすべき。審議会は被害者を配慮する人が委員になるべき。

 津田さん、こういう問題はようやく注目されてもまだまだ改善されず、今後の課題を問われて、島岡さん、法務審のメンバーに被害者支援の女性参加は法務省で初、不同意性交、配偶者強姦なども議論されて意味はあり、法制審で進めざるを得ず、メディアの一押しがあると変わる。津田さん、かつてなら両論併記にすらならず、そして積み残しは多数あり、不同意性交は問題、フラワーデモもあり、今後に必要なものは何か、島岡さん、ジェンダー差別解消、国際的な人権基準にすべき、日本は海外と異なるという言い分は成り立たず、この件、日本学術会議の提言も出て島岡さん参加、この件のオンラインシンポジウムも来月する、津田さん、民主主義の普遍的なもの、G7でも認められて、しかし性暴力は日本だけ違うは言えない。島岡さん、本多氏は基本的人権を理解せず、2016年に日弁連は看護者でも同意と見なさないもので、アンコンシャスバイアスを持つエリートの跋扈は大問題。刑法改正市民プロジェクトで動画配信(https://www.youtube.com/channel/UCOlL-DShft_KXzTZrDBs8Ow )、サポーターも募集。津田さん、本多氏、立憲の問題もあり、性犯罪の問題は日本に人権意識がなく、ジェンダーギャップ、その背後に家父長制があり、津田さんもジェンダー平等を実践されて、今回の意義を説かれて締めくくられました。



 このような番組を見たら、日本が本当に後進国、野蛮国であり、それをマスメディアが報じず庶民は日本が先進国だと思い上がり(アジアの国を蔑視して)、そして日本の自民党と中国共産党が同じなのも理解できます。人権という意識がゼロ、これを変えないと日本破綻です、以上、津田さん、島岡さんのお話でした。




【色平哲郎氏のご紹介】この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない

2021-06-16 22:29:36 | 転載
清水 潔 @ NOSUKE0607 3時間

NHKなどが首相、官邸情報として「G7各国首脳がオリンピック開催を支持」したように報じているが、これは事実なのか?海外メディアなどはほとんど触れていない。開催反対の意見を封じるためにG7まで利用したのなら断じて許されない。もはやこの国の政府はまったく信用できないところまできてしまった。


==
==


<高見順『いやな感じ』角川文庫 p.154>
     
「あの中尉は俺にこう言ってた。軍人として国のために命を捧げるのはいいが、今の日本の、金儲けしか眼中にないような資本家階級のために命を捨てるんではやりきれない。奴らの手先をつとめさせられるのは、かなわない。こう言うんだが、あれも俺と同じ水呑み百姓のせがれなんだ。今のような世の中では、百姓が可哀そうだ。地主に搾取されてる百姓も惨めなら、資本家に搾取されてる労働者も惨めだ。彼らを縛ってる鎖を断ち切るために、世の中の立て直しが必要だと、こう言うんだ。自分たち軍人が、喜んで命を捧げられる国にしなければならない。今みたいでは、兵隊に向って、国のために命をささげろと言うのが苦痛だ。これでは、兵隊を戦場に連れて行って、むざむざ殺すのに忍びない……」


==
==


<高見順『いやな感じ』角川文庫 p.425>
      
「どえらい戦争をはじめたら、きっと日本は、しまいには敗けるにきまってる。どえらい敗け方をするにちがいない。だって今の軍部の内情では、戦争の途中で、こりゃ敗けそうだと分っても、利口な手のひき方をすることができない。派閥争い、功名争いで、トコトンまで戦争をやるにきまってる。そうした軍部をおさえて、利口な手のひき方をさせるような政治家が日本にはいない。海軍がその場合、戦争をやめようと陸軍をおさえられれば別問題だが、海軍と陸軍との対立はこれがまたひどいもんだから、陸軍を説得することなんか海軍にはできない。逸る陸軍を天皇だっておさえることはできない。こう
見てくると、戦争の結果は、どえらい敗戦に決まってる。そのとき、日本には革命がくる」


==
==


この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。すでに多年来、政府は内蔵する力も、また決意も持たない。軍部と官僚と財界と政党の諸勢力のまぜものにすぎない。以前は強力であった政党も汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数から軽蔑されている。

(リヒャルト・ゾルゲ『日本の軍部』)
      
・ゾルゲは事件後に陸軍統制派の覇権が確立し、日本は中国征服に向かうだろうということを正確に予言した。
==
==


彦坂忠義氏(当時東北帝大理学部物理学科助手)が
原子核の「核模型論」を提唱(1934年)。しかし当時は大御所ニールス・ボーアの「液滴模型論」が主流で相手にされなかった。結局1963年にイェンゼン
やメイヤーが全く同じ図形でノーベル賞を受賞したのである。日本は全くナメられていたのであった。
        
(『20世紀 どんな時代だったのか 思想・科学編』)

==
==

農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
   
農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。後進国が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」のために農民
は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と地租の国税に占める割合をみても判る)。

同時に「インド以下」といわれた農民は「強兵」のためにはあたかもグルカ兵のように、馬車馬的兵士として使われた。「富国」と「強兵」とは農民にとって本来結合しない政策であった。この農民の二重苦にもかかわらず、隊附将校は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をともにする立場に立たされていた。

