東京五輪 祭りの代償 「祝賀資本主義」にNOを 中島岳志
東京新聞論壇時評2021年9月1日 07時00分
凡例:❶①
❶中島岳志の原文
①小生の感想
❶ 東京五輪が終わった。祭りの後には、大きな負債が残され、国民は税金の支払いによって、そのツケを払っていかなければならない。一方で、人流抑制と逆行する形で開催されたことで、コロナの拡大に歯止めが利かなくなった。お祭り騒ぎの代償は、あまりにも大きい。
① 昔から日本人は米穀栽培を通じ、「ハレ」と「ケ」を組織した。「お祭り騒ぎ」は、日本的共同体を維持するために、年に数回お祭りを騒ぐことを楽しみ、祭りのあとの厳しい社会管理に耐えてきた。コロナ禍を案じて五輪を自粛する見解を無視して政府とIOCは突っ走ってしまった。感染予防だけではないのだ。「晴れ」と「祁」を一挙に存在させることは、よく言われるように「アクセル」と「ブレーキ」を同時に稼働させることは技術の論理からしても逸脱した行為だった。
❷ 元オリンピック選手のジュールズ・ボイコフは、『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』(2018年、早川書房)や『オリンピック 反対する側の論理』(2021年、作品社)など一連の著作で、「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)という概念を提示する。これは祝賀的なイベントによって公的な助成が大々的に行われ、一部の民間企業が利益を得るという仕組みを意味する。
②「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)」という概念は、東京五輪にも見事にあてはまる。公的助成で一部民間企業が大きな富を築いたことは、東京五輪が国境をこえた巨大な利益の収奪の場でもあったことを見逃せない。
❸ ボイコフはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(2011年、岩波書店)から大きなヒントを得ている。「惨事便乗型資本主義」とは、災害や戦争などが起きた時に、「惨事」に便乗する形で既存の制度が解体され、新自由主義的な政策が実行されることである。ボイコフは「祝賀資本主義」もその派生形態であると論じる。
③国家的規模で新型コロナウイルスの大惨事に取り組む事態に、なぜ政府は五輪強行したか。まさに「惨事便乗型資本主義」によって、本来為すべき医療行政を緩めても五輪で「祝賀資本主義」を決行した。
❹ 五輪においては、「祝賀」という「例外状態」に便乗し、通常ではありえないような決定プロセスで膨大な公的資金が投入される。国民も「祝賀」ムードに熱狂し、一流選手の全力プレイに感動することで、厳しい追及を放棄する。そして、大きなツケを税の支払いによって負担することになる。さらに、オリンピック成功のためにセキュリティーが強化され、関連産業が成長する。
④ 膨大な公的資金を導入して、東京五輪は大成功をおさめ、同時にコロナウイルスは思うがままに発達をとげ、デルタ株という子どもが罹りにくかった疾病へと変わり、全国的にパンデミックは非常時事態に突入していった。
❺ 経済思想家の対応を斎藤幸平は「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」(『AERAdot』8月8日配信)の中で、ボイコフの議論を援用し、東京五輪はまさに「祝賀資本主義」だと論じる。国民は膨大な負担を強いられながら、コロナ感染爆発で自宅や待機を強いられる一方で、IOCの幹部や一部企業の特権層が利益を独占する。
⑤端的に「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」(斎藤幸平氏)といっても、後半で斎藤氏自身がおっしゃるように、国民は膨大な負担を背負い自宅待機し、「自宅静養」という名の「自宅放置」下で疾病に対応する医療もうけられず、最前線の良心的医師・看護師など医療従事者の自宅訪問治療によって困難な医療に挑んでいた。
❻ このような勝ち組になることを目的とする資本主義のあり方は、スポーツを勝利至上主義へと導く。コロナに感染したサッカー南アフリカ代表に対して、自分たちには「得でしかない」と発言した日本人選手がいたが、このようなスポーツのあり方は「勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい」。
⑥ 活躍した選手たちには非難されることはない。だが、全選手が「勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい」という空気に覆われていたことも事実の一端であろう。
