幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が『再生』するまで」小林エリコ著 ”人のつながりが命綱”

2021-03-23 02:30:02 | 本の紹介
・私は薬を飲まなければ眠れない身体になり、精神の安定が保てなくなった。だが、薬を飲んでも不安を消すことはできない。やがて精神科に通院するのがバカバカしくなり、通うのをやめた。飲み忘れた薬が大量に余っていた、それを捨てないでいたのは私の意思だったのだろうか。
「今月号を出しらた死のう」
校了の文字をひたすら書き続けながら、頭の中では死ぬことしか考えていなかった。
すべての仕事が終わった週末、私は崩れるように泣いた。学生時代の友人たちに電話をして、仕事が辛いこととお金がないことを話した。友人たちはそれぞれの生活に忙しく、話は聞いてくれるものの、解決策は示してくれなかった。私はこれから死ぬことは口にしなかった。
アルコールと一緒に、余っていた向精神薬を飲んだ。薬は思っていたよりたくさん余っていて、飲んでも、飲んでも減らなかった。めんどくさいな、と思いつつ飲んだ。薬を全部飲み終えると横になった。家のドアのカギは開けておいた。鍵が開かなかったら騒ぎが余計に大きくなるだろうから。それが私の最後の気配りだった。
気がついたら私は病院にいて、身体中が菅だらけだった。3日間意識不明だった。

・自殺未遂を起こして実家に戻ったとき、私は21歳だった。東京のアパートで大量に薬を飲んで寝ている私を友人が発見し、救急車で大学病院に運ばれた。3日間、意識不明で生死の境をさまよったののち、一命をとりとめた。

・私はいまの生活が少しでも楽になるならと思い、障害者手帳の申請をすることにした。医者に診断書をもらい、申請書を書いて市役所の障害支援課に提出すると、半年以上経った頃に手帳が交付された、私はこの瞬間、精神障害者となった。

・月日が過ぎ、24歳になっていた。いくらか調子がよくなったので、そろそろ働こうと思い、アルバイトの面接に応募した。その後も面接を受け続けたものの、すべて落とされた。私は溜め込んでいた向精神薬を一気に飲んだ。

・2年くらい経つと元気になって、また仕事をしようと面接を受けるが、ことごとく落ちて、落ち込み、ふたたび自殺に走る。

・精神科の診察とデイケアでのリハビリのため、1週間のうち、3回ほどクリニックに通う。
日々の行き場がない私にとって、デイケアだけが社会とのつながりだった。そんな毎日が数年間続いた。30歳を目の前にして何の仕事もしておらず、大人の幼稚園のようなデイケアに通うだけの毎日、デイケア以外の場所に行きたいのに、デイケア以外の場所に行く場所がない。そのことに気づくと、また無性に死にたくなった。

・私だってこれ以上、自殺行為を繰り返すのはこりごりなのだ。自殺未遂の場合は健康保険が適用されず、医療費を10割払わなければならない。

・一人暮らしを始めてからは、親元を離れた解放感と就労を約束してもらえた安堵感からか、生きている実感が持てた。・・・そんな日々を半年ほど続けたものの、なおもクリニックのスタッフから具体的な就労の話が出てこないことに対して、不安が芽生え始めた。

・生活保護を受け始めてわかったのは、この先に明るい未来などないということだった。「私は一生、生活保護のままで、このアパートで暮らすんだ」と思ったら、目の前が真っ暗になった。楽しいことは何ひとつなかった。ひとりぼっちで生きていたくない。今度こそ死のう。そう心に決めた。

・インターネットで自殺について書かれた掲示板を見ていた。なんでも、カフェインを大量に摂ると人は死ぬそうである。
「これを3箱ください」
ひとつの店舗で大量に薬を買うと変に思われるので、3か所くらい店を回ることにした。とても簡単だった。
目を覚ますと、私は救急病院に搬送されていた。1週間入院した。
「お金払わなかったわ。エリコちゃん。生活保護だからお金を払わなくていいんですって」
自殺未遂の救命には相当のお金がかかることを知っている母は啞然としていた。

・もしかしたら、私が自殺未遂を繰り返すのは生きている実感が欲しいからかもしれない。

・私は子供の頃から父のことを恐れていた。博打をして酒を飲んで暴れる大の男は、正体不明のモンスターのようだった。夜中に帰ってきた父が母と怒鳴りあっている声で目が覚めることもあった。

・「小林さんはしばらくデイケアに来ないでください。私たちと裏切ったのだから」
「デイケアにはいつから行ってもいいですか?」
「そうね、3か月後からね」
3か月はひとりぼっちなのか。

