【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【孫崎享のつぶやき】2021-06-16 06:384

2021-06-16 21:10:43 | 転載

元福井地裁樋口英明氏:原発の高い安全性を担保するのは、信頼できる強度な耐震性、美浜3号機の基準地震動は993ガル、千ガル以上の地震過去20年間で17回、「運転は40年まで」の原則が骨抜き。45年前の家電を今も使いますか?計器が故障しただけで重大事故に



6月11日日刊ゲンダイ掲載、元福井地裁裁判官樋口英明氏インタビュー
「耐震性に着目すれば日本の全ての原発は止められる(抜粋)
コロナ禍のドサクサ紛れに掟破りだ。福島第1原発事故の惨事を機に定めた「運転は40年まで」の原則が骨抜き。運転開始から40年を超える関西電力の老朽原発が23日にも再稼働する。この暴挙に、かつて原発運転を差し止めた元裁判長が「不都合な真実」を喝破する。「老朽原発はもちろん、日本には強い地震に耐えられる原発はひとつたりともない」と――。
 ――再稼働する美浜3号機の運転開始は1976年。45年も昔です。
 45年前の家電を今も使いますか? 大量生産の家電は壊れても最新技術の製品に買い替えればいいけど、原発は大量生産できない。技術は旧態依然で、1つの計器が故障しただけで原発の「止める・冷やす・閉じ込める」の安全3原則は綻び、重大事故が起きかねません。
 ――再稼働にあたり国は、1発電所につき25億円の新たな交付金を立地地域にぶら下げました。
 何を考えているのか、理解不能です。
 ――福井県知事の合意表明が4月28日。たった2カ月足らずのスピード再稼働にも驚きます。
 住民が差し止め訴訟を起こすにも、手続きには月単位の時間がかかる。それを見越した上での素早い動きでしょう。
――老朽原発が「高い安全性」を確保できるか否かが最大の危惧です。 地震大国の日本で原発の高い安全性を担保するのは、信頼できる強度な耐震性に尽きます。原発の耐震設計基準を「基準地震動」と呼び、施設に大きな影響を及ぼす恐れがある揺れを意味します。美浜3号機の基準地震動は993ガル(揺れの強さを示す加速度の単位)。しかし、この国では1000ガル以上の地震が過去20年間で17回も起きているのです。
 ――具体的には?
 2008年の岩手・宮城内陸地震(M7.2)は最大4022ガル、11年の東日本大震災(M9)は最大2933ガルなどです。誤解して欲しくないのは「17カ所」で観測されたわけではないこと。東日本大震災では、震源地から離れた数多くの観測点で1000ガルを超えました。
■「原発の耐震性は一般住宅よりもはるかに脆弱」
 ――基準地震動を超える地震がいつ襲ってきてもおかしくはない、と。
 しかも、美浜3号機の基準地震動は建設当時の405ガルからカサ上げされています。建物の耐震性は老朽化すれば衰えるのに、原発だけは時を経るにつれて耐震性が上がるとは不可思議です。電力会社は「コンピューターシミュレーションで確認できた」と言い張りますが、計算式や入力する数値でどうにでも変わる。住宅メーカーの耐震実験は建物を実際に大きな鉄板の上で揺さぶります。その結果、三井ホームの住宅の耐震設計は5115ガル、住友林業は3406ガル。2社が飛び切り高いのではなく、改正後の建築基準法は一般住宅も震度6強から震度7にかけての地震に耐えられるよう義務づけています。ガルで言うと1500ガル程度の地震には耐えられます。一方、日本の原発の基準地震動は、ほぼ600ガルから1000ガル程度です。つまり、原発の耐震性は信頼度も基準値も一般住宅より、はるかに劣るのです。
 ――衝撃です。
 政府は福島の原発事故後の新規制基準を「世界一厳しい」と自負していますが、耐震性に関しては当てはまりません。
 ――いつ、その事実に気づかれたのですか。
 2012年11月に福井県の住民が中心となって関西電力を相手に提訴した「大飯原発3、4号機の運転差し止め請求訴訟」を担当した際です。原発の耐震性に着目し、調べてみると、すぐ分かりました。当時は大飯原発を含め、大半の原発の基準地震動は700ガル程度。700ガル以上の地震は過去20年間で17回どころではなく30回に跳ね上がります。毎年のように頻発する、やや強めの地震に襲われても危険ということです。原子炉は強い地震に耐えられても、原子炉に繋がっている配管や配電の耐震性は低い上に耐震補強も難しい。断水しても停電しても原発は大事故につながる。それが福島の教訓です。
 ――それにしても、基準地震動の設定が低すぎませんか。
 地震学者の間では長年、関東大震災(震度7)でも400ガル程度との認識が主流で、地球の重力加速度(980ガル)以上の地震は来ないとも推測されていました。この考えに従い、昭和時代の原発は建設されたと思います。しかし、1995年の阪神・淡路大震災を契機に、2000年頃には全国の約5000カ所に地震計が設置され、観測網が整備されました。すると、震度7が1500ガル以上に相当することが科学的に判明したのです。
 ――震度の過小評価に気づけば、原発の運転は諦めるべきでは?
 そこで電力会社が「不都合な真実」を隠すのに持ち出すのが「地震予知」です。差し止め訴訟で「原発の敷地に700ガル以上の地震は来るんですか」と聞くと、関西電力は「まず来ません」と答えた。科学で一番難しいのは将来予測。中でも地震の予知は困難を極めます。考察に資するリソースも20年分しかない。「来ない」と断言できっこないのです。地震予知は「予言」に等しく、信じるか否かは「理性と良識」の問題です。だから速やかに差し止め判決を出せたのです。
 ――その2014年の福井地裁判決を、2018年には名古屋高裁金沢支部の控訴審判決が取り消しました。
 退官翌年です。あの確定した判決は、原審で指摘した危険性を認めながら突然、論旨を変えて「原発の是非は司法の役割を超えているので政治的判断に委ねる」と結論づけた。運転停止を求める住民に対して、さも「政治活動」をしているかのレッテルを貼り、論点をスリ替え、司法の役割を放棄したのです。こんな粗雑な判決を放置するわけにはいかないと思い、原発の危険性を広く訴えようと決意しました。
 ――元同僚の方々の反応は?
 特に悪い評判は聞きません。「裁判官は弁明せず」との格言を持ち出すような頭の固い人とは、あまり付き合ってこなかったからかなあ? 裁判官への政治圧力もないですよ。昔は政府方針に従わなかった裁判官が、ひどいドサ回りをさせられたのは事実。けれど、最近は露骨な左遷などありません。
■学術論争の“魔法”から目を覚ませ
 ――福島の事故後も、原発の運転差し止めを認めた司法判断は必ず上級審で覆ります。その理由をどう考えますか。
 先例主義の悪弊です。裁判官が原発訴訟を扱うのは、まれです。滅多に当たらない訴訟を担当すると、裁判官はつい過去の判決を調べてしまう。いくら司法修習生の頃に「自分の頭で考えろ」と叩き込まれても、自分の頭で考えなくなる。判例に頼れば通常は大きな間違いをせずに済むし、何より楽ですから。その傾向は上級審の裁判官ほど強い。そして、ある“魔法”も効いています。
 ――魔法とは?
 1992年に確定した伊方原発訴訟の最高裁判例です。原発訴訟を「高度の専門技術訴訟」とし、今でも最高裁は原発差し止め訴訟を「複雑困難訴訟」と呼ぶ。あくまで一般論に過ぎないのに、最高裁に言われると、住民や電力会社、弁護士や裁判官までもが「難しいに違いない」と“魔法”にかかってしまう。法廷は理解不能な専門用語が飛び交う学術論争の場となり、もともと文系の裁判官はロッカーいっぱいの専門資料にチンプンカンプン。だから、過去の判例を踏襲する判決を出しがちになるのです。
 ――困ったものです。 裁判官を“魔法”から解き放つには、まず住民側の弁護士が目を覚まさなくてはいけない。熱意ある弁護士でも先例に縛られ、複雑な学術論争を繰り出すのが実情です。住民側弁護士が原発の危険性をシンプルかつ論理的に伝えれば、裁判官も認めざるを得ません。伊方最高裁判例には「原発の安全性の適否判断は規制基準に不合理な点があるかという観点から行うべき」と記してある。はたして地震予知を許す規制基準は合理的なのか。20年間の詳細な地震観測による新たな知見、すなわち「1000ガルを超える地震はいくらでも来ます」という動かしがたい事実に基づく判断こそが合理的であり、「真の科学」と言えます。
 ――なるほど。
 現在、広島地裁で係争中の伊方原発3号機の運転差し止め仮処分申し立て事件では、住民側の弁護団が耐震性に着目。四国電力の「南海トラフ地震が原発直下で起きても、伊方原発敷地には181ガル(震度5弱相当)しか来ない」との試算を追及し、原発訴訟にパラダイムシフトを起こすと宣言しました。あらゆる運転差し止め訴訟で裁判官に原発の脆弱な耐震性を知らしめ、電力会社の非科学性と非常識を理解させることによって、日本の全ての原発は必ず停止できます。

【色平哲郎氏のご紹介】新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった

2021-06-13 09:09:33 | 転載
昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。
政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。
     
しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重大な妨げとなってきた。
     
(ゴードン・M・バーガー『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)


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北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)
       
「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうとしている。財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努力している。われわれは全国民の大同団結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底を完成しなければならぬ」

    
・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。


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日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変わっていない。それはなぜなのかと自問したほうがいい。報道企業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっています。そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつながっている。

(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)


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満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
        
首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐
(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)
      

錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)
     

この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
        
中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たちの厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にも とづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。
      
民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。


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中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中国共産党と蒋介石の対立激化)。毛沢東はモスクワにより首長に任命され「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。但し紅軍のトップは朱徳だった。さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられた。周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。
        
(ユン・チアン『マオ<上>』 講談社、pp.180-185)


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第一次上海事変(1932年、昭和7年1月28日)
       
