上方落語会の重鎮。「いらっしゃい」の言葉はさんまの真似をした。
4年前、三枝から名前を変更。
20代からいろいろな司会を。パンチでデート、
新婚さんいらっしゃいはギネスブックにも登録されている長寿番組。
40代から創作落語を次々発表。250作以上。
72歳になった今なお新しい笑いを生み出している。
転げるのは、新婚さんいらっしゃいで始めた。新婚さんいらっしゃいでは相手は素人なのできつい突っ込みはできない。突っ込む代わりに転ぶようにした。最近は、転ぶのも義務になっているかも。転ぶのを止めることも考えている。番組が長く続いた秘訣は?自分が飽きないから。次から次への新しいユニークな人が登場し、自分がマンネリしないからかと。
記憶に残っている曲、加山雄三さん「お嫁においで」。ちょうど同じ大学時代だった。大学時代の思い出の曲。同じ大学に彼女がいた。落研でファンレターを貰った。電気スタンドを彼女から貰った。お嫁においでの意味かと思った。その女性とは、この世界に入ることを彼女の親が反対したので上手く行かなかった。素人口調だと師匠から口うるさく指導された。プロから入門して味わった挫折だった。師匠に言われた通りやるとお客さんから受けない。大学時代は受けていた。お金を払って来るお客さんは厳しかった。
師匠から行ってこいと言われて、ラジオの司会をした。落語会に入って10か月だった。若くしてテレビやラジオの人気者に。大学時代のしゃべり方は受けた。でも、そのしゃべりでは古典落語には向いていない。それからテレビの番組が増えて来た。”落語口調“が身につかぬまま売れてしまった。25歳から売れ出して、35歳まではもだえ苦しんでいた。テレビで売れたことに対して、「枝葉はどのように延ばしてもよいけど、幹だけはしっかりしておかないといけない」と師匠から言われた。
ヤングオーオーの司会で人気者になった。でも本業の落語では芽が出なかった。
横山やすし、西川きよしは面白く人気があった。「やすきよ」の漫才に圧倒された。
2人が出た後は(笑の)ぺんぺん草も残っていなかった。
舞台に出る前に、コップに水2杯飲んで出て行った。汗をかいて一所懸命やっているとみて欲しかった。桂文虹師匠の新作落語をやらせてもらえませんか?としてやったら、自分の口調に合っていた。それから創作落語の会を創って始めた。最初はどこまで続くかと思ったが続いた。「ゴルフ夜明け前」幕末の志士がもしゴルフをやっていたら。坂本竜馬と近藤勇。これで賞をもらった。厳しい立川談志師匠にも褒められた。41歳の時だった。落語をやっていて良かったと思った。このユニークな発想の源は?出島のオランダ商館でゴルフで招待したとの記事があったので、思いついた。
“現代”を落語に取り込んできた。落語はその時代その時代を落語にしてきた。10年先、100年先に残っていくものをと考えて創っていかないと行かない。
父が早く亡くなったので、叔父さんのところに預けられていた。その時から友達を笑わそうと思ってやっていた。弟子は20人ほどいる。テレビに乗れるのはなかなか難しい。3分、4分で笑わせないといけない。若い落語家にはどんどんやれと。今の落語を壊せと言っている。
鶴瓶も落語を始めている。さんまは落語口調のままで司会をやっている。古い大阪弁の口調。面白い。落語作ったら面白いものを創るのではないか。落語に戻って来てほしい。
リストの曲「愛の夢」で落語を。曲が終わっているのに落語が続いていることも。創作落語も変化していく。今258作、300作を目標にしている。頑張りたい。
感想;
桂三枝さんが、桂文枝師匠の前で落語をやった時、師匠から「お前 落語下手だな!」とテレビで言われていました。
当時、落語では、笑福亭仁鶴、桂枝雀が群を抜いていた。
落語が下手だった桂文鎮は司会業と大学の講師へ。
桂三枝は司会業と創作落語へ。
新しいことへの挑戦をしてこられたのだと思います。