・私は小学生と中学生の頃、ひどいいじめにあっていた。机を蹴り倒され、笛を折られ、クラスメイトに蹴り倒され、水をかけられた。この世は地獄だし、私は生きている意味も、存在する価値もない。私はありとあらゆる権利を子供の頃に諦めた。

・べてるの家には私と同じ病気の人がたくさんいて、病気を否定することなく生きている。むしろ、病気のおかげで助けられたという考えを当事者は持っているのだ。ベテルの家を訪れ、当事者研究を行ったことでわかったことは、私が自殺未遂を繰り返すには人とのつながりを猛烈に欲しているからだということだ。薬をたくさん飲んで病院に運ばれると医者や看護師が優しく接してくれる。いつも一人で過ごしているけれど、病院にはこばれるときは人とつながっている。大量服薬をいう手段を通して私は人とつながっているのだ。このことに自分自身が気付き、納得できるようになったのは、べてるの家があってこそだ。

・私はこれまでずっとうつ病だと診断されていたが、その会社のMRが病院に出入りするようになってからは統合失調症と診断された。私には幻聴や妄想などの類はない。納得できない気持ちもありつつ、医者が言うのならそうなのだろうと無理やり自分の病名を信じ込んだ。そして、私は統合失調症の薬を処方されるようになった。クリニックと仲のいい会社が開発した新薬だった。デポ剤と呼ばれるそれは、お尻に筋肉注射するため、かなり痛い。デポ剤はもともと薬を飲むことを忘れがちだったり、拒薬傾向があるなど、服薬がきちんとできない患者向けの薬だ。私は特に問題なく服薬はできていたるのだが、そのデポ剤を勧められるまま打った。
クリニック側はそうした事実を隠したりせず、その製薬会社の薬の勉強会を企画し、月に2回開いた。その会では焼肉弁当がふるまわれるため、それにつられて参加するメンバーも多かった。
その勉強会では私はデポ剤の使用者として体験談を請われて話す。
「薬を飲む必要がなくなったのは良かったです。3食後の服薬は本当に大変なので、デポ剤にしてから健康な人と変わらない生活が送れるようになりました」
2週間に一度打つデポ剤は臀部に鈍い痛みがしばらく残り、毎回憂鬱だった。死にたい気持ちが消えることもなく、もともと幻聴もないので、自分にこの薬が必要なのかは疑問だった。
勉強会に参加するうちに、私は薬の説明がいちばんうまいと評価され、製薬会社が主催する講演会にも呼ばれるようになった。生活保護なのに新幹線で京都に向かい、いいホテルに泊まって、夜は料亭で食事をした。

・私は一生、このクリニックで生活保護を受け続けたまま、クリニックと仲の良い製薬会社の薬を褒め称え、「こんなに元気な患者なんです」と嘘をついて生きていかなければならないのだ。私に人生の選択肢はなく、与えられたもにだけを口にして生きていくのだとわかったら、この人生を終わらせたくて仕方なかった。
私は向精神薬を次々と口に入れた。80錠ほどの薬を飲み込み、意識を失った私は病院へと運ばれた。

・外来診察の日、レシートを発行してほしいとふたたび会計でたのんだのだが、やはり断られた。理由を何度問いただしても「出せない」の一点張りだ。
ただ「無理」とつっぱねる副院長に対して怒りが湧き、
「何かやましいことがあるんじゃないのか!」と、声を張り上げた。それに呼応するように副院長も怒り始め、
「あなたはそんな人じゃなかった。何が不満なの!」

・私は自分の境遇をずっと母のせいにしていた。自分が不幸になればなるほど、怒りの矛先は母に向いた。私は自分が望む道に進めず、やりたいことができなかった。自分が進みたい道に進んでいれば、めざしたことを許してもらえれば、いまの人生は違ったものあったはずだと思っていた。だから、人生がうまくいかないことを母のせいにした、
けれど、不幸に不幸を重ねて母を恨んでも、私の心も人生も実りのあるものにはならなかった。長い間、母に対して鬱屈した気持ちを持っていただが、私の心の中のしこりがほろりと溶けていくようだった。
私が母に対して素直になるには、私の人生が良くなることが必要だったんだ。人生を良くしようとする努力をするまで、そんな簡単なことに私はずっと気がつけなかった。

・あの頃の私に「生活保護を受けてほしい」と伝えたい。あのとき、誰かに生活保護の存在を教えてもらっていたら、私は自殺行為をしなかったかもしれない。

・生活保護世帯の自殺率は日本全体での自殺率の2倍以上高いのだという。これは、最低限度の暮らしを送るお金があるだけでは、人は心安らかに生きられないということを意味している。
実際、私も生活保護の需給中に自殺未遂をした。

