幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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<東京五輪>エンブレム提訴で大会組織委が非難声明 ”非難するのはお門違い”

2015-08-18 10:00:00 | 社会
http://news.goo.ne.jp/topstories/sports/990/da059094af7beef027fbfea83441d799.html(毎日新聞) 08月17日

ベルギーの劇場ロゴのデザイナーらが2020年東京五輪・パラリンピックの公式エンブレムの使用差し止めなどを求める訴えを起こしたことを受け、大会組織委員会は17日、「我々の詳細な説明に耳を傾けようともせず、自らの主張を対外発信し続けたうえ、提訴する道を選んだ態度は公共団体としての振る舞いとしては受け入れがたい」と、非難する声明を公表した。

 組織委はアートディレクターの佐野研二郎さんがデザインしたエンブレムを「独自の創作行為に基づく完全にオリジナルな作品」としたうえで「大会の価値やメッセージを包含し、1964年(東京五輪)のエンブレムとの結びつきも示した作品」と改めて正当性を主張した。国際オリンピック委員会(IOC)も「エンブレムは大会のメッセージを反映させたオリジナルな作品。この議論は終わりにすべきだ」との見解を示している。

 公式エンブレムは、ベルギーのリエージュ劇場のロゴと似ていると指摘され、劇場とデザイナー側は14日にIOCに対し、エンブレムの使用差し止めと使用された場合に1回につき5万ユーロ(約690万円)を支払うよう求めてベルギーの民事裁判所に提訴していた。【浅妻博之】

感想;
デザインが盗作かどうかは裁判の結果を待たないとわかりませんが、似ていること、盗作の疑惑が起きてもおかしくないことは、多くの人がデザインを見て感じたことではないでしょうか。
さらに、佐野研二郎氏が責任を持って出したデザインが模倣並びに盗作であったことを自ら認められました。つまり、そのようなことをするあるいはきちんと管理していない人がデザインしたものに疑いの目が向くのは自然です。
痴漢したことを認めた人が、「あの時の痴漢行為は違います。決してやっていません」と言って、世間は、裁判所は信じてくれるでしょうか?事実やっていなくても残念ながら疑われても仕方がありません。

非難する声明をわざわざ出したと言うこと自体、自分たちが疑われるようなデザインを採用してしまったことを正当化するために出しており、盗作されたと思っている被害者を責めるのはお門違いのように思います。
非難よりも「今回は結果として似たデザインでしたが、決して盗作や模倣はしていないと確信しています。結果として裁判まで起こされるほど嫌な思いになられたことに関してはお詫びを申し上げたい。盗作や模倣ではないことは裁判で明確にして行きたいと思います」とのコメントが大人の対応のように思いました。

心理学で怒る人ほど自信がないからと言います。非難するということは自信がない証拠のように思えてしまいました。本当に自信があるなら、誰から、何処から裁判を起こされても無視する、受けて立てばよいだけのことですから。”弱い犬ほど吠える”という言葉もあります。

誰が見ても、似ていると思うようなデザインを掲げて東京オリンピックを開催するのは、気持ち的にマイナスです。ここは、盗作・模倣関係なく、再度デザイン募集をされて、国民の気持ちをさらに高めて行くことの方が良い施策のように思います。それに今回の裁判はやはりリスクを抱えているように思います。あの発想は無から同じものが2つも出るようには思えません。

裁判では、佐野研二郎氏を含めデザイン事務所のスタッフがベルギーに旅行したことがあるかどうか。リエージュ劇場のロゴの写真が雑誌などに掲載されたことがあり、それが日本などで出ていなか等も調べると、それを目にしたことがあり、そのイメージが知らない内に脳に残っている場合もあります。それは悪意ではなく、自然ですが、その場合はなにがしかの使用料を払うことになるのではと思います。それで和解するようなことも選択肢のように思います。

「女優・半世紀の挑戦 あきらめなかったいつだって」 森光子著 ”100年後のあなたへ”

2015-08-18 01:33:33 | 本の紹介
41歳で初めて主役を貰えた。「放浪記」は50年、2009年に2000回を達成した。文化勲章受章。

女学校に入ったが、母が肺結核で死去し、女学校を1学期で中退し少女歌劇への夢をあきらめ、従兄弟の嵐寛寿郎(鞍馬天狗)のプロダクションに14歳で入った。戦争が激しくなり仕事もなくなり、慰問隊の歌手として戦地を訪問したりした。終戦後はジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。29歳の時に肺結核になり、偶然出会った同級生の先が病院で、当時高価だったストレプトマイシンを注射して貰い、よく効いて助かった。
38歳の時、ダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、洗濯物を干すシーンの8分間に台本がなくく「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、アドリブで当時のヒット曲『船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を歌った。偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた東宝の菊田一夫に誘われて菊田一夫の作品にでるようになった。菊田からは「君はあれだよ、越路みたいにグラマーでもないし、宮城まり子のように強い個性もない。だから、脇役でいくんだね」と言われた。
あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」 いつか主役になりたいと思っていた。

100年後の皆様への中で(森光子さんからのレター)
「私がここまでお芝居を続けてこられましたのは、私が物ごとをかんたんにあきらめなかったからかもしれません。物こどには、あきらめていいときと、まだあきらめてはいけないときがございます。私はどんなに苦しくてもなかなかあきらめない性質でした。もしかしましたら、それがいい結果につながったのでございましょうか。人生、あきらめたらそこで終わってしまいます。ですから、私は大事なときはいつも次の言葉を頭の中から引っ張り出して自問自答します。『もうあきらめていいか、まだ投げてはいけないか』と。若い人は、若さという素晴らしいものをお持ちですから、おsれを忘れず、自分と向き合って今の時間を精一杯生きてください。そうすれば、きっと輝くことができます。誰でも、長い積み重ねの中から未来への道が開けてきます。かんたんにあきらめず、投げず、焦らず、そして人への感謝を忘れなければ、きっとバラ色の未来が開けるはずでございます。」

感想;
森光子さんは、若い時から主役をやって来られたと思っていました。
TVでよく出られていたので。でもその時は「放浪記」に出演を続けながら、TVのお母さん役として出られていたのでした。