日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。
            
(半藤一利『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)

この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけることができなかったのである。投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは何もなかった。英国は徐々に中国支援へと傾いていった。     

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)
        
江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。

(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)


これは後に「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日本人の心に刻み込まれた。

(ただし、彼らの命は導火線の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)


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団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
          
金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財閥、大富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に三井物産の「円売りドル買い」があった。
        

四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)
          
「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、(と決起した)ということだった」。


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満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚を 「理想」と考えていたわけである。これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生んだ。つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫して中国を選んだのである。
            
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』)


・因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定(関東軍と中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協定)から昭和12年7月の廬溝橋事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。
     

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たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。
      
つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。残念ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。
                  
(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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1932年、昭和7年5月15日(日) 首謀者 古賀中尉:
       
「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。
        
この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったのではないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」

(立花隆「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」
文藝春秋 2002年9月特別号 433ページ)


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五・一五事件前後の ”日本の変調のはじまり” について
    
「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
    
年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こつた。マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれていったのである。
    
どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。
    
第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正十二年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
    
「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。
     
だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民は快哉を叫んでいたのである。
    
戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
    
またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのである。
    
しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたのである。
    
天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家がある」とする説である。

(さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)。
    
・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台頭してきたのであった。
    
「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。

(保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.57-60)


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軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。そのためには、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしなければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
        
この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわらず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。
       
政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に明らかになった。
      
(ゴードン・M・バーガー『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)


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【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】

(昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)

ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。
   
ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也)
     
ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。ファシズムの様々な政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。
     
ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分裂が大戦後後進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み崩壊したり、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。
     
デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え
        
近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめるーーいわゆるアノミー現象が起こる。

デュケルムはこうして拡散した社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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日本政治研究会(時局新聞社)の見解
     
「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐる」。

(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)


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ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでファシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。イタリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。
      
ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。10年後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イタリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた

状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現している」と述べた。フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピアで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出した」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」と見ていた。
       
1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェルズは、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘン協定を承認した。前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じていた。ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。1941年4月、ジョージ・ケナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツの指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出している、と。
       
産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言した。ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった。企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、「大衆」の脅威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツの工業と商業及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。

(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)


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ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神
秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占
有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精
神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年
校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
    

(注)幼年学校: 陸軍幼年学校

陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍 幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
            
(昭和20年、永野護『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)


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誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
          
(辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)


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日中戦争の特質:中国に対する差別意識
   
この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味では差別意識に基づいていたと言えます。中国人に対しては、これを殺したって構わない。どうしたって構わないという感覚を持っていた。満州事変の経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。それまで日本陸軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていたのですが、満州事変で中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というかたちで1933年にまとめています。
   
その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕虜の処置」という項目です。そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。
  
そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表れていると言えます。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.68-69)


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(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナチスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。

(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、その解説部分(富原眞弓)
岩波文庫 p.177)


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ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言:
          
子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り込まれた。子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。
         
母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステリーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性があり、それを許容している余裕はなかったからだ。母親たちも一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほうが無難だった。

子供は焼き場の外で親から引き離され、別々にガス室に送られた。その時点ではなるべく多くの人を一度にガス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。親から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の空間に子供を放りこむこともできた。

ガス室でのユダヤ人根絶の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、との命令が出されていた。

(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイチャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)


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現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなくすことはできないが、自由をなくすことは可能だ。困窮を訴える声を消すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。飢えをなくすことはできなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ。・・・ドイツは世界を制覇するか、消え去るかだ。

(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社)


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監獄のなかで:
       
「だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党と社会民主党がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあっていたんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをしているんだからな」

(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社)


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中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
       
蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機の国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金を放棄し西南方面に移動。
       
この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍の間に毛沢東が共産党の指導者の地位を確立。一年に及ぶ「長征」の後、紅軍は陳西省延安に根拠を定めた。

(この時、徹底的な抗日を唱える張学良の率いる東北軍は陝西省西安に駐留していた。(--->西安事件、1936年12月12日)

日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿っていた。
       

(「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋経国との交換交渉)とを参照)

               
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「長征」が1935年1月に貴州の遵義にたどりついたとき、今後の方針について会議が行われた、そこには李徳、毛沢東、朱徳、博古、周恩来、陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇、林彪、楊尚昆、トウ小平、その後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。
       
(詳細は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.242-)


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満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧により地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。
     
(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)


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昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、「三宅坂上」、日本陸軍参謀本部)、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・ここは左手の皇居と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。国政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立していたことになる。書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。

次には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認をへずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。・・・
   
特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服従あるのみである。・・・

参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。そのために作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。しかし、それらをすべて無視した。かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主義とは無縁のところなのである。

作戦課はつねにわが決定を唯一の正道としてわが道を邁進した。
        
(半藤一利『ノモンハンの夏』)


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【色平哲郎氏のご紹介】犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな

2021-06-11 23:53:11 | 転載
<鶴見俊輔「戦争映画論」(昭和32年)>
    
鶴見はこの戦争映画論で、「本当にがんばって戦った人々にたいして、私は、何の反感も感じない」「むしろ、軍人にすっかり罪をきせてしまって、戦後に自分の席を少しずらして自由主義・民主主義の側についてしまった権力者-ー官僚、政治家、実業家たちに憎しみを感じる」と述べている。
そのもっとも身近な例が、彼の父親だった。
    
鶴見の父の祐輔は、戦前は知米派の自由主義者として知られ、国粋主義者の平沼麒一郎を「日本をわるくする元凶だ」と評していた。ところが1939年1月に平沼が内閣を組織したさい、祐輔は次官として入閣した。このとき鶴見は、「えらいと思っていた」父親が、「次官くらいのエサでもパクッと食う」ことにひどい失望と屈辱を感じた。そして祐輔は戦後に公職追放になったが、1950年代には返り咲いた。鶴見はのちに、父親が「家からいろんな人たちに電話をかけるので、話の内容で考えが変わっていくのが見えた」と回想している。
    
また鶴見は、自分がかつて愛読していた武者小路実篤や倉田百三が、帰国してみると「鬼畜米英」の旗振り役を務めていることに怒りを覚えた。柳宗悦や宮本百合子、永井荷風などがそうした潮流に同調していないことが、わずかな救いだった。鶴見はたまたま入手した『評論家手帖』の名簿をみながら、かつての論調を変えて戦争賛美の文章を書いた知識人をチェックしていたという。こうした怒りは、後年に同世代の吉本隆明なども交えて、転向の共同研究を組織することにつながってゆく。
    
しかし鶴見は、吉本とは大きな相違があった。兵役を経験しなかった吉本と違い、鶴見はロマンティックな戦争観とおよそ無縁だった。彼は1950年には、「私達日本人が、戦争中、日本の外に出て何をしたかー-日本に残っておられた方達には今日でも分っていないように思う」と述べ、「純粋」な少年兵たちが、狂暴な加害者でもあったことを指摘した。鶴見はそのさい、サディストとマゾヒストは表裏一体だという学説に言及しながら、こう述べている。
  
日本人の多くは、小学校、中学校できびしいワクの中にはめられて、しかもそれを余り苦にしないで成長した。先生のいうままになり、全く自主性がなく、教育勅語や修身の教科書をうのみにしている、典型的なマゾヒストの優等生。…やがて十六、七歳になって、早めに学校からほうり出されて志願兵または軍属となって占領地に出る。そうするとそこで…サディスト的本能がむくむくと目ざめる。内地で数年にわたって日本精神教育を受けた少年達が、占領地に来てすぐ、毎晩酒をあびるようにのんでは女を買い、原住民の娘達を自由にし捕虜収容所で「毛唐」の首を試しぎりにしたことを自慢しているのを見た。
…私連日本人は、平和の時、天皇陛下や役人にへいこらへいこらしているその同じ程度に、戦時になると、他国民に対して残虐なことをする。

こうした視点は、「優等生」や「正義」への反抗という鶴見らしい要素も加わってはいるものの、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や、竹内好の「ドレイとドレイの主人は同じものだ」という言葉と同質のものだった。そして何より、鶴見はジャワ時代の自分のことを、こう回想していた。

「私は、この島を支配する官僚組織の末端にあって、私の上にある重みを更に苛酷なものとして現地人に伝えている。私のスタイルは同僚たちと何のかわりもない。同じ権威を背にして、二言、三言のつたない現地語で、命令を下しているばかりだ」。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.726-727)


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竹内好


民主主義がおわればファシズムです。
    
……既成事実を積みあげる岸の政治手法は、戦争に突入した時代の記憶をよびおこした。竹内好は、5月19日に深夜のラジオで強行採決のニュースを聞いたあとの心情を、23日にこう記している。

私は寝床を出ました。もう眠れません。健康のためひかえている酒を台所から出してきて、ひとりでのみました。
      
……これで民主主義はおわった、引導を渡された、という感じが最初にしました。
      
民主主義がおわればファシズムです。ファシズムは将来の危険でなく、目の前の現実となったのです。ファシズムの下でどう生きるべきか。あれやこれや思いは乱れるばかりです。ともかく態度決定をしなければならない。私の場合、亡命はできないし、国籍離脱もできない。

屈辱と悔恨に満ちた戦争の時代を生きた人びとにとって、強行採決は「ファシズムの下でどう生きるべきか」という危磯感を与えるものだった。竹内は本
気で亡命を考えたあと、それを断念し、日本にとどまって岸政権と闘う覚悟を決めた。
    
こうした戦争の記憶の想起は、竹内だけのものではなかった。作家の野上瀰生子は、「あの流儀でやれば徴兵制度の復活であろうが、或はまた戦争さえも
が強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と述べた。さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。

それは、張作霖爆殺-満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぽらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

前述したように岸には、官僚的な権威主義、アメリカヘの従属、戦争責任の忘却、そして「卑劣」さといった、戦後思想が嫌悪してきたものすべてが備わ
っていた。鶴見は、「岸首相ほど見事に、昭和時代における日本の支配者を代表するものはない。これより見事な単一の象徴は考えられない」と述べ、
「日本で現在たたかわれているのは、実質的には敗北前に日本を支配した国家と敗北後にうまれた国家との二つの国家のたたかいである」と唱えた。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.510-512)