・障害や病気と向き合いながら働きたいと思っていても、働く場所がないという問題もある。
身体の健康な人でも自ら命を絶ち、自殺大国と呼ばれるこの日本に必要なものは、生きる力の弱い弱者の視点だ。弱者が生きやすい社会こそ、すべての人が生きやすい社会なのだ。

・過去に「いのちの電話」に相談をしたこともあるが、いのちの電話は自殺したい人が助けてもらうためのもので、話は聞いてくれるけれど、実際に介入はしてくれそうにない。

・「ここに相談してみたら」と障害者人権センターのチラシをくれた。
障害者人権センターの職員にも、同席してくれた上司にも心から感謝の気持ちを伝えた。私にも味方がいるのだ。

・「社会は相互扶助でできているのであって、何かあったときのためにみんな税金を納めているのです。私も働けなくなってお金がなくなったら遠慮しないで生活保護を受けるつもりです。だからエリコさんも気にしなくていいんです」
私は何度この言葉に救われただろう。その言葉がなかったらいっそう自分を責め続けていただろうし、自殺未遂の回数ももっと増えていたと思う。
生活保護を受けている私と、受ける前と変わらず接してくれた友達たちに感謝している。だから、友達が困ったときには、今度は私が助ける。だって、辛いときに友達でいてくれたから、たくさん優しくしてくれたから。

・NPOで働き始めて3年の月日が経っていた。

・メンタルの病気を抱える人は完璧主義であることが多い。完璧にこなせない自分に落ち込み、うつになっていく。

・『うつまま日記』
精神疾患の患者が3人で作り上げた本を私は他に知らない。

感想
自殺を企てる人は今がとても苦しいので、この苦しさから逃れたいとの思いで自殺されているようです。
家族のことを思えるのは、まだ余裕があるからかもしれません。
あるいは、余裕がなくても家族を悲しませることはできないとの思いが強いのかもしれません。

苦しみに耐えて生き続けることも意味があるのではないでしょうか?
遺された人が悲しまないようにしたいとの思いで必死に耐えている人もおられると思います。
でもそれに耐え切れずに自殺を図って、亡くなる人も多いかと思います。

著者の命を救ったのは、人とのつながりでした。
自殺するとは言わなかったけど、電話した友だちが心配して翌日見に来てくれたのでしょう。
稲村博先生は、人の絆が助けると言われています。
「心の絆療法」 稲村博著 ”人は人によって傷つき、人によって癒される”

「死を思うあなたへ つながる命の物語」吉田ルカ著 ”生きるということ”

「人は、人を浴びて人になる 心の病にかかった精神科医の人生をつないでくれた12の出会い」夏苅郁子著 ”一歩踏みだしてみる”

自殺未遂を何度も試みて、その結果生き残った方、3人が今を書かれています。
言えることは、死ななかったからこそ、今の倖せに出逢えたのでしょう。
苦しいときは、真っ暗なトンネルの中なので、この真っ暗なトンネルの出口の明かりは全く見えません。
このときに、でも必ず出口の明かりが見えるはずだと信じることができるかどうか。
自分でそれが出来る人もいます。
多くは傍に誰か一緒に居てくれる人がいるかどうかが岐路のように思います。

「卒業式まで死にません」南条あや ”いじめからリストカットを繰り返し、日々のオーバードーズの結果心も身体も疲れて自殺?”
南条あやさんが、助かっていたら、きっと生きていて良かったと思われたと思います。
苦しんだからこそ、伝えられることがたくさんあると思います。
そのメッセージは、今苦しんでいる人の真っ暗なトンネルの”明かり”になったと思います。

「『死にたい』『消えたい』と思ったことがあるあなたへ」 ”誰だって死にたいと思うような辛いことに出遭うとき、言葉が力になることもある”

デポ剤は知りませんでした。

『持続性注射薬(デポ剤)』
https://meiekisakomentalclinic.com/blog/54/

 統合失調症の患者さんに対する薬の注射薬です。1回の注射で内服薬と同等効果が2週間〜1ヶ月の効果があります。近年、デポ剤は内服薬に比較し日常生活のメリットが多いことで注目されており、非定型抗精神病薬の種類のデポ剤が3剤開発されています。
 当院で取り扱っているデポ剤の製品名は、以下のものがあります。
・リスパダールコンスタ(リスパダールの種類、2週間効果を持つ)
・ゼプリオン(インヴェガの種類、4週間効果を持つ)
・エビリファイ(エビリファイの種類。4週間効果を持つ)
自立支援医療制度の対象となり費用負担が軽減される患者さんに使用することが多いです。

患者さんの病名まで変えて使っているとしたら、大問題です。
患者さんのためではなく、病院経営のために使っていることになります。