そして幕僚は「富国」への体制に専念した。この「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融恐慌、昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓に育って」社会ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール国の危機であるという彼ら特有の信念を、いよいよ自明のものとしてうけとらせるのに十分であった。
              
(高橋正衛『二・二六事件』中公新書、p.148)

==
==

永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸軍派閥抗争)
(1935年、昭和10年8月12日)--->二・二六事件(昭和11年2月26日)へ
(東条英機は、このあと永田鉄山に代わり、統制派のエース格となっていった)

永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府の企画への陸軍の反革命だった(皇道派と統制派の対立抗争の帰結)。

詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっきりと理解していたように、弁護側が主張したのは、陸軍とは、そのメンバーを合意なしには代えてはならないとする、三長官(注:陸軍統制の三長官は参謀総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制によって管理される自主的な自治団体だ、と見なすことであった。この自治団体は「天皇の軍隊」であり、それを内閣の管理下におこうとするいかなる企図も、「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがって、相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいないにしても、頭のなかでは、天皇は帝位に装われたお神輿にすぎないことになる。1000年の歴史が、これこそまさしく日本の天皇概念であることを立証している。天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天皇は、その職にある人間が行なう進言には異議をさしはさむことなく裁可する自動人形(オートマトン)である。

1868年の明治維新は、天皇にそうした地位を創りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命の一部だったのである。
       
(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、p.101)

==
==

二・二六事件 (1936年)

歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と部下約1500名が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を手中に治めてしまった。
       
皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起隊の中心人物は野中四郎(のち自決)だった。
      
歩兵第三連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう。
      
真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない。
       

あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見たのは愚かであった。(竹島継夫の遺書より)
       

国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
          

ここで真崎甚三郎を縛ってしまったら、日本の陸軍は全滅するといってもいい。そこで、当時、北一輝のところに若い将校が出入りしていたものだから、結局北一輝らのこの責任を押しつけて、死刑にした。

(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.13)
       

昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件は真崎甚三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」(『二・二六事件』、中公新書p.175)と結論づけられるが、真崎の卑しさとでたらめは粟屋憲太郎『東京裁判への道<下>』(講談社、pp.129-136)にも簡潔にまとめてある。
日本ではいつもこういう卑怯で臆病なものどもがはびこるのである。

==
==

陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給されるようになって以来、彼等の人事権が確立し、外部の干渉を排して自らの組織を編成するという、官僚機構独特の行動が目立ちはじめた。ここに陸軍省と参謀本部の内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統制派の対立が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も官僚は白蟻のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮れている。結局依拠する基盤もろともに壊滅し、時には国家の存亡を殆うくする。日本は21世紀に入っても相も変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈している。


桐生悠々(政次)、二・二六事件から十日ほど後の発行
(三月五日の『他山の石』で「皇軍を私兵化して国民の同情を失った軍部」という見出しのもと、次のような批判を行った。

「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽が先きであると。だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか。疾くに軍部の盲動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとなく発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、漸く目
さめた。目さめたけれどももう遅い」
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.43)

==
==


軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに好ましくないが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし一度戦争の危機に立った時、国民の中には、戦争がはたして必至の運命によるか、あるいは何らかのためにする結果かという疑惑を生ずるであろう。

(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学新聞 S11.3.9) 
     
==
==

二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のものが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於て、それがファシズムの運動だということであり、第二はその暴力行使した一部少数のものが、一般市民に非ずして軍隊だということである。
         
二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革を行うに何の悸る所があろうか」という根本的な社会変革への誤りから出発した事件である。
(河合栄治郎、『中央公論』巻頭論文) 
              
(高橋正衛『二・二六事件』中公新書、p.23)


==
==

石原莞爾: 石原が中心になってこの事件を終息させたといえる。
         
「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。直接自分の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万である」
       
(石原莞爾は統制派の指導者武藤章とともに、鎮圧に向いて動き始めていた)
         
「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化しおって。即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をきかないと、軍旗を奉じて、討伐するぞ!」
        

事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治郎、武藤章だったが、後二者は官僚色、統制色の強い輩であり、精神的に皇道派的な石原莞爾は彼等(幕僚派、東条英機も)との軋轢をもつことしばしばであった。結局このことが石原の軍人としての経歴に終止符をうつことになった。

==
==

昭和天皇

「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
         
「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」

==
==

斎藤隆夫氏の粛軍演説

斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当時の広田弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して大した措置をとらせるには至らなかった。結局は皇道派の首脳を退陣させただけで、残った統制派が、我が世の春を謳歌することになっただけだった。

==
==

二・二六事件を官僚の視点で整理すると

(佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社 pp.168-169)

        
魚住 二・二六事件は統制派に対する闘争の面は否めませんよね?
        
