鹿児島本線の駅として、長崎本線の分岐点としてそして久大本線の発駅として栄えてきた鳥栖駅。
鳥栖駅といえば、ドイツ ドルトムントのUNION社 1889年製 レール。
この駅の主的存在。
そして、大きな給炭塔設備。
九州の無煙化直後の76年で、給炭塔は未だ現役のようにその矍鑠とした姿で周りに控える機関車たちを見下ろしていた。
セキがピットに荷卸しした石炭を自動で掬い給炭塔に積み上げるこの巨大な設備には、かつて在籍していたC55、C57、C59、C60、C61
といった歴代の急客機たちが面倒を見てもらっていたのであろう。
陽が大きく西に傾くころ、当駅始発の久大本線の下り列車が忙しく荷積み作業中でここにもう一つの鳥栖の顔であるキユニ16 1が居た。
幹線、亜幹線ともにまだまだ生活路線として活躍していた証。
久大本線のすべての列車がユニ付だった頃。
鉄道の街 鳥栖が健全に活動していた時代。
1976年5月6日 鹿児島本線 鳥栖駅
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広大な構内もさることながら、給炭塔も風景の一部として見ると、その威容に驚きます。
いつまでも佇んでみて痛い風景。
狂電少年も飽きない一日を過ごした事でしょう。
あの構内はまさに、要衝って感じでした。
そんな訳で行った事が無いんです。(/_;)
もう少し早く生まれていれば、鹿児島本線とか長崎本線の蒸機牽引特急列車が撮れていたかも知れない...と、趣味界の先輩方をいつも羨ましく思っていました。
DD51が数輌休んでいますが、この頃だったらシャッター押さなかったかも知れません。
その時、その時をしっかりと記録することが大切ですね。
まさに朝から晩まで様々な列車が発着していき、退屈することが
ありませんでした。
惜しむらくは、もう少し前の蒸機時代と国鉄時代最晩期からJR化後のHM復活時代をルポしてみたかったです。
赤ら顔のアンクルはいませんでしたが(爆)
鳥栖は、自宅から一番近い鉄道の街で本線の客車列車が鹿児島、長崎、久大いずれも当駅発であったので、
ちょくちょく撮影に出かけた駅でした。
電関人も、この構内を埋め尽くすようにして蒸機が闊歩した頃を
一目見てみたかったです。
給炭塔は、この後の77年のネガには写っていないようで、
76年中に撤去されたようですね。
西鹿児島編成と分割のため、しばしの停車時間、車窓越しに鳥栖機関区を見たのが、40年経った現在でも記憶の片隅にあります。
すでに無煙化されているのですが、蒸気機関車が何両か佇んでいました。
ハチロクかキュウロクだったのでしょうね。
その機関区跡も今では佐賀を拠点とするサッカースタジアムになっているのですから、時の流れを感じずにいられません。
数年前、久大本線にゆふいんの森を撮影しに行った際
久々に見た鳥栖駅構内の激変ぶりに驚きました。
あのだだっ広いヤード、あのころには日本の各地に大きな
貨物ターミナルがあって存在したものですが・・・。
そういえば…幡生工場(現下関車輛センター)が以前クハ111-110・476・477の全検の際、うっかりスカ色の塗り分け線のまま湘南色に塗ってしまい隣の車輛と塗り分け線に段差が出た事がありました。その次の全検時に直されましたが…キユニ161はずっとこのままだったのでしょうか?
隣の客レも気になりますね。手前のクルマは鋼板屋根と窓形状、デッキの形状から戦後型オハフ33かと愚考しますが、奥の客車は?鋼板屋根、丸雨樋から察しますに…ナハ10・ナハ11若しくはオハ46・オハフ45各原型車かと思いましたが…若しかしたらオハ35のうち絞り折妻鋼板屋根車(大井川鉄道オハ35857がその形態を今に伝えます)かも知れません。
ドイツウニオン社のレールですが、2003年頃に訪れた大井川鉄道千頭駅側線で、1887年同社製レールが現役で使われているのを見かけました(その日は丁度青木栄一先生と、当時ナショナルトラスト所属していた米山淳一氏との対談が行われる日で両氏とも同鉄道にお運びでした。新金谷駅ホームでその青木先生に教えていただきました)。