・「いちごは流されても、気持ちは流されていないから」(宮城県山元町のいちご農家の方の言葉)
・11名の方々の生き方に共通する、「それでも前を向く力」の源流を求めてみようと考えました。
拠り所とするのは、「夜と霧」(強制収容所の体験記)の著者としても知られるウィーン出身の精神かい、ヴィクトール・E・フランクルの言葉や、フランクルが創設した精神療法「ロゴセラピー」の考え方です。
・藤波祥子さん(八重垣神社の22代目宮司/大津波により、全てが流出)
「今、目の前に起こっていることが、私の人生」
次々と支援の輪が広がり、2017年の夏に社殿が再建されたのです。
「ただただ、昨日の続きの今日を大切に生きてきただけです。だって、今日の続きの明日は保証されていない事を、あの時体験しましたから」
・山内正文さん(三陸町で生魚店を営む)
「がっかりはしたけれど、落ち込むことはなかった」
「みんなの今晩寝るところ、何とかしなくてなんねっちゃ」
「みんなの食うもの何とかしなくてなんねっちゃ」
「会社のこと、社員のこと。何とかしなくてなんねっちゃ」
と動き続けた山内さん。
・菊池里帆子さん(当時小学5年生)
「その(津波の)体験を超え、もっと良い町をつくれるように、応援してくれる人への感謝を忘れず、精一杯生きていきます」と(新任の先生を迎える着任式で)、児童代表で挨拶をした。
「どうして津波のことを言おうと思ったの? 怖くないの?」
「里帆子だって、今でも怖い夢を見るよ。でもね、これを言わないと何も始まらないような気がしたの」
「輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい。小さな私でもだれかの心の光、希望の光となるように一生懸命頑張ります」
震災から10年経た今、思いを書いて欲しいに、
「出帆 浮世の闇を照らしてぞ行く」(伊達政宗の辞世の句の一節)
が添えられていました。
・工藤真弓さん(上山八幡宮の禰宜)
南三陸町志津川で被災した工藤真弓さんは、震災震災直後、ある言葉によって救われたと話します。
それは、未来に向けて開かれたまなざしで語られた、息子さんの言葉でした。
「ゆうすけには
こわれた
ふるさとが
あるんだよ
しづがわ」 工藤由祐(当時4歳)
・川島紀奈代さん(姉夫婦と義理の姪を亡くしました)
河北新報社が募集した「ありがとうの詩」に「亡くなったお姉さんに何かを伝えたい」との思いが膨らみ作品「はっちゃん(お姉さんの名前)」投稿。最優秀賞5篇の1つに選ばれました。
「今でも思い出すとせつなくなるけれど、はっちゃんのことをわすれないことが、私が生きることなの」
・佐藤敏郎さん(震災の4年後に教職を辞して、被災体験をした若者の語りつぎの場をつくり、自身も語り部として活動)
女川第一中学校では、震災後、全校生徒約200人が俳句を作るという授業を行いました。
見たことない 女川町 受け止める
いつだって 道のタンポポ 負けていない
逢いたくて でも逢えなくて 逢いたくて
うらんでも うらみきれない 青い海
配達が 増えた昨日も また一軒
白い地に これからの絵の具を ぬっていく
川柳の世界では、表現することを「吐く」と言う。
当時の女川一中生が苦しみながら吐いた「言葉」によって、彼らと共に私たちは、生きる力をてにしているのです。
震災で佐藤さんは、太田小学校(石巻市)6年生だった次女のみずほさんを亡くしています。
・徳永利枝さん(「雄勝ローズファクトリーガーデン」を造る)
「ここを、故郷と人をつなぐ場所にしたい」
「花のおかげで地べたに張りつけたし、つなげていこうとして歩んだ10年でした」
「あり続けること」
・小野崎秀通さん(「洞源院」住職)、美紀さん
地域に保育園をつくる動きへと駆り立てることになりました。
「子どもの笑顔なくしては、真の復興はない」
・梅村マルティナさん(出身であるドイツの毛糸「Opal」の販売と関係商品の制作・販売を行う会社を立ち上げました。当時京都に住んでいた)
「いつまでも支援されているだけではいけない。自分たちで稼げるような仕組みを作ろう」と、株式会社を設立しました。今では15人のスタッフを抱えるまでになりました。
・木村仁さん(「石ノ森萬賀館」を運営)
ベニヤ板40枚分に書かれた応援メッセージ。
紆余曲折を経て再オープン。
「そう、今更かもしれないけれど、人って凄いのです。そして、当たり前だけど、あなたも私も、その、“すげぇ人”なのです」
そしてそれは、とりもなおさず私自身が求め、自分自身に繰り返し言い聞かせていたメッセージだったのだと、今改めて思いました。
感想;
勝田茅生さん
「震災に意味などありません。意味は、それを体験した人たちがそれぞれ、その行動を通して見出して行くものです」
ここの紹介された11名の以外にも多くの人が意味を見出されたと思います。
著者の渡辺祥子さんも「伝える」との意味を実践された来られました。
受け取った人も様々と思いますが、生きるエネルギーを自ら生み出し、その人の意味を見出していかれるのだと思います。
2021年2月05日
3.11メモリアル企画「10年後のことづて」"
-ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