佐藤 それはそうでしょう。そこで、逆にお聞きします。全共闘運動の中ではいろいろな内紛がありましたが、それぞれのグループは何で対立していたと思いますか。
        
魚住 私は全共闘世代よりも少し後の世代で、端から見ている立場でしたが、正直、どこが違うのかよくわかりませんね。
        
佐藤 そうでしょ。まさにそれが皇道派と統制派の対立なんです。彼らの中では大変な対立で、場合によっては殺し合わなくてはならなくなるのですが、私たちにはわからないんですよ。全共闘型の内紛が軍事官僚の中で起きたと考えればいいんです。
        
魚住 なるほどなあ。二・二六事件を官僚という視点で整理すると、30年代までの平和な時代において軍縮条約が結ばれるなど、軍事官僚の存在意義を問われるような状況が起きた。そんな時代に自分たちの自己保存を図ろうとした象徴的な行動が二・二六事件だったということでしょうか。
        
佐藤 そうだと思います。蹶起することで非日常的な状況を日常的な状況にする、つまり、常に軍事官僚の存在意義があり、自分たちの安楽な椅子を増やせるような状況を作り出すということですね。
        
魚住 二・二六事件で皇道派は潰されましたが、結果としては少なくとも軍事官僚の自己保存運動としては成功したわけですね。
        
佐藤 そう、うまくいったんです。しかし彼らは国家全体が萎縮した: 軍が動くことの恐ろしさを目の当たりにすることで、マスコミも学者も経済人も政治家も萎縮した)ところで勢力を伸張したものですから、ビューロクラシー(官僚政治)に陥ってしまったのです。社会全体を自分たちが理解し、統治できると。実際、後に1940年体制と呼ばれる統制経済システムの構築に成功しましたね。
           
   一方で、戦争を機能的に遂行できるテクノクラート(技術官僚)の側面が弱くなり、太平洋戦争で悲惨な敗北を喫し、軍事官僚システムは崩壊してしまいましたが。しかし、非軍事官僚は整理されずに生き残って、戦後の官僚機構を形成していきます。彼らもビューロクラシーに染まっていた。これは感覚的なレベルですが、現在にまで続く日本の官僚制の宿痾は1930年代の軍事官僚にあるのではないでしょうか。


==
==


・スペイン内乱(1936~1939年): 航空戦力が現実に試された。
       
都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。航空輸送の重要性も判明。
      
(リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争」服部省吾訳、東洋書林)


・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊 Legion Condor が、バスクの山村ゲルニカ Guernica を強襲空爆して死者千数百人を出して壊滅させた。
再建されて僅か4年のドイツ空軍力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見せつけた。

ゲルニカ爆撃がアメリカ、イギリス、フランスなどの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」という謀略宣伝に努めた。画家のパブロ・ピカソはパリ万国博覧会のため壁画を依頼されており、憤怒を込めて『ゲルニカ』を描きあげた。


==
==

【色平哲郎氏のご紹介】「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」

2021-06-16 21:47:23 | 転載
米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
    
米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣
の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にしたことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツ
の一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとするファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろ
う。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃をうけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめ
ていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦争突入の足場をつくって行くのである。

(実松譲『米内光政正伝』光人社、p.206)


==
==
日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。
(他は満州事変、ノモンハン事件)

==
==
●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●

これが大東亜戦争への「ポイント・オブ・ノー・リターン」だった。
近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめから不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作戦の礎石と考えていた。
       
過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。   
   
(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)


==
==
<米内光政の名言>
「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾うに過ぎざるべし」
           
「ヒトラーやムッソリーニは、どっちへ転んだところで一代身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさるというなら、言語道断の沙汰である」
「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」
「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」
           
(阿川弘之『大人の見識』新潮新書、p.123)
==
==
近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
         
三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣(山本五十六・米内光政・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱にして辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
            
『小倉庫次侍従日記』(「文藝春秋」2007年4月号)
==
==
「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
       
南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。

これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。

中国側はこれを「三光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのである。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多くなっている。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.18-19)

==
==

軍隊というのはカルト教団だ
            
あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人間として扱われません。そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の下に人を作りました。
            
彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。
            
階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日本のトップの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・
            
軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
・・・
            
昭和10年代のわが国はカルト教団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖国のために一命を捧げた人を英霊だの、醜の御楯だのと言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。
            
しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。・・・
            
(大東亜)戦前は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。
            
やむにやまれぬ大和魂、などと言いますが、なにが、やむにやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などという言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇ですか。統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われます。

しかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(p106)

(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)


==
==


死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜びとすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加えておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。

たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときにあわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の意味で醜態であった。
・・・(中略)・・・
        
「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなことがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要していながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた。
        
戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者に都合のいい〈臣民の道〉であった。

(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203)

==
==
・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
       
これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
    

・独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
       
独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
    

・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。


==
==


アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
             
<軍令部総長、永野修身の上奏>
         
こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちはすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメリカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
         
「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
           
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)


==
==
・通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
(昭和16年11月26日)
      
中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)


・昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
       
「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。


・大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
     (昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:
      ホノルル7日午前7時55分、ワシントン7日午後1時25分)
       
当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調された。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったことに注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
            
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)

==
==

重松譲(当時ワシントン駐在武官・海軍)の証言
         
「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。
私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかったんだ」
         
「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利用されただけだ」
         
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』)

==
==

腰ぬけ知識人だらけの国

戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
          
こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。


それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんにはいなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけではなかったか。……

……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
          
真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。


こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのである」。         
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)


==
==

「歴史的意思の欠落」
         
日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。
・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワイトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
        
・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
         
この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すべて相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみだけがある。
         
日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。

蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その
前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・・
         
私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も、最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
         
・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえない。

(注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなるので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
        
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』334ページ~)

==
==

実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
          
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
          
1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
          
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。
          
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。
          
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和

8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援ている。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏工作も達者であった。
          
そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。
          
昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。

以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
          
この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。

(保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88)


