・いつのまにか自分が主であるかの如くに振舞ってしまうことが多いのです。そこに祈りという行為の必要性がうまれてくるのであろうと思います。祈りというのは、己れが従であることを、あらためてあちらさまの前に自覚する行為に他ならないからです。
・私の生き方としては二つのことを考えています。
・自然への親近感というのは、私が生きていくうえでほとんど不可欠といっていいほどの重みを持っていることです。一人一人が自分の心情でとらえたイエスの福音というものを、自分の言葉で語っていくことが、日本のキリスト教にとっては、一番大切なことだと思います。
・仏教でいう無我とか無心とかいうのは、イエスの福音の中でも非常に大切な要素なんじゃないか、ということです。私は無我とか無心とかいわれている、そういう心の状態からおのずからに溢れ出てくるものが、イエスの弟子たちが「悲愛(アガペー)」と呼んだイエスの姿勢と深く関わり合うものであるという気がしています。
・「神への誠実」ロビンソン著 織田垣雅也訳
対象としての神、即ち上にいる神、前にいる神といったような神はもはや考えられない、というロビンソンの主張だった。私がもやもやと模索していたことが、すかっと明確に展開されているという印象を、ある感動をもって受けとったのでした。そういう意味で、神というものは対象化しえない、言葉では言い表し難いという意味では「無」とよばれるにふさわしいという小田垣さんのご意見に私は全く賛成であります。
・祈りとはいうのは、本来は心の沈黙のうちに神のまなざしに聴きいることだと思っています。祈りとは、神の愛の日ざしのなかでする“日向ぼっこ”だと思います。そこから、感謝、謝罪、賛美というような気持がおのずからわきでてくるように思います。
・修道女テレジア(24歳で死去)
テレジアの努力のすべては、救われるか救われないか、神のみ手に迎えられるか迎えられないかという次元においてなされるのではなくて、どのようにしたら、神さまの限りないいつくしみに少しでも応えられるかという、すでに神のみ手の中での応答の次元においてなされているのです。
・夕焼けのイメージ
立派な素敵な方ですね、と年下の修道女が言ったとき、彼女は窓から見える美しい夕焼けをみながら次のような意味のことをいったといわれています。
「夕焼けの雲は本当にきれいだけど、あれは雲がきれいなわけではなく、日が落ちれば真黒になってしまいます。それと同じで、何も私が立派なのじゃなくて、あなた方に私が立派に見えることが必要なときは、そういうふうにあなたたちに神さまが私をみさせてくださるだけなんです。私自身は日が落ちたあとの真黒な雲のように、別に何も美しいわけではありません。
・テレジアのことば
・「徳のすぐれた立派な者にとっては、暴風がおこる時、雷が鳴る時、雲の上を飛びこすのはいいけれども、私たちのような小さな者にとっては、辛抱して雨をたえ忍ぶしか道はありません。あとで、愛の太陽でかわかせばいいのです。“
・キリストの心に近づくのに大切なことは、獲得するということではなくて、失うということなのです。
・木崎さと子著「青桐」
・それにしても、いったん閉ざされた魂が再びひらくときに、しばしば他の人の死がきっかけとなるのは、なぜだろう」
・良寛の歌
・「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」
無心に秋風に委ねています。
感想;
神さまに全てを委ね、そして隣人に優しさ(悲愛)を示して生きていく、それが己が生きる意味なのでしょう。
井上神父は、キリスト教の父性的と母性的な愛の、特に母性的な愛に目を向けられているように感じました。
・私の生き方としては二つのことを考えています。
・自然への親近感というのは、私が生きていくうえでほとんど不可欠といっていいほどの重みを持っていることです。一人一人が自分の心情でとらえたイエスの福音というものを、自分の言葉で語っていくことが、日本のキリスト教にとっては、一番大切なことだと思います。
・仏教でいう無我とか無心とかいうのは、イエスの福音の中でも非常に大切な要素なんじゃないか、ということです。私は無我とか無心とかいわれている、そういう心の状態からおのずからに溢れ出てくるものが、イエスの弟子たちが「悲愛(アガペー)」と呼んだイエスの姿勢と深く関わり合うものであるという気がしています。
・「神への誠実」ロビンソン著 織田垣雅也訳
対象としての神、即ち上にいる神、前にいる神といったような神はもはや考えられない、というロビンソンの主張だった。私がもやもやと模索していたことが、すかっと明確に展開されているという印象を、ある感動をもって受けとったのでした。そういう意味で、神というものは対象化しえない、言葉では言い表し難いという意味では「無」とよばれるにふさわしいという小田垣さんのご意見に私は全く賛成であります。
・祈りとはいうのは、本来は心の沈黙のうちに神のまなざしに聴きいることだと思っています。祈りとは、神の愛の日ざしのなかでする“日向ぼっこ”だと思います。そこから、感謝、謝罪、賛美というような気持がおのずからわきでてくるように思います。
・修道女テレジア(24歳で死去)
テレジアの努力のすべては、救われるか救われないか、神のみ手に迎えられるか迎えられないかという次元においてなされるのではなくて、どのようにしたら、神さまの限りないいつくしみに少しでも応えられるかという、すでに神のみ手の中での応答の次元においてなされているのです。
・夕焼けのイメージ
立派な素敵な方ですね、と年下の修道女が言ったとき、彼女は窓から見える美しい夕焼けをみながら次のような意味のことをいったといわれています。
「夕焼けの雲は本当にきれいだけど、あれは雲がきれいなわけではなく、日が落ちれば真黒になってしまいます。それと同じで、何も私が立派なのじゃなくて、あなた方に私が立派に見えることが必要なときは、そういうふうにあなたたちに神さまが私をみさせてくださるだけなんです。私自身は日が落ちたあとの真黒な雲のように、別に何も美しいわけではありません。
・テレジアのことば
・「徳のすぐれた立派な者にとっては、暴風がおこる時、雷が鳴る時、雲の上を飛びこすのはいいけれども、私たちのような小さな者にとっては、辛抱して雨をたえ忍ぶしか道はありません。あとで、愛の太陽でかわかせばいいのです。“
・キリストの心に近づくのに大切なことは、獲得するということではなくて、失うということなのです。
・木崎さと子著「青桐」
・それにしても、いったん閉ざされた魂が再びひらくときに、しばしば他の人の死がきっかけとなるのは、なぜだろう」
・良寛の歌
・「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」
無心に秋風に委ねています。
感想;
神さまに全てを委ね、そして隣人に優しさ(悲愛)を示して生きていく、それが己が生きる意味なのでしょう。
井上神父は、キリスト教の父性的と母性的な愛の、特に母性的な愛に目を向けられているように感じました。