「文字の獲得は光の獲得でした」 344万回視聴された
[ハートネットTV] 不発弾で両目と両手を失って教師になる | NHK 2021/04/16
https://www.youtube.com/watch?v=C_Yftji3qf0 5分
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不幸の始まりは不発弾の暴発
わが家の不幸は突然やって来ました。
それは敗戦の翌年、一九四六年七月十八日の朝でした。前日、近所の小川の岸に捨ててあった、無数の金属製のパイプ状のものが爆発したのです。(中略)
私は、光を失った自らの世界に、一筋の光が差し込んでくるのを感じました。(中略)
私は猛然と学習意欲を感じました。それまで押さえつけられていたものが一気にふき出すように、勉強したい、友だちが欲しい、外へ出たい、みんなと一緒に何かをしたい、そういうもろもろもろの思いが心を焦がしました。
https://www.npwo.or.jp/wp-content/uploads/2021/01/37fujinot.html
第37回NHK障害福祉賞 最優秀 「人と時代に恵まれて」 著者: 藤野 高明 (ふじの たかあき)
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「日本でいちばん面白い人生を送った男」
「本当、田中のところにおって、こんな人についていけない、辞めようと思ったこともありますよ。『あんたの話は支離滅裂で、何言ってるか分からん』って。でも、田中は土建屋でも政治家でもないし、なんて言うか、革命家なんですね。複雑怪奇なんだが、本人にすれば一貫してるんで。財界の人も本当に分かってる人はいいけど、普通の人は付き合わんでしょ。ただ、夢を与える人だったね。私も色んな人に会ってきたけど、まぁ、とにかく圧倒されるよ。本人にもよく言ったけど、『あんたは、極端に言えば極悪非道かもしれんけど、一片の仏心があるから救われてる』って。やっぱり、仏心と言うか、信仰心みたいなのが最後に出るんです。侍の意識がありますから」
https://bit.ly/3wIalVi
「東京タイガー」 晩年は地球環境問題に目覚めた“革命家”
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昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)親王の証言
「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」
「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」
「ある青年将校=私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです=から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました」
(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月)
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「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。というのは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人間としてみることになり、それが日本には欠けていたということになります」 (井門満明・兵站参謀)
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。
われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。
(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.95)
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日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。
太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
(司馬遼太郎『世に棲む日々<三>』)
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東郷茂徳外務大臣(1942年元旦、外務省にて)
「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
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<古山高麗雄『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそう
である。
日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これには名目などない、狂乱の所行である。
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ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった。
(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 165)
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日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなくして軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで、統治したのです。
ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言ってもそのトップが軍人であっただけということです。実際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣された官僚などが多く含まれていました。また、「資源の獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積極的に進出しました。
海軍担当地域は、「未開発」地域が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問題があると言えます。
(早瀬晋三『戦争の記憶を歩く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)
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服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路攻略の無謀さ
(S17.7.18-S18.1.1)
標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナからポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わった。辻はここでも責任を問われなかった。
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるようになってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しきってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こしてうわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉のようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
(小岩井第二大隊長の回想録より)
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.45-46)
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ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死者の3倍もの餓死者を出すという悲惨な結果を迎えた。まさに大東亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦
このガダルカナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの戦いの全てに現れている
第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
井本熊男(当時・参謀本部作戦課)の回想
「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなければならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)でなければならぬ」
(福井孝典『屍境』作品社、p.18)
大本営発表「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」
撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令
「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
(飯田進『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))
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清沢洌『暗黒日記』(岩波文庫、p.39)
昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。
第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。
第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
(清沢洌『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
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学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運を扶翼し奉る日はきたのである」。
・特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
・1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
・学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死。(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
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カイロ会談(1943.11)
ルーズベルトがチャーチルの反対を押して蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話しあった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャーチルにとっては中国はどうでもよかった。
(このあとルーズベルトとチャーチルはスターリンと会談するためにテヘランに行き、結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を
激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)
この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめて公式に共同声明した。
(粟屋憲太郎『東京裁判への道<上>』講談社、p.20)
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「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍・最終最大の作戦
黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人
の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。
作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下により、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬のこと)。
日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」という名の軍隊の成員だったのだ。
すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だけではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。
(澤地久枝『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫 p194)
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米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となったばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化していったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェルト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、こ
の関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやすいという相矛盾した性格を引き摺っていく。
(保阪修司『サウジアラビア』岩波新書、p.11)
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1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回っいました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現できないほどだった。
呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。
しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました。
始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。
さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません。
それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです。
(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)
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(カーティス・)ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさんの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、p.166)