==
==


陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
        
・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対
・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
              
(三野正洋『日本軍の小失敗の研究』)
==
==


「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
          
第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン、蒋介石、ヒトラー、たとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。
          
確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(注:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、などというアホウな話は出てこない。

確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていいー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたがー-。

(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)
      
==
==

          
兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたということになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱いにしない作戦にと変わっていったのだ。
           
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)

        
==
==
そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り換えている。
          
食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
           
「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
          
この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。

(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 168)

        

【色平哲郎氏のご紹介】儲かる金属==「脱化石」で株価が3ー4倍に急騰

2021-06-16 21:33:06 | 転載
戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。
平和について議論する必要もない。
だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときは、
とても危ない。  田中角栄
==
==
儲かる金属==「脱化石」で株価が3ー4倍に急騰
EVと再エネでぼろ儲けの金属資源の裏に国家戦争の影
週刊エコノミストオンライン
https://bit.ly/3gpJYMY
==
==
再生可能エネルギーやEVなどに多く使われる非鉄金属・レアアース
==

再生可能エネルギー  発電・蓄電池
・風力発電  銅、アルミ、レアアース
・太陽光発電  インジウム、ガリウム、セレン、銅
・地熱発電  チタン
・大容量蓄電池  バナジウム、リチウム、コバルト、ニッケル、マンガン、銅
==

電気自動車・燃料電池車  蓄電池・モーターなど

・リチウムイオン電池  リチウム、コバルト、ニッケル、マンガン、銅
・全固体電池  リチウム、ニッケル、マンガン、銅
・高性能磁石  レアアース(ネオジム、ジスプロシウムなど)
・燃料電池(電極・触媒)  プラチナ、ニッケル、レアアース
・水素タンク  チタン、ニオブ、亜鉛、マグネシウム、バナジウム
==
==
「ワシントン(米国)は、カナダを鉱物供給のための51番目の州とみなすようになっている」
・・・
 
すべては2050年のカーボンニュートラル(温室効果ガスの排出実質ゼロ)に向けた世界の動きがなせる業だ。
炭素ゼロの柱となるのはEVと再生可能エネルギーである。ここに大量のレアメタル(希少金属)やレアアース(希土類)が使われる。
「EV100万台を生産するには、リチウムイオン電池の主原料であるリチウムで年7150トン、コバルトで年1万1000トン必要。この量は18年の日本の内需に匹敵する」
 
この試算は2月に公表された資源エネルギー庁の「2050年カーボンニュートラル社会実現に向けた鉱物資源政策」に載った。テスラが30年に目指すEVの生産台数は、この試算の20倍の2000万台だ。 
EV1台に使われる電池はスマホ1万台分、洋上風力の大型蓄電電池はEV数万台分の電池が必要とされる。
 
問題は電池やモーターに使う資源が、特定国に偏在していることだ。リチウムはチリとアルゼンチン、電池のエネルギー密度を高めるコバルトはアフリカのコンゴ民主共和国、高性能モーターに欠かせないネオジム磁石に使われるレアアースは中国といった具合だ。
 
産出国の偏在だけではない。例えばコバルトはスイスの資源商社グレンコアと中国資本で生産の6割を占めている。米国がカナダを51番目の州と捉え、企業と国ぐるみで戦う背後には「資源獲得戦争で負ける」という危機感があるわけだ。
==
==
==
==
==
これって、日本は「主要国」の中の味噌っ滓ということでしょう。と言うより、日本は途上国へのワクチン支援をする側ではなく、むしろしてもらいたい後進国の側だということである。にもかかわらず1カ月後には五輪大会を開催するので是非開会式に来て貰いたいと首脳たちに呼びかけるという、相手から見たら完全に支離滅裂な行動に出、そう言われたら「いや、私はちょっと…」と無碍にはできないから、「開会式には是非参加したい」くらいのお世辞は言うだろう。それを「成果」であるかに首相が誇り、外務官僚やマスコミがそれを称えているのが、この国がコーンウォールの地で晒している恥ずかしい姿である。

https://bit.ly/3gmDEHf
==
==
==
==
==
G7首脳に「支持」された五輪、残った重い課題 
毎日新聞 2021/6/14 22:39

菅義偉首相はG7サミットで、1カ月余りと迫った東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、各国首脳から「支持」を取り付けた。新型コロナウイルスの感染拡大への不安から国内に慎重な意見が根強くある中、国際社会で開催を既成事実化した格好だ。ただ、首脳宣言では「安全・安心な形での開催」が支持の事実上の条件となっており、重い課題は残されたままだ。

https://bit.ly/2SwYFG8

70のパラグラフから成るコミュニケの最後にほんの少し
70. In Cornwall we have revitalised our G7 partnership. Our Shared
Agenda for Global Action is a statement of our shared vision and
ambition as we continue to collaborate this year and under future
Presidencies. As we do so we look forward to joining with others to
ensure we build back better, in particular at the G20 Summit, COP26,
and CBD15 and the UN General Assembly, and reiterate our support for
the holding of the Olympic and Paralympic Games Tokyo 2020 in a safe
and secure manner as a symbol of global unity in overcoming COVID-19.