・11名の方々の生き方に共通する、「それでも前を向く力」の源流を求めてみようと考えました。
拠り所とするのは、「夜と霧」(強制収容所の体験記)の著者としても知られるウィーン出身の精神かい、ヴィクトール・E・フランクルの言葉や、フランクルが創設した精神療法「ロゴセラピー」の考え方です。
・藤波祥子さん(八重垣神社の22代目宮司/大津波により、全てが流出)
「今、目の前に起こっていることが、私の人生」
次々と支援の輪が広がり、2017年の夏に社殿が再建されたのです。
「ただただ、昨日の続きの今日を大切に生きてきただけです。だって、今日の続きの明日は保証されていない事を、あの時体験しましたから」
・山内正文さん(三陸町で生魚店を営む)
「がっかりはしたけれど、落ち込むことはなかった」
「みんなの今晩寝るところ、何とかしなくてなんねっちゃ」
「みんなの食うもの何とかしなくてなんねっちゃ」
「会社のこと、社員のこと。何とかしなくてなんねっちゃ」
と動き続けた山内さん。
・菊池里帆子さん(当時小学5年生)
「その(津波の)体験を超え、もっと良い町をつくれるように、応援してくれる人への感謝を忘れず、精一杯生きていきます」と(新任の先生を迎える着任式で)、児童代表で挨拶をした。
「どうして津波のことを言おうと思ったの? 怖くないの?」
「里帆子だって、今でも怖い夢を見るよ。でもね、これを言わないと何も始まらないような気がしたの」
「輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい。小さな私でもだれかの心の光、希望の光となるように一生懸命頑張ります」
震災から10年経た今、思いを書いて欲しいに、
「出帆 浮世の闇を照らしてぞ行く」(伊達政宗の辞世の句の一節)
が添えられていました。
・工藤真弓さん(上山八幡宮の禰宜)
南三陸町志津川で被災した工藤真弓さんは、震災震災直後、ある言葉によって救われたと話します。
それは、未来に向けて開かれたまなざしで語られた、息子さんの言葉でした。
「ゆうすけには
こわれた
ふるさとが
あるんだよ
しづがわ」 工藤由祐(当時4歳)
・川島紀奈代さん(姉夫婦と義理の姪を亡くしました)
河北新報社が募集した「ありがとうの詩」に「亡くなったお姉さんに何かを伝えたい」との思いが膨らみ作品「はっちゃん(お姉さんの名前)」投稿。最優秀賞5篇の1つに選ばれました。
「今でも思い出すとせつなくなるけれど、はっちゃんのことをわすれないことが、私が生きることなの」
・佐藤敏郎さん(震災の4年後に教職を辞して、被災体験をした若者の語りつぎの場をつくり、自身も語り部として活動)
女川第一中学校では、震災後、全校生徒約200人が俳句を作るという授業を行いました。
見たことない 女川町 受け止める
いつだって 道のタンポポ 負けていない
逢いたくて でも逢えなくて 逢いたくて
うらんでも うらみきれない 青い海
配達が 増えた昨日も また一軒
白い地に これからの絵の具を ぬっていく
川柳の世界では、表現することを「吐く」と言う。
当時の女川一中生が苦しみながら吐いた「言葉」によって、彼らと共に私たちは、生きる力をてにしているのです。
震災で佐藤さんは、太田小学校(石巻市)6年生だった次女のみずほさんを亡くしています。
・徳永利枝さん(「雄勝ローズファクトリーガーデン」を造る)
「ここを、故郷と人をつなぐ場所にしたい」
「花のおかげで地べたに張りつけたし、つなげていこうとして歩んだ10年でした」
「あり続けること」
・小野崎秀通さん(「洞源院」住職)、美紀さん
地域に保育園をつくる動きへと駆り立てることになりました。
「子どもの笑顔なくしては、真の復興はない」
・梅村マルティナさん(出身であるドイツの毛糸「Opal」の販売と関係商品の制作・販売を行う会社を立ち上げました。当時京都に住んでいた)
「いつまでも支援されているだけではいけない。自分たちで稼げるような仕組みを作ろう」と、株式会社を設立しました。今では15人のスタッフを抱えるまでになりました。
・木村仁さん(「石ノ森萬賀館」を運営)
ベニヤ板40枚分に書かれた応援メッセージ。
紆余曲折を経て再オープン。
「そう、今更かもしれないけれど、人って凄いのです。そして、当たり前だけど、あなたも私も、その、“すげぇ人”なのです」
そしてそれは、とりもなおさず私自身が求め、自分自身に繰り返し言い聞かせていたメッセージだったのだと、今改めて思いました。
感想;
勝田茅生さん
「震災に意味などありません。意味は、それを体験した人たちがそれぞれ、その行動を通して見出して行くものです」
ここの紹介された11名の以外にも多くの人が意味を見出されたと思います。
著者の渡辺祥子さんも「伝える」との意味を実践された来られました。
受け取った人も様々と思いますが、生きるエネルギーを自ら生み出し、その人の意味を見出していかれるのだと思います。
2021年2月05日
3.11メモリアル企画「10年後のことづて」"
-ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html