DMH17エンジンと液体式変速機の組み合わせで初めて量産された形式で、
のちのキハ17形式はその後のディーゼル車両の祖となった。
しかし、その存在は以外と地味で旧型国電のようなファンはいなかったと思う。
その後のキハ20系統に比べると胴回りが一回り細くバス窓の出で立ちに車内灯は白熱灯でそのレトロ感が特徴で、
炭鉱町筑豊の栄枯盛衰を見てきた同形式が、客車とともに蒸機亡き後同地区の忘れ形見のように思えた。
一般型気動車が朱色一色にされるまでの合間にかなり熱を入れて追いかけた形式である。
1976年11月18日 鹿児島本線 南福岡~白木原 347D(?)佐賀行 キハ17×3+キハ55+キハ17+キハ20
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座席も背擦りが低くて、車内灯もぼんぼりが。
案外記録出来てない事に、いまさら気づきました。
キハ47は福知山が一番最初の配置でしたし、そんな事も影響しているのかな?
撮影地の移動では多くの気動車に乗っている筈ですが、車内設備なども良く覚えていません。
気動車の形式に疎く、普通か急行か特急か、程度の見分けしか付きません。(爆)
確かに、山陰本線京都口や福知山線からの撤退は早かったように
思います。
鳥取から西にはかなり遅くまで、特に枝線運用に就いていたかと。
無煙化された北海道にも、この一族の両運転台のキハ12が残ってました。
蒸機健在のころには、全国の亜幹線にいたある意味蒸機の
名脇役だったかと思います。
小学生~中学生では八高線や唐津線でお世話になり、
高校時代には部活の遠征の登山で小海線の2基エンジン機のキハ51に乗っているのですが、すべて写真に残さず。
キハ20系よりひと回り小さい車体、ウィンドシル、バス窓に特徴があります。
それにしもマメに記録されていますね。
只見線で1回。後は無かったような。渋い所では中学生の頃、相模線というのもありましたか。
この物凄いデコボコ編成こそ高度成長を支えた10系の晴れ舞台。
追伸。「東武の人」も上毛行きたいと言っていました。「グループ支援」だとか。
「それは判っています。しかし折角だからこのクルマに乗りたいんです」と応じたら「鉄」だと判ったらしく、キハ20の運転席構造とも相まって伊予西条~新居浜間ではおしゃべりしながら乗りました(^^);
今では物議を醸すでしょうが、他に乗客もいなかった夜間、そしてまだ国鉄時代だった1986(昭和61)年、もう時効でしょう(^^);
今にして思えばもう少しキハ10系とも接していればよかった…と反省しきりです(^^);
筑豊地区で、まず最初にキハ66、67によって追いやられて、その後徐々に他地区のキハ40、47配属によってやまたは、長崎本線電化によって早岐辺りからの余剰車で、
あれよあれよといううちに10系キハは姿を消してしまいました。
電関人が記憶するには、山陰地区の枝線が最後に見たエリアだったかと(西日本の話ですが)思います。
相模線には結構遅くまで居ましたね。
11月の件は、われわれの間では最低催行人数3名と
いうことで参加しますかね!
キハについていえば、結構古い車が集結していたように
思えます。それこそ暖房性能などをあまり気にせずに使えたから
かもしれませんね。