幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

武藤貴也議員「釈明会見」で怒号―金銭トラブル報じた「週刊文春記者」を閉め出し ”記者会見?”

2015-08-26 16:47:42 | 社会
http://news.goo.ne.jp/article/bengoshi/politics/bengoshi-topics-3599.html 弁護士ドットコム

安保法案反対の若者たちを「極端な利己的考え」と批判して注目を浴び、週刊文春に「金銭トラブル」を報じられて、自民党を離党した武藤貴也衆院議員が8月26日、東京都内で記者会見を開き、謝罪の言葉を述べるとともに、週刊誌の報道について釈明した。

だが、この会見に出席できたのは、自民党の記者クラブと武藤議員の地元である滋賀県の県政記者クラブに所属している記者だけ。どちらのクラブにも所属していない雑誌記者やカメラマン、ネットニュースの記者たちは会見から閉め出され、「なぜ入れないんだ」と抗議した。

記者会見が始まる前、東京・永田町の衆議院第二議員会館の会議室では、武藤議員の秘書たちが、説明を求める雑誌記者らへの応対に追われていた。秘書たちは「混乱が生じるから」という説明を繰り返したが、締め出された記者たちは納得せず、武藤議員に直接話を聞こうと到着を待ち構えた。

●「武藤さん、どうして雑誌は入れないんだ!」
会見が始まる直前、武藤議員が5人の警備員に伴われて会場前にやってくると、「武藤さん、どうして雑誌は入れないんだ!」「あんたこそ利己的だ!」と、会場から締め出された約20人のカメラマンや雑誌記者たちからの怒号が飛び交った。武藤議員は、前を向いて一言も発しないまま、一目散に会場に入っていった。

こうして閉め出された記者たちの中には、武藤議員の「金銭トラブル」をスクープした週刊文春の記者たちも含まれていた。

週刊文春の男性記者は「週刊文春の記事について説明する会見なのに、週刊文春の記者を入れないのは筋が通らない。せっかくこういう機会をつくったなら、我々も入れてほしい」と話していた。

なお、武藤議員は自らのフェイスブックで、記事について「一方的かつ事実と異なる」と批判していたが、いまのところ週刊文春の編集部に対して、武藤議員からの抗議は来ていないという。(弁護士ドットコムニュース)

感想;
週刊文春の記事が誤りなら、抗議されるのがよいと思います。
記者会見も、自分の関係している人だけに限定するのは、本来やるべき記者会見ではないでしょう。
これで記者会見をしたとの規制事実を上げるためのもののようです。
武藤議員のブログは日本の未来を考えるなど立派なことが記載されていますが、実際にやられていることはそれ以前のように感じました。滋賀県四区の人たちがどう判断されるか、その判断結果がまさに滋賀県四区の方の姿勢でもあるように思います。

五輪エンブレム当初案「劇場ロゴと似てない」 審査委員 ”修正で似てきたということ?”

2015-08-26 08:08:08 | 社会
http://digital.asahi.com/articles/ASH8T5VXCH8TPLZU005.html
2020年東京五輪のエンブレムがベルギーの劇場ロゴに似ていると指摘されている問題で、アートディレクター佐野研二郎さんの案を選んだ審査委員の代表、永井一正さん(86)が、現在公表されているものは応募案を一部修正したものだと明かした。騒動後、永井さんが取材に応じるのは初めてで、「ベルギーの劇場ロゴとは似ていなかった」と述べた。

 永井さんは日本を代表するグラフィックデザイナーの一人で札幌冬季五輪のシンボルマークを手がけた。

 審査委員は、ほかにグラフィックデザイナーの浅葉克己さんら7人。永井さんによると、応募104案は作者名を伏せた状態で番号だけで審査し、3案に絞った後、議論の結果、佐野さんの案が選ばれた。他の2案は原研哉さんと葛西薫さんによるものだった。

 審査では「五輪とパラリンピックのエンブレムが互いに関連しつつ区別がつくかどうかや、メディアやグッズ、会場で使われる際の展開可能性も検討された」という。

 その後、大会組織委員会が佐野さんの案を商標登録するために、世界中の商標を確認。永井さんは「(原案と)似たようなものがほかにあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さない範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された」とした上で、「最初の案は(類似性が指摘されている)ベルギーの劇場ロゴとは似ていなかった。盗作ではない」と話した。