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戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字によれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだしたにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的批判を回避する常套手段となった。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
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「天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに)授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見棄てられる存在でしかないのか」
(小田実『終らない旅』新潮社、p.265)
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八杉康夫上等水兵が回想する戦争
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。
『雪風』に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
(辺見じゅん『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
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「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中のいくつかの死は続いていたということです。久米島での日本軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていました。
(目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)
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学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉を失った。
(大田昌秀『沖縄の決断』朝日新聞社)
戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことばかりだった。
守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。
そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった。
この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。
大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧をめぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日のように見せつけられたとも述べている。
「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随見しました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めていたんです」
(佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)
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アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引きつげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりのチェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしない。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていったんだ。
家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビルも内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとびこんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
んな窒息してしまった。……
私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねばいいとおもった。
たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なんだ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな兵隊特有の近視眼的発想があった」。
(近藤信行『炎の記憶』新潮社、p.201)
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ソビエト軍の満州進攻(対日宣戦布告 S20.8.8)
モロトフ外相
「日本はポツダム宣言の受諾を拒否したので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくその基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連の対日参戦を提議した。ソ連はポツダム宣言に参加し、明日、すなわち8月9日より、日本と戦争状態にあるべきことを宣告する」
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生粋の紙幣について語ることができるようになるのは、1694年のイングランド銀行の創設によってはじめてである。
その銀行券が、決してもろもろの公債証書ではなかったからである。その他すべての手形と同様、それらもまた国王の戦債に根ざしている。
このことはどれほど強調してもしすぎではない。もはや、「王への負債」ではなく、「王による負債」であるという事実が、その貨幣をそれまでの貨幣と大きく異なったものにした。
多くの意味で、それはそれ以前の貨幣形態の〔反転した〕鏡像だったのである。イングランド銀行が創設されたのはロンドンとエディンバラの商人40人
ーーその大部分が既に国王への債権者であったーーからなる協会が、対仏戦争を援助するため、国王ウィリアム3世に120万ポンドの融資
をおこなったときであることをおもいだそう。その見返りとして銀行券発行を独占する株式会社の結成を許可するよう、彼らは王を説得した。
そして、その銀行券は、「事実上、王が彼らに負って〔借りて〕いる額面の約束手形だった」のである。
これが世界初の独立した国立中央銀行であり、それは小規模の銀行間でやりとりされている負債の手形交換所となった。
その手形が、まもなく、ヨーロッパ初の国家紙幣に発展していくのである、、、ここでわたしたちは奇妙な逆説に直面する。
資本主義と関連づけられるようになった金融装置を構成するほとんどすべての要素ーー中央銀行、債権市場、空売り、証券会社、投機バブル、証券化、年金といったーーが、経済学という科学のみならず、工場そして賃労働にさえ先だって出現していたのである。
このことはおなじみの見方に対する真の挑戦である。
デヴィッド・グレーバー「負債論」501p、509p
[ハートネットTV] 不発弾で両目と両手を失って教師になる | NHK 2021/04/16
https://www.youtube.com/watch?v=C_Yftji3qf0 5分
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不幸の始まりは不発弾の暴発
わが家の不幸は突然やって来ました。
それは敗戦の翌年、一九四六年七月十八日の朝でした。前日、近所の小川の岸に捨ててあった、無数の金属製のパイプ状のものが爆発したのです。(中略)
私は、光を失った自らの世界に、一筋の光が差し込んでくるのを感じました。(中略)
私は猛然と学習意欲を感じました。それまで押さえつけられていたものが一気にふき出すように、勉強したい、友だちが欲しい、外へ出たい、みんなと一緒に何かをしたい、そういうもろもろもろの思いが心を焦がしました。
https://www.npwo.or.jp/wp-content/uploads/2021/01/37fujinot.html
第37回NHK障害福祉賞 最優秀 「人と時代に恵まれて」 著者: 藤野 高明 (ふじの たかあき)
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「日本でいちばん面白い人生を送った男」
「本当、田中のところにおって、こんな人についていけない、辞めようと思ったこともありますよ。『あんたの話は支離滅裂で、何言ってるか分からん』って。でも、田中は土建屋でも政治家でもないし、なんて言うか、革命家なんですね。複雑怪奇なんだが、本人にすれば一貫してるんで。財界の人も本当に分かってる人はいいけど、普通の人は付き合わんでしょ。ただ、夢を与える人だったね。私も色んな人に会ってきたけど、まぁ、とにかく圧倒されるよ。本人にもよく言ったけど、『あんたは、極端に言えば極悪非道かもしれんけど、一片の仏心があるから救われてる』って。やっぱり、仏心と言うか、信仰心みたいなのが最後に出るんです。侍の意識がありますから」
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「東京タイガー」 晩年は地球環境問題に目覚めた“革命家”
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昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)親王の証言
「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」
「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」
「ある青年将校=私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです=から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました」
(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月)
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「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。というのは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人間としてみることになり、それが日本には欠けていたということになります」 (井門満明・兵站参謀)
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。
われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。
(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.95)
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日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。
太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
(司馬遼太郎『世に棲む日々<三>』)
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東郷茂徳外務大臣(1942年元旦、外務省にて)
「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
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<古山高麗雄『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそう
である。
日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これには名目などない、狂乱の所行である。
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ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった。
(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 165)
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日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなくして軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで、統治したのです。
ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言ってもそのトップが軍人であっただけということです。実際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣された官僚などが多く含まれていました。また、「資源の獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積極的に進出しました。
海軍担当地域は、「未開発」地域が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問題があると言えます。
(早瀬晋三『戦争の記憶を歩く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)
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服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路攻略の無謀さ
(S17.7.18-S18.1.1)
標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナからポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わった。辻はここでも責任を問われなかった。
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるようになってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しきってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こしてうわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉のようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
(小岩井第二大隊長の回想録より)