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(竹内好は言う)しかし岸さんのような人が出てくる根ー-これが結局、私たち国民の心にある、弱い心にある、依頼心、人にすがりつく、
自分で自分のことを決めかねる、決断がつかない、という国民の、私たち一人一人の心の底にあるー-かくされているところのそれを、自分で見つめる
ことがためらわれるような弱い心が、そういうファシズムを培ってゆく、ということを忘れてはなりません。
     
たしかに本当の敵はわが心にあります。自分で自分の弱い心に鞭うって、自分で自分の奴隷根性を見つめ、それを叩き直すという辛い戦いがこの戦いです。国民の一人一人が眼覚めてゆく過程が、わが国全体が民主化する過程と重なります。……
      
……時間を犠牲にし、金を犠牲にして……こうしたことをやっているのは、大きな実りを得たいからなのです。……それはめいめい、この戦いを通じて、戦いの後に国民の一人一人が大きな知恵の袋を自分のものにするということです。どういう困難な境遇に立っても、めげずに生きてゆけるような、いつも生命の泉が噴き出るような、大きな知恵の袋をめいめいが自分のものにするように戦ってまいりましょう。

1960年6月において、このメッセージは大きな共感をもって迎えられた。岸政権との闘いは、いまや人びとにとって、戦後日本と自分自身の内部にある、否定的なものとの闘いとなっていた。
    
竹内はさらに6月12日の講演で、こう述べている。

どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。……私はやはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去に、かつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向って子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えていきたいと思います。

のちに保守派に転じた江藤淳も、6月初めに執筆した評論で岸政権との闘いを説き、読者にこう訴えた。「もし、ここでわれわれが勝てば、日本人は戦後はじめて自分の手で自分の運命をえらびとることができるのである」。
          
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.513-514)


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ベトナム戦争による日本の平民(大衆)への教訓

     
第二次世界大戦では、(米国)徴兵対象年齢層の少なくとも7割が戦場に赴いた。

しかしベトナムに行った男性は、戦争最盛期の10年間に徴兵年齢に達した者(統計により異同があるが、ほぼ260万~300万人)のうち8%、多く見積もっても10%程度にすぎない。戦闘に携わった者となると、6%たらずである。
     
しかも1割と9割のどちらに入るかが、きわめて不公平なやり方で決められた。
全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵制が採用されたためである。その結果、有為な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置する黒人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人としての訓練を与えようという作為が働いた。
     
この「10万人計画(Project 100000)」の網に引っかかった者は35万人を超える。その4割は黒人だった。誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は1.3%
にすぎず、南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくなかった。
    
入隊者が全員警察になにがしかの世話になった過去を持つ部隊、7割以上が黒人かヒスパニックという部隊もあった。
     
いいようのない不公平感が触媒となり、アメリカに精神的荒廃をもたらした。映画『プラトーン』(1986年)をノべライズした作品によれば、ベトナム
に行った若者たちは「東南アジアでの労役から免れるような口実が何ひとつない、いたって簡単に徴兵できるカモ」にすぎなかった。また、こうした
やり方で能力の低い兵士を量産したことが、敗因の一つだったともいう。
               
(松岡完『ベトナム症候群』中公新書、p69)


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ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落とし、戦後その3倍にも及ぶ約15万人のベトナム帰還兵が自殺している。
        
(星野道夫『星野道夫著作集 4』新潮社、pp.165-166、2003)


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1965年初頭、毛沢東は「大躍進」後の「大飢饉」に対し部分的ではあったが自らの非を認めたことや、劉少奇・トウ小平の現実的な実務路線への国民の傾斜に対して、指導力低下に脅威を感じていた。自分もフルシチョフに非難されたスターリンのようになるのではないかという被害妄想が昂じて”「中国のフルシチョフ」である劉少奇・トウ小平と彼らに同調する党内勢力を叩き潰さねばならぬ”と思った。

そしてこれを「文化大革命」という言葉で包み隠しながら実行に移した。毛沢東はこの過程で、これまで毛沢東崇拝をくりかえし教え込まれてきた若者を
「(毛首席の)紅衛兵」(はじまりは清華大学附属中学の学生活動家が名乗ったもの)として利用した。林彪は「文化大革命」の指導者として「四旧を破る」ために突撃せよと紅衛兵を扇動した。多くの古い文化遺産や貴重な書物や文献がいともたやすく破壊された。四旧とは旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のことだった。
         
(ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社、pp.11-42)


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【文化大革命時代の中国】
       
「文化大革命は、実は二度にわたって行なわれたんだ。最初の文革は幹部同士の闘争で、自分に対する攻撃の有無に関わらず必死で他を攻撃した。政治の世界で飯を食う以上、なりふりかまわず突き進まなけりゃならないし、いったん特権を手にしたからには、闘争の目標にされる危険ぐらいは覚悟すべきなんだ。こんなことは当然であって、不平不満を言う理由などあるはずがない。自分たちが望んで掴みとった道じゃないか。

文革時の当事者やらその子どもたちやらが、今になって文革中造反派にやられてひどい目にあったなどと書きまくっているが、笑止千万な話さ。

もう一つの文革は一般民衆がやったんだ。彼らは毛沢東が共産党内で劉少奇らに対するクーデターを起こした機会を利用し、共産党組織に造反という名の反逆の闘争を仕掛ける形で、これまでの復讐をしようとしたんだ。だけど、こういう造反派は1969年には粛清されてしまった。
あれから11年経ったけれど、まだ幹部連中は造反の気骨を持った民衆を根絶やしにしようと躍起なんだよ」  
            
(虹影『飢餓の娘』関根謙訳、集英社、pp.243-244)


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<現代における最初の水戦争>
           
この戦争は領土と安全保障をめぐつて戦われたという見方が大勢を占めており、水の重要性についてはしばしば無視されている。だが、単純明快な事実はつぎのとおりだ。
戦前には、イスラエル領内にあったのはヨルダン川流域面積のわずか10分の1以下だったが、最終的には、ヨルダン川はほぼ完全にイスラエルの支配下に置かれるにいたった。イスラエルはヨルダンから、かつての東側国境とヨルダン川に挟まれたすべてを奪った。 
          
そして、シリアからは、ガリレヤ湖の北東の山岳地帯、ヨルダン川の源流が流れでるゴラン高原を奪ったのだ。
           
六日間戦争のときの指令官であり、後にイスラエル首相となったアリエル・シャロンは、その戦争でのイスラエルの水文学的な動機については平然と認め、イスラエル側の言い分を説明した。
1960年代はじめ、シリアは水路を建設してゴラン高原からヨルダン川の水源の流れを変えてイスラエルから水を奪おうという敵対的行為に出たと、シャロンは自伝に書いた。
           
「六日間戦争が本当にはじまったのは、イスラエルがヨルダン川の流路変更を実力で阻止すると決定した日である。国境紛争は大きな意味を持っていたものの、流路変更は生死をかけた重大問題だった」

(フレッド・ピアス『水の未来』古草秀子訳 、日経BP社、p.262)


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(自民党の金権体質の根源)

高度成長時代:日本は高度に政治的な経済だった。
   
高度成長時代においては、どの産業が存在するか、その中にどの企業がいるべきか、設備投資の水準、そして価格水準にいたるまで、重要な決定は交渉
や陳情に影響されて決まっていたのである。市場でも官僚の命令でも、どちらでもなかったのだ。・・・「発展途上段階の国」が、その急速な発展に伴
う主要な政治的問題、すなわち発展が勝者と敗者を産みだすという問題を解決するには、交渉と陳情以外の方法はない。
   
高度成長時代を通して、政府の政策は、勝者の成長を助成するか、敗者の償いをするかというトレードオフ、言い換えれば、成長を促進する「戦略的な」
政策と、成長の果実を広くばらまくという、「償い的な」政策との間のトレードオフに絶えず直面していた。

(リチャード・カッツ『腐りゆく日本というシステム』)


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米中関係改善「ニクソン・ショック」(1972年、昭和47年2月21日午前11時27分)
         
米大統領ニクソンを乗せた専用機「エアフォースワン」が北京首都空港に着陸した。滑走路では周恩来らが出迎えた。・・・
         
ニクソンがタラップを降りるまでキッシンジャーら随行団は機内にとどまった。寒風の中で帽子もかぶらずタラップの下に立っていた周恩来も、降り立ったニクソンにひとり歩み寄ると、二人だけで固く握手が交わされた。
         
1954年ジュネーブ会議(朝鮮戦争終結)において米国務長官ダレスは周恩来との握手を拒んだが、それ以来続いた中国と米国の仇敵関係がようやく雪解けを迎えた。
         
しかしこれは日本の頭越しに電撃的に行われた米中関係の改善で日本では「ニクソン・ショック」と言われるほど衝撃だった。
                   
(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社)


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米国が設定する「敵」は、これまでしばしば変化してきた。
         
例えば1960年代に入ると、それまでの旧ソ連に代わって中国が「主要敵」とされ、「中国封じ込め政策」が米国のアジア政策の根幹にすえられた。日本国内では批判も強かったが、自民党政権はひたすら忠実に米国の「中国封じ込め」に「貢献」した。

ところが、ある朝眠が覚めてみると、日米の「共通敵」であったはずの中国と米国が、突如として和解したことを知らされることとなった。

(豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』岩波新書、p.iii)。


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日中国交回復(田中角栄内閣)
         
共同声明では「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府」であることを認め、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重する」と明記。         
これにより日本は台湾と断交することになってしまった。なお日華平和条約(昭和27年(1952年)4月に戦争終結を宣言し締結)については共同声明では触れず、日本側が記者会見で「存在の意義を失い、終了したと認められる」と表明。
                  
(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社)


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第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争、1973年、昭和48年10月6日)
   