 組織委によると、ベルギーの劇場ロゴは商標登録されていなかった。修正されたものを各審査委員も確認し、発表されたという。

 永井さんは「個人的には、ほかの応募案や審査の過程も公表した方がいいと思う。これまで組織委からはコメントしないように言われていたが、これ以上勘ぐられるのはよくないということで、『もう話してもらっていい』と言われていた。このエンブレムがCMなど色々な形で使われてゆけば、よさが伝わると思う」と語った。

■永井一正さん「シンプルな形、似やすい」

 2020年東京五輪のエンブレム問題で、審査委員代表を務めたグラフィックデザイナーの永井一正さん(86)が、アートディレクター、佐野研二郎さんのエンブレムは一部修正したもので、応募段階の当初作はベルギーの劇場ロゴマークと似ていなかったことを明かした。永井さんとの一問一答は次の通り。

 ――審査はどのように行われたのか。

 大変力のこもった案が集まった中から、名前を伏せた番号だけの状態で投票と議論を重ね、3点が残った。その段階でも佐野研二郎さんや原研哉さんの作品だとは分からなかった。

 佐野さんの案は、五輪とパラリンピックのエンブレムが兄弟の関係のように重なり、グッズやデジタルメディア、会場での展開可能性も含めて選ばれた。最初の案は少し違っていた。

 ――最初の案が違っていたとは?

 佐野さんの案に決まった後、商標を調べたところ、ほかに似たようなものがあったようだ。そのため、最初のイメージを崩さない範囲でパーツの位置を一部変えるなどの微修正を、大会組織委員会の依頼で何度か施した。審査委員に修正過程は伝わっていないが、皆さん最終案を承認したはずだ。だから最初の案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかった。盗作ではない。

 ――今のエンブレムとベルギーの劇場ロゴは似ていないか。

 三角や四角といった幾何学的な形や、活字を中心にしたシンプルなデザインの場合、似たものや見覚えのあるものが存在しやすい。一方でマークの場合、シンプルでないと強さがない。そのことは審査でも議論になった。

 ただ、TとLを組み合わせたベルギーのロゴと、五輪への道を示すような黒い柱を軸に、二つのエンブレムの関係も考えた現在の案では考え方も成り立ちも異なり、違うものといえる。

 ――佐野さんがデザイン監修をしたサントリービールの景品の一部で、第三者のデザインを写したことが発覚している。

 あれは盗作だと思う。スタッフの仕事の過程を把握できていなかったのだろうが、佐野研二郎の仕事として世に出す以上、全責任がある。もっと慎重になるべきだった。ただ、エンブレムは全く別の仕事で区別すべきだ。エンブレムは正当なものだと思う。

 ――このエンブレムは今後、国民から愛着を持ってもらえるだろうか。

 佐野さん個人が作ったものだが、もはや世に出て公のものになっている。CMなどの形でどんどん使われれば、その良さが分かってもらえるだろう。個人的には、応募されたほかの案や審査の過程も公表した方がいいと思う。

■選考と微修正の経緯、説明を

 選ばれた案に微修正を加えることについては、驚きと違和感を覚える向きもあるだろう。一方で、グラフィックデザイナーの松永真さんは、「考案者と依頼者双方が新しい知恵を加えていくのはよくあること」と話す。同様の見方をするデザイン関係者は多い。

 1964年東京五輪の際に故・亀倉雄策氏が手がけたような、明快な形が目に飛び込んでくるデザインを求める人もいるはずだ。

 「今回も含め、形の求心力より、展開という遠心力を求めるのが、近年のデザインの傾向だ」と指摘するのは、藤崎圭一郎・東京芸術大准教授だ。紙媒体中心だった前回の東京五輪の時代と異なり、グッズや映像、空間での展開も踏まえてデザインが選択されやすい、という意味だ。

 他方、今回のような「似ているのではないか」という問題になると、多くの人の意識は、形に集中しやすい。今回、見る側とデザイン界の潮流のギャップが現れた、というのが藤崎さんの見立てだ。

