・小心で道徳律はよく守り、こちこち人間で、酒は飲まず煙草はすわず、ポルノ写真にはいかにも不潔といった感じで眉をひそめて軽蔑する。産児制限は自然に反すると言って絶対に行わず、悪い人間ではないが、どこか面白味と人間味に欠けている、そのうえに自分たちだけが救われたのだ、選ばれたのだ、というふうな独善的態度・・・これらは程度の差こそあれ、誰もが多少なりとも、キリスト信者というものに対して抱いてきたイメージではないでしょうか。
・リジューの聖テレジア
「弱ければ弱いほど、みじめであればみじめであるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐みの愛を信頼すること・・・それだけでよいのだ。エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ」
・マタイによる福音書
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」
・「悔い改め」という言葉は聖書によくでてくる言葉ですが、これは日本語の公開するというゆおないみではなくて、心を神のほうに向けかえる回心のことを言います。
・ド・グレツ
「裁判官は人々の代理者として犯罪人を審いているのではなくて、ある意味での社会からの隔離を犯罪人に要請しているのではないでしょうか。たとえばコレラ菌の所有者には、本人が好むと好まざるとにかかわらず、一応社会から隔離された状態でも生きてもらわなければなりません。そうでなけれ皆が迷惑するからです。」
・キリストにもはや目に見える肉体はなくとも、何らかのかたちでキリストが在りとし在るものに働きかけている神の霊と一体化し、余白的なひろがりをもったということであり、生前のイエスよりも、ある意味ではもっと近く自分たちの生命と存在の根底におられ、生前と同じように神の悲愛で自分たちを愛し続けておられるのだ、という事実に目覚めさせられたのでした。
・生まれながらにしてパウロはローマは市民権を持っていたのでした。ユダヤ人でありながらギリシア語を母語としており、しかもローマの市民権持っていること、このいわばパウロの合わせ持っていた三つの資格というものが、後半のパウロの伝道活動に大いに役立ったことは言うまでもありません。
・人はただ信仰によってのみ救われるのだと確信したルターにとって、当然修道院の生き方などは全く意味のないものと考えれましたし、また司教-司祭-信徒といったカトリック教会の位階制度なども、彼(ルター)にとっては単に時代の生み出した一時的な制度に他なりませんでした。
・祈りとは、一瞬一瞬をこだわりなく生きている一輪の花の生命に、無新に空に浮かぶ雲の姿に、生きとし生けるものすべてに働いている天然の風(プネウマ)に向かって、静かに心の掌を合わせること、「心の合掌」ということだと思います。
感想;
「日本とイエスの顔」井上洋治著 ”日本の風土を背景にキリスト教を考える”
この本は、上記の本をよりわかりやすく説明し、追記されたそうです。
キリスト教は、パウロによって、広がり、正しく理解されたように思いました。
すべてを神に委ね、そしてイエス・キリストを心に住まわせて一緒に歩んで生きたいと思うことなのでしょう。
・リジューの聖テレジア
「弱ければ弱いほど、みじめであればみじめであるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐みの愛を信頼すること・・・それだけでよいのだ。エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ」
・マタイによる福音書
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」
・「悔い改め」という言葉は聖書によくでてくる言葉ですが、これは日本語の公開するというゆおないみではなくて、心を神のほうに向けかえる回心のことを言います。
・ド・グレツ
「裁判官は人々の代理者として犯罪人を審いているのではなくて、ある意味での社会からの隔離を犯罪人に要請しているのではないでしょうか。たとえばコレラ菌の所有者には、本人が好むと好まざるとにかかわらず、一応社会から隔離された状態でも生きてもらわなければなりません。そうでなけれ皆が迷惑するからです。」
・キリストにもはや目に見える肉体はなくとも、何らかのかたちでキリストが在りとし在るものに働きかけている神の霊と一体化し、余白的なひろがりをもったということであり、生前のイエスよりも、ある意味ではもっと近く自分たちの生命と存在の根底におられ、生前と同じように神の悲愛で自分たちを愛し続けておられるのだ、という事実に目覚めさせられたのでした。
・生まれながらにしてパウロはローマは市民権を持っていたのでした。ユダヤ人でありながらギリシア語を母語としており、しかもローマの市民権持っていること、このいわばパウロの合わせ持っていた三つの資格というものが、後半のパウロの伝道活動に大いに役立ったことは言うまでもありません。
・人はただ信仰によってのみ救われるのだと確信したルターにとって、当然修道院の生き方などは全く意味のないものと考えれましたし、また司教-司祭-信徒といったカトリック教会の位階制度なども、彼(ルター)にとっては単に時代の生み出した一時的な制度に他なりませんでした。
・祈りとは、一瞬一瞬をこだわりなく生きている一輪の花の生命に、無新に空に浮かぶ雲の姿に、生きとし生けるものすべてに働いている天然の風(プネウマ)に向かって、静かに心の掌を合わせること、「心の合掌」ということだと思います。
感想;
「日本とイエスの顔」井上洋治著 ”日本の風土を背景にキリスト教を考える”
この本は、上記の本をよりわかりやすく説明し、追記されたそうです。
キリスト教は、パウロによって、広がり、正しく理解されたように思いました。
すべてを神に委ね、そしてイエス・キリストを心に住まわせて一緒に歩んで生きたいと思うことなのでしょう。