ここでの、航空戦略「2つの教訓」
    
1. ミサイルの発達により戦車と航空機が従来ほどには戦場で君臨できなくなった。
    
2. 兵器システムの進歩により発見されたら撃破されることが確実になった。

  短時日のうちに双方に大きな損害がでて、一旦防衛線を突破されると速いテンポで侵略されてしまう。 (特に戦車の脆さが際立って証明された)


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日中平和友好条約締結(1978年、昭和53年8月8日)
       
1978年は、いろいろな角度から見ても象徴的な意味を持つ重要な年だ。その年の鄧小平の訪日に合わせ、中国で開催された日本映画週間は中日交流史に大きな足跡を残した。そして、この年の未に長年鎖国政策を実施してきた中国は、ようやく改革・開放政策を取りいれ、改革の春を迎えた。当時、経済的にその成果を確認できるものは何一つなかったが、それでも国民の多くが改革・開放を情熱的に支持したのは、外国の映画を見ることができたからだ。ここでいう外国の映画とは日本映画のことである。・・
       
日本人は諸悪の根源である資本主義のために路頭に迷い、苦しい生活にあえいでいる、とそれまでの政治教育によって多くの中国人は信じこんでいた。しかし、物が溢れんばかりに豊かで近代的な日本社会と、いかにも幸せそうに暮らしている日本人の生活をスクリーンやブラウン管で目の当たりにした時、遅れているのは中国人自身なのではないか、と誰もがショックを覚えた。
       
その意味で、日本映画は中国と世界との距離をわかりやすく教えてくれたばかりでなく、同時に強烈なインパクトをもって新時代の訪れを知らせてくれた。

(莫邦富『日中はなぜわかり合えないのか』平凡社新書、2005: pp.92-94)


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解放同盟や団体といううるさくてやっかいな相手、それをさばくことができ、仕切ることができる。それが、官僚としての優秀さを示すものとして評価されたのだ。これは、団体だけではなく、被差別の問題をかかえている自治体でも、同じことであり、場合によっては、より大きな要素となっていたとも考えられる。
       
これは、解放同盟はともかく、ヤクザにとってはまたとない、つけいる隙となった。
       
「団体」を組織して、被差別民への自治体の予算を獲得したり、融資を実現したりして、手数料を取っていたヤクザのうちには、こうした行政側の姿勢を見て、これをビジネスとしてやっていこうとするものが生じていった。「ビジネスとして」というのは、「」を看板にして、同和対策に関係のないところまで公共の資金を引っ張ってくる行為を始めていくことを指していた。
       
たとえば、土地・不動産関係の許認可ビジネスをやる。開発業者を顧客にして、農地の住宅地への転用、市街化調整区域の地目変更など、土地開発に必要な許認可を、「同和対策」を大義名分として取りつけ、手数料を稼ぐのである。あるいは、融資ビジネスをやる。

たとえば「同和対策」の名で中小企業信用保証協会ーー中小企業基本法に基づいて各都道府県に設けられている公的機関ーーに保証させて、金融機関から無担保で数千万の融資をさせ、手数料を稼ぐ。あるいは、「同和対策」としておこなわれている固定資産税の減免などの税制優遇策を使って、税務工作をやってやり、手数料を稼ぐ。
       
いずれの場合も、「同和対策」の看板は掲げているが、許認可先、融資先などはいずれも一般企業でもいい。そのほうが多額の報酬が得られる。このようなビジネスが成立していったところで、「エセ」が誕生したわけである。
       
この種のビジネスには、私が京都で仕事をしているころにいくつも遭遇した。たとえば、京都岩倉の宅地造成にからんで、山口組系の男がやっている同和事業組合を使って、市街化調整区域の線引きをやり直させた事例は、『突破者』にかなり詳しく書いたが、同じような例はいくつもあった。
       
京都では、「エセの帝王」と呼ばれた尾崎清光も派手に活動していた。尾崎は、1978年(昭和53年)に設立した「日本清光会」といういわゆるエセ団体を使って、中央省庁や地方自治体の官僚を徹底的に恫喝する手法で、広大なエセビジネスを確立して展開し、大儲けしたのである。

尾崎は「人権」「差別」という戦後民主主義理念が絶対に逆らえない、したがって官僚が対抗できないポイントを利用すること、そして「こらっ、ワシをなめとんのか!」「いのちが惜しうないんか」といった高飛車な恫喝をかましながら、机や椅子をひっくりかえすというむきだしの暴力、このふたつを駆使して、相手をやりこめた。

尾崎は、同時に、取り上げる問題とその周辺や、恫喝する人間とその周辺について、徹底した調査をしてネタを集めて、盲点を抉り出すのもうまかった。そして、複数のヤクザの組と提携しながら、恐喝ビジネスを「」の名の下に展開したのだった。
       
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、pp.280-281より)


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「日本のお役人というものは、日露戦争後のお役人というものは、・・・・・皆さん、ちゃんとしていらっしゃったのでしょう。しかし、地球や人類、他民族や自分の国の民衆を考えるという、その要素を持っていなかった。」
   
(「週刊朝日」1997年12月5日、『司馬遼太郎が語る日本、第74回』)


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犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。
      
(いいだもも『20世紀の社会主義とは何であったか』)


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戦後、多くの人が先の戦争ではだまされたという。みながみな口を揃えてだまされたというが、俺がだましたのだという人間はまだ一人もいない。・・・
  
実のところ、だましたものとだまされたものとの区別ははっきりとしていたわけではない。・・・もし仮に、ごく少数のだました人間がいるとしても、
だからといって、だまされた側の非常に多数の人間は必ずしも正しいわけではないし、責任も解消されるわけではない。それどころか、だまされるということ事態がすでに一つの悪である。
  
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
  
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。・・・
          
(伊丹万作『戦争責任者の問題』(昭和21年))

【色平哲郎氏のご紹介】小選挙区制に対する尾崎行雄の批判

2021-06-10 15:07:56 | 転載
小選挙区制に対する尾崎行雄の批判

          
「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなくして議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するように見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバカしさに抱腹絶倒の外はない」


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人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出してしまう輩である。
国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。

(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)


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戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれて、ますます愛国心を失ってゆくという事実である。入隊後の基地での生活を通じて、日本の軍国主義の真相を目のあたりにした若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどうしようもなく、死に突入して行った。
           
(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36)


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久野収も、戦前の天皇制イデオロギー体系を宗教になぞらえて説明している。それは、天皇制イデオロギーの二側面を仏教の顕教と密教に見立てたもので、確かに巧みな譬喩であり、今に至るまで一種の定説と化している。

1956年の『現代日本の思想』(久野収、岩波新書)が、顕教密教という譬喩の出てくる最も初期の著作である、、、
少し長くなるが、次に引用してみよう。

「天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強力に作用した。

しかし、天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
  
注目すべきは、天皇の棒威と権力が、『顕教』と『密教』、通俗的と高踏的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤〔博文〕の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは 、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民エネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である」
   
要するに、戦前の天皇制は一般国民には、神のごとき絶対的権威として現れ、国政の枢要を担う高学歴エリート層には、単なる制度・機関にすぎなかった、ということである。顕教密教とは、日本では空海が明確化した仏教上の教理概念で、広く衆生にも理解されるように顕らかに説かれたのが顕教、真理が理解できる者にのみ密かに説かれたのが密教、という区分である。天皇性にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数の国民には、顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリートには、密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。これが天皇制イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。
   
久野収の見事な説明に、私は異論を唱える必要を感じない。というのは、天皇制イデオロギーの二面制については、顕教密教という言葉こそ使っていないものの、戦前に教育を受けた多くの人がそう認識しているからである。しかも、久野のような”革新的”な人ばかりでなく、”保守的”な人も同じようにそう認識している。

(呉智英『危険な思想家』メディアワークス、pp.160-161)


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義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国を侵略・分割した各帝国に反旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスはボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみで、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。
      
この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めてアジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。
            
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)


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日英同盟が成立(1902年1月)
      
これによってイギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対して特殊権益をもつことを相互に承認し、一国が交戦した場合には他の国は中立を保って他国の参戦防止に努めること、またもし第三国が参戦した場合には締約国は参戦して同盟国を援助することとなりました。このことは、日露が交戦した場合にも、露仏同盟を結んでいるフランスの参戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が可能となったことを意味しています。
             
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)


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第二インターナショナル(1904年8月)
      
また、1904年8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インターナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロシア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争に反対する非戦の握手をかわしました。大会では、つづいてフランス代表から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決しています。こうした世界各国の社会主義者との交流については、『平民新聞』に「日露社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告されていました。
      
置かれた状況の違いによって手段もまた異ならざるをえなかったにせよ、日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のための連帯の声が交わされていたのです。そして、本格化しはじめた日本の社会主義運動が、貧富の格差是正と生産手段の公有という本来の目的と並ん で、戦争に反対する非戦・反戦運動として展開せざるをえなかったのは、戦場に送られて死を強制され、しかも戦費の負担を強いられるなど、戦争の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であったことからすれば必然的なことであったのです。
      
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)


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明治の医師養成制度
      
明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のための医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差別されていた。野口英世はその顕著な一例)
            
(浅田次郎『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115)


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こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。原敬によれば、こうした批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」
(『原敬日記』1904年2月5日)

という自制のきかない状況に自らも落ち込んでいく様子を率直に告白しています。原はまた表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを
「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。

政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かくしてもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。
...
しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしものなり」

(『原敬日記』1904年2月1言日)

と観察していました。

ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわらず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなるという心理過程が示されているのではないでしょうか。そして、このように自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなかで「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになります。

(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)


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日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)

日本の背後にはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランスのある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。
           
(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)
   

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日露戦争の歴史的意味

この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するために、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配とを、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程にこそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。また、ポーツマス条約においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。しかも、日本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)旨を通告していたのですから、これにも違約します。
       
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)


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愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知られる千人針の風習が本格化したのは、日露戦争の時からでした。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るために、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのものにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を祈りました。
        