 であるならば、永井さんも求めるように、大会組織委員会はほかの案や審査の過程を明らかにすべきだろう。その際、ただ「似ていない」と示すだけでなく、どのような考え、筋道で佐野さんの案を選び、どのような理由で微修正を加えたのか、現代のデザインのあり方も分かるように説明することが望ましい。そうした過程も含め、デザインを公募した意味といえる。(編集委員・大西若人)

感想;
「佐野さんの案に決まった後、商標を調べたところ、ほかに似たようなものがあったようだ。」
「(原案と)似たようなものがほかにあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さない範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された」

ぜひ、当初案を開示して欲しいと思います。佐野氏も問題ないと言われるなら、開示して説明されたらよいと思います。

このインタビュー記事を読むと、「最初の案も他に似ていたので修正した」とのことで、最初の案が他のデザインをヒントにされたのでは?との疑問がでてきました。それも修正が必要なほど似ていたとのことです。

次に最初の案はベルギーの劇場のデザインと似ていなかったが、修正を加えたら似てしまったとのことなら、修正の段階でベルギーの劇場のデザインからヒントを得たのではなないかとの疑問も生じました。

他で盗作や真似した方が、いくらあれは盗作でも真似でもないと言っても、人の感情はなかなかそう思えないです。
既に一部のCMでデザインが使われていますが、出るたびに盗作疑惑が頭に浮かんでしまいます。せっかくの東京オリンピックが盗作疑惑で始まるような印象です。とても残念です。


「いのちに寄り添う言葉」 柳田邦男氏講演会 ”人はつながることで生きていける”

2015-08-26 00:12:22 | 生き方/考え方
日時;2015年8月24日(月)14時45分~16時15分
場所;アミュゼ柏

今日喉を傷めてガラガラ声で申しわけない。皆さんが抱えている問題にズバット解決する話ではないが、先ほどは専門家としてのデータで、私は個別性、多様性、一般化できる話はできないが。自分の人生を大河ドラマと考えて、そのような長い人生の今抱えている問題は人生の一部と考えてみると、いつも上手く行くものでないと考えることもでき、少し客観的に見ることができる。
いのちの限りあるのを絶望するのではなく、残りをどう生きるか。
戦中生きてきた人は戦争があって、倒産もあって、自分の人生は何だったんだろう。振り返ると他の誰でもない自分の人生である。振り返って見るといろいろな反省もある。あの時ああしとけばよかったとか。だからこれからどうしようか。これからはこういう風に生きよう。末期でもこれだけはやっておこうと思う。
やりたいことを箇条書きにして、その中から選択して生きてみる。振り返ってこうだった人生ではなく、自分でこれから創って行く。日野原先生は常に創作していく。今日野原先生は104歳。103歳で新しく始めたのは、色紙に絵を描くことと俳句を始められた。
そういうことをして行けば納得感に辿り着くのではないか。

河合隼雄先生がよくおっしゃったのは「人生は物語らないとわからない」
カウンセリングでクライアントと長く付き合う。カウンセリングは助言を貰うものと勘違いしているが、生きる力を自分で見つけるために手助けすること。こころの問題を乗り越えるとはもっと苦しい問題を抱えることになる。楽になりたい、天国みたいな楽なことはない。生きるとは厳しいことでもっと大きな問題に直面することかもしれない。
紆余曲折、山あり谷あり、こんな風に生きて来て今こんな問題を抱えている。目の前の連れ合いにもう許せないと思う。物語として捉えると連れ合いに何で出逢い、一緒になったのかなど考えると、相手にもいいことがあったのだと思える。物語として見つめ直す。直面している意味がでている。正反対のことが正しいことになることもある。

