・食事はひどいもので、一日に黒パンが350g、朝夕にカーシャと呼ばれる粥が飯盒に半杯ずつか野菜の切れはしが二、三片浮かんだ塩味のスープ、砂糖が小さじ一杯至急されるだけだ。毎日が空腹との戦いだった。
松野が初めて黒パンを食べたのは、護送中の貨車のなかである。黒パンを口にしたとたん、ザラザラした舌触りと独得の酸っぱい味が異様だった。ところが、ラーゲリ(収容所)に入れられて一か月もしないうちに、黒パンがこの世でいちばんうまいものに変わった。
・わずかの黒パンをめぐって、怒鳴り合ったり、摑み合いの喧嘩になることは再々だった。
・俘虜たちがもっとも苦しめられたのは、作業のノルマだった。
俘虜ひとりあたりの一日のノルマを収容所側が決め、それを上回った者には食糧の支給を増やし、ノルマに達しない者には、それに応じて支給量が減らされた。しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者はいなかった。一日に黒パン200gとか、150gしか支給してもらえない者も多く、そのため体力はますます衰え、さらに作業量が減るという悪循環が繰り返される。
体力のない者は栄養失調で、夜中にだれにも気づかれずひっそりと死んでいった、死ぬと、身体中にまつわりついていたシラミがいっせいに逃げだすのですぐにわかった。
・敗戦後、運よく帰国できた堀場は、山本が牡丹江俘虜収容所からソ連に連行されていくときの様子を知人から伝え聞いた。そのとき山本は、「これをチャンスにソ連という国をこの眼でとっくり見てくるよ」といっていたという。その言葉がいかにもソ連贔屓の山本らしく思えた。
・作業班のボスは、日本人たちを過酷な作業場へ行かせ、自分たちのノルマ分まで働かせた。そのため、日本人収容者のうちの三割近くが栄養失調と過労で死亡した。
・ノルマがきつくて達成できず、毎日が減食つづきだった。日本人たちは空腹と栄養失調のため、ふらついて歩いた。昼食時になると、作業現場に生えている野草を手当たりしだいに摘んでは口に入れた。生臭くて食べられない野草は、水だめの水を汲み、作業用のバケツでゆでて、握り飯のようにまるめて食べた。強烈な苦さだが、なんとか腹だけは膨れる。食べると、蚕のような便がでた。
ソ連の監視兵たちはそれを眺めながら、「日本人は牛だ」といってひやかした。
・裁判はかなり形式的で、裁判官が居眠りしていたり、女性裁判官が子供に乳を飲ませながら二十五年の刑を言い渡したところもあった。しかも、裁判が行われたのは上等なほうで、本人不在の欠席裁判が大半であった。
山本も裁判もおそらく、元特務機関員の橋口と似通っていたであろうが、重労働の二十五年の判決内容について正確に把握できない、満鉄調査部北方調査室とハルビン特務機関にいたことなどから、第58条第6項の「ソ連に対する謀略諜報行為」というスパイ罪で戦犯に仕立てられたのではなかろうか。
判決後に「俘虜」から「戦犯」とされた日本人たちの入れられたラーゲリは、正式名称は「矯正労働収容所」である。本来はソビエト体制に反対する者を労働により「矯正」させる意だが、過酷な重労働をひたすら強制したので、日本人のあいだでは「強制労働収容所」と呼ばれた。
・1950(昭和25年)の4月のある日、収容所側から20数名の帰還者名簿が発表され、該当者に新しい被服が支給された。
・第二次世界大戦における不慮の送還が完了し、残っているのは戦犯またはその容疑者のみである」として、日本人俘虜の送還が終了したと伝え、「ソ連報から送還された日本人軍事俘虜は、1945年に戦闘地域から解放された70,810名を別として、510,409名である」と報じられた。
この「ブラウダ」紙による発表の残留抑留者の数字はあまりにも少なすぎた。
・あるとき、山本と自殺の話になった。
「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。こんな楽しい世の中なのになんで自分から死ななきゃならんのですか。生きていれば、かならず楽しいことがたくさんあるよ」
そう山本はいうと、下を向いてニッと笑った。