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.45-46)
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ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死者の3倍もの餓死者を出すという悲惨な結果を迎えた。まさに大東亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。
(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦
このガダルカナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの戦いの全てに現れている
第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
井本熊男(当時・参謀本部作戦課)の回想
「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなければならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)でなければならぬ」
(福井孝典『屍境』作品社、p.18)
大本営発表「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」
撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令
「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
(飯田進『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))
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清沢洌『暗黒日記』(岩波文庫、p.39)
昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。
第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。
第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
(清沢洌『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
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学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運を扶翼し奉る日はきたのである」。
・特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
・1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
・学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死。(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
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カイロ会談(1943.11)
ルーズベルトがチャーチルの反対を押して蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話しあった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャーチルにとっては中国はどうでもよかった。
(このあとルーズベルトとチャーチルはスターリンと会談するためにテヘランに行き、結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を
激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)
この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめて公式に共同声明した。
(粟屋憲太郎『東京裁判への道<上>』講談社、p.20)
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「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍・最終最大の作戦
黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人
の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。
作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下により、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬のこと)。
日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」という名の軍隊の成員だったのだ。
すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だけではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。
(澤地久枝『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫 p194)
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米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となったばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化していったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェルト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、こ
の関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやすいという相矛盾した性格を引き摺っていく。
(保阪修司『サウジアラビア』岩波新書、p.11)
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1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回っいました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現できないほどだった。
呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。
しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました。
始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。
さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません。
それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです。
(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)
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(カーティス・)ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさんの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、p.166)
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戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字によれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだしたにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的批判を回避する常套手段となった。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
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「天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに)授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見棄てられる存在でしかないのか」
(小田実『終らない旅』新潮社、p.265)
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八杉康夫上等水兵が回想する戦争
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。
『雪風』に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
(辺見じゅん『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
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「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中のいくつかの死は続いていたということです。久米島での日本軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていました。
(目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)
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学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉を失った。
(大田昌秀『沖縄の決断』朝日新聞社)
戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことばかりだった。
守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。
そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった。
この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。
大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧をめぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日のように見せつけられたとも述べている。
「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随見しました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めていたんです」
(佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)
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アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引きつげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりのチェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしない。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていったんだ。
家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビルも内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとびこんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
んな窒息してしまった。……
私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねばいいとおもった。
たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なんだ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな兵隊特有の近視眼的発想があった」。
(近藤信行『炎の記憶』新潮社、p.201)
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ソビエト軍の満州進攻(対日宣戦布告 S20.8.8)
モロトフ外相
「日本はポツダム宣言の受諾を拒否したので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくその基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連の対日参戦を提議した。ソ連はポツダム宣言に参加し、明日、すなわち8月9日より、日本と戦争状態にあるべきことを宣告する」
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生粋の紙幣について語ることができるようになるのは、1694年のイングランド銀行の創設によってはじめてである。
その銀行券が、決してもろもろの公債証書ではなかったからである。その他すべての手形と同様、それらもまた国王の戦債に根ざしている。
このことはどれほど強調してもしすぎではない。もはや、「王への負債」ではなく、「王による負債」であるという事実が、その貨幣をそれまでの貨幣と大きく異なったものにした。
多くの意味で、それはそれ以前の貨幣形態の〔反転した〕鏡像だったのである。イングランド銀行が創設されたのはロンドンとエディンバラの商人40人
ーーその大部分が既に国王への債権者であったーーからなる協会が、対仏戦争を援助するため、国王ウィリアム3世に120万ポンドの融資
をおこなったときであることをおもいだそう。その見返りとして銀行券発行を独占する株式会社の結成を許可するよう、彼らは王を説得した。
そして、その銀行券は、「事実上、王が彼らに負って〔借りて〕いる額面の約束手形だった」のである。
これが世界初の独立した国立中央銀行であり、それは小規模の銀行間でやりとりされている負債の手形交換所となった。
その手形が、まもなく、ヨーロッパ初の国家紙幣に発展していくのである、、、ここでわたしたちは奇妙な逆説に直面する。
資本主義と関連づけられるようになった金融装置を構成するほとんどすべての要素ーー中央銀行、債権市場、空売り、証券会社、投機バブル、証券化、年金といったーーが、経済学という科学のみならず、工場そして賃労働にさえ先だって出現していたのである。
このことはおなじみの見方に対する真の挑戦である。
デヴィッド・グレーバー「負債論」501p、509p