小児がんの家族と付き合った。2年間闘病して。お兄ちゃん中学3年。お父さんは造園業で忙しい。お母さんは娘のことで精一杯。人間はいくつにもなっても優しくして欲しい気持ちを持つ。何で妹ばかり優しくして貰っている。お兄ちゃんは反社会的につっぱる。学校では不良少年になりチンピラ仲間に入ってのめり込んで行く。お父さんは怒る、お母さんは何やっているのよと言う。
妹が亡くなったら、お兄ちゃんはもっとひどくなった。不良行為をするのはお兄ちゃんの自分をもっと見て欲しいとのメッセージだった。息子(お兄ちゃん)がバイクを盗んで警察に捕まった。小児がんの子どもを持つ仲間にお母さんが訴えた(相談した)。その子だって寂しいのではないの?わかってあげてもよいのでは。とアドバイスと貰い、ハッとなった。息子ともまともに付き合って来られなかった。息子には自立しろ自立しろとだけ言ってきた。お母さんが畳に額を付けて、あなたの気持ちを見ていなかった。母親としても見てこなかった、ごめんなさいとわんわん泣いて謝った。
息子はバイクを盗んで叱られるとばかり思っていた。逆転の発想だった。
人の心にあるものを揺さぶる。月日が経つ内に、息子は学校に行くようになり、普通の高校に入るようになり、チンピラ仲間とも別れ、平凡な高校生活を送るようになった。そしてお父さんの仕事を継ぎたい。大学は行かないと。それから20数年経つが家を継いでやっている。人が変わるとの因果関係は目に見えるものではなく見えないものである。

高校生の娘が親の言うことを聞かない、母親がTV見ていても勝手にチャンネルを取って見る。娘を精神科に連れて行った。娘は何の問題もないお子さんですねと医者が言って、お母さんは通いませんか。お母さんは素直にそれから精神科に通いだした。1回/2週間×5年間。カウンセリングでは話すだけで終わることも多い。いろいろな文句をたらたらと言うが、カウンセラーもそうですかと言うだけ。カウンセリングは意味がないように思えるが、続けることに意味がある。娘さんは高校卒業して大学行かずに、心の病気にもならず自立していった。

ここのボタンを押せばなにかが出てくる。安易に答えを求め過ぎている。人がひたむきに生きていると、答えが向こうからやってくる。自分が答えを見つけようと思っていないと答えはやってこない。自分の価値感だけでいるとその答えは出てこない。
孫が引きこもりになった。孫におれはこうだったと正論を言うだけ。正論を言えば言うほど孫がひどくなった。今度は息子にお前の育て方が悪かったと言うようになった。そのような中は息苦しくて大変で、私(柳田邦男さん)が高校生なら家を出るだろう。
押してだめなら引いてみよう。その祖父が武装解除するしかない。

戦争が終わって、私(柳田邦男さん)の父親が直ぐに亡くなった。母親が家計を支えなければならなかった。自分で家計を手伝わなければならなかった。私は50代になった時に息子が心の病になった。その時、内観を受けてみませんか?と言われた。内観とは4隅に衝立立ててそこで2週間程、食事もそこで食べる。そこでとことん自分を見つめ直す。
自分に関係ある人のことと自分の関係を思い出す。
①していただいたこと、②その人にして返したこと、③その人に迷惑をかけたこと。
1時間ごとに担当者が来て尋ねる。誰のことを考えましたか?なかなか思い出せない。エピソードを思い出そうと努める。
二日目に小学校1年生の教科書を持って来られた。何か思い出すきっかけになるのではないかと。それをパラパラ見ていたら、不思議ですね、小学校の時の先生が全部浮かんで来た。友だちの顔も浮かんで来た。それがきっかけでふつふつと思い出した。母親との関係性を思い出していた。私は修学旅行に行かなかった。父が亡くなって2年。修学旅行に行くお金がない。それで欠席届を出した。先生が心配して家庭に来た。旅行より家で勉強したいと先生に言っていた。母親には修学旅行欠席をだしていたことを伝えていなかったので知っていなかった。当時は良いことは黙ってするもんだと。それを守っていた。修学旅行に行かない。母親が手内職をして自分が手伝っていた。修学旅行に行くお金がなかった。母にお金の苦労をさせたくなかった。子どもが修学旅行に行かないと言っている。母親は借金してでも行かせたかった。母親の立場からだと、母親には子どもを行かせられなかったのは恥ずかしいと思っていたと言うことがその時にわかった。
思わず涙を流してしまった。指導の人は評価しない。そうですか、そういうことがあったのですか。自分が良かれと思ったことがそれが相手にとって良いのかどうか。自分の価値感が正しいとは限らない。
ずっと内観していたら、曼荼羅模様(真ん中に釈迦がいて)が浮かんで来た。真ん中に自分がいて、その周りに世話になった人が光の中にいた。自分は自分の人生を拓いてきた。それを誇りに思ってきたが、自分は周りから育てて貰った。人間形成も周りの人との関係で出来てきた。自分一人で来たことがいかに独りよがりだったか。