・ラーゲリの運営は独立採算制となっていて、収容者たちの労働から得た収入ですべてまかなわれていた。
・高良とみ(緑風会所属の参議院議員)がハバロフスクの第21分所を訪れたのは、パリのユネスコ会議(1952年)のあとモスクワで開催された世界経済会議に出席したときに、日本人抑留者に会いたいとソ連側に申し入れ、それが許可されたからだ。・・・
この高良とみの訪問が契機になったのか、ラーゲリの日本人にとっては画期的ともいえる朗報がもたらされた。6月に入って、初めて祖国との間の葉書による通信が許可されたのである。
内地からの通信はこれまでいっさいなく、抑留者とその留守家族は互いに生死さえも分からずに過ごしてきたので、ラーゲリの日本人たちの嬉しさはひとしおだった。
・昭和27(1952)年の11月末、山本モジミは夫、幡男からの無事を知らせる葉書を受け取った。当時、松江市の小学校の教諭をしていたモジミにとって、7年ぶりに届いた夫からの無事を知らせる消息であった。・・・
夫に赤紙がきたのは、昭和19(1944)年7月8日だった。
・日本人がひとり走ってきて。
「スターリンが死んだぞ!」と叫んだ。・・・
スターリンの死に解放感をおぼえたのは作業現場の下っ端のソ連人たちも同じだったのか、彼らの顔にも喜色があふれていた。
スターリンが逝って間もなくマレンシコフが首相に就任すると、ソ連人の政治犯たちの大量の大赦が発表された。
・スターリンの死は、わずかだが確かにラーゲリ内に明るい雰囲気を運んだ。日本からの小包が、とつぜん許可になった。
・帰還船「興安丸」での二昼夜の航海中から長谷川たちは、8年間余に及ぶシベリアでの疲労もかえりみず抑留者たちの名簿作りを始めtくぁ。すべては記憶にたよっての作業だったが、1,682名の残留者名簿と500名を超える死亡者リストを作成した。長谷川たちは舞鶴に着くと間もなく、残された同胞の帰還運動にとりかかり、国会へ請願に行くなど活発に活動し始める。
シベリアの俘虜のうち、60万人近くがそれまでに帰国していたが、組織だった引揚げ活動が起きたのは、このときからである。長期抑留帰還第一次の人びとは、それぞれ手分けして残留した仲間たちの留守宅を訪ね歩き、その消息を伝えた。
山本は、黒田定弘と小高正直がモジミを訪ねてくれたことを、その数か月後に日本から届いたモジミの便りで知った。
・内藤ドクトルが、首を吊ったぞ!」
工場のほうから叫び声が聞こえた。・・・
「私は暗い影をもって日本へ帰りたくはありません。日本人の皆様、長いあいだお世話になりました。」と(遺書に)走り書きされていた。・・・
シベリアから特殊な任務を帯びて帰国してくる日本人俘虜の一部を名づけて、「幻」或いは「幻兵団」という言葉で呼ばれたことがある。この人々の特殊な任務は、ソ連に抑留中と、日本への帰還した後との二種類に分けられた。抑留中の場合は、元憲兵や情報機関等の「前職者」の摘発や反ソ的な行為をする者たちをさぐらせ、密告させるスパイ任務で、スパイの数はおよ8千人といわれた。また、後者は帰還後に日本政府や米軍に関する情報を入手し、思想的、政治的な諜報工作を行うようにと指令されたもので、五百余いたという。
・「山本さんは、わしらの大事な人しゃけん、この遺書をだれにも分からんように記憶して山本さんの奥さんに届けて欲しいんや」・・・
読み進むうちに心のなかがしんと静まった。それは山本の遺書ではあったが、帰国の日を待ちわびて死んでいった多くの仲間の無念の声を聴いている気がした。なんとしてもこの遺書を山本さんの家族に届けようという気持ちになった。
・山村は緊張した面持ちで、
「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」・・・
「どうやら、私が最初に遺書をお届けしたようですね」
・山村の帰ったあと、モジミはしばらくぼんやりと座り込んでいた。夫の遺書を収容所で記憶してくれた人々がいたことが信じられない気持ちだった。それがどんなに困難な行為であったか、山村が言葉少なに語った話の断片からも痛切に感じられた。
