・人間の思考を解き明かす、ふたつのなぞなぞ
1)ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。
それをやると100%雨が降る、と村人は口を揃えて言う。
さて、それはいったいどんな踊りか?
2)ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると車はダンプラ―と激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
救急病院の手術室で、運び込まれた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない、なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
それはいったいどういうことか。
・高橋喜久晴詩集「日常」
馴れた階段をふみはずす
何故?
何故
と問うときには
すでに日常の階段をふみはずしている。
・人間を含む動物は、ラッキーなことよりアンラッキーなことを強く記憶に刻みます。チャンスを期待する以上にリスクを恐れて生きています。つまり僕らは、よくないことに注意が偏る生き物だということです。この傾向を「ネガティヴィティバイアス」と言います。
・「公正世界という誤膠」
自分のあれが悪かったとか、前世のおこないがとか、そういうストーリーになってしまうこともあります。
・<なぜ?>と問うてはいますが、ほんとうは、理由が知りたいのではなく、意味が知りたいのではないでしょうか?
・「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉 枡野浩一
・『夜と霧』のふたりの強制収容者はなぜ絶望していたのか。それは彼らが(知らずして)人生に期待していたからです。期待していたからこそ、極限状況が不本意(=苦)としてたちあらわれてきたのです。
フランクルは彼らに、<生きる意味についての問いを百八十度転換する>という可能性を示唆しました。
<わたしたちが生きることからなにかを期待するかでなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ>
ドイツ語でも日本語でも、<期待>する(erwarten)の<待>は、待つ(warten)ということです。フランス語なんて、「期待する」も「待つ」も同じattendreです。
すると、ひとりの被収容者は外国で自分を待っている子どもがあることを思い出しました。もうひとりは研究者で、何冊か刊行した段階でまだ未完の仕事が自分を待っているということを思い出しました。
<自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ>
ふたりの被収容者は、自分が人生に期待することをやめたのですから。そして以後は逆に、人生が自分に何を期待しているか、なに(だれ)が自分を待っているかを考えるようになったのですから。
フランクルは『死と愛 実存分析』およびその増補改訂版『人間とは何か 実存的精神療法』のなかで、責任と言う概念を重視しています。責任とは、どうやら、問に答えることらしいのです。
・ギリシアのストア派哲学者エピクテトス
<出来事が君の欲するように起こることを望まぬがいい、むしろ出来事が起こるように起こることを欲し給え、そうすれば君はゆとりを持つことになるだろう>
・高橋和巳医師は、被虐鬱の臨床体験から著した『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』のなかで、幼児期の虐待を経て成長した人を<異邦人>と呼びます。
<異邦人>が抱える生きづらさの根源には、彼らが幼少期に形成した世界観があります。彼らは、自分が主人公である人生物語を、悲観的・自虐的にしか構成できなくなるのです。
彼らは生きづらさを抱えているのです。
・アルバート・エリスの「A・B・C」
A activating event(きっかけとなったできごと)
B belief(信念)
C consequence(結果)
できごとが人にある感情を抱かせるのは、そもそもその人があらかじめある種の信念を持っているからだというのです。
・<人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考え方である>(エピクテトス)
・「自分がそれを知らないということ」を自発的に知ることは可能か⇒難しい
・僕らは未知を恐れ、毎日惰性で石橋を叩いている
・<人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである>『エックハルト説教集』
・<仏に逢ったなら仏を殺せ>『臨済録』
・『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』豊島ミホ著
感想;
どうストーリー(物語)を作っていくか。
まさに自分は自分の人生の脚本家なのでしょう。
不幸なストーリーを作らない。
そのためにどうしていくかがまさに自分に問われているのだと思います。
1)ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。
それをやると100%雨が降る、と村人は口を揃えて言う。
さて、それはいったいどんな踊りか?
2)ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると車はダンプラ―と激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
救急病院の手術室で、運び込まれた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない、なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
それはいったいどういうことか。
・高橋喜久晴詩集「日常」
馴れた階段をふみはずす
何故?
何故
と問うときには
すでに日常の階段をふみはずしている。
・人間を含む動物は、ラッキーなことよりアンラッキーなことを強く記憶に刻みます。チャンスを期待する以上にリスクを恐れて生きています。つまり僕らは、よくないことに注意が偏る生き物だということです。この傾向を「ネガティヴィティバイアス」と言います。
・「公正世界という誤膠」
自分のあれが悪かったとか、前世のおこないがとか、そういうストーリーになってしまうこともあります。
・<なぜ?>と問うてはいますが、ほんとうは、理由が知りたいのではなく、意味が知りたいのではないでしょうか?
・「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉 枡野浩一
・『夜と霧』のふたりの強制収容者はなぜ絶望していたのか。それは彼らが(知らずして)人生に期待していたからです。期待していたからこそ、極限状況が不本意(=苦)としてたちあらわれてきたのです。
フランクルは彼らに、<生きる意味についての問いを百八十度転換する>という可能性を示唆しました。
<わたしたちが生きることからなにかを期待するかでなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ>
ドイツ語でも日本語でも、<期待>する(erwarten)の<待>は、待つ(warten)ということです。フランス語なんて、「期待する」も「待つ」も同じattendreです。
すると、ひとりの被収容者は外国で自分を待っている子どもがあることを思い出しました。もうひとりは研究者で、何冊か刊行した段階でまだ未完の仕事が自分を待っているということを思い出しました。
<自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ>
ふたりの被収容者は、自分が人生に期待することをやめたのですから。そして以後は逆に、人生が自分に何を期待しているか、なに(だれ)が自分を待っているかを考えるようになったのですから。
フランクルは『死と愛 実存分析』およびその増補改訂版『人間とは何か 実存的精神療法』のなかで、責任と言う概念を重視しています。責任とは、どうやら、問に答えることらしいのです。
・ギリシアのストア派哲学者エピクテトス
<出来事が君の欲するように起こることを望まぬがいい、むしろ出来事が起こるように起こることを欲し給え、そうすれば君はゆとりを持つことになるだろう>
・高橋和巳医師は、被虐鬱の臨床体験から著した『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』のなかで、幼児期の虐待を経て成長した人を<異邦人>と呼びます。
<異邦人>が抱える生きづらさの根源には、彼らが幼少期に形成した世界観があります。彼らは、自分が主人公である人生物語を、悲観的・自虐的にしか構成できなくなるのです。
彼らは生きづらさを抱えているのです。
・アルバート・エリスの「A・B・C」
A activating event(きっかけとなったできごと)
B belief(信念)
C consequence(結果)
できごとが人にある感情を抱かせるのは、そもそもその人があらかじめある種の信念を持っているからだというのです。
・<人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考え方である>(エピクテトス)
・「自分がそれを知らないということ」を自発的に知ることは可能か⇒難しい
・僕らは未知を恐れ、毎日惰性で石橋を叩いている
・<人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである>『エックハルト説教集』
・<仏に逢ったなら仏を殺せ>『臨済録』
・『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』豊島ミホ著
感想;
どうストーリー(物語)を作っていくか。
まさに自分は自分の人生の脚本家なのでしょう。
不幸なストーリーを作らない。
そのためにどうしていくかがまさに自分に問われているのだと思います。