その挑戦が花を咲かせたのでしょう。
4年前、三枝から名前を変更。
20代からいろいろな司会を。パンチでデート、
新婚さんいらっしゃいはギネスブックにも登録されている長寿番組。
40代から創作落語を次々発表。250作以上。
72歳になった今なお新しい笑いを生み出している。
転げるのは、新婚さんいらっしゃいで始めた。新婚さんいらっしゃいでは相手は素人なのできつい突っ込みはできない。突っ込む代わりに転ぶようにした。最近は、転ぶのも義務になっているかも。転ぶのを止めることも考えている。番組が長く続いた秘訣は?自分が飽きないから。次から次への新しいユニークな人が登場し、自分がマンネリしないからかと。
記憶に残っている曲、加山雄三さん「お嫁においで」。ちょうど同じ大学時代だった。大学時代の思い出の曲。同じ大学に彼女がいた。落研でファンレターを貰った。電気スタンドを彼女から貰った。お嫁においでの意味かと思った。その女性とは、この世界に入ることを彼女の親が反対したので上手く行かなかった。素人口調だと師匠から口うるさく指導された。プロから入門して味わった挫折だった。師匠に言われた通りやるとお客さんから受けない。大学時代は受けていた。お金を払って来るお客さんは厳しかった。
師匠から行ってこいと言われて、ラジオの司会をした。落語会に入って10か月だった。若くしてテレビやラジオの人気者に。大学時代のしゃべり方は受けた。でも、そのしゃべりでは古典落語には向いていない。それからテレビの番組が増えて来た。”落語口調“が身につかぬまま売れてしまった。25歳から売れ出して、35歳まではもだえ苦しんでいた。テレビで売れたことに対して、「枝葉はどのように延ばしてもよいけど、幹だけはしっかりしておかないといけない」と師匠から言われた。
ヤングオーオーの司会で人気者になった。でも本業の落語では芽が出なかった。
横山やすし、西川きよしは面白く人気があった。「やすきよ」の漫才に圧倒された。
2人が出た後は(笑の)ぺんぺん草も残っていなかった。
舞台に出る前に、コップに水2杯飲んで出て行った。汗をかいて一所懸命やっているとみて欲しかった。桂文虹師匠の新作落語をやらせてもらえませんか?としてやったら、自分の口調に合っていた。それから創作落語の会を創って始めた。最初はどこまで続くかと思ったが続いた。「ゴルフ夜明け前」幕末の志士がもしゴルフをやっていたら。坂本竜馬と近藤勇。これで賞をもらった。厳しい立川談志師匠にも褒められた。41歳の時だった。落語をやっていて良かったと思った。このユニークな発想の源は?出島のオランダ商館でゴルフで招待したとの記事があったので、思いついた。
“現代”を落語に取り込んできた。落語はその時代その時代を落語にしてきた。10年先、100年先に残っていくものをと考えて創っていかないと行かない。
父が早く亡くなったので、叔父さんのところに預けられていた。その時から友達を笑わそうと思ってやっていた。弟子は20人ほどいる。テレビに乗れるのはなかなか難しい。3分、4分で笑わせないといけない。若い落語家にはどんどんやれと。今の落語を壊せと言っている。
鶴瓶も落語を始めている。さんまは落語口調のままで司会をやっている。古い大阪弁の口調。面白い。落語作ったら面白いものを創るのではないか。落語に戻って来てほしい。
リストの曲「愛の夢」で落語を。曲が終わっているのに落語が続いていることも。創作落語も変化していく。今258作、300作を目標にしている。頑張りたい。
感想;
桂三枝さんが、桂文枝師匠の前で落語をやった時、師匠から「お前 落語下手だな!」とテレビで言われていました。
当時、落語では、笑福亭仁鶴、桂枝雀が群を抜いていた。
落語が下手だった桂文鎮は司会業と大学の講師へ。
桂三枝は司会業と創作落語へ。
新しいことへの挑戦をしてこられたのだと思います。
その挑戦が花を咲かせたのでしょう。