文字通り、”in a safe and secure manner"に挙行することに対する支持です

--

【永岡浩一さんからの通信】 2021年06月14日 午後 9:03

2021-06-16 21:23:58 | 転載
MBSラジオ ニュースなラヂオ(2021/6/14) コロナ国会、会期末の攻防、山田恵資さんのお話&亘佐和子さんによるコロナ陽性者、濃厚接触者の災害避難報告


 永岡です、MBSラジオの月刊ニュースなラヂオ(月刊15回目、通算122回)、今月も新聞うずみ火代表の矢野宏さんの司会、フリーアナウンサーの北口麻奈さんのアシスタントで放送されました。ニュースキャスターは福本晋悟さんでした。

 ジャーナリストの平野幸夫さん、平井IT大臣の醜聞から菅政権のデタラメをブログで指摘されています、https://ameblo.jp/hirano-yukio/entry-12680514240.html (この件、ポリタスTVでも取り上げられて、青木理さん、平井一族はメディア一族、平井氏3代目世襲、パワハラ、言うことを聞かないのは干すというのは甘い汁を吸わせるところにさせるのと同義、平井氏は周囲から恨みを買ってリークされた、この朝日デジタルの報道の意味も語られました、そして平井氏のリークのされ方と、菅原氏のリークのされ方は同じ、よほどひどい奴だと批判されました)。また、赤木ファイルに関する女性自身の記事、相澤冬樹さんのものがネットに載りました、https://news.yahoo.co.jp/articles/3767a2e4df34907a280a04e3a27b27048c5dfc9a?fbclid=IwAR1cWWL6x2Hqpel1aB4RczG718g-E2I90Kkpv_KPHvXdbUsgYrRJdxWrxTc 

 ニュースなラヂオ、五輪まで40日を切り、コロナは収束せずワクチンはG7最悪、デルタ株の猛威、10万人選手、関係者の入国、ここまで来たらやるしかないというのは矢野さん、真珠湾攻撃と同じ(=黙認したら80年前の惨劇再来)だと説かれました。

 福本さんのニュース、G7を終えて菅氏帰国、国会、二階氏、森山氏と野党の求める会期延長を拒否、野党4党は内閣不信任決議を明日提出、枝野氏、延長に応じない、命と暮らしを守れていないというもの、内閣不信任決議は2年ぶり、出たら菅氏は解散というものの、菅氏、20日の期限の緊急事態をどうするか、菅氏は日本の感染者数は減少でも人流は減らず、緊急事態宣言、大阪ではマンボウにする、そして五輪の観客、菅氏は入れたい、専門家は無観客を求めています。

 政府が対策の切り札としている大規模接種、予約が余り、加藤氏、一般からも接種、時期・方法は防衛省で決定というものの、暫定的な措置、65歳以上の高齢者は打ってほしいというものの、自衛隊員に接種するか未定。矢野さん、大規模接種は菅総理の決断だが、海上アクセスが悪すぎてそっぽを向かれて、政府は外出するなと言って遠方に来いと言うのは無責任だと説かれました。

 東京の感染者数は下げ止まり、緊急事態の県でも同様、全国で感染者数増加は1000人を切るのは3月以来。

 東芝は一部株主の権利行使妨害について謝罪、一部の役員と経産省の仕業、取締役候補などを退任、東芝は指摘を重く受け止めていると言い、運営体制改善、経営の混乱は前社長の責任というのです。

 日韓はG7で会談の予定が、韓国の報道だと日本がキャンセル、日本側はそれを否定、G7で菅氏、文氏とあいさつしたのみ。加藤氏は報道を否定してスケジュールでできなかったというのです。

 作曲家の小林亜星さん88歳で死去、俳優としても活躍された方です。



 特集は国会と五輪、会期延長などを巡り与野党対立、政治記者暦30年の時事通信解説委員の山田恵資(けいすけ)さんがお電話で出演されました。コロナ対策、五輪は出来るのかなど山田さんの解説がありました。

 コロナ拡大、緊急事態もあるのに国会は明後日まで、国会の延長はなく、ワクチン接種、そして菅氏の党首討論をテーマに考察、野党が不信任、リスナーより解散歓迎、五輪なくなるとの声があり、山田さん解散はない、二階氏は解散を「進言」するのみ、菅氏に解散の意図はないと二階氏も知り、野党より党内にキングメーカーのアピール。

 不信任案は否決されて、閉会。リスナーよりコロナが収束せず閉会するのかと意見があり、山田さん菅隠し、コロナ対応、国民は不満、菅氏の支持率は激減、政権が追及される場面は避けたい、都議選は6/25告示、それに悪影響になる、菅氏が野党の標的は避けたい、国民より命、国会は非常事態だと、国民への情報提供の場で、与野党のやり取りは国民に必須、閉会中審査では不十分、国会は続けるべき。通年国会でやるべき。

 矢野さん、G7と五輪について、G7首脳宣言に五輪実施を取り付けて、国内の反対論を制圧だと説かれて、山田さんその通り、外務省の根回しでG7は支持で、しかし国民の要求は無視、国民は五輪を不安視、医療逼迫、五輪後のパンデミックがさらに問題なのに、五輪のみの支持ではダメ、山田さんの採点は50点がせいぜい、今国が大変だとアピールすべき。