視点の転換の瞬間がある。カウンセラーとは、たくさんの人の話を聴いて、時にはちらっとヒントになることを言い、引き出して行く。引き出しがたくさんできてくる。物語の引き出しが増えてくる。新しいクライエントが来るとそのたくさんの引き出しから、魂に込められたもの、響くものが伝えられるのではないか。
こんな素晴らしい医者の話を知る。人を救う弁護士の話を知る。それにあこがれる。感動することで目指すことがある。

科学的エビデンスはAという薬を与えるとこうなると。例えば20%効いた。これまで効果がなかった患者さんに効果が期待できる。普遍化すると薬として認められる。科学では因果関係が大切である。そして再現性があることが重要になる。
人間が生きるとは必ずしもそうではない。河合隼雄先生から聞いた話。
糖尿病の患者が煙草やお酒が止められない。血糖値が高くてもお酒を止められない。いくら医師が説明しても説得できない。ある日、その患者さんは土曜日は釣りをして釣れた魚でいっぱい飲む。ある日釣りをしていて大波が来て必死に岩にしがみついた。何とか助かった。俺は生きたいと思った。お酒を止めようとその時初めて思えた。

カウンセリングはいかに自分が気付くか。患者さんと付き合う時、血糖値が高いからとの話よりも、あなたが今亡くなったらどうなりますかね?そういう話を少しでもして欲しい。生きる話をして欲しい。1年後にまた呼ばれて行った時に聞いたのは、その岩をしがみついた話をしてくれた。これから波の荒い時に釣りに連れて行ってそれでデータを取って普遍的にしましょうが根拠のデータになる。

大事なことは会話をする。困っている事を自分で表現する。書く、しゃべる、聞く、読む、それらも言葉。人間のコミュニケーションで言葉は20~30%。言葉だけでなく、雰囲気や関係性から出来ている。お茶 と言えばお茶が出てくる。
ところが携帯、スマホは言葉だけのコミュニケーション。
ファミリーレストランに行くと、子どもが話しかけても、母親はスマホを見ている。食事時間に一緒に食べに来ているのに、各自スマホを見ている。それが、相手の気持ちを感じる以心伝心が育たない。だからネット虐めがひどい。友だち関係が日替わり。夜9時以降は携帯は見ないようにと言うとまじめな子は見ない。そうするとメールを送ったのに何故見ないのかとトラブルになる。昔は固定的な人間関係を把握できたが、今は人間関係が把握できない。

どんな力を生きる上で持つか。
信仰を持つ人からの学び キリスト教、仏教
原崎百子「わが涙よ わが歌となれ」
癌になりもう末期、在宅で迎えようと。
本人は信仰心が強い。クリスチャンが皆強いかというとそうではない、
私はこれまで信仰が深かったのになぜ癌になるのかと怒る人も多い、
生きる力を聖書から貰っていた。

妻が息苦しくなり、夫が末期だと告げたところ、妻が、「ありがとう、ありがとう、さぞつらかったでしょうね。私の人生はこれからが本番なの。これまではこれからのためにあった、リンゴの木を植える、二人の子どもの勉強の手伝いをしよう」と。
「例え明日地球が終わりであっても、私はりんごの樹を植える」マルチンルターの言葉
支えたのは言葉、信仰生活の中で凝縮したのがルターの言葉だった。
「私は子犬のようでございます。頭とこころで賛美歌を歌えます、感謝を言えます。
最後まで感謝の気持ちを忘れずに生きます」。

高田正園さん
和尚が亡くなって10年、今も一緒にいると思っています、例え死別で別かれても胸の中にその人がいます。和尚が亡くなって3年後乳がんとわかった、でも怖い気持ちはなかった、死は生きる通過点、