危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもちました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがことさら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるようになりました。
        
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)


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・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもなくはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。
      
・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見た。あれは何にするのであろう。飾っておくのかしらん。一同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を食べるとすぐに寝た。

(茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168)


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(日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざる
をえなくなったほどであった。
          
(司馬遼太郎『この国のかたち<一>』)


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日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。その誓いは、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならないはずである。だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじらなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけてしまった。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋より)


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日露戦争直後の1905年11月、内村(鑑三)は「日露戦争より余が受けし利益」
という演説において、

「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」

と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念します。
       
その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょう。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みるよりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持 し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れてきていたからです。
       
そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主権戦と利益線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張としてではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦争の開戦にあたって

「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」
(「宣戦の大詔を捧読す」1904年2月)

として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰は、韓国を併合すると、つぎには

「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「満蒙経営」1913年)

として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。そして、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」として死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さらに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直すことさえできなくなります。
       
(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)
  
  
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イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。(1908年)

ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう発言した。「石油を制する者、世界を制す」。
     
(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)


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日本の中央政府は、常に孫文らの「理想」に対して冷淡であり、むしろ孫文らに対抗する地に足のついた「現実的」な勢力を応援した。
辛亥革命に対しては清朝を支持し、その後は袁世凱を支持した。袁の死後は北方軍閥の段祺瑞を尊重した。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)


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袁世凱は西太后の首席軍事顧問で、西太后死後の当時は隠居中だったが、改めて権力掌握のチャンスを掴んだ。

(S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、p.169)


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近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)

ヤクザは光彩陸離として下層民の先頭に立つ。
          
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)


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筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。
             
(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)


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最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)
       
ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフスク、吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア地域に設置。

(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.42)


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「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立
                 
(内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
         
治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。昭和16年に全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。

                    -----------

第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年以下の懲役か禁錮に処する。
             
     
●●「国体」とは●●
            
当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経済秩序をいう。

(長谷部恭男『憲法とは何か』岩波新書、p.23)
           
    
星島二郎の反対演説
          
「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となってやるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰すことが出来る」と警告した。
         
(結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなかった)。

(楠精一郎『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、pp.57-58)


「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
             
(上記2法はセットで成立していた)


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孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
      
いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸 1924年11月28日)
        
「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それとも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえらびになればよいことです」。

           資本主義=重財而軽徳
           共産主義=重物而軽人
           亜州主義=重人並重徳(=アジア主義)
     
(孫文は、この演説のなかで井伊直弼が安政条約を結んだ1858年から明治27年(安政の不平等条約解消)までの36年間の日本が、欧米の植民地であって独立国ではなかったと規定した)


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大正 ---> 昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)

『書経』堯 典

     
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「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
   
この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。・・・
   
国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのではないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が不思議でならないのです」

(司馬遼太郎『雑談「昭和」への道』より)

 
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「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。
              
(司馬遼太郎『この国のかたち<一>』より)


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<孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
     
さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して是等思想は悉く其向う所は違っているけれども、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。
     
若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢(決潰した堤防を河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。
・・・ 
我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、決して微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、実に将来に於ける政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関する大問題である事を記憶せられたいのであります。
     
(松本健一『評伝 斎藤隆夫』 東洋経済 p234-235)


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田中義一(政友会)内閣は長州・陸軍閥の田中義一を首相に戴き、内務大臣は司法次官・検事総長出身の鈴木喜三郎とした、政党内閣とは縁もゆかりもない、実質的には官僚・軍閥内閣であった。
        
(松本健一『評伝 斎藤隆夫』)


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現内閣(田中内閣)は政党内閣の本領を全然没却して、党利党略の為めに、国家民衆の利益を犠牲に供して憚らぬものである。
                     
(昭和3年、斎藤隆夫(民政党))


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<幻の「田中上奏文」:日本語原文は存在しない、「偽書」>
          
1927年、日本政府の首相、将軍の田中[義一]は天皇への覚書の中で次のように述べた。「明治天皇の遺訓により、我々の第一歩は台湾征服であり、第二歩は朝鮮を獲得すべきことにあった(これはすでに実現した)。今は、満洲、モンゴル、中国の征服という第三の歩をすすめなければならない。これが達
成されれば、我々の足は残りのアジアすべてに及ぶであろう」。
         
(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳岩 波現代文庫 pp.7-11)

https://ja.wikipedia.org/wiki/田中上奏文


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<蒋緯国の追憶(1990.5)>
          
本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきでした。それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、そこを前面の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯にしようとしたのです。ロシアの南下をくい止めるために共に連合して助けあって対抗しなければならなかったのにですよ。なぜこうならなかったかを見ていけば、あのころのお国の田中義一内閣がもっとも大きな誤ちを犯したということになる。彼の内閣のときから中国を侵略し、共産中国をつくる元となる役割を果たしたといっていいでしょう。私は田中首相が中国を攻めてきたという言い方はしませんが、彼の戦略が間違っていたとの断定はしてもいいでしょう。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協力し、いつ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、どのように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失敗だったということです。

(保阪正康『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.71)


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張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、1928年、昭和3年6月4日)
       
昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件であった。
       
つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわにしていた。どこに権力があり、だれが責任をとるのかという指導力の核心が分裂してしまっているがために、当事者能力を欠いていた。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋より)


この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中義一は孤立してしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一辞職-->田中急死-->宇垣一成(=昭和陸軍=長州閥)のはじまり)。
       
この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」

(半藤一利『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)

をつくりあげ、陸軍が横暴を極めるようになってしまった。
       
これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるようになった。
       
張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
      
(石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手な満蒙政策の具現化。--->柳条湖事件(1931年、昭和6年9月18日)--->満州事変へ)


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<関東軍とは>
       
関東州(遼東半島の南端部で満州地方の南端、軍港旅順と貿易港大連などを擁した)と南満州鉄道・満鉄附属地(拓務省関東庁管轄)を警備するために設けられたのが関東軍である。1935年8月頃からは満鉄総裁・副総裁人事、満州電々などの人事を蹂躙し、さらには満州国の人事や組織へも傍若無人に介入しはじめた。

(古川隆久『あるエリート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、p.76など)


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不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、パリ条約)の締結(1928年8月)
      
不戦条約は国際連盟第5回総会(1924)においてフランスが提案し採択された「国際間紛争の平和的解決のための保障協定(ジュネーヴ平和議定書)」の思想を踏まえて作られたもので、1928.8月に日本を含め15か国が調印した。条約は1929.9月に発効し1938年までに64か国が締結することになった。しかしこの条約は自衛権に基づく武力行使についての定義や解釈が曖昧で、結局日本が自衛権を拡張解釈して満州事変(1931年)を起こし有名無実のものとなってしまった。そして遂に日本は国際連盟脱退(1933年)に行き着くのであった。


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昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、
テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。

(竹内宏『父が子に語る昭和経済史』)


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【孫崎享のつぶやき】2021-06-09 07:216

2021-06-09 19:41:08 | 転載
JOCの経理部長、17日地下鉄ではねられ死亡。不思議にマスコミではこの問題を追求しない流れ存在。JOCを巡り様々な疑惑。リテラは招致に関し、日本側が元IOC委員に対し“買収”資金提供を行った事件を追求。竹田、森氏の他、菅官房長官(当時)の関与にも言及



7日午前9時20分ごろ、都営地下鉄浅草線の中延駅(東京・品川)で、日本オリンピック委員会(JOC)の経理部長、森谷靖さん(52)が西馬込発泉岳寺行きの普通電車にはねられ、搬送先の病院で死亡した件については、その背景は明らかでない。
 そして、日本のメディアに対しては、明らかにこの問題を追求しない力が働いている。
 ただ、JOCを巡ってはこれまでも、様々な疑惑が指摘された。

 7日、「リテラ」は、「JOC経理部長の飛び込み自殺で囁かれる「五輪招致買収」との関係…竹田恒和前会長、森喜朗前会長、菅首相も疑惑に関」を掲載した。IOC経理部長との死とどれ位関連しているか不明であるが、この事実は知っておくべきであろう。

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 東京五輪の開催まで50日を切り、開催準備に追われる組織の幹部が電車に飛び込み──。それだけでもセンセーショナル。さらに衝撃だったのは、この男性がJOCの経理部長だったということ。
経理部長ということは、東京五輪に絡んだ金の流れを把握していると考えられる。思い起こさずにはいられないのは、JOCの竹田恒和・前会長による「招致買収」疑惑。
 招致委員会が国際オリンピック委員会(IOC)の委員だったラミン・ディアク氏の息子であるパパマッサタ・ディアク氏が関係するシンガポールの会社「ブラック・タイディングズ社」(BT社)の口座に招致決定前後の2013年7月と10月の2回に分けて合計約2億3000万円を振り込んでいたことが判明、この不正疑惑についてのJOCの調査チームは2016年、「違法性はない」とする調査報告書を公表。

 ところが、2019年1月仏当局が招致の最高責任者だった竹田JOC会長を招致に絡む汚職にかかわった疑いがあるとして捜査を開始。さらに2020年9月にはBT社の口座からパパマッサタ氏名義の口座や同氏の会社の口座に2013年8月〜14年1月までに約3700万円が送金されていたことが、国際調査報道ジャーナリスト連合などの取材によって判明。

 パパマッサタ氏の父であるラミン・ディアク氏は五輪開催地の決定においてアフリカ票の取りまとめに影響力を持つ有力委員。そんなラミン氏の息子・パパマッサタ氏が深くかかわると見られるBT社の口座に対し、東京への招致が決定した2013年9月7日のIOC総会の前後におこなわれていた招致委からの約2億3000万円もの送金と、招致委からの送金の直後におこなわれていたBT社からパパマッサタ氏への送金──。
東京招致を目的とした贈収賄疑惑はさらに濃厚、仏当局による捜査は継続中。当然、JOCに対しては「再調査をおこなうべき」という指摘がなされてきたが、そうした金の流れの“事実”を知っていたかもしれない人物が、このタイミングで自ら命を絶った。
この招致買収疑惑については、さらに深い闇。というのも、このディアク親子への賄賂に、菅首相がかかわっていたという疑惑。