 菅総理の党首討論、山田さんの注目されたのは維新の片山氏とのやり取り、五輪は東京都がやるのに菅氏が批判されているが、小池氏が出るべきというもの、小池氏との連携を問い、菅氏は自分の言いたいことを言ってくれてありがとう!であり、これについて山田さん、二人の出来レース、相撲のしょっきり、片山氏は自民の人間でありヤラセ、小池氏攻撃、小池氏にも責任はあるが最終責任は菅氏、五輪の成功不成功は都と組織委だけでなく、日本全体の医療に関わり、いくらIOCがゴリ押しでも全体の一部、菅氏の総理としての責任は医療で果たされていない、小池氏をかばう気はないが、ここでは菅氏の責任回避、小池氏も責任回避で責任のなすり合い。

 菅氏は57年の思い出話をして、山田さんは当時6歳で記憶なし、こんなことを語る感覚に大問題。矢野さん、菅氏と小池氏は中が悪いかと問われて、山田さんその通り、自民から見て、2017年の都議選で自民惨敗、2016年の都知事選に自民の反対を押して出て圧勝。安倍政権の際に希望の党、もう少しで安倍政権は危うく、自民、菅氏として小池氏は敵視している。二人の関係は悪く、以来わだかまり、しかしここにきて、小池氏も五輪をやりたい、いろいろ考えて、反対にちゃぶ台返しはあり得たが、国民、都民は五輪反対でも、小池氏に実績なしで五輪しかなく、菅氏は五輪成功→選挙、呉越同舟、小池氏、菅氏の対立のものがある。

 リスナーより、政府は本当に五輪するのかとの声が殺到して、山田さん、医療の危機、秋以降大変だと国民は不安だが、何が何でも五輪をやる、五輪をやるのに国民は反対でも、昨年の延期で今年の開催は決まり、やめるというのを決めるのはなかなか困難。リスナーよりも五輪にこだわる裏事情はあるのかと問いがあり、山田さん、900奥のチケット代、菅氏の実績つくり。アメリカが支持するのは中国との関係、中国は来年五輪、日本中止だと中国は大きな顔をできるから、それでアメリカは日本を支援している。国際関係もある。

 矢野さん、尾身氏の反対を問われて、山田さん、感染症の専門家は五輪中止、菅氏は絶対にやりたい、尾身氏は医師と行政の二面があり、尾身氏は病院のトップで政府の人間、しかし尾身氏は、菅氏が五輪をやるので、五輪後パンデミックの際に逃げる道を作り、尾身氏の保身、尾身氏の発言を政府は聞くべきだが、もっと早く尾身氏は提言せず、そんなに真剣に菅氏は聞かない。

 そして、党首討論で、やはり片山氏、任期満了かと聞いたものを取り上げられて、菅氏はコロナ対策優先というものの、任期は10月まで、解散しないのは76年の三木内閣、山田さん、可能性は二つあり、パラリンピックの直後屁に解散、そして任期満了を菅氏否定せず、任期満了は追い込まれではなく、コロナで解散総選挙は遅い方がいい、問題はワクチン、10~11月に希望者に接種を終える、集団免疫、秋になるとワクチンの効果の出るのを期待している。リスナーより、五輪だと感染拡大で自民は不利かと問いがあり、山田さん、五輪で人流は激増して、変異株は危惧されて、余計にワクチンの時間稼ぎ。10/21の任期満了だと、11月の投開票までOK、それを菅氏は狙っている。

 矢野さん、解散しないと自民党の総裁選はどうかと問われて、山田さん、総裁選を伸ばすのはあり得て、一時菅おろしが自民の中であったが、総裁選は選挙の後にするのはあり得る。矢野さん、野党は今の方が自民の票を取れるかと説かれて、山田さん、解散でも任期満了でも野党に不利にしたいので、ただし、選挙は投票するのは国民、政権の狙いの外れることもあり、野党のやり方になり、自民が有権者を甘く見たら怒りの投票になり、しかし野党の有利な解散はない。

 党首討論、菅氏について、山田さんは困っている人を助けるべきなのに出来ていないし、野党もその点立憲民衆党の立場、野党第一党の地位について満足ではいけないと説かれました。



 10分で現代を解説のコーナーは亘佐和子さんによる新型コロナの自宅療養者、濃厚接触者は大阪だと風水害の際にどう批難したらいいかの解説でした。今朝も豪雨、複合災害が危惧されて、コロナで避難所は密だとアウト、在宅避難が必要、ハザードマップを見て、浸水区域以外、マンションの上にいる人は自宅で避難。避難所だと入口で検温、熱があったら別室というのがガイドライン、避難所で間隔を取る、換気をするなど必要。

 矢野さん、濃厚接触者になり、その際に地震だとどうかと亘さん問われて、矢野さん、そこまで考える余裕はなかったと説かれて、亘さん、自宅療養者の避難先確保は必須、MBSのある大阪はどうか、各地に電話で取材、大阪は第4波で大変、自宅療養者は今4000人、5月には18000人、コロナで入院できたのは1割、自宅療養の方は、災害時にホテルに避難、ホテルを15か所4000室大阪は確保、うち14か所は大阪市内、ホテルの空いているところに行くが、いざという時宿泊療養を望む人は先にハザードマップを見て、区役所に登録が必要、感染、陽性になった時点で指摘されて、避難が要ると区役所からこのホテルに行くように指示。しかし感染させないだめに移動するのに、バスが近くまで迎えに来てくれて、バスが何時に来る、バス停まで自力で行かないとダメだが、そこからバス。