宗教の教えは名言名句となって人の心を支える、
日本は仏教的習わしの行事を行っているが、どれだけ仏教心が入っているかはわからない。
傾聴ボランティアなど聴いて貰う中で気が付くことがある。

ハンセン病患者の俳句人生村越化石さんが「籠枕」
化石は俳語 自分を投げ出したような
自ら化石と名乗ってから人生をより生きられた。
18歳でハンセン氏病になり、群馬の療養所に入れられた。
療養所で俳句の会 
郷里の村人たちが、俳句人生を称えて句碑を建ててくれた
「望郷の 目覚む 八十八夜かな」
除幕式に呼ばれ、でももう目が見えなかった、
唇で掘られた文字を読んだ、温ったかいね、招いてくれた村人のこころ。
「菜の花を 心に灯し 帰郷せり」
「よき里に よき人ら住み 茶が咲けり」

きちんとことばにすることで、生きる力になる。
「除夜の湯に 肌触れあへり 生きるべし」
「涙また 涼しよ生きて ありにけり」
「忘れられ また蘇る 曼珠沙華」

言葉が人生の文脈の中で生きる力になる。
・自分の内面を表現する手段と持つことの深い意味
・理解し合える他者がいること
・続けること

人はつながることで生きていける
つながると決して独りぼっちでない。

傾聴の力
キクさんのタイムトンネル
徳永進「ホスピス通りの四季」
その人の人生に話を聴いてあげる。後どれくらいでしょう?
嘘は言えない、梅の頃か桜の頃か、そんなに持ちますか、桜が見られますか、
話を聴いて貰えて、お迎えを来て欲しいと少し笑みを浮かべながら、
しっかり耳を傾け、キクさんの言葉を受け止めたことでキクさんの気持ちが落ち着いたのではないか。

自殺寸前から生還した佐藤久男氏
不動産会社倒産、心身弱
こんな姿のまま死にたくない
死なない生き方を書いた
「あなたを自殺させない」
転機 良寛の言葉
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬるがよく候」
・軽蔑されたらその通りです、
・冷たくされたら自分の方から声をかけよう
・馬鹿にされたら感謝しよう
と紙に書いて決心した。
当時、秋田は経営者の自殺者が多かった、
お金が回らなくなったらと言って死ぬのはおかしいのではないか、
経営者の心の相談室を設けた。
自殺から救われた方が多く出て来た。
どうどうと謝りにいきなさいようと。
不義理をしたお客さんに辛かったがお詫びに訪問したところ、お客さんから、
「挨拶に来るのは立派、これからもお付き合いをして行きましょう」と言われた。
分かってくれる人が一人でもいると生きる力になる。
その人のことを思い浮かべるだけで生きる力になる。

純子さん
電気やガスが止められるのは、生きることへの励ましの言葉、
生きるか死ぬかの選択でなく、誰かわかってくれる人を探す生き方、
コペルニクス的転換 最後のところで人の命を支える。
人間とは素晴らしいもの、それが見えなくなっている、
そのような危機を風で吹き飛ばしてくれるのは人の繋がり
どんな繋がりかは人様々、その人のそれまでの生き方による。
できるだけ多くつながっていく。
自分だけで解決しようとしない、
自分だけで悩まない。

「空より高く」作詞:新沢としひこ、作曲:中川ひろたか・スコットランド民謡 合唱曲
人は空より高い心を持っている
どんな空より高い心を持っている
だからもうだめなんてあきれめないで
なみだを拭いて歌ってごらん
きみのこころよ高くなれ 空より高くなれ
人は海より深い心を持っている
どんな海より深い心を持っている
だからもう嫌だなんて目を向けないで
見つめてご覧信じてご覧
君の心よ深くなれ
海より深く深くなれ
だからもうだめだなんであきらめないで
涙を拭いて歌ってごらん
君の心よ広くなれ
空より広く広くなれ
君の心よ強くなれ
海より強く強くなれ

新潮文庫
「僕は9歳の時から死と向き合ってきた」 柳田邦男著
(今回のお話に近いことが書かれている著書)