 「週刊新潮」(新潮社)2020年2月20日号。記事によると、五輪の東京開催が決まった2013年秋ごろ、セガサミーホールディングスの里見治会長が東京・新橋の高級料亭で開いた会合で、テレビ局や広告代理店の幹部を前に「東京オリンピックは俺のおかげで獲れたんだ」と豪語し、こんな話をはじめたというのだ。
「菅義偉官房長官から話があって、『アフリカ人を買収しなくてはいけない。4億~5億円の工作資金が必要だ。何とか用意してくれないか。これだけのお金が用意できるのは会長しかいない』と頼まれた」。
菅官房長官は「嘉納治五郎財団というのがある。そこに振り込んでくれれば会長にご迷惑はかからない。この財団はブラックボックスになっているから足はつきません。国税も絶対に大丈夫です」と発言。この「嘉納治五郎財団」とは、森喜朗・組織委前会長が代表理事・会長を務める組織。
 この菅官房長官からの言葉を受け、里見会長は「俺が3億〜4億、知り合いの社長が1億円用意して財団に入れた」とし、「菅長官は、『これでアフリカ票を持ってこられます』と喜んでいたよ」と言うのだ。

「週刊新潮」の取材に対し、セガサミー広報部は「当社よりスポーツの発展、振興を目的に一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターへの寄付実績がございます」と嘉納治五郎財団への寄付の事実を認め、さらに「週刊新潮」2020年3月5日号では嘉納治五郎財団の決算報告書を独自入手し、2012年から13年にかけて2億円も寄付金収入が増えていることを確認。関係者は「その2億円は里見会長が寄付したものでしょう」と語っている。

 嘉納治五郎財団をめぐっては、さらなる疑惑。2020年3月、ロイター通信は組織委の理事である高橋治之・電通顧問が招致委から約8億9000万円相当の資金を受け取り、IOC委員らにロビー活動をおこなっていたと報じたが、その際、嘉納治五郎財団にも招致委から約1億4500万円が支払われていたと報道。つまり、この嘉納治五郎財団を介して買収工作がおこなわれた可能性があるのだ。ちなみに、菅首相は昨年12月15日、高橋理事と会食。

 嘉納治五郎財団をめぐる疑惑については、昨年11月にトーマス・バッハIOC会長の来日時におこなわれた記者会見で、ロイターの記者が直接、当時の森会長に「これは何のために使ったのか」とぶつけたのだが、森会長は「私は実際の経理や金の出し入れというのは直接担当しておらず、おっしゃったようなことがどこまでが正しいのか承知していない」などと返答。

 だが、この直後の昨年12月末、嘉納治五郎財団は活動を終了。
 これまでも、政界をめぐるさまざまな疑獄が起きるたびに、秘書や金庫番と呼ばれる人物が自殺を遂げ、「とかげのしっぽ切り」と訝しむ声があがってきた。

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【色平哲郎氏のご紹介】命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也

2021-06-07 21:43:24 | 転載
対抗政府のNUGが、軍政時代の国籍法を廃止して、ロヒンギャにも市民権と声明を発表したとの記事

https://bit.ly/356xpkN
Unity promises Rohingya citizenship, repatriation
JUNE 3, 2021


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命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。

南洲翁遺訓  1890


命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、と言われるので、それでは孟子(古い中国の聖人)の書に『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』と言っておるのは、今
、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。


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皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。

実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。

仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。

個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。

私たちは憲法によって人権を保障されていますが、当然のことながら、他人に迷惑をかけることは許されません。たとえば、いくら私たちに「表現の自由」が保障されているといっても、他人の名誉やプライバシーを侵害してまで表現する自由が無制約に認められているわけではないのです。どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っています。

私たちが社会の中で生活をしていく以上、ときに、「ある人の表現の自由vs別の人の名誉権やプライバシー権」のように、人権と人権は衝突します。そしてその衝突の場面においては相手の人権をも保障しなければなりませんから、自分の人権はそのかぎりで一定の制約を受けることになります。

すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです。けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではありません。また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもありません。

「公共の福祉」による人権制限の問題を考えるときには、対立する利益をつねに具体的に考えなければなりません。「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」をしっかりと意識しないと、「国益」というような抽象的なものでの制限を許してしまいかねないからです。仮に「国益のため」という理由が語られたときには、その「国益」の中身が具体的にどのようなものなのかを考えてみることが必要です。

たとえば以前に、イラクで日本人が人質に取られるという事件が起こりました。このときに「自衛隊を撤退させずに国益を守るというのであれば、「生命という最大の人権を犠牲にしてまで守るべき国益とは何か」を具体的に考えなければなりません。そうでないと、「国益」という言葉に安易に流されてしまいます。国の都合で人権が制限されることがあってはなりません。

そもそも「公共の福祉」のことを英語ではpublic welfare といいますが、このpublicとは、「人民」がもともとの意味です。つまり「人びと」ということです。ところが、日本語の「公」はもともと、「天皇」や「国家」をさしました。

人権を制限するときに「公共の福祉」とか「公のため」という言葉を使うときにも、私たちはあくまでも、具体的な人びとの幸せを想定して考えていかなければならないのです。


https://bit.ly/3uUyDtO


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なぜ,日本国憲法「公共の福祉」概念が, 国連人権機関で問題とされるのか?


第6回日本政府報告書審査最終見解における該当部分を確認しよう。

・「公共の福祉」を理由とする基本的人権の制限
委員会は,「公共の福祉」の概念が曖昧かつ無限定であり,かつ,規約(2条,18条及 び19条)の下で許容される制約を超える制限を許容する可能性があることについて,繰 り返し懸念を表明する。委員会は,前回の総括所見(CCPR/C/JPN/CO/5, para. 10)を 想起し,かつ,締約国に対して,規約18条3項及び19条に定める厳格な要件を満たさない 限り,思想,良心,宗教の自由又は表現の自由を享受する権利に対して,いかなる制限 も課すことを差し控えるよう,強く求める。3)

「繰り返し懸念を表明する」とあるが,その前の第5回審査において,規約委員会は,「繰り返し懸念を表明」していた。4)、、、

3 )CCPR/C/JPN/CO/6, para.22. 外務省「日本の第6回定期報告に関する最終見解」

4 )「委員会は,『公共の福祉』が人権に対して恣意的な制限を課す根拠とはなり得ないとの締約国の説 明を考慮に入れても,『公共の福祉』の概念は曖昧かつ無限定で,規約の下で許される範囲を超える制 限を許容しかねないとの懸念を,繰り返し表明する(規約2条)。


https://bit.ly/3fVSqoj


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”非正規滞在者を原則収容せず” 入管難民法「幻の修正案」

親族らが監理 社会生活を容認   東京新聞 2021年6月3日

在日外国人の収容や送還の在り方を見直す入管難民法改正案について、政府・与党は今国会での成立を断念したが、与野党がいったん合意した「幻の修正案」の全容が関係者への取材で判明した。

在留期間を過ぎた非正規滞在者らも、逃亡の恐れがない場合は原則として入管施設に収容しないなど、政府案より人権保障を進めたもので、法改正に向けた今後の議論の出発点になりそうだ。

政府案は、非正規滞在者を親族や支援者が「監理者」として監視することなどを条件に、収容せず社会生活を容認する「監理措置」を新設。
ただ、入管が「相当と認めるとき」に限定していた。

修正案は「逃亡と証拠隠滅の恐れがないときは、監理措置に付する」と定め、収容ではなく監理措置を原則と位置付けた。
監理人に経済的な支援を検討するとの条文も盛り込んだ。

また、現行法では収容期間には上限がないが、修正案は逃亡の恐れが高いケースなどを除き、収容は6カ月以内と規定。
その後は監理措置に移行すると明記した。

さらに修正案は、飛行機で暴れるなどして強制送還を妨害した際の罰則を政府案の懲役1年から6月に引き下げた。

このほか政府案は、難民認定申請を3回以上繰り返せば送還可能にし、監理措置中でも国外退去処分が出た後は就労を禁止するなどと定めており、
野党は削除を求めたが、与党は応じなかった。

政府案を巡っては、国連機関や外国人支援団体から「難民が迫害国に送還されかねない」などと批判が続出。
名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ人女性が3月に死亡したこともあり、野党の要求を与党が一部受け入れる形で5月14日、
自民、立憲民主両党の衆院法務委員会理事らの間で修正案がまとまった。

だが、野党がスリランカ人女性の監視カメラ映像を直ちに公開するよう迫ったのに対し、与党は女性の死亡に関する最終報告書を法務省がまとめた後の開示を提案、同日中に修正協議は決裂した。
政府・与党は5月18日、衆院選への影響などを考慮し、事実上廃案とすることを決めた。(共同)



「入管難民法改正の政府案と修正案、野党案」



「収容」 

・政府案 収容に代わる監理措置を新設。
国外退去処分後は就労不可。
監理人が入管に報告を怠れば10万円以下の過料

・修正案 逃亡と証拠隠滅の恐れがないときには監理措置に。
監理人への支援を検討。
収容は原則6カ月以内に(就労不可や罰則は維持)

・野党案 収容は逃亡の恐れのある場合に限定。
最長でも6カ月。
司法審査を導入



「送還」

・政府案  難民申請3回目以降は、認定すべき相当の理由がある資料を提出した人を除き、送還可能に。
送還妨害に懲役1年以下の罰則

・修正案 罰則は懲役6月以下に。
(難民申請3回目以降の送還はほぼ維持)