 亘さん、宿泊療養のホテルは一杯かと思い、しかし利用率は7%、空きばかり、入院できない人が多数いるのにホテルはあまり使われず、なぜ自宅療養が増えたか、コーディネートする人がいない、ある感染者はそれから2週間保健所から連絡なし、若い人は後回し、この方の家は寝屋川のそば、それもレベル3の高齢者避難の寸前、その時に療養期間は終わっていたが、しかし台風の季節だと区役所、保健所はパンク。

 矢野さんのような濃厚接触者は、感染しているか不明で、その場合ハザードマップで調べて、大阪市は濃厚接触者専用の避難所を作り、しかし場所は非公表、いやがらせ対策、濃厚接触者は区役所に登録が必須、一般の避難所に行き、濃厚接触者のためにところに誘導されて、亘さんは、自分の命は自分で守るしかない、コロナ陽性がわかってからだと大変、日ごろからの情報は必須。コロナ+水害、地震も考えるべき。

 大阪以外の自治体では異なる場合もあり調べてほしいと亘さん締めくくられました。



 ニュースなラヂオは特番で、6/26に本当にやるの、東京オリンピックの特集、尾身氏の動き、選手団はどうなる、2時間の特番、矢野さん、北口さん、山田さん、勝田さんなど出られます。次回のレギュラー放送は7/5です。リスナーより、五輪賛成の声もあり、矢野さん、命と健康をどう守るかと締めくくられました、以上、ニュースなラヂオでした。

【孫崎享のつぶやき】2021-06-16 06:384

2021-06-16 21:10:43 | 転載

元福井地裁樋口英明氏:原発の高い安全性を担保するのは、信頼できる強度な耐震性、美浜3号機の基準地震動は993ガル、千ガル以上の地震過去20年間で17回、「運転は40年まで」の原則が骨抜き。45年前の家電を今も使いますか?計器が故障しただけで重大事故に



