幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん 「サワコの朝 貴乃花親方 景子さん」 ”子はかすがい、二人が同時に手紙を”

2015-08-29 08:22:52 | 生き方/考え方
22歳、30歳で結婚。各界のスーパースターと人気アナウンサーの結婚。
25回幕内優勝。貴乃花部屋親方。順風満杯ではなかった。
秋場所の準備。シーズンオフがない。部屋には13人と行事や他の親方。男の子と女の子2人。5時半に起きて子どもの弁当、その時は朝稽古は始まっている。
お弟子さんが悩んでいると食事に連れていっている。
精神的に追い込んで育てる。横綱を育てたい。
5年周期で変わって来ている。体格は大きくなっている。精神的には弱くなっている。
規則正しい生活。門限を守っている。もし門限を守らなければ「こら!」と叱る。

親方の生き方と重なる生き方の曲。
イーグルの「DESPERAND」 
長いこと同じことを繰り返しているではないか。それがお前を苦しめていることがある。お前は手に入らないものばかり求める。
自覚はない。食事に行ったら偶然お互い行っていた。逢った時は大関だった。マスコミでいろいろ言われているなと思っていた。
当時マスコミには心を許していないけど阿川さんには心を許していた。
あらら上手くなって。笑

景子さんに手紙を書いた。景子さんも手紙を書いた。手紙が同じ日に来た。
8歳年上で付き合うことについては?30歳だったので今度付き合うなら結婚する人と決めていた(景子さん)。
力士と結婚するのは現実的でなかったのが?この人について行けばよいかなと思った。全然違う。生きる道が違う。緊迫感が24時間続いている。景子さんは笑いの人生。完璧に合うのはないかな。子どもがいたから。子はかすがい。この番組が終わったら離婚とはないでしょうね?
天然系でそれはよかった。嬉しいことは嬉しいんだな。人生は真剣に考えなくてもよいのかなと(貴乃花)。真剣に考えているんですよね(景子さん)。(お互い)別れることも考えたことがあったが、やはり子どもがいたので。マスコミでいろいろあったとき、家庭内は穏やかだった。いろいろあったとき、こんな家系だったのだなと思った(貴乃花)。人間はもともと悪い人はいないのが境遇で変わってしまうことがある。

思い出に残る取り組みは?
(貴乃花)1992年寺尾関との相撲(負けた相撲)。負けて相撲を覚える。まわしを取れば勝てると思っていたのが、まわしを取っただけでは勝てない、次の何かがないことを学んだ。
(景子さん)2001年の小錦関との試合。前日怪我して二子山親方が来て明日は休場と言われたのを出場した。優勝して小泉首相の「感動した!」。手術して再起をかけていた時だった。

二子山親方が医者からもうだめだと言われた時、泣いてしまった。子どもから弟子になる時に泣いた。その時に親方から「次泣く時はおれが死んだときだ」と言われた。 若い時、同い年の力士がなくなった。人生ははかないなと思った。その時も泣かなかった。親方との約束は守った

椎名林檎さんの歌「NIPPON」。相撲協会の歌にしてもよいと思う。心体のことと言っている。
お互いに一言。貴乃花「空気のようにいて欲しい。気が付かないがないと困る存在で」。景子さん「いっぺんにたくさん買いすぎるのでたくさん買わないで欲しい。最近は蚊取線香をケースで買った」。貴乃花「夏は蚊取線香は必要です」。 

「Wうつ」萩原流行・まゆ美著 ”うつは誰でもなる可能性がある”

2015-08-29 00:34:56 | 本の紹介
二人がうつになりました。奥さんのまゆ美さんが先にうつになりました。
二人とも同じ劇団に属していた。夫が劇団を辞めたことにより、劇団の仲間がまゆ美さんに意地悪をしたり冷たく対応したり、非難するようになって、強迫神経症になった。ひどくなったのは母親が亡くなった頃、夫に好きな人ができ、夫の心の中に自分がいなかうなった。カミソリで切ったりするようになった。

劇団を辞めて一匹狼になってからはいつ仕事がなくなるとの不安を抱えながら常に危機感を持っていた。その時にミュージカルの代役(鹿賀丈史)が回って来た時、必死にやった。3か月、好きな煙草やお酒も断って臨んだ。身体の異変を感じた。40℃の熱が出て、それでも舞台をやり続けた。ある時、練習中に覚えているはずの台本の言葉が出てこない。自律神経失調症。自己逃避する毎日。

感想;
うつは誰にでもなる可能性があるように思いました。
心身に無理をしたり、あるいはショックなことがあったりした時に、うつになるリスクが高いのだと思います。