・野党案 難民申請中や提訴可能期間中は送還停止。
罰則なし



「その他」

・政府案 非正規滞在者が自ら出国すれば、上陸拒否期間を5年から1年に短縮

・修正案 治療などを緊急に行う必要が生じた場合、収容を解き仮放免に。
在留特別許可の類型に、日本で生まれた日本人の実子などを追加

・野党案 難民認定を入管庁から専門の独立行政委員会に移管。
在留特別許可を拡大し、改正法施行時に日本在留が10年を超えた非正規滞在者らを正規化


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「下水疫学」の北大工学部 北島正章・(現)准教授

「私を含めた水中ウイルスの研究者は、これまでノロウイルスやポリオウイルスなどの腸管系ウイルスを主な研究対象としていました。当初、新型コロナウイルスは呼吸器系ウイルスであるため、我々水中ウイルスの研究者が感染制御に貢献できることはあまりないと考えていましたが、流行の早い段階から感染者の糞便からウイルスが検出されたという報告があったため、下水中のウイルスも検出できるのではないかと考え調査を始めました」


https://bit.ly/34Syool


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<文字化け>
�讃�燭砲蓮¬啾�譴�發�床舛靴討い申�膩�蕕�い神硝務很榛�鮹呂梁減濂礎佑魏燭箸靴討眷�瓩茲Δ箸��う狙いがあった。

「革命の聖地」と言われた延安は、習仲勲らが1920年代末から築いてきた西北革命根拠地にあった。毛沢東が長征(1934年~36年)の末にようやく辿り着いたのが西北革命根拠地で、その時には中国全土の革命根拠地は全て蒋介石・国民党軍によって殲滅されていて、もし西北革命根拠地がなかったら、毛沢東の革命は失敗し、新中国は誕生していなかっただろう。

1978年に政治復帰した習仲勲を1990年に再び失脚させたのは、やはり�讃�燭澄��

天安門事件後になってもなお、習仲勲が「異なる意見を認める法律を制定すべきだ」と主張したからである。

だから習近平は国家のトップに立つやいなや、毛沢東を礼賛し革命根拠地を重視し、言論弾圧を強化するので
ある。言論の自由認めよと主張したが故に、父の習仲勲が再度の失脚を余儀なくされたことを熟知しているからだろう。

中国共産党が統治している限り、誰がトップに立とうと言論弾圧は消えない。父の理念に背いてでも言論弾圧をしていること自体が、それを証明している。


https://bit.ly/3z4lMsf


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合意ができて蒋介石は解放された。翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し、中国共産党の完全掃滅を決議し、その後も妥協を行わず中共を追詰めたが、日中戦争が勃発し、国民政府は中共掃滅を放棄し、第二次国共合作が成立する。蒋介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたかは、戦後も一貫して張学良は語らなかった。

蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝している。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続することで、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させられるというスターリンの思惑が働いたという、、、

後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのかについては、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、永遠の謎となってしまった。

胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。


https://bit.ly/2RxA0Ry


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裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史


(書評より)知っていたつもりの中国現代史は謎だらけだった!

 中国研究の第一人者が謎だらけの中国共産党100年の歴史に挑んだ。

 2021年7月に建党100年を迎える共産党だが、じつは1935年に存亡の危機を迎えていた。そのとき、蒋介石率いる国民党軍の攻撃から毛沢東を救ったのは陝西省を中心とした西北革命根拠地であり、それを創ったのが劉志丹、高崗、そして習近平の父・習仲勲という3人の「英雄」たちだった。

 戦死した劉志丹以外のふたりに毛沢東は将来を託すも、高崗は「反党分子」として自殺に追い込まれ(1954年「高崗事件」)、習仲勳も失脚し16年に及ぶ投獄生活を強いられた(1962年「小説『劉志丹』事件」)。これらの事件は真相が不明なまま長らく謎とされてきた。

 本書はこの2つの「謎の事件」の犯人が�讃�燭任△襪海箸魏鯡世垢襦�犬弔蓮�讃�燭塙瞞勝⊇�膩����ぢ人は「五馬進京(1952年、毛沢東が解放戦争の時に地方局に分散していた書記たちのうちの5人を中央に呼び寄せ、大きな政府を作ろうとした)」のメンバーという因縁があった。事実、�讃�燭蝋瞞召��Δ靴燭△��出世街道を走り始め、西北閥最後の雄である習仲勲を失脚させその手柄を奪っていた(有名な「改革開放」は華国鋒、「経済特区」構想は習仲勳から横取りしたものだった)。

 いわゆる「�讃�真析叩廚鮴擇衒�掘�渋綯羚颪領鮖冒釮療彰垢鬚呂�襪海箸砲茲蟒�疂神�△遼榲�了僂�見えてくるという。毛沢東返りも香港問題も一体一路も軍民融合も脱貧困も、習近平の国家戦略には一貫して父を破滅させた「�讃�燭悗良錥押廚�△辰拭�� 習近平の狙いは尖閣を拠点にした台湾統一。そのうえで軍事的・経済的に米国を凌駕する。その王手をかけるまで復讐は終わらない。だが、そこにこそ習近平の「脆弱性」が潜んでいると著者は説く。

 一党支配体制の中国に世界を制覇されないために、日本の役割の重要性を強調する。

 約400頁とボリューム満点で、現代中国100年の歴史を展望し、今の共産党政権の戦略がわかるお得な1冊。


「習近平 父を破滅させた�讃�燭悗良錥押��


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習近平の「愛される国」外交指示を解剖する
遠藤誉 6/4(金) 11:55

5月31日、習近平は中共中央政治局の学習会で「愛される国」になる外交を展開せよと強調した。これを中国が外交方針を変えるシグナルかと受け止める向きもあるが、そのような甘い夢は抱かない方がいい。 

◆習近平、「信頼され、愛され、尊敬される中国の印象」を形成せよ!

習近平が中国を「愛される国になるために」外交方針を展開せよと言ったということが注目されているが、いかなる文脈の中で言ったのかを詳細に把握しないと、その意図を正確に分析することは出来ない。そこで、何を言ったのかを詳細に見てみよう。

5月31日午後、習近平総書記は中共中央政治局・第30回集団学習会を開催し以下のような骨子の講話を行った。


https://bit.ly/3x6Tg7D


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習主席、「愛される」中国外交を指示 友好国増やすため
BBC 2021年6月3日

ツイッターで中国の外交官をフォローしていれば、書き込みの調子や内容が近年どれだけ外交的とは程遠くなったか、承知しているはずだ。

なぜかというと中国の外交官は、「戦狼外交」を推進するよう、奨励されているからだ。そのため好戦的で時に中傷的な発言を繰り広げ、時には外国政府を直接非難もする。

それだけに、もしも習主席が本当に「愛される」中国政府を目指すのなら、これはいきなり180度の方針転換を指示したことになる。

フィリピンからオーストラリア、そして欧州に至るまで、中国政府に対する世間の好感度は急落し続けている。中国政府が世間に向けて続ける高圧的な発言が、その理由の一端だと言われている。

中国共産党に忠実な人たちの間にも、このような「戦狼外交」はむしろ中国にとって逆効果だと言い続けてきた声は以前からあった。習主席がそうした意見に今や説得された可能性はある。

党の中央政治局に対する主席発言で最も大事なのは、対外的なメッセージのトーンを党幹部が「なんとかする」必要があると言った部分だ。これはつまり、最近はそのトーンが手に負えない、たがが外れたものになっていたという意味だろうか? 「その通り」と大勢が言うだろう。

もちろん、これまでの高圧的な外交姿勢は中国の国際的評価をあまりに傷つけてきたので、ただ単に物言い変えれば修復できるはずもない。評価を挽回するには、行動そのものを変える必要があるだろう。

あるいは、習主席の発言を大勢が読み違えているだけという可能性もある。


https://www.bbc.com/japanese/57339921


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6/6 国会議員×研究者「最新情勢を学び、次の一手を考える勉強会」第二回 
-ミャンマーの悲劇を食い止め、市民の希望をかなえるための日本の役割


映像トータル 3時間0分22秒 

12分過ぎから35分過ぎまで、ドクター・ササ(英語) それ以降もほぼ英語

2時間41分過ぎから、日本に暮らす3名の若手ミャンマー人アピール(日本語)


開催主旨:

2021年2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起きてから4ヵ月、事態は悪化の一途をたどっています。こうした中、2020年総選挙で選ばれた国会議員は連邦議会代表委員会(CRPH)を組織し、国民統一政府(NUG)を組閣。市民側の政権であるNUGには、多くの少数民族が内閣入りし、積年の課題であった民族間の軋轢の解消への一歩を踏み出しました。

民族の自治独立を求める少数民族武装勢力(EAO)とビルマ族への同化による国家統合をめざす国軍との間の内戦が絶えなかったミャンマーが、連邦国家としてまとまっていこうとする歴史上の転換点にあると言えるでしょう。

多民族国家をまとめるためには強権政府が必要だとしてきた国軍側に対し、市民側は、クーデターを起こした軍を反国民軍/破壊者とみなし、反国民軍がいなくても国民の力で国家をまとめられる、文民統制を実現したい、と抵抗を強めています。

しかし日本国内では、“市民の武装化によりEAOとの共闘が進み、大規模な内戦に発展しかねず、このままでは破綻国家へと突き進んでしまう。市民側が軍からの再選挙提案を受け入れることで、最悪の事態を防がなければならない”との見方も根強くあるように思われます。

では日本は、今後、どのような認識を持ち、どのような働きかけを行っていけばよいのでしょうか。本勉強会では、NUGの方々から、連邦国家への課題と展望を学ぶとともに、日本の国会議員、研究者、そして在日ミャンマー人を交えて、どのようにミャンマーに平和と自由を取り戻したらいいのか、日本政府と日本国民の役割を討論します。


https://bit.ly/3gfps1K


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貧しい国々へワクチン 先進国にとって最高の投資 ニコラス・クリストフ
Vaccinate the World! The Best Investment Ever.
朝日新聞2021/6/4「コラムニストの眼」