6月11日日刊ゲンダイ掲載、元福井地裁裁判官樋口英明氏インタビュー
「耐震性に着目すれば日本の全ての原発は止められる(抜粋)
コロナ禍のドサクサ紛れに掟破りだ。福島第1原発事故の惨事を機に定めた「運転は40年まで」の原則が骨抜き。運転開始から40年を超える関西電力の老朽原発が23日にも再稼働する。この暴挙に、かつて原発運転を差し止めた元裁判長が「不都合な真実」を喝破する。「老朽原発はもちろん、日本には強い地震に耐えられる原発はひとつたりともない」と――。
 ――再稼働する美浜3号機の運転開始は1976年。45年も昔です。
 45年前の家電を今も使いますか? 大量生産の家電は壊れても最新技術の製品に買い替えればいいけど、原発は大量生産できない。技術は旧態依然で、1つの計器が故障しただけで原発の「止める・冷やす・閉じ込める」の安全3原則は綻び、重大事故が起きかねません。
 ――再稼働にあたり国は、1発電所につき25億円の新たな交付金を立地地域にぶら下げました。
 何を考えているのか、理解不能です。
 ――福井県知事の合意表明が4月28日。たった2カ月足らずのスピード再稼働にも驚きます。
 住民が差し止め訴訟を起こすにも、手続きには月単位の時間がかかる。それを見越した上での素早い動きでしょう。
――老朽原発が「高い安全性」を確保できるか否かが最大の危惧です。 地震大国の日本で原発の高い安全性を担保するのは、信頼できる強度な耐震性に尽きます。原発の耐震設計基準を「基準地震動」と呼び、施設に大きな影響を及ぼす恐れがある揺れを意味します。美浜3号機の基準地震動は993ガル(揺れの強さを示す加速度の単位)。しかし、この国では1000ガル以上の地震が過去20年間で17回も起きているのです。
 ――具体的には?
 2008年の岩手・宮城内陸地震(M7.2)は最大4022ガル、11年の東日本大震災(M9)は最大2933ガルなどです。誤解して欲しくないのは「17カ所」で観測されたわけではないこと。東日本大震災では、震源地から離れた数多くの観測点で1000ガルを超えました。
■「原発の耐震性は一般住宅よりもはるかに脆弱」
 ――基準地震動を超える地震がいつ襲ってきてもおかしくはない、と。
 しかも、美浜3号機の基準地震動は建設当時の405ガルからカサ上げされています。建物の耐震性は老朽化すれば衰えるのに、原発だけは時を経るにつれて耐震性が上がるとは不可思議です。電力会社は「コンピューターシミュレーションで確認できた」と言い張りますが、計算式や入力する数値でどうにでも変わる。住宅メーカーの耐震実験は建物を実際に大きな鉄板の上で揺さぶります。その結果、三井ホームの住宅の耐震設計は5115ガル、住友林業は3406ガル。2社が飛び切り高いのではなく、改正後の建築基準法は一般住宅も震度6強から震度7にかけての地震に耐えられるよう義務づけています。ガルで言うと1500ガル程度の地震には耐えられます。一方、日本の原発の基準地震動は、ほぼ600ガルから1000ガル程度です。つまり、原発の耐震性は信頼度も基準値も一般住宅より、はるかに劣るのです。
 ――衝撃です。
 政府は福島の原発事故後の新規制基準を「世界一厳しい」と自負していますが、耐震性に関しては当てはまりません。
 ――いつ、その事実に気づかれたのですか。
 2012年11月に福井県の住民が中心となって関西電力を相手に提訴した「大飯原発3、4号機の運転差し止め請求訴訟」を担当した際です。原発の耐震性に着目し、調べてみると、すぐ分かりました。当時は大飯原発を含め、大半の原発の基準地震動は700ガル程度。700ガル以上の地震は過去20年間で17回どころではなく30回に跳ね上がります。毎年のように頻発する、やや強めの地震に襲われても危険ということです。原子炉は強い地震に耐えられても、原子炉に繋がっている配管や配電の耐震性は低い上に耐震補強も難しい。断水しても停電しても原発は大事故につながる。それが福島の教訓です。
 ――それにしても、基準地震動の設定が低すぎませんか。
 地震学者の間では長年、関東大震災(震度7)でも400ガル程度との認識が主流で、地球の重力加速度(980ガル)以上の地震は来ないとも推測されていました。この考えに従い、昭和時代の原発は建設されたと思います。しかし、1995年の阪神・淡路大震災を契機に、2000年頃には全国の約5000カ所に地震計が設置され、観測網が整備されました。すると、震度7が1500ガル以上に相当することが科学的に判明したのです。
 ――震度の過小評価に気づけば、原発の運転は諦めるべきでは?
 そこで電力会社が「不都合な真実」を隠すのに持ち出すのが「地震予知」です。差し止め訴訟で「原発の敷地に700ガル以上の地震は来るんですか」と聞くと、関西電力は「まず来ません」と答えた。科学で一番難しいのは将来予測。中でも地震の予知は困難を極めます。考察に資するリソースも20年分しかない。「来ない」と断言できっこないのです。地震予知は「予言」に等しく、信じるか否かは「理性と良識」の問題です。だから速やかに差し止め判決を出せたのです。
 ――その2014年の福井地裁判決を、2018年には名古屋高裁金沢支部の控訴審判決が取り消しました。
 退官翌年です。あの確定した判決は、原審で指摘した危険性を認めながら突然、論旨を変えて「原発の是非は司法の役割を超えているので政治的判断に委ねる」と結論づけた。運転停止を求める住民に対して、さも「政治活動」をしているかのレッテルを貼り、論点をスリ替え、司法の役割を放棄したのです。こんな粗雑な判決を放置するわけにはいかないと思い、原発の危険性を広く訴えようと決意しました。
 ――元同僚の方々の反応は?
 特に悪い評判は聞きません。「裁判官は弁明せず」との格言を持ち出すような頭の固い人とは、あまり付き合ってこなかったからかなあ? 裁判官への政治圧力もないですよ。昔は政府方針に従わなかった裁判官が、ひどいドサ回りをさせられたのは事実。けれど、最近は露骨な左遷などありません。
■学術論争の“魔法”から目を覚ませ
 ――福島の事故後も、原発の運転差し止めを認めた司法判断は必ず上級審で覆ります。その理由をどう考えますか。
 先例主義の悪弊です。裁判官が原発訴訟を扱うのは、まれです。滅多に当たらない訴訟を担当すると、裁判官はつい過去の判決を調べてしまう。いくら司法修習生の頃に「自分の頭で考えろ」と叩き込まれても、自分の頭で考えなくなる。判例に頼れば通常は大きな間違いをせずに済むし、何より楽ですから。その傾向は上級審の裁判官ほど強い。そして、ある“魔法”も効いています。
 ――魔法とは?
 1992年に確定した伊方原発訴訟の最高裁判例です。原発訴訟を「高度の専門技術訴訟」とし、今でも最高裁は原発差し止め訴訟を「複雑困難訴訟」と呼ぶ。あくまで一般論に過ぎないのに、最高裁に言われると、住民や電力会社、弁護士や裁判官までもが「難しいに違いない」と“魔法”にかかってしまう。法廷は理解不能な専門用語が飛び交う学術論争の場となり、もともと文系の裁判官はロッカーいっぱいの専門資料にチンプンカンプン。だから、過去の判例を踏襲する判決を出しがちになるのです。
 ――困ったものです。 裁判官を“魔法”から解き放つには、まず住民側の弁護士が目を覚まさなくてはいけない。熱意ある弁護士でも先例に縛られ、複雑な学術論争を繰り出すのが実情です。住民側弁護士が原発の危険性をシンプルかつ論理的に伝えれば、裁判官も認めざるを得ません。伊方最高裁判例には「原発の安全性の適否判断は規制基準に不合理な点があるかという観点から行うべき」と記してある。はたして地震予知を許す規制基準は合理的なのか。20年間の詳細な地震観測による新たな知見、すなわち「1000ガルを超える地震はいくらでも来ます」という動かしがたい事実に基づく判断こそが合理的であり、「真の科学」と言えます。
 ――なるほど。
 現在、広島地裁で係争中の伊方原発3号機の運転差し止め仮処分申し立て事件では、住民側の弁護団が耐震性に着目。四国電力の「南海トラフ地震が原発直下で起きても、伊方原発敷地には181ガル(震度5弱相当)しか来ない」との試算を追及し、原発訴訟にパラダイムシフトを起こすと宣言しました。あらゆる運転差し止め訴訟で裁判官に原発の脆弱な耐震性を知らしめ、電力会社の非科学性と非常識を理解させることによって、日本の全ての原発は必ず停止できます。