幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん 「サワコの朝 藤井フミヤさん」 ”天狗になって気づく”

2016-08-20 08:32:00 | 生き方/考え方
実は・・・二人は古い付き合い。
1962年生まれ。チェッカーズのボーカル。31歳でソロ。
女性誌の抱かれたい男の上位に。
54歳。飾らない人柄。悪ガキが大人に変わったことを話して貰う。
長男が某局にアナウンサーとして入った。いつ頃アナウンサーになりたいと?バンドをやっていた。ドラムをやっていた。周りにすごいミュージシャンがいて音楽では食っていけないと思ったかと。しゃべりは良いと思ったのかもしれない。文化祭で司会をよくやっていた。家庭のことはひた隠しにして来た。息子が選んだ職業は面倒くさいなと。どうしても家庭のことをしゃべらないといけないので。ある日、家にいて欲しいと言われた。初給料でシャンパンとシャンパングラスを買ってきた。家族みんなが揃った時に飲んだ。ママは涙ぐんでいた。パパは涙ぐむわけがない。

音楽に目覚めた曲は、フィンガーファイブの「恋のダイヤル6700」。
晃のサングラスを買った。ところが真ん中で折れていた。接着して使った。
突然、フィンガーファイブが消えてしまった。晃君の声変りだった。
久留米市出身だった。バンドは中一から組んでいた。パーティ券を売って演奏していた。高校時代はプレスリーが流行っていた。50年代コスプレしてダンスパーティをやっていた。
当時いろんなバンドが解散して、よいやつを選んで組んだのがチェッカーズ。高校3年生でグランプリを取った。プロデビューの話が来た。高1が2人いたので高卒だけにはなっていようと2年待った。その間国鉄職員になった。バンドマン兼ねていた。休みも多かったので、バンドも練習できるよい職場だった。レコード会社が2年後「どうするか?」と来た。父親は反対したが、おふくろが親父に「いいかげんに行かしてやって」と言ってくれた。

チェッカーズは10年やった。21歳でデビュー。2曲目「涙のリクエスト」がヒットした。
女性誌に出ていたがファンレターが少ししか来なかった。それがヒットによりいっぺんにたくさん来た。新人コーナーでテレビ局の歌番組3か所にでたら、突然ヒットした。世界が変わった。周りに可愛いい子もいた。5万円/月の給料制だった。売れだしてから倍々になってきた。

30歳の時に解散して出した「True Love」が大ヒットした。一人になった時で作曲もしないといけないと思って作曲した。単純なコードだった。それまで作詞しか作ったことがなかった。ヒットしたらアルバム作りましょう。次は全国ツアーをやりましょう。次はCMが来た。瞬く間に成功をつかんだ。結婚していたのに抱かれたい男上位になった。それでのぼせ上がった。名声を得て”天狗になった“。友だちが離れた行った。寂しいと思った。友だちから「おまえと飲みたいやつは誰もいない」と言われた。2~3年でまた友だちと飲めるようになった。

妻とは16歳の高校1年に知り合った。周りに可愛い子が多かった。いろいろあったがずっと待っていてくれた。比較的人気がある時に結婚した。相手は見合いの話はなくなるし。妻の父に「歌を聞かしてくれ」と言われ、そのときに「結婚しますから安心してください」と言った。それもあって結婚したかもしれない。

映画監督に言われた。「お前は3分で人を泣かせる。おれは2時間かかる」と言われ、それから四六時中、歌のことを考えるようになった。それまではいろいろなことに手を出していた。
音楽家として原点になった曲。CAROLの「二人だけ」を生で歌って披露。ちょっとだけ失敗した。歌手宣言してからどんな歌手に?歌手には2パターンがある。作る側と歌う側と。ステージに立っているのが心地よい。ニューアルバム「大人ロック」新発売。

感想
順風満帆に見えていても、やはりいろいろあるのだと思います。
”実ほど頭を下げる稲穂かな”
売れた時こそ、謙虚にならないとならないことなのでしょう。

好きなことを続けること。続けているといつか花が咲くのでしょう。
プロデビューする不安もあったと思います。
芸能界の可愛い人も多く、とてもモテていたと思います。
でも、地元の高校1年生で知り合った人と結婚と。
誠実な人柄が伝わってきました。