❼ スポーツは本来、「対話、協調性、他者の尊重などを学び、発展させていく機会を与えてくれる真剣な『遊び』」であり、共有財産としての「コモン」である。この価値を破壊しているのが「祝賀資本主義」に乗っ取られた五輪のあり方である。
⑦ ここで中島岳志氏は、スポーツの階級性をずばり見抜き、喝破している。祝賀資本主義は今後もスポーツを侵食し、拝金主義が地下に潜む。
❽ ラグビー日本代表として活躍し、現在はスポーツ教育学者として活動する平尾剛は、五輪期間中の7月31日のツイートで「人生のほとんどをスポーツに費やしてきた過去が無意味に思えるほどやるせない」と吐露している。平尾にとって、スポーツに取り組むことは、人間形成そのものであり、勝利至上主義とは根本的に相容(い)れない。にもかかわらず、五輪はスポーツの持つ意味を解体し、「祝賀資本主義」に乗っ取られている。この状況に平尾は異議申し立てを行い、「五輪そのものの廃止」を訴える。
⑧ 第一線で活躍し、今もスポーツ教育学者である平尾剛氏の指摘は極めて重要な指摘である。
❾ 平尾は「アスリートは気持ちを言葉にすべき」(『AERAdot』8月15日配信)の中で、「『スポーツウォッシング』(政府や権力者などが自分たちに不都合なことをスポーツの喧騒(けんそう)で洗い流すこと)」に加担するメディアに「憤りを感じます」と述べる。そして、スポーツ関係者から五輪のあり方へ異論の声が上がらないことに警告を発する。
⑨ 平尾氏の指摘は、私たちの参考となるだろう。
❿ アスリートたちは、パフォーマンスが仕事であって、それ以外は「余計なこと」だという価値観の中で育っている。そのため、意見を述べることに慣れていない。しかも、スポーツ界そのものが、主張することを良しとしない空気を醸成している。これを変えていかなければならないと訴える。
⑩ 変革は大変な事業だ。だが1964年の東京五輪でマラソン銅メダルを得てそのあとの強い失意と絶望をおもうと、日本国民は自らの負う課題を知ることができる。
⓫ 現在の五輪に問題があることは明白である。本来のスポーツの意義を破損させる祝祭に、何の意味があるのか。東京五輪の負の遺産をしっかりと分析し、代替案を提示しなければならない。その意味で、東京五輪はまだ終わっていない。(なかじま・たけし=東京工業大教授)
⑪ 代替案、その言葉に中島氏の問題提起の意義がある。
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東京新聞論壇時評2021年9月1日 07時00分
凡例:❶①
❶中島岳志の原文
①小生の感想
❶ 東京五輪が終わった。祭りの後には、大きな負債が残され、国民は税金の支払いによって、そのツケを払っていかなければならない。一方で、人流抑制と逆行する形で開催されたことで、コロナの拡大に歯止めが利かなくなった。お祭り騒ぎの代償は、あまりにも大きい。
① 昔から日本人は米穀栽培を通じ、「ハレ」と「ケ」を組織した。「お祭り騒ぎ」は、日本的共同体を維持するために、年に数回お祭りを騒ぐことを楽しみ、祭りのあとの厳しい社会管理に耐えてきた。コロナ禍を案じて五輪を自粛する見解を無視して政府とIOCは突っ走ってしまった。感染予防だけではないのだ。「晴れ」と「祁」を一挙に存在させることは、よく言われるように「アクセル」と「ブレーキ」を同時に稼働させることは技術の論理からしても逸脱した行為だった。
❷ 元オリンピック選手のジュールズ・ボイコフは、『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』(2018年、早川書房)や『オリンピック 反対する側の論理』(2021年、作品社)など一連の著作で、「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)という概念を提示する。これは祝賀的なイベントによって公的な助成が大々的に行われ、一部の民間企業が利益を得るという仕組みを意味する。
②「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)」という概念は、東京五輪にも見事にあてはまる。公的助成で一部民間企業が大きな富を築いたことは、東京五輪が国境をこえた巨大な利益の収奪の場でもあったことを見逃せない。
❸ ボイコフはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(2011年、岩波書店)から大きなヒントを得ている。「惨事便乗型資本主義」とは、災害や戦争などが起きた時に、「惨事」に便乗する形で既存の制度が解体され、新自由主義的な政策が実行されることである。ボイコフは「祝賀資本主義」もその派生形態であると論じる。