・山本モジミの家に、次の遺書が届いたのは、それから間もなくだった。・・・野本貞夫から便箋25枚に細かな字でびっしりと書かれた長い手紙を受け取った。その手紙には夫のラーゲリでの日々が克明に記されていた。
・三番目に届いたのは、愛知県の後藤孝敏の「子供等へ」の遺書で、そして、四番目は兵庫県から森田市雄が「妻よ!」を同じく封書で届けてきた。
・五番目の遺書は、福岡県から上京して瀬崎が持参した。
・六番目の遺書は、それから半年余も経ってモジミの手元に小包で届けられた。
・便箋や原稿用紙に清書されたこれらの遺書は、男たちがラーゲリでたえず復唱し、それぞれ頭のなかに刻み込み、帰国後に再現して書き留めたものであったのを、その都度、モジミは手紙をとおして知らされたのであった。
・経済企画庁が「経済白書」で「もはや戦後ではない」と日本の発展ぶりを謳っているころ、最後の帰国船でシベリアから帰った男たちは、ラーゲリから記憶で運んできた遺書を山本家に届けると、ようやくそれぞれの遅い戦後のすぁい出発を始めた。
戦争が終わってすでに12年の歳月が経っていた。
・第七番目にあたる遺書が山本家に届けられたのは、昭和62年の夏の日のことだった。山本氏が世を去ってから実に33年目にあたる。
・昭和51年の厚生省の調査によると、旧満州、樺太などからソ連軍によってシベリアに連行された日本人は、民間人をふくめて574,530人だという。しかし、ソ連国防省軍事図書部刊行の『第二次世界大戦』(1948年刊)の記録では、「日本人俘虜609,176人」と記されている。
・本書を書き上げることが出来たのは、山本モジミさんと御遺族の方々や山本氏の友人、朔北会(長期抑留者の会)の会員の方々のお力添えの賜物である。・・・
大学教授となられた御長男の山本顕一氏をはじめ、他の御弟妹もそれぞれ東京芸大、東大、東京外語大を経て、現在夫々の分野で御活躍されていることもつけ加えておきたい。
感想;
シベリア抑留のことは知っていましたが、実態はほとんど知りませんでした。
抑留中でも、仲間のために活動した人、仲間を裏切った人、皆生きるために必死だったようです。
そして体力のない人は家族の元に変えることが出来ず亡くなって行きました。
どれだけ帰国したかったか。
シベリア抑留の前に戦争で多くの人が亡くなっています。
捕虜と俘虜の違いを初めて知りました。
山本幡男さんは仲間のために活動していたので、ガンで帰国することが出来なくなり、その遺書を皆で少しずつ分担して暗記して、奥さんに伝えることにしました。
それが山本さんへのお礼だったのでしょう。
戦争は決してしてはいけない。
紛争の解決にはならない。
そして多くの犠牲者を生むのです。
国のためにやった戦争が結果、国を悲惨な目に遭わせてしまうのです。
戦争になる前に、Noと発言し行動しないと、動きだしてからでは遅いのです。
今ウクライナではロシアの侵略が行われており、多くのウクライナ国民が殺害、拷問、強姦されているだけでなく、シベリアなどに移送されています。
それはプーチンだけの問題ではなく、ロシア国民全員の責任なのかもしれません。
もし、自分が、自分の大切な人が巻き込まれたら・・・。
運命を呪う。
運命に諦め従う。
そのような運命にならないように行動する。
日本でも法が無視されています。
詩織さんの準強姦犯(民事)で有罪になった山口敬之氏の逮捕を安倍元首相の指示で中村氏が停止し、かつ検察も立件しませんでした。
中村氏はご褒美で警察庁長官まで出世しました。
それを許している日本は、同じようなことがまた起こります。
おかしなことはおかしいと発言する。
おかしなことはおかしいと発言する人を支援する。
おかしなことで利益を得る側に付こうとする人もいるかもしれません。
おかしな側に付くと、戦争になっても危険な戦地に駆り出されることはありません。
高級国民は安全で、そうでないと虫けらのように死んでも為政者はなんとも思わないのです。
そんな国にするかどうかは、一人ひとりの考えと行動の結果です。
中村氏は退職後、日本生命に好待遇で就職されています。