 最高のリターンが得られる投資はなんだろう? 未公開株だろうか? それともヘッジファンド?
 それらより、はるかに高いリターンを生む投資がある。地球規模で貧しい国の人々に新型コロナウイルスのワクチン接種を行うことだ。
 これまでのところ、米国をはじめとする「指導的な立場」であるはずの主要7カ国(G7)は、世界のパンデミック(感染爆発)との闘いで指導力を示していない。米国が「ワクチン・ナショナリズム」でワクチンと原材料を抱え込んでいるせいで、他国で救えるはずの命が失われ、米国自身の復興も損なわれている。
 「G7の大きな倫理的な過ちだ」とノーベル経済学賞を受賞したマサチューセッツ工科大学のデュフロ教授は言う。「私たちは自分たちの問題に注目しすぎていて、先が見えていない」 デュフロ教授の夫で、共にノーベル経済学賞を受賞している同大学のバナジー教授は、貧しい国々で変異株が出現するリスクがあり、「大きな失敗であるだけでなく、私たちに跳ね返ってくることになるだろう」と続けた。
 もちろん、これは一義的にはお金の話ではない。命の問題であり、人類が進む道筋の問題だ。とはいえ、倫理的な問題においてもコストを重視する人々に向けて、国際通貨基金(IMF)の最近の報告書は、世界的なワクチン投資の重要性を数字で示してくれている。
 今すぐに、主として裕福な国々が500億ドル(約5兆5千億円)の緊急投資を行って貧しい国々でワクチン接種を行えば、早期にパンデミックの制御ができ、2025年までに9兆ドル(約1千兆円)もの追加の経済成長をもたらすという。
 専門家によると、4年間にわたって毎年約267%のリターンが得られるのだという。これに対して、未公開株の平均リターンは1年あたり11%にすぎないことがオックスフォード大学の研究でわかっている。
 IMFのゲオルギエバ専務理事は、このような世界規模のワクチン投資はおそらく「現代史における公共投資で最高のリターン」をもたらすだろうとzする。今年中に世界人口の少なくとも40%、22年前半までに少なくとも60%に、ワクチンを接種することが目標だ。
 世界的なワクチン接種プログラムを進めてパンデミックを抑制すれば、富裕国では経済が大幅に好転し、税収が1兆ドル(約110兆円)上乗せされるとIMFは試算する。つまり、この投資は、税収の追加分だけで何倍も回収できるのである。

     *

 我々ヒトという種がどうなるかがかかっている。人類はここ数十年、極度の貧困や非識字、病気、失明、飢餓に関して、目覚ましい進歩を遂げた。しかし、新型コロナのせいで大きくつまずき後退している。ウイルスが低所得国で猛威をふるうと、少女たちは学校に通えなくなり、結婚させられる。ビタミンAの配布が滞れば、栄養素が欠乏し、失明や死が増える。子どもの寄生虫駆除が行われなくなり、栄養を寄生虫に取られて自分の体や脳にいかなくなって、貧血や栄養失調に陥る。女性が避妊や母体の健康管理を受けられなくなり、出産時に死亡したり傷を負ったりする。
 これらのすべてが、世界の不平等を拡大させる恐れがある。
 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は「世界のワクチンの大半を製造、購入する少数の国々が、世界の他の国々の運命を握っている」「今起きているワクチン危機はスキャンダラスな不平等であり、これこそがパンデミックを長引かせている。全ワクチンの75%以上がわずか10カ国で投与された」と語っている。
 ザンビア、スーダン、タジキスタンといった国々では、1回目のワクチンを受けた人すら人口の1%にも達していない。
 国のリーダーが自国民を優先させたいという気持ちはもちろん理解できる。だが、ワクチンの備蓄が増えるにつれ、世界全体での新型コロナとの闘いへ方向転換する必要がある。正しいことだからというだけでなく、私たちの国益にもかなうからだ。
 私たちが無視するザンビアのウイルスが、その後私たちを襲うウイルスになるかもしれない。また、このワクチン接種プログラムを生かし、トランプ政権中にぼろぼろになってしまったこの国の善意やソフトパワーを再構築するチャンスにもなる。それが次の国連気候変動枠組み条約締約国会議での進展につながるかもしれない。

     *

 率直に言って、私はIMFの出した数字に少し懐疑的だ。難しい当て推量が行われている上、貧しい国々でのワクチン接種は困難を伴うからだ。
 しかし、たとえIMFの示した数字が1桁違っていて、利益が9兆ドルではなく9千億ドルにすぎなかったとしても、それでも500億ドルの投資に対して18倍ものリターンとなる。西側諸国は、それをみすみす見逃している場合ではない。
 これはバイデン米大統領にとって、世界全体に恩恵をもたらし、米国経済も保護しつつ、G7での米国のリーダーシップを強化し発揮できるチャンスである。
 「パンデミックを終わらせる方法はわかっている」。国際組織「Gaviワクチンアライアンス」のバークレーCEOはそう話す。「やるべきことをする機会を私たちに与えないことは、ほとんど犯罪だ」

 (〈C〉2021 THE NEW YORK TIMES)
 (NYタイムズ、5月26日付電子版 抄訳)


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日本の政治は、異次元の領域に入ったのだろうか。

感染力の強いインドの変異株については、3月下旬には既に広く報道され、インドの感染者数は急増していた。4月に入り、その感染者数は爆発的な増加の段階に入っていたが、日本が対インドの水際対策を「強化」したのは、恐るべきことに5月1日になってからだった。しかもかなりザルの対策で、渡航者の隔離期間をやっと10日間まで延ばしたのは、なんと5月28日からになる。

この異常な遅れ。正気とも思えない。こんな水際対策をしておきながら、国民には自粛を強いている。

その政府が今、五輪開催を強行しようとしている。自分たちと関連企業のことしか、考えていないのかもしれない。五輪をし、日本人選手が活躍すれば「何だかんだいってやってよかった」となり、選手の活躍をなぜか自分たちの手柄のように語り、控えている衆院選で勝つつもりかもしれない。

もしかしたら、五輪で感染は広がらないかもしれない。でもそれは賭けだ。五輪で膨大な人数が国内に入る中で、完璧な感染対策など不可能だから(人類史上前例がない)、どうしてもここにはイチカバチカの、つまり賭けの要素が強くなる。賭けられているのは国民の命だ。あらゆる地域の人たちが一度に混ざるから、新たな変異株誕生の可能性もある。

これほどのパンデミック下で、通常の五輪を行う人類史上初の愚行、そして国民の命を賭ける前代未聞の大ギャンブルが始まろうとしている。


https://mainichi.jp/articles/20210603/ddl/k23/070/173000c


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Otto von Habsburg-Lothringen

オットーは全てのオーストリア人がスペインへイギリスへと脱出するよう手助けをした。陥落が迫るパリから
脱出するための書類をもたない共産主義者たちが「革命的」社会主義者と全く同じようにそのホテルに来た。
オットーが命を救うべき人々の出国許可のスタンプのない旅券と必要書類の大きな束をもって内務省に行った
とき内務省職員はきわめて現実的な質問をした。「貴方は出国許可のスタンプを押してもらっているのだから
貴方には関係ないでしょう」。オットーの答えは簡単だった。「しかし沈みかかった船を最後に離れるのは船
長です」(126p)

「ハプスブルク帝国、最後の皇太子 激動の20世紀欧州を生き抜いたオットー大公の生涯 」


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これから書く信じがたいようなことは、すべて田中清玄が本書で語っていることだけである。ぼくは何も手を
加えない。インタビュアーは毎日新聞社の大須賀瑞夫で、金大中事件などを追いかけた筋金入りのジャーナリ
スト、、、

最後に「田中さんは右翼だと思っていましたが」と尋ねられると、こう答えた。〔あんた、なんだと聞かれた
ら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれ
る中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を
越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除し
たり、自分たちだけでちんまりと固まったりする〕。

また、こう、続けた。〔政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる
。それが神の境地であり、仏の境地だ〕と。


https://bit.ly/3chr5L9
田中清玄自伝 文芸春秋 1993 ISBN:4163475508

「分水嶺」書評 「前のめり」の実像 舞台裏追う

2021-06-05 23:43:40 | 転載
評者: 行方史郎 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月05日
https://book.asahi.com/article/14365671

「分水嶺」 [著]河合香織
 昨年2月、政府のもとに結成された新型コロナ専門家会議は、「3密の回避」「人との接触8割減」「新しい生活様式」を打ち出し、対策の中心を担った。それが6月、担当大臣が唐突に「廃止」を表明する。約5カ月間の舞台裏と人物像に迫った貴重な記録だ。
 専門家会議は、「卒業論文」と呼ばれる最後の1本も含め、計11本の見解や提言を発表した。深夜に及ぶ会見を繰り返しつつ目指したのは、市民との危機意識の共有であり、そのための情報発信である。
 ところが政府や官僚組織から事細かな注文や横やりが入る。底流に見え隠れするのは「国民の不安をあおってはならない」という考え方と、間違うことがないという前提で物事が進む「無謬(むびゅう)性の原則」だ。
 それでも、未知のウイルスに対処するには、エビデンスが不十分な段階から手を打ち、一人ひとりに協力してもらわなければならない。「サイエンスというのは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、前のものは間違っていたということになる」(副座長の尾身茂氏)という言葉からは発想の違いが明快にみてとれる。そして両者の溝を埋めるべく腐心する官僚がいたのもまた事実のようだ。
 「前のめり」という言葉を使って「あたかも専門家会議が政策を決定しているような印象を与えた」と総括したように、対策のひずみや不満の矛先は彼らに向かった。尾身氏に警護がついたことは知られているが、一時的に入院生活を余儀なくされたり、訴訟を起こされたりしたメンバーがいたことを私は知らなかった。むろん責められるべきは、「専門家の意見を聞いて」という決まり文句を盾に、巧妙に責任を回避してきた政府の側だ。
 かくして専門家会議は解散に至り、政府の体質はおそらく変わることなく緊急事態宣言の今がある。当時のメンバーが、会議体は違えど、現在も最前線で奮闘していることが救いだ。
    ◇
かわい・かおり 1974年生まれ。ノンフィクション作家。『選べなかった命』(大宅壮一ノンフィクション賞など)。