③国家的規模で新型コロナウイルスの大惨事に取り組む事態に、なぜ政府は五輪強行したか。まさに「惨事便乗型資本主義」によって、本来為すべき医療行政を緩めても五輪で「祝賀資本主義」を決行した。
❹ 五輪においては、「祝賀」という「例外状態」に便乗し、通常ではありえないような決定プロセスで膨大な公的資金が投入される。国民も「祝賀」ムードに熱狂し、一流選手の全力プレイに感動することで、厳しい追及を放棄する。そして、大きなツケを税の支払いによって負担することになる。さらに、オリンピック成功のためにセキュリティーが強化され、関連産業が成長する。
④ 膨大な公的資金を導入して、東京五輪は大成功をおさめ、同時にコロナウイルスは思うがままに発達をとげ、デルタ株という子どもが罹りにくかった疾病へと変わり、全国的にパンデミックは非常時事態に突入していった。
❺ 経済思想家の対応を斎藤幸平は「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」(『AERAdot』8月8日配信)の中で、ボイコフの議論を援用し、東京五輪はまさに「祝賀資本主義」だと論じる。国民は膨大な負担を強いられながら、コロナ感染爆発で自宅や待機を強いられる一方で、IOCの幹部や一部企業の特権層が利益を独占する。
⑤端的に「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」(斎藤幸平氏)といっても、後半で斎藤氏自身がおっしゃるように、国民は膨大な負担を背負い自宅待機し、「自宅静養」という名の「自宅放置」下で疾病に対応する医療もうけられず、最前線の良心的医師・看護師など医療従事者の自宅訪問治療によって困難な医療に挑んでいた。
❻ このような勝ち組になることを目的とする資本主義のあり方は、スポーツを勝利至上主義へと導く。コロナに感染したサッカー南アフリカ代表に対して、自分たちには「得でしかない」と発言した日本人選手がいたが、このようなスポーツのあり方は「勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい」。
⑥ 活躍した選手たちには非難されることはない。だが、全選手が「勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい」という空気に覆われていたことも事実の一端であろう。
❼ スポーツは本来、「対話、協調性、他者の尊重などを学び、発展させていく機会を与えてくれる真剣な『遊び』」であり、共有財産としての「コモン」である。この価値を破壊しているのが「祝賀資本主義」に乗っ取られた五輪のあり方である。
⑦ ここで中島岳志氏は、スポーツの階級性をずばり見抜き、喝破している。祝賀資本主義は今後もスポーツを侵食し、拝金主義が地下に潜む。
❽ ラグビー日本代表として活躍し、現在はスポーツ教育学者として活動する平尾剛は、五輪期間中の7月31日のツイートで「人生のほとんどをスポーツに費やしてきた過去が無意味に思えるほどやるせない」と吐露している。平尾にとって、スポーツに取り組むことは、人間形成そのものであり、勝利至上主義とは根本的に相容(い)れない。にもかかわらず、五輪はスポーツの持つ意味を解体し、「祝賀資本主義」に乗っ取られている。この状況に平尾は異議申し立てを行い、「五輪そのものの廃止」を訴える。
⑧ 第一線で活躍し、今もスポーツ教育学者である平尾剛氏の指摘は極めて重要な指摘である。
❾ 平尾は「アスリートは気持ちを言葉にすべき」(『AERAdot』8月15日配信)の中で、「『スポーツウォッシング』(政府や権力者などが自分たちに不都合なことをスポーツの喧騒(けんそう)で洗い流すこと)」に加担するメディアに「憤りを感じます」と述べる。そして、スポーツ関係者から五輪のあり方へ異論の声が上がらないことに警告を発する。
⑨ 平尾氏の指摘は、私たちの参考となるだろう。
❿ アスリートたちは、パフォーマンスが仕事であって、それ以外は「余計なこと」だという価値観の中で育っている。そのため、意見を述べることに慣れていない。しかも、スポーツ界そのものが、主張することを良しとしない空気を醸成している。これを変えていかなければならないと訴える。
⑩ 変革は大変な事業だ。だが1964年の東京五輪でマラソン銅メダルを得てそのあとの強い失意と絶望をおもうと、日本国民は自らの負う課題を知ることができる。
⓫ 現在の五輪に問題があることは明白である。本来のスポーツの意義を破損させる祝祭に、何の意味があるのか。東京五輪の負の遺産をしっかりと分析し、代替案を提示しなければならない。その意味で、東京五輪はまだ終わっていない。(なかじま・たけし=東京工業大教授)
⑪ 代替案、その言葉に中島氏の問